政略結婚の筈が、なんだか気になって仕方ありません
広間に戻ってきたラエラとベルフェルトの姿に気づき、リュークザインは安堵の表情を浮かべた。
そのあからさまな態度に、ベルフェルトは思わずといった風に苦笑した。
・・・この様子では、もう既に心を掴まれているようだな。
まぁ、この令嬢に関しては、それも分かるような気がするが。
そんな事を考えながら、意地の悪い笑みを浮かべて軽口を叩く。
「なんだ、リューク? なんとも情けない顔をしているな。そんなにラエラ嬢の帰りを待ちわびていたのか?」
「揶揄うな。婚約者となる女性を心配するのは当然の事だろう」
「成程、成程。まぁ、そういう事にしておいてやろう」
はは、と笑い声をあげる姿にリュークが思わず眉を寄せると、ベルフェルトは宥めるように言葉を続けた。
「そう怒るな。お前の言い分も尤もだ。こうも素晴らしい女性が側から消えてしまっては、確かに気が気ではないな」
そう言いながら、リュークの隣に並ぶラエラに、賞賛を込めた眼差しを送る。
「お褒めにあずかり恐縮ですわ」
それにラエラは軽い会釈と笑みで答えて。
つい先ほど会ったばかりの二人からなんとも気安い空気が流れているのを感じて、リュークは理由も分からず自分の感情が波立つのを感じた。
いち早くその感情の揺れを察したベルフェルトは、リュークの肩を軽く叩いた。
「そろそろ邪魔者は消えるとしよう。リューク、君はどうやら得難い女性を手に入れたようだな。おめでとう。全身全霊で大切にしてやりたまえよ」
「・・・? ああ、勿論そのつもりだが」
「それならいい。ではな」
会場の人混みへと紛れていくベルフェルトの後ろ姿を目で追っていると、隣から感心したような声が聞こえてきた。
「お噂通りの方ですのね、ベルフェルトさまは。切れ者でいらっしゃる。それに、とても話しやすい方ですのね」
まただ。
感情が揺れる。
「・・・そうだな。私の自慢の親友だ」
自分はどうしてしまったんだろう。
この気持ちの正体は、一体なんだというのだ。
「・・・魅力的な男だろう? ベルは令嬢方からも大層、人気があるからな」
「そのようですわね。ほら、ご覧になって。もうあんなに沢山のご令嬢方に囲まれてますわ」
くすくすと笑うその姿に、どうしてかラエラをこの場からすぐに連れ去りたい気分になって。
気が付くと腕を取っていた。
「ラエラ嬢。すまないが、今夜はもう帰ってもいいだろうか」
そう口にして、挨拶もそこそこに会場を後にした。
帰りの馬車の中、ラエラが気遣わしげに様子を伺っている事に気付きつつも、リュークは夜会を抜け出した事の上手い言い訳を見つけられず、会話が途絶えていた。
ガタガタと、車輪の音だけが耳につく。
「お加減でも悪いのですか?」
長い沈黙を破って、ラエラが声をかける。
「いや、どこも悪くない・・・が」
「・・・が? どうされたのです?」
「・・・よく分からない。貴女をあの場からすぐにでも連れ出したかった。それだけだ」
ラエラが首を傾げる。
不安になったのか、眉を挟めて。
「・・・わたくし、なにか粗相をしましたでしょうか?」
「そうではない。ただ、嫌だったのだ。貴女が・・・ベルフェルトを見ているのが、どうにも・・・気に入らなくて」
馬鹿な事を口走っている。
そんな事は十分わかっていた。
これは条件が合った者同士の政略結婚だ。
なのに、こんな。
こんな感情をぶつけられても、ラエラ嬢が困るだけなのに。
固く握りしめたリュークの手に、何かが触れる。
ラエラの手。
ラエラの手が、リュークのそれに重ねられて。
「ラエラ嬢・・・?」
「わたくしのせいでご不快な思いをされたのですね。申し訳ありません」
「いや、違う。そうではない。・・・ただ・・・」
一瞬、躊躇する。
「・・・私も、あれくらい魅力的な男だったら良かったのだが・・・」
「リュークザインさま?」
「・・・」
ラエラはリュークザインを見つめているが、リュークはどうしても目を合わせることが出来ず、視線を彷徨わせる。
「・・・聞かなかった事にしてくれ」
「それは出来ません」
きっぱりと断られた事に驚いて、思わずラエラに目を向ける。
「今のお言葉は、きちんと訂正させていただかねばなりませんもの」
「訂・・・正?」
呆気に取られ、言葉をただ鸚鵡返しする。
「リュークザインさまは、とても魅力的な方でいらっしゃいます。ベルフェルトさまとも、王太子殿下とも、他のどの殿方とも比べようがありませんわ。わたくしが心から尊敬する素晴らしいお方でございます」
「・・・は?」
予想外の言葉に、リュークは大きく目を見開く。
「何を言って・・・。いや、ありがとう。慰めてくれているのだな」
「慰めなどでは決して・・・」
「いや、嬉しいよ。他でもない貴女にそう言ってもらえるのは」
リュークの顔に、ぎこちない笑みが浮かぶ。
「リュークザインさま。わたくしは・・・」
「見合いで出会った者同士だというのに、馬鹿なことを言いだしてすまなかった。どうか呆れないでほしい。たとえ政略結婚でも、君のような女性に出逢えたことは幸運だと思っているのだ。ベルの言う通り、君は本当に・・・得難い女性だから」
「リュークザインさま・・・」
「・・・ラエラ嬢。触れてもいいか?」
躊躇いがちに伺いを立てられ、言葉を継ごうとしていたラエラの動きが止まり、頬が上気する。
「・・・勿論ですわ」
その言葉に安堵の息を漏らし、リュークはそっと手を伸ばして掌で頬を包んだ。
そして柔らかく目を細める。
「君の肌は、柔らかいな」
「・・・そうでしょうか」
「ああ。そしてとても滑らかだ」
愛おしむように、優しく指の腹で目尻を撫でる。
「・・・まだ婚約の正式な発表も済ませていないというのに、こんなことを言うのは性急すぎるという事は分かっているのだが」
「はい?」
「式を早めたい」
「式、ですか?」
「ああ、私たちの結婚式だ」
結婚式、という言葉に、ラエラが驚いて息を呑む。
その眼は微かに揺れていて。
「・・・それは、どういう・・・」
「貴女がいい。私の妻となる女性は貴女がいいんだ」
リュークザインは、ラエラの眼を真っ直ぐに見て、そう告げた。
そしてリュークザインは、その翌日にラエラ嬢との正式な婚約を国王陛下に願い出た。
「いやぁ、お前の婚約発表は、今、社交界で最も話題となっているな。どこに行ってもその話で持ち切りだぞ」
明らかに面白がっているとしか思えないベルフェルトの口調に対し、リュークザインの口調は素っ気ない。
「それ以外にすることもないとは、暇な奴らだ」
「だがな、今回ばかりはあいつらの気持ちも分からんでもないぞ。なにせ伝統あるライプニヒ公爵家の若き当主と、十年ほど前に当代で子爵位を賜ったカリエス家のご令嬢という組み合わせだ。しかもラエラ嬢は、デビュタント以降、社交界に一切顔を出さかった謎のご令嬢だったからな。どこでどうやって知り合ったのか、この婚約には何か裏があるのではないか、など、話の種には事欠かないだろうよ」
「下らん。噂スズメの話はもういいから仕事をしてくれ」
婚約にまつわる噂については、自分の耳にも入っていた。
それらは皆、事実とは全く異なる、面白おかしく脚色した下卑た作り話ばかり。
ラエラ嬢が聞いたら傷つくのではないだろうか、と、心配してベルに相談したら一笑に付された。
曰く、「ラエラ嬢は筋の通った芯の強い女性だから大丈夫」と。
その言葉に納得しつつも、何故、一度会ったきりのお前がそこまで言い切れるのかと、言いがかりのような言葉が口をつきそうになり、そんな自分に驚いて。
こんな感情的でみっともない自分を見たら、きっとラエラ嬢は失望するだろう。
互いの間にあるのは条件に基づく合意であって恋愛感情ではないのだから。
嫉妬という重たい感情をぶつけたら、きっと彼女はこの手からするりと逃げてしまう。
そうしたら別の男が彼女を伴侶とするのだろう。
それは嫌だ。
それだけは避けたい。
あの女性の尊敬の眼差しを裏切りたくはない。
それだけが互いを繋ぐ絆なのだから。
「どうした、リューク? 何が不安なんだ?」
ひっそりと溜息を吐いたつもりが、ベルは気づいていたようだ。
この男には、嘘もごまかしも通用しないから厄介なのだ。
「あんな素晴らしい女性を婚約者として得ておいて、そんな憂い顔はいただけないね。堅物のお前が、こうして恋に落ちて、晴れて相思相愛の仲になったんだ。何を心配することがあるというんだい?」
「相思相愛だと?」
言っている意味が分からず、目の前の親友を凝視した。
そんな私を見て、ベルはぎょっとしたような表情を浮かべ、それから呆れたような口調で話を続けた。
「おい、まさかだろ、リューク。お前はまだ気づいてないのか?」
「気づいてないとは、何をだ?」
「何をって、・・・ああ、この朴念仁め。まさか、お前がここまで鈍い男だとは思ってなかったぞ」
何が面白いのか、首を横に振りながら大笑いしている。
話についていけず、少々イラッとしながら笑いが治まるのを待っていると、ようやく落ち着いてきたのか、ベルが真面目な顔でこんな事を言いだした。
「まあ、こういう事は本人の口から聞くべきだよな。うむ、そうだ。友ではあるが、この件に関してはオレは完全なる部外者だ。よし、リューク。今からオレは大切なことを言うからな。親友の助言をありがたく聞きたまえ」
ベルフェルトは酔狂な男ではあるが、私のことはいつも真剣に気にかけてくれる奴だ。
だから意味が分からないながらも、その通りにする気ではいたのだが。
もう一度言う。
その通りにする気だった。
だが何でこんなことを?
「リュークザインさま?」
「・・・やあ」
「いつもの顔合わせの日取りを急に今日になさりたいなんて・・・。なにか話し合いが必要になるような問題でもありましたか?」
「い、いや、そんなことはないのだが」
ベルに言われて、今日いきなりラエラ嬢と会うことになって。
現在、がちがちに緊張しながら彼女の前に立っている。
じっとこちらを見ていたラエラ嬢が、何かに気づいたように、すっと手を伸ばしてきた。
「な?」
焦って思い切りのけぞる。
するとラエラ嬢は不思議そうな表情を浮かべ、差し出した手をひらひらと振ってみせた。
「汗が酷うございます。これでお拭きくださいませ」
ハンカチで拭ってくれていたのだ。
羞恥で顔が真っ赤になった。
なんだ、私のこの反応は?
無様すぎる。
いくら何でも意識しすぎだろうが。
「す、すまない」
「いえ。それで今日はなんのお話を?」
「あー、と、それがその・・・」
ベルフェルト、こんな言葉が本当に私の悩みを解決するのか?
そう思ったが。
お前を信じるぞ。
「・・・結婚するにあたり、条件を一つ追加しようと思っている。貴女が持つ権利についてだ」
「条件の追加、ですか。わたくしの権利を?」
「ああ」
ぐっと拳に力を込める。
こんな言葉、たとえラエラ嬢を思ってのことだとしても言いたくはない。
「離婚を申し立てる権利だ」
「・・・は?」
ラエラ嬢の声が、わずかに低くなった。