012. 初恋
午後からは体術の授業で、寄宿舎前で案内係をしていた女性が担当教師だった。名前はレモン・クマノミ。美人だが表情に抑揚がなく、延々と校舎の周りを走らされた。
騎士と同等とは言わないまでも、魔術士も体力はあった方がよい。その意見には賛同するが、間に休憩を挟んだとしても、二時間も走らされたのはきつかった。
長時間となるとさすがに体力に差が出るのか、体力測定のときとは違って最後の方でアスマ以外の男子にも抜かされてしまったが、疲労が酷く、悔しさよりも早く終わってほしいという思いの方が強かった。
「あー、もうくたくた」
夕食を食べて部屋に戻るなり、ホズミがベッドへ飛び込んだ。こういうときは下段が羨ましくなる。サクラは自分の椅子に座ることにした。
「レモン先生、美人なのに容赦なかったね」
「サクラは五位以内に入ったんだからすごいよ。私なんか十四位だよ」
「それでも半分より上じゃない」
三十人で一クラスなので、十五位以内に入ればひとまず安心ではないだろうかとサクラは考える。
「まあ男子が二十二人って考えると健闘した方かもね」
「女子では四位でしょう?」
「うん、そっちもなんとか半分以内に入れてホッとしたよ」
ちなみに女子の一位はサクラで、二位は驚いたことに、あの人形のようなコデマリ・ツユリである。深層の令嬢といった感じで、運動とは縁がなさそうに見えるのに、何気に体力測定も優秀な成績だったそうだ。
「ツユリさんって、中央の聖職者の娘なんだって」
まるで考えていた事を見透かされたかのように、ホズミが彼女の名前を出した。
中央とは、アスマ達の出身地であるセンザイの通称だ。呼び名の通り国の中央に位置し、オリベ養成学校の大元である防衛軍の本拠地もそこにある。
「誰かに聞いたの?」
「うん、私達を目の敵にしている女子が教えてくれた」
それは教えてくれたというよりも、サクラやホズミとは住む世界が違うとでも忠告されたのではないだろうか。サクラは自分の神経が人より太い事を自覚しているが、ホズミもなかなかに打たれ強いようだ。
「それっていつ言われたの?」
サクラとホズミは、だいたい一緒に行動しているのに、いつの間にそんなことを言われていたのか。
「体術の授業が終わった後かな。サクラはアスマくんと話してたと思う」
「元気な人達だね。そんな余裕があるなら、もっと上位に食い込めただろうに」
「それからアスマくんとウキくんは中央の護民官の息子らしいよ」
護民官とは、この国の政治を担う者達のことだ。各地域から一名ずつ選出されるが、中央のセンザイは住人の数が多いため、細かく地区分けされていると聞いたことがある。
護民官は高給取りだ。つまりアスマとウキは、やはり良家の子どもだったのだ。二人の仕草を見ていればそれも頷ける。食事の作法一つにしても優雅なもので、一緒に食事を取っても、その手さばきについ見惚れてしまうことがある。
「ツユリさんの親は聖職者の中でも偉い人で、護民官とも付き合いがあるんだって」
「ふーん、だから親を通しての知り合いって言ってたんだね」
「そうみたい」
だけどアスマとウキが、自分からコデマリに話しかけるところを見たことがない。仲が良かったらもっと積極的に話す気がする。
「あの二人に女子が群がるのも、そういう理由が大きいみたいね」
「えっと、財産目当て?」
「身も蓋もない言い方するね、サクラ」
表現が直接的すぎたらしく、ホズミに呆れられた。
「でも、どうしてみんなそんなことを知ってるの?」
「中央出身の子って多いみたいだし、同室の子がその話を聞いて広まったんじゃないかな」
さすがにそこまでは教えてもらえなかったらしい。
「それならアスマくんが鬱陶しがる気持ちも分かるね」
「まあ二人とも整った顔立ちをしているし、モテるのは分からなくもないけどね」
客観的な意見を述べている辺り、ホズミは二人をそういう対象としては見ていないようだ。
「それより、アスマくんもウキくんもプレッシャーがきつそうだよね」
「なんのプレッシャー?」
「親がそういう仕事をしてると、悪い成績は取れないでしょう」
「そういうものかな」
「周りからの期待も大きいだろうし」
物心がついた頃には孤児院に入っていたサクラには、あまりピンとこない話である。
「でも入学前から魔術の家庭教師とかつけてもらったんだろうなあ。いいなあ」
「ホズミは魔術の練習はしてこなかったの?」
「したよ。でも田舎だし、そんなに強い魔術を使える人が近くにいなかったから、ほとんど自己流かな。サクラは?」
「私も自己流だけど、最初だけ防衛軍の騎士様に教えてもらったんだ」
「騎士様?」
興味を示したらしく、ホズミがベッドから体を起こした。
「五年くらい前にね、うちの村を通っている川の堤が大雨で崩れたんだけど」
「えっ、大変じゃない。川が溢れたら、畑や田んぼが駄目になってしまったでしょう」
「うん。水没して大変だったけど、すぐに防衛軍がやって来て直してくれたんだ」
「もしかして、それでサクラも防衛軍に入ろうと思ったの?」
「えへへ、実はそうなの」
もちろんそれだけではなく、養成学校へ入ってしまえば、孤児院を出た後の仕事に困らないという理由もある。
「毎日、魔導士や騎士達が川を整備する様子を、村の子どもたちみんなで見物してたんだ」
「そんな光景、滅多に見られないもんね」
復旧作業は半月にも及んだ。
「防衛軍の人達はみんな気さくで、私達が安全に見物できるように、少し離れたところに土と木で簡単な櫓を作ってくれてね」
「優しい人達だったのね」
「うん、優しくて、すごく素敵な人達だった」
休憩時間には子ども達とも遊んでくれて、川の堤は早く直して欲しかったけれど、終わったら彼らがいなくなってしまうと思うと寂しくもあった。
「工事が終わったらその櫓は壊す予定だったんだけど、終わった直後に天気が崩れ始めて、一日だけ滞在が延期になったの」
「うんうん」
ホズミはすっかり話に聞き入っている。
「明日にはいなくなるんだと思ったら、櫓がなくなることも悲かったし、すごく寂しくなっちゃって」
もっと村にいてくれたらいいのにと思ったけれど、もう次の現場へ向かわなくてはならず、そうゆっくりもしていられないという話だった。
「壊す前に最後にもう一回だけあの櫓に登りたいなって思って、勝手に登っちゃったんだよね。子どもだけでは絶対に登るなって言われてたのに」
「あらら」
「でも一人で登ってもちっとも楽しくなくて、目の前の川はすごい勢いで流れてるし、風も雨も登るときはそれほどでもなかったのに、段々強くなって怖くなっちゃって、そこから動けなくなったの」
考えてみれば、防衛軍が作業を取り止めるくらいなのだから、天候が悪化するのは目に見えていた。でも子どものサクラはそこまで考えが及ばなかった。
「泣いても誰も来てくれないし、雨で濡れて寒いし、どうしようもなくて蹲っていたら、一人の騎士が助けに来てくれたの」
その人は雨も風も気にならないかのように、するすると櫓の上までやって来て、泣いているサクラに大丈夫だと笑いかけてくれた。心細くて震えるしかできなかったサクラにとっては、まさに命の恩人である。
騎士はサクラを抱えて降りると、そのまま孤児院まで連れて行ってくれた。もちろんその後はしこたま怒られた。だが幸いにも風邪はひかず、熱が出ることもなかった。
「孤児院に戻ってから、その騎士に泣きながらお礼を言ったら、その人なんて言ったと思う?」
「なんて言ったの?」
ホズミはすっかりベッドから身を乗り出している。
「自分達が櫓をそのままにしていたのが悪いって。孤児院の先生達にも、だからそんなに怒らないでやってくれって頭を下げて、先生達の方が困ってた」
「うわあ、男前だね」
五年も前のことなので騎士の顔は既にうろ覚えだが、それでもすごく格好良かったことは記憶に残っている。
「そのときにね、その騎士様に聞いたの。どうしたら騎士になれるのかって」
「うんうん」
「そうしたら養成学校のことを教えてくれて、私は魔力が高いみたいだから魔導士科が合ってるんじゃないかって言われて、ここに入ることにしたの」
「魔術もそのときに教えてもらったの?」
「うん、少しだけ基礎の部分をね。飲み込みが早いって褒められて、嬉しかったなあ」
優しくて逞しくて、サクラはあんな人になりたいと思った。
「なんだか素敵な出会いねえ。もしこの学校を卒業したら、その人とどこかで会えるかもしれないね」
「うん、私もそう思ってる」
もし出会えたらお礼を言うのだ。あの時はありがとうございましたって、あなたのおかげで今の私があるんだって。叶うことなら一緒に働いて、恩返しをしたいとも思っている。
「ねえ、サクラ」
なぜかホズミの瞳がきらきらと輝いている。
「もしかしてそれが初恋なの?」
「え? うーん、どうだろう。その騎士様はすごく格好良かったけど」
憧れならばあの時からずっと抱いている。しかしそれが恋かと問われると、そうかもしれないし、違うかもしれないくらいの淡い想いでしかない。
「よく分かんないや」
「じゃあ再会して確かめなくちゃね。いくつくらいの人だったの?」
「さあ? 二十歳は越してたと思うけど」
八歳の子どもから見たら、大人はみんな大人である。
「結婚してる可能性もあるよね。でも、もし独身だったら恋に発展する可能性だってあるわけだからね」
「えー、向こうから見たら、私なんて子どもでしかないよ」
「そんなの分かんないじゃない。世の中には、女は若ければ若い方がいいって男もいるんだから」
「そんな理由で選ばれても嬉しくないし」
「そうね、若くなくなったら浮気される可能性があるってことだもんね」
ホズミが一人でうんうんと頷いているが、そういう話でもない。
「サクラは、歳の差はどれくらいまでなら平気なの?」
「そんなの考えたこともないけど」
「私はねー」
意外にもホズミは恋話が好きらしく、疲れたと言っていた割にはなかなか話は尽きず、お風呂に入るぎりぎりまでおしゃべりは続いた。




