1-05 私は何を召喚した?
「心配してくれているの?」
分かるはずもないのに、見上げた先のエンヴィに思わず言葉を掛けてしまう。
だってこの獣は、私にとっても寄り添ってくれる存在だから。
(本当は、そんなんじゃないんだろうけど)
賢くても獣は獣だ、人じゃない。
(分かってはいる。けど、どうしても期待してしちゃう)
感情のまま、手を振ってみる。
けれどエンヴィはそれに応えず、むしろ通り道に降りてこちらを威嚇してきた。
「エンヴィ?」
牙をむき出しにして気を逆立てるエンヴィに、私は困惑する。
相手にしてくれないことは良くあるけれど、こうして敵意をむき出しにされたことは今までなかった。
「どうしたの?」
「グルルルッ」
一応問いかけてみたものの、返ってくるのは獣の唸り声のみ。
近づこうとすると吠えられて、ここを通してくれそうにはなかった。
(どうしようかな、遅刻はしたくないんだけれど)
そうこうしているうちにも、刻々と時間は過ぎていく。
けれどエンヴィは、意地でも私を通すつもりはないらしい。
(仕方ない、別の道から学園へ行こう)
諦めて私は、来た道を引き返す。
《騎士》の召喚に失敗した時点で、本当は学園なんてどうでも良かった。
けれど他に、行くところもなかったから。
(私、どこに行けばいいんだろう)
誰も私なんて、必要としていない。
ちらりと振り返ると、未だに小さな獣は私をにらみつけていた。
(やっぱり、そんなもんだよね)
明確な敵意を目の前にして、涙がにじんでしまう。
この間みたいに、私に寄り添ってくれることを期待していたから。
(そんなことができるのは、自分の《騎士》だけなのにね)
だからみんな、自分の《騎士》に執着する。
私だってそう、心の繋がる人が欲しい。
それはこの世界で決して、高望みな願いじゃないはずだから。
(そういえば、エンヴィは何の動物なんだろう)
これ以上ひとりぼっちだと思い知らされたくなくて、頭を切り替える。
けれどこれに関しては、前から思っていた。
私はエンヴィがどういう存在なのか、いまだ知らない。
(同じ生き物は、見たことがないし)
図書室にあった本で調べ時は、何の答えも得られなかった。
一番近しいと思われたのは、猫という生き物だったけど。
(ちょっと違う気がする)
そもそもの猫もあまり見ないけれど、この世界にも存在していないわけじゃない。
けれど姿形じゃなくて、もっと根本的なものが似ていない気がしていた。
(エンヴィは、色々な魔力で成り立っているように見える)
微弱ながらエンヴィにも魔力があるようだった。
気になるのは、それが同一の質の魔力じゃなかったこと。
魔力の質は千差万別だけれど、混じっているのは聞いたことがない。
(まあ、どうだっていいか)
ちょっと考えかけたけれど、やっぱりこれも頭を振って取りやめる。
結局大切なのは、自分の《騎士》になる人だけだ。
私だけの、誰か。
(もしかしたらそんなもの、存在しないかもしれないけれど。いや、やめよう)
暗く戻りかけた思考を振り払うために、また頭を軽く振る。
良いことならともかく、悪い情報をこれ以上受け入れる余裕は今の私にはなかった。
「……?」
もう少しで学園だ、というところで聞き慣れない暴力的な音を耳にする。
それは殴打音や悲鳴で、明らかに誰か人を傷つけている音だった。
(珍しいな)
《騎士》と《契約者》はお互いのみに執着するので、争いはほとんどない。
昨日のように契約権に関わるなら、ごくたまに存在する。
が、それだって昨日までは見たこともなかったくらい今まで事件は起こらなかった。
(けど困ったな、ここはさすがに通らないと学園にいけない)
ここまでの道はいくつにも分岐しているが、ここからは一本道だ。
どうやっても避けられない。
(もう、諦めて帰ろうかな)
先日から色々ありすぎて、正直限界が近かった。
だから何もなかったふりをして、帰ろうとした。
なのに。
「嘘、でしょ」
背けようとした目に映ったのは、ついに昨日は会わなかったイデアス。
そしてその周りには、《騎士》達が累々と倒れていた。
さらに足元には、
(――昨日の!)
契約権を譲り渡した少女が、イデアスの足元でうつ伏せになっていた。
それを見て、思わず悲鳴に近い声が漏れてしまう。
(やっぱりダメだったんだ)
イデアスが制御できないのは、《契約者》が私だったからではないらしい。
その事実に少し嬉しくなる、けれど状況は何も変わらない。
そして私の声に反応したイデアスが、ぴくりと反応する。
(気づかれた!)
咄嗟に口元を手で押さえるけれど、出した言葉が戻るわけでもない。
彼は今まで虐げていた者から、ゆっくりと私に目を移した。
「おはよう、これから学園に行くのかい」
他の《騎士》の魔力を浴びたイデアスが、普通に話しかけてくる。
恐ろしいのは、惨状を隠そうともしないこと。
「何を、してるの」
「魔力の回収だよ、君も知ってるだろう? 《騎士》には魔力が必要だ」
当たり前に、イデアスは言う。
それは私達が生きるのに、食事をするのと同じだというように。
「アドールはもう歳だし、病弱だから。できる限り自分で賄おうと思ってるんだよね」
彼の言う通り、《騎士》が存在するには魔力が必要だ。
だからイデアスの主張は正しい、けれど。
「まあ他にもやりたいことがあるんだ、それにも必要だしね」
(おじいちゃんに、魔力を譲渡しようとしている?)
怖くて声は出ないけれど、頭をなんとか働かせる。
おじいちゃんの病は魔力欠乏だから、彼が魔力を補填しようとしているのは分かった。
(けれどどんな方法であっても、《騎士》から魔力の補填はできないはず)
魔力を誰かに与えるのは、《契約者》だけが使える能力。
《騎士》は魔力を使うだけ、自身の魔力補給もできないと授業で聞いていた。
だからこの惨劇にも意味はないはずなのに。
(それでもまだ、諦めきれないのかな)
蹂躙した他の《騎士》に見向きもしないで、イデアスはこちらに歩いてくる。
遠くから見ている人もいるが、誰も止めようとはしない。
(もし私が彼らでも同じ行動をするから、責められないけど)
イデアスに関われば、どんな目に遭わされるか分からない。
だから私は、一人で彼と会話しなければならなかった。
「君はできる限り傷つけないようにしたいんだ、この世界にもう一度召喚してくれたんだし」
イデアスが、私の目の前に立つ。
けれど私は恐怖を感じながらも、逃げることも目を逸らすこともできなかった。
「あぁ、それとこれは手放しちゃだめだよ」
(動、けない)
涙がにじむ恐怖を感じながら、それでもこの場所を離れられない。
足が地面に張りついて、動くことができなかった。
(魔法を使われているわけじゃない)
脅されているわけでもない。
けれど他者を害する眼が、私から自由を奪っていた。
「とっても大事なものなんだから」
そっと、大きな両手で私の手を握る。
そこから恐怖が伝わって、背中がぶるりと震えた。
けれど同時に、馴染みのある重みを手に感じ取る。
(彼の、《台本》?)
離された手を見てみると、そこには昨日譲渡したはずの《台本》が握られていた。
「じゃあね」
その一言を残して、イデアスは私の前から姿を消した。
忽然と、惨劇と恐怖を残して。
そしてイデアスが完全にいなくなったのを認識して、私の体は地面に座り込む。
――何だ、あれは。
止まりかけていた心臓が、今になって音を立てて波打つ。
だって彼は私の《騎士》どころか、聞いていたものともずいぶん違う。
(あれが私の理想? 違う、そんなわけない)
今までは私に従わないだけで、でもそれだけだと思っていた。
おじいちゃんの《騎士》で、おじいちゃんだけに寄り添う存在。
どういうわけか、私に喚ばれてしまったもの。
(じゃあ、私は何を召喚したの?)
この疑問は、口に出していない。
けれど口に出したところで、答えられる人がいるとも思えなかった。