9 ×××さんと大河くん
妖しい奴が公園のベンチで本を読んでいる…大河の印象はそんな感じだ、中学3年生になったばかりの大河の趣味は図書館へ行き本を借りて家で読む、または本屋に行くそんな感じだった。
その男が気になったのは手に持っている文庫本…ここからじゃタイトルが見えない、その上黒い手袋と派手な植物柄のシャツから覗く肌には植物のタトゥーが見え、どう見てもまともな職に就いているようには見えなかった。
年齢不詳な外見、パラリと捲る指先、不思議とその男の辺りには誰もいなかった。
近所には幼稚園と保育園がありこの時間は小学生だって多い、だが男の周囲は静かだ。
怪しい奴がいるから周囲に誰もいないのかと気にはしない、気になるのは男が読んでいた本だけだ。
そんな程度の興味を持ち過ごしている、そんなある日公園を通って家に帰ろうとした所に突然雨が振りだした。
結構激しくなり一旦公園に設置された東屋に走って向かう、今日の天気は晴れだった筈こんな日に限って折り畳みの傘も無い。
「ち」
舌打ちしながら走って向かった東屋には先客がいた、大河は益々ツイてないと思ったが公共の場なのだからと東屋に入った。
「ああ、こんにちは」
東屋に座っていたのはベンチでいつも座って、本を読んでいる妖しい男と目が合い挨拶をされたのでペコリと頭を下げて向かいの端に座った。
テーブルに頬杖を付きページを捲る、大河が目を向け本のタイトルを確認する『リア王』茶色の表紙に文字のみのシェイクスピアの作品だった。
「シェイクスピア好きなんですか?」
「ああ、特に好きではないですね。でも滑稽だから気に入ってます、シェイクスピアで好きな作品はありますか?」
「『ハムレット』」
「悲劇的な話しが好きですか?」
「シェイクスピアの中では」
見た目とは裏腹に物腰の柔らかい話し方だ、大人だと思った。
「雨はもうじき止みますよ」
「…本読んでいきます」
「そうですか」
大河は推理小説出して挟んでいた栞のページを捲り本を読み進めていく、雨は静かに降り注ぎいつの間にか止んでいた…。
「ああ、こんにちは」
「どうも」
それからはなんとなく図書館帰りの公園のベンチで会話を交わす程度の知り合い程でもない関係になり、怪しい男が座るベンチ、1人分のスペースを空けて本を夕暮れ時まで読んで大河が先に席を立つのがいつもの流れだった。
「雨が降りますよ?」
「…東屋に行きます」
時折雨が降ると天気予報でも言っていない事を教えてくれる、必ず当たるから不思議で仕方ない、聞いても教えてはくれないだろう。
男は涼しげな顔で読んでいたファウストを閉じ、大河と共に東屋にゆっくり歩いた。
受験も程ほどに勉強し家から近い高校に受かり、相も変わらず授業が終われば図書館へ行き此処に来る生活を送っていたある日、男はもう此処には来ないと大河に告げた。
「そうですか」
男の本日の読み物はカフカの変身だった、いつもクセのある本ばかりだなと思いながら大河は母親が趣味で作った草花の刺繍をした栞を渡す。
「こんな綺麗な物良いんですか?」
「まだあるから」
「ありがとうございます、ではこの本を贈ります」
「どうも」
「では、行きます」
「さようなら」
大河は変身を受け取り男の背中を見送る、もう2度と逢えないのだろう…。
そうして大河はいつしかその男の事を完全に忘れ、大人になった…。
「この本…」
「ああ、カフカの変身だね。僕もその本好きだよ」
「面白いんですか?」
『いや』
大河がテントの図書スペースで本を選んでいると片隅に黄ばんだカフカの変身の文庫を見つけ手に取り、千歳が後ろで覗き笑う、ラジカが面白いのか尋ねれば口を揃えて否と言いラジカが困惑した。
「読んでみれば良い」
「そうだね、読んだら感想聞かせてよラジカさん」
「分かりました」
大河と千歳が目配せし、ラジカは徐にページを開き…。
「読まなければ良かったのか読んで良かったのか…」
「へー読んでみるか」
ラジカは頭を抱え今度はジラが手に取り…読後ラジカ同様どんよりとした気持ちになり、千眼にも進めた所…。
「私は蝶になれる…」
読後何処か自慢気にそう答え、ラジカとジラは笑った…。
雨の降る外、傘もないのにその男の周辺は雨に濡れていなかった。
大きな木の下男はテーブルとイスを出し、茶を楽しみながら本のページを捲る。
手元には丁寧な刺繍を施した栞、男は雨音も楽しみながら読書に浸る。
その手に持っているのは、この世界に、存在しないカフカの変身だった…。