すぐそばにあった世界
いつも使っているスーパーの横を通り過ぎてしばらく歩くと、小さな川が流れている小道があった。その川には一定のリズムで、規則正しく水が流れているようだった。川底は少し濁っていて、たまに上流からペットボトルが流れていた。
あれ、これって本当に川だろうか?いや、良く考えたらこんな小さい川が街のど真ん中にある訳がない。周りをコンクリートで舗装されているし、これはきっと用水路だ。普段何も考えずに料理とか風呂とかに水を使っていたけど、あの水はきっと、こういう用水路から来ていたのだ。僕はその用水路に沿って、まだ歩いたことがない路地の方へ入ってみることにした。
路地に入ると車はほとんど通らなくなり、遠くの方で時折エンジンの音が響くだけになった。さっきまでの喧騒が、救急車が通り過ぎた後のサイレンみたいに、急に別の世界に行ってしまったような気がした。
周りの家々は比較的新しいアパートから、少し古びた一軒家に変わって行った。近くを歩いているだけで人々の生活の匂いがしてくるような、そんな一軒家だ。
僕はしばらく歩いてから、用水路の脇に設置された古びた柵に体を預けて、大きく一つ伸びをしてみた。水の近くにいるとほんの少し気温が下がって、何だかすごく気持ちがいい。用水路の先の方で、女性が犬と一緒に散歩をしていた。その他には人の姿はない。周りの家のベランダに干してある洗濯物は、優しい風の中で静かに揺れていた。
振り返って用水路の水の中を覗くと、紺色の鯉が3匹、尾びれをゆったりと動かしていた。彼らは泳いでいるというよりは、ただ、流れの中にとどまっている様に見えた。僕は柵によりかかりながら、彼らのゆったりとした動きを、しばらくの間じっと眺めていた。
彼らは、コロナが支配する世界の中でも、全く焦ったりしていなかった。よくよく考えたら、彼らにとって、コロナなんてあまり関係のない話なのだ。彼らはきっと、ずっとこうして過ごして来たのだろう。コロナがやって来る前からずっと。でも僕は飲んで騒いだり、ネットしたりすることに夢中で、彼らがこうして過ごしていることを知らなかったのだ。
自分の住んでいるすぐ近くに、こんな穏やかな世界があったなんて。
と、僕は思った。それは、とても静かな驚きだった。
この小さな路地に流れている時間は、普段僕が生きている世界の時間とは、全く違っていた。仕事のノルマだとかプレッシャーだとか、そんなものはここには存在していなかった。その代わり、ここには人々の生活の匂いがあり、鯉たちの揺らめきがあった。それだけなのに、何故かそこは、とても満ち足りた世界だった。