001. 入寮
ちょっと近道をしようとしただけなのに、どうしてこんなことになったのか。後ろをついてくる何かに、追いつかれないよう必死に走る。田舎育ちのサクラだから分かる。獣ではない、これは人の足音だ。
下から見上げた感じではそこまで深い森には見えなかったが、まっすぐ走っているつもりで、気づかないうちに方向を逸れてしまったのかもしれない。しかしそれならそれで道にぶつかってもよいはずだ。
荷物が邪魔だが放り投げるわけにはいかず、この森さえ抜けてしまえばなんとかなる。そんな思いで走り続けて、ようやく木々の向こうに開けた場所が見えてきた。森の終わりだ。
サクラは力を振り絞って駆け抜ける。低木を超えようと地面を蹴って草むらへ飛び出した。そこに人影があるなど思いもしない。気づいたときには遅く、そこに立っていた人物を巻き込んで、もつれこむように転がり倒れた。
「いってえ……」
「ご、ごめんなさい!」
すぐに起き上がって手を差し伸べる。相手は十三歳のサクラと同じような年頃の男の子だった。とてもきれいな顔立ちをしていて、おもわず目を奪われた。
「触るな」
しかし差し出した手はにべもなく跳ね除けられた。
「なんだお前は、なぜ森の中から出て来たんだ」
「あ!」
追いかけられていたことを思い出して振り返ったが、背後には誰もいなかった。
「あの、誰かに追いかけられて、それで逃げてて」
「追いかけられただと?」
男の子はサクラの背後の森を凝視したが、すぐに「誰もいないじゃないか」と不機嫌そうに睨んできた。
その子の背後には大きな建物が立っていて、きっとこれがこの国の防衛軍が作ったという養成学校なのだろう。
「お前、新入生か」
「はい。えっと、あなたは?」
男の子は質問に答えず、髪をかき上げて立ち上がった。よく見れば身なりが良く、たぶん自分のような平民ではない、上流階級の家の子どもだろう。
「私は、サクラ・ツキユキといいます。この学校の先輩ですか?」
「魔導士科一年の、アスマ・ノウゼンだ」
一年ということはサクラと同じだ。
「あなたも新入生?」
「だったらなんだ。イノシシ女」
同じ一年生だと親近感を抱いて話しかけたら、嫌悪感たっぷりに返された。
「イノシシ女?」
「馬鹿みたいなスピードで突っ込んできやがって、お前なんかイノシシ女で十分だ」
「それは本当にごめんなさい。でもイノシシは酷いと思う、ちゃんと名乗ったのに」
「ふんっ。言うことだけは一丁前だな」
アスマが踵を返したので、ぶつかったときに転がった手荷物を慌てて掴んだ。
「待って、置いてかないで」
「知るか」
また先程のような怖い目にあっては困る。立ち去ろうとするアスマの後をサクラは追いかけた。それでもやっぱり背後が気になりちらちら振り返ると、アスマが鬱陶しそうに振り返った。
「そもそも森は立ち入り禁止のはずだ。あんなところで何をしていた」
「あ、そうなの? 近道をしようとしただけだったんだけど」
「近道?」
「うん、到着の馬車が遅れて、遅刻しそうだったから……って入学式!」
遅刻しそうだからと急いでいたのに、なぜ忘れていたのか。サクラは慌てて駆け出そうとしたが、同じ新入生のはずのアスマは呆れたような顔をしつつも急ぐ気配がない。
「アスマくん、入学式は?」
「アスマくん? 気安く名前で呼ぶな」
「じゃあなんて呼べばいいの?」
村ではみんな名前で呼び合っていたのだが、他の地域は違うのだろうか。
「呼ばなくていい。金輪際、俺には関わるな」
「でも私も魔導士科だもん。関わらないのは無理じゃないかな」
「はんっ、お前のイノシシっぷりなら騎士科が妥当だろう。今からでも遅くない。すぐに編入手続きを取れ」
なんという無茶ぶりだろうか。そしてとても偉そうな態度である。
「なんだ、不満そうだな。せっかく間違いを正してやろうと思ったのに」
「間違い?」
「入学式は明日だ、馬鹿め」
そんなはずはない。入学前に届いた案内をサクラはしっかり読んできた。
「今日の十五時まで学校に着くようにって、案内に書いてあったよ」
「それは入学式じゃなくて、入寮の手続きのためだ」
「そうなの?」
「頭の中身もイノシシと変わらないようだな。いや、イノシシ以下か? 自分に届いた書類くらいきちんと読め」
手荷物から入学の案内を出そうとするが、歩きながらは難しい。アスマはまったく歩く速度を緩めてくれる気配がなく、なんとか紙を取り出すと、確かに入学式の日付は明日になっていた。どうして見落としていたのか、きちんと読んだはずなのにと首を傾げてしまう。
「じゃあ、そんなに急がなくて良かったんだ」
「そんな訳あるか。入寮の手続きをしなかったら、それこそ森で野宿でもするつもりなのか」
「入学式じゃないなら、少しくらい遅れても大丈夫じゃないの」
「お前、ここをどこだと思ってるんだ?」
アスマが足を止めて振り返る。大業に腕を振って背後の建物を差した。先程より近づいたことで、さらにその外観が大きく見えた。
「ここは軍隊の養成学校だぞ。時間厳守は基本中の基本だろうが。まあ、お前が入寮手続きに間に合おうが間に合わなかろうが俺には関係ないけどな。ああ、あと五分で十五時だな」
アスマが自分の腕に付けている時計を見て呟いた。
「じゃあやっぱり急がなきゃいけないんだ! えっと、受け付けってどこにあるの!」
「俺が教えてやる義理はないな。だが、どうしても知りたいなら頭を下げて頼めば、教えてやらんこともない」
「お願いします! 教えてください!」
躊躇なく頭を下げたサクラを見て、アスマは面白くなさそうに顔をしかめた。
「そこの角を曲がって、壁伝いにずっと走ればそのうち見えてくる」
「この先なのね、ありがとう!」
「途中で壁の途切れているところがあるが、そこは曲がらず真っすぐ行け」
素直なサクラは笑顔でお礼を言って駆けだした。背後でアスマがほくそ笑んでいることにも気づかずに。
走って走って、今日は走ってばかりだなとサクラが思ったところで、ようやく受け付けらしき場所が見えてきた。しかし早くも片付け始めているような雰囲気だ。
「今日入寮する予定のサクラ・ツキユキです!」
慌ただしく滑り込むように名乗ると、片づけをしていた男の一人がサクラを見下ろして言った。
「遅い」
「え、もしかして間に合わなかったんですか! すみません、そこをなんとか通してもらえませんか、あんな怖い森で野宿なんて無理です!」
「おい離せ!」
しがみつくように懇願すると、首根っこを押さえるようにして離された。
「誰も森で野宿しろとは言ってないだろう。そもそもあそこは立ち入り禁止だ」
「じゃあ寮に入れてもらえるんですね」
「当たり前だろうが」
男は呆れたように、片付ける寸前だったテーブルへ一枚の紙を差し出してきた。
「サクラ・ツキユキと言ったな。出身は?」
「ヘキ村です」
「入学の案内は持ってきたな。出せ」
手に持ったままの紙を差し出した。
「しわくちゃじゃないか」
「すみません」
自分が見るだけならたいして気にならないが、他人に指摘されると途端に恥ずかしさが込み上げてくる。
「今回はまだ入学前だからいいが、これからは時間に気をつけろよ。事と次第によっては退学もあり得るからな」
「は、はい」
アスマの言っていたことは本当だった。
「まあまあニクマル先生、そう怒らなくてもギリギリ間に合ったんだからいいじゃありませんか」
「ああ? いいわけねえだろ。あと名前で呼ぶな」
この教師はニクマルというらしい。粗野な言葉遣いの通り見た目も強面で、あまり教師っぽくは見えない。
横やりを入れてきたのは、厳しそうなニクマルとは裏腹に、ほんわかした笑顔の男性である。
「僕はツクモ・トレニア。ツクモ先生って呼んでね」
「はい。魔導士科に入学するサクラ・ツキユキです。よろしくお願いします」
「うんうん、いい返事だね」
「おい、まだ受け付けは終わってねえぞ。ここに名前を書け」
ペンを渡されて、既に何人も記入しているリストの最後にサインをする。紙が重ねられていて、パラパラめくると、さらに大勢の名前が書いてあった。
「たくさんいますね」
「魔導士科・騎士科それぞれ百二十人ずついるからな」
「そんなに入学者がいるんですか?」
驚くサクラをツクモが微笑ましそうに見ている。
「一学年二百四十人。三学年あるから、合計でおおよそ七百二十人がこの学校にいることになるね」
「七百二十人!」
サクラが住んでいたヘキ村よりも人の数が多いかもしれない。驚きに開いた口が塞がらなかった。
「倍率とか募集人数も公表してるんだけど、関係なく入試を受けて合格したのかな。なかなか豪胆だね、ツキユキさんは」
「お前もこれからはその内の一人になるんだ。オリベ養成学校の一員であることを忘れず、勉学に励め」
ニクマルから緑を基調としたローブが手渡された。手触りは滑らかで、広げてみると白い糸で模様が入っていた。
「このローブは、この学校の魔導士科に所属しているという証だから大事に扱えよ。他の制服は既に寮の部屋に届けられている」
わざわざ手渡されたということは、それだけ大切なものなのだろう。いよいよ養成学校へ入学するのだという実感が込み上げてきて胸が高鳴る。
「それからこっちは生徒手帳と、明日の入学式やこの学校についての注意事項だ。あとは寮へ行けば寮監が案内してくれるが、部屋に着いたらこの注意事項は必ず確認しろよ」
「はい、ありがとうございます」
「寮はここを抜けたところにあるからね」
受け付けの後方には校舎がそびえ立っていて、一階の一部をくりぬくような形で通路が作られている。
ニクマルとツクモに見送られ、その通路を通り抜けたところで既視感を覚えた。
「ここって……」
先ほど駆け抜けた場所に似ているような気がする。そもそも自分はどの方角から来たのか。
校舎を囲む森の西側を抜けてきたはずで、そこから校舎の裏をぐるりと回ったのだから、もしかしてすごく遠回りをして、受け付けに辿りついたのかもしれない。あれ、これもしかして意地悪された? いやでも簡単に人を疑うのは良くないよね。
気を取り直して歩き出すと、正面に寮らしき建物が待ち構えているのが見えた。校舎との距離は五百メートル程で、その間には何も遮るものがなく、だだっ広い敷地が広がっているだけだ。
なぜこんなに距離を空けて建てたのか、不思議に思いつつもサクラは前へと一歩を踏み出した。