政略結婚の筈が、なんだか翻弄されてます
「はぁ・・・」
馬車に乗った瞬間、ラエラは大きな溜息を吐いた。
「良かった。私に触れてもご不快にはならなかったようだわ・・・」
まだ胸の鼓動は収まらないまま。
抱きしめられた時、あんなに近くでリュークザインさまのお顔を見ることになって、心臓が止まってしまうんじゃないかって思ったけど。
「・・・リュークザインさまの頬が少し赤らんで見えたのは、きっと気のせいよね・・・」
思い上がってはいけない。
これは政略結婚なのだ。
リュークザインさまの出した条件に適合する令嬢が、私だった、それだけのこと。
・・・まだ、今は。
「でも思っていた通り、とても真面目な方ね。・・・あんな時でさえも」
触れてくれと頼んだ時の驚愕した顔。
不快な思いをさせないようにと恐る恐る伸ばした手。
大丈夫かと不安気に覗き込む瞳。
「次は、また一週間後・・・ね。恥ずかしいけど、頑張らなくちゃ」
まだ熱の残る頬を両手で抑え、ラエラは静かに呟いた。
一方でリュークザインは。
ラエラを見送った後、暫くの間、そこから動くことが出来なかった。
呆けていたのである。
・・・柔らかかった。
女性の身体とは、あれほど華奢で柔らかなものだったのか。
身近な家族に女性がいない訳ではない。
母だってシュリエラだっている。
・・・が。
あんな風に抱きしめたことなど、ないものだから。
いや、記憶を遡れば、もしかするとあるのかもしれないが、全く覚えていない。
というか、家族とラエラ嬢とでは、こちらの意識が違ってくるではないか。
いや、待て。意識ってなんだ。意識って。
自分で自分にツッコミを入れながら、前髪をくしゃりとかき上げる。
・・・らしくもない。
何故こうも感情が乱されるのか。
見合い相手の事で頭を悩ませているだなんて、ベルの耳にでも入ったら一生、揶揄われそうだ。
それでも、気を抜くと、つい先ほどの事を思い出してしまう。
抱きしめた時のあの香り。
自分とは全く異なる、細く、華奢な身体。
あれは何かの花の香りだったのだろうか。
再び、抱きしめた時の記憶が蘇り、顔に熱が集まる。
いかん。
ふしだらな眼で彼女を見るようになったら、只の見合い相手に過ぎない私など、きっと軽蔑されてしまう。
最悪、縁談を断られるかもしれない。
それは困る。
それは嫌だ。
彼女は完璧に条件の揃った最高の相手だ。
彼女でなければいけない。
ラエラ嬢でなければ、いや、ラエラ嬢がいいのだ。
はあ、と息を吐いて心を落ち着けて。
次の顔合わせでは、きちんと振る舞わねば、と決意を固めた。
固めていた、のだが。
「・・・失礼。今、何と?」
「口づけをしていただきたい、と、そう申しました」
「・・・」
「・・・」
五回目の顔合わせ。
二人きりの茶会の場に、静寂が降りた。
言われた言葉の意図を測りかねたリュークザインが、じっとラエラの顔を見つめると、ラエラもまた、真っ直ぐにリュークザインを見つめ返す。
「・・・理由をお聞きしても?」
「勿論、相性の確認ですわ」
「それは先週、行った筈では?」
「ええ、確かにその通りです。ですが、あの後、家に戻ってから、少々不安になりましたもので」
「・・・不安?」
「ええ、そうですわ。肌の触れ合いには互いに嫌悪感はないようでしたが、夫婦の営みとなるとそれ以上の事が求められます。ここで安心して確認を怠って、いざ結婚した後に問題が起きたら手の打ちようがありませんから」
「それで・・・く、ちづけ、を、しろ、と」
「はい」
なんと大胆な。
ただただ驚いて、言葉もなくラエラ嬢を見つめた。
心なしか、ラエラ嬢の顔が赤いような気がする。
少し、涙目にも見えるのは、気のせいなのだろうか。
なにを馬鹿な。
思い上がりも甚だしい。
そもそも、私のことなど何とも想っていないからこそ、このように確かめたいと願うのだ。
・・・私に恋愛感情を持つ筈もない。
そんな考えに胸が痛むのもお門違いだ。
これは政略結婚なのだから。
少なくとも、ラエラ嬢は私にそんな感情を持ってはいない。
・・・そうだ、よく自分の置かれた状況をわきまえろ。
「・・・では、この確認が無事済んだら、婚約の話を進めても構わないと?」
「はい」
「・・・わかった。では席を立って、目を瞑ってくれないか」
「わかりました」
ラエラは、すっと席から立ち上がり、そのまま目を閉じた。
リュークザインも席を立ち、そっとラエラに近づいた。
ラエラはじっと大人しく目を閉じてその瞬間を待っている。
リュークは胸の鼓動が速まるのを感じながら、その肩に手を置く。
そのとき、微かだがラエラの肩がぴくっと震えた。
・・・緊張はしてくれるのか。
表情一つ変えずに口づけを、と言ってはいたが、やはりそう簡単に踏み切れる訳でもないのだろう。
そして、ラエラ嬢が微かに震えたことに喜びを感じている自分に気付いて、またそのことに驚く。
・・・こんな事が嬉しいのか、私は。
それが何故なのかを深く考えることは止め、ただ目の前で静かに口づけを待つ女性の顔を眺めた。
こうして見ると、睫毛が長い。
すっと整った眉は、いかにも理性的でこの女性ひとの印象にぴったりだ。
唇はしっとりとしていて柔らかそうだ。
・・・柔らかそう、だ。
見つめているうちに、引き寄せられるように唇を重ねていた。
その夜、リュークザインは、なかなか寝付く事が出来なかった。
◇◇◇
婚約を前提として会うようになってから初めての夜会が王城で開催された。
その華やかな会場で、今、もっとも注目を集めているのが、リュークザインとラエラ嬢の寄り添う姿だった。
由緒正しく歴史あるライプニヒ公爵家の当主リュークザインと、当代で子爵位を賜ったばかりの新参貴族令嬢ラエラが並び立つ姿は、誇り高い貴族たちの眼には苦々しく捉えられていた。
その空気をリューク自身も把握していて、先程から片時もラエラを側から離そうとしない。
・・・プライドが高いだけの連中は厄介だからな。
堅物で有名なリュークザインだが、家柄は申し分なく、陛下の覚えめでたい出世頭でもある。
あまたの縁談が舞い込む中、その全てを断り、唯一見合いをしたのがラエラ・カリエス子爵令嬢で。
しかも、それがどうやら上手く進んでいるようだ、とあっては、大半の貴族やその令嬢たちの機嫌がすこぶる悪いのも肯けるが。
それにしても、随分と態度があからさまだ。
呆れと怒りがないまぜになった溜息を落とす。
今でこれだと、婚約を発表した後はどうなる事やら。
と、そこで場にそぐわない呑気な声が聞こえてきた。
「やあやあ、リュークではないか。側にいる麗しい令嬢は、もしや噂の見合い相手かね?」
芝居がかった大袈裟な身振りをしながら近づいて来たのは、好奇心で目を輝かせている親友、ベルフェルトだ。
「・・・なんだ、ベル。わざわざ冷やかしに来たのか?」
じろりと睨むような視線を送ると、ベルは楽しそうに、くく、と笑い声を上げる。
「その言い草は酷いな。お前の愛しい女性を紹介してはくれないのか?」
いつものキラキラしい笑顔でラエラに目を向け、軽く頭を下げる。
仕方なく互いを紹介したが、ラエラは既にベルフェルトの名を知っていたようで、「リュークザインさまの親友でいらっしゃるベルフェルト・エイモスさまですね」と言った。
「よくご存じで」とベルフェルトは肩を竦める。
「リュークザインさまと同じ立場で陛下にお仕えしておられる非常に有能な方と伺っております。今日はお会い出来て光栄ですわ」
そう言ってカーテシーの礼を取った。
新参の貴族令嬢と貶されているとは思えない完璧な礼に、ベルフェルトだけでなく、周囲からの感嘆の眼差しが注がれる。
「噂にたがわぬ才媛のようだ。そこらのご令嬢方よりも遥かに美しい作法を身につけておられる」
「わたくしの取り柄は努力だけですから」
ふふ、と笑みを浮かべて答える姿に、リュークの胸は、何故かちり、と痛んだ。
「リュークザインさま。わたくし、少しお化粧を直してまいりますね」
そう言って広間を後にする姿を目で追っていると、隣からベルの面白がる声がした。
「なんだ、その熱のこもった眼は。条件で選んだ政略結婚の相手ではなかったのか」
「・・・なにを馬鹿なことを。私とラエラ嬢ほど政略結婚という言葉が当てはまる組み合わせはないだろう。・・・と、それよりラエラ嬢が」
「ラエラ嬢がどうした? 化粧直しだそうだが」
「一人は危ない。夜会の雰囲気が悪すぎる」
「化粧台までついていく訳にもいかんだろう? お前は男なのだぞ」
「だが・・・」
「分かった分かった。オレが様子を見に行ってやろう。だがな、それもこれも真面目な独身男で通し続けて、ご令嬢方に無駄な希望を抱かせてきたからだぞ。お前は、これ以上彼女に火の粉が降りかからないように、今からでも上手いこと立ち回って来い」
そう言うと、ベルフェルトもラエラを追って広間から出て行った。
ベルフェルトは広間の喧騒から離れ、静かな廊下を進んでいく。
確か化粧台はこちらの方角だった筈・・・。
と、その時、令嬢方の声がベルフェルトの耳に入ってくる。
しかも、どうも声音が穏やかではなさそうだ。
やれやれ、リュークの心配した通りか・・・。
急ぎ足で声のする方へ向かいながら「さて、どうやって事を収めようか」と考えていると、向かっていた先から、バタバタと令嬢方が慌てて戻ってきている。
不審に思って足を止めたベルフェルトにあちらも気付き、同じく足を止める。
「こんばんは。美しいご令嬢方。そんなに急いでどうされたのかな?」
美丈夫で名高いベルフェルトに声をかけられ、令嬢方は一瞬で頬を赤く染める。
「ベルフェルトさま、ごきげんよう。あの、わたくしは・・・」
「親友に頼まれて彼の愛しい人を探しに来たのだけれど、どこにいるか知らないかい?」
令嬢方の一人が嬉しそうに自己紹介を始めかけたところを遮って、ラエラの場所を尋ねる。
その令嬢は、一瞬、悔しそうな表情をにじませたが、すぐにそれを隠して笑顔を浮かべる。
「さあ? 存じませんわ。それよりベルフェルトさま、今夜は是非わたくしと・・・」
「可笑しいな。リュークから化粧直しに行ったと聞いたのだが。化粧台は確か、この先だったと記憶しているが、間違いだったかな?」
「あ・・・、いえ。そ、そういえば、いらっしゃったかもしれません」
「は、はい。もしかしたら、ですけど」
「わたくしたち、お喋りに夢中で気付かなかったようで・・・」
令嬢方は口々に言い訳を述べると、そそくさと会場へと逃げて行く。
半ば呆れながらその後ろ姿を見送っていると、背後から「ベルフェルトさま?」と自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、化粧台のある部屋から出て来たラエラがそこに立っていて。
化粧直しをしていた筈の彼女の手には、何故かデュールのグラスが握られていて。
「・・・それは?」
視線でグラスのことだと分かったのだろう。
ラエラは、ああ、と頷く。
「今しがた、令嬢方にこの中身をぶちまけられそうになりまして」
とにこやかに答えた。