嫉妬―張り巡らされた罠
一番最初に売り払ったのは「自分」だった。その次に手放していたのは「自由」だった。
生家である諏澤家に払われた額は全部で三千万円。その金額が高いのか安いのか白薇には判断がつかなかったが、両親にとって「双子」の価値は三千万円で引き換えることのできる程度だったということを理解した。
諏澤家の双子、昴と翼はそうして西家で最大の勢力を誇る、西園寺に“買い取ら”れた。
ただ、それだけだ。
寝転がって視界に入ったのは金色に輝く満月だった。石造りの壁、香草の匂い、人の気配のしない部屋。翼が白薇と呼ばれる事が決まったのと同時に与えられたのが、この石造りの牢獄のような蔵だった。
西園寺白薇
西本家である西園寺家直系の薬術師だった白薇は、十歳でこの水無鬼を出奔した。洗礼名を受ける直前のことだった。
西園寺家は西家だけに留まらず、守人八家の中でもかなりの発言力と権限を持っている。八家の中から選ばれる“三巫女”の一つである志央姫密月華仙女の洗礼名は、西家―西園寺家出身の女子に付けられる名前だといっても過言ではないほどに。
だから西長はわざわざ傍流分家である諏澤から手間とお金をかけて双子を買い取り、双子の片割れである翼を影武者に仕立て、白薇が今も水無鬼に存在しているように見せかけた。
洗礼名“志央姫密月華仙女”が西園寺家を含む西家から排出される。ただ、それだけのために。
「姫密月華様」
淡々とまるで感情がないかのような女性の声に呼ばれた白薇は、顔だけを部屋の入り口へ向けた。視線の先にいたのは品良く萌黄の色合いを重ねた女中。
西家を意味するその色合いの着物に内心で眉をしかめながら、白薇はそれを表情には一切出さずに体を起こした。
「西長様が御呼びになっておられます」
「わかりました」
女中の言葉に内心で溜息を吐きながらも、白薇は軽く頷いて立ち上がった。所詮白薇は双子の兄と共に西家に買われた身。
普通なら眠っているであろう時間であっても、呼び出されたら出向かなくてはならなかった。
××××
「失礼致します」
あくまで静かに、けれど中にいる人物には聞こえる程に抑えた声をかけた白薇は、内心で盛大な溜息を吐きながらも重厚というよりは陰鬱な空気の漂う部屋の中へ足を踏み入れた。
「こんな夜更けではございますが御呼びと伺い参上させていただきました。私一人の急務とは思えませんが何かございましたでしょうか」
息継ぎすることも無く、慇懃無礼ではあるもののそこまで一気に言い放った白薇は、言葉を返される前にただ頭を下げた。
直訳すると「こんな夜中に私一人を呼び出しておいて、ただの気まぐれやろくでもない雑務なんて押し付けたらさすがに怒りますよ、私でも」という意味をふんだんにこめていたのだが、それに気づいているのかいないのか、西長は苦々しい表情のまま頭を上げるように手で示した。
「こんな夜更けにすまない。だがことは急を要する」
「はい」
短いやり取りの中で西長の表情や態度から白薇の慇懃無礼な物言いよりも重要なことがあることを理解した白薇は、それ以上の発言をせずに西長の言葉を促した。
白薇の内心は「とっとと話せ」といったところだろうが、そんなことは間違っても気取らせない。同時に、西長自身がその“急務”とやらに心を奪われていることは一目瞭然だったが。
「彩香を殺せ」
「承知いたしました。……なぜ、とお聞きしてもよろしいでしょうか」
西長の言葉に軽く眉を寄せながらも殺害の命令には即答する勢いで了承の返事を述べた白薇は、僅かな逡巡の後にその理由を求めた。
「なにがだ」
「彩香を暗殺すること、暗殺には私の薬師としての能力が求められていることは理解しました。けれどなぜ今の時期にそれを行うのでしょうか。彩香は」
「だから、だ。白真と彩香の婚礼が済む前に、彩香には死してもらわねばならない。西本家である西園寺の当主代行――当主補佐の白真に、よりにもよって南家の弱小傍流家の嫁など必要ない」
眉間を揉み解しながらも苛々した様子で吐き捨てるように告げられた西長の言葉に、白薇は頭を下げた。
「ではすぐにでも取り掛からせていただきます」
「期待している」
西長の言葉に頭を下げたまま、白薇の口元は笑みを浮かべていた。
××××
「問題は彩香本人というよりも、彩香を取り巻く環境というのだから西長には頭が下がる」
西長の部屋からかなりの距離を歩き、ようやく白薇に与えられた部屋――蔵も部屋に入るのならだが――にたどり着いた白薇は、戸に手をかけたとたんに背後からかけられた声に不快の表情をあらわにした。
「何の用、明良」
「おや、あまりご機嫌はよろしくないようだね、白薇」
問いかけに全く関係の無い言葉を告げた明良に溜息を吐いた白薇は、そのまま明良の存在を無かったことにしようと蔵に体を滑り込ませると、扉を閉めようとして再び溜息を吐いた。
そのままほぼ中央に設置されている作業台に向かいながら、背後に視線も向けずに告げた。
「戸、閉めて」
「相変わらず、慎重なんだね」
くすくす。笑い混じりの明良に、一瞬、呆れたような視線を向けた白薇は、一言突きつけると同時に明良の存在を思考の中から締め出した。
「明良こそ相変わらず浅慮よね」
カチャカチャと陶器の触れ合う微かな音が響く中で、明良は白薇の言葉に特に反論もせずに人一人が寝転がれる程度の空間のある畳に寝そべっていた。
白薇の手から零れるのは、作業台の上に乗せられている蝋燭にキラキラと反射する欠片。砂の粒にも見えるそれは、宝石を細かく砕いたものをさらに摩り下ろしたものだった。
パチリ、と囲炉裏の中で枝が爆ぜる音が響く。微かな陶器が触れ合う音。静寂にも似たその空間の中で、白薇は黙々と作業を進めていた。
「――白薇は、躊躇わないんだな」
音が死に絶えたかのような静寂の中、四角く切り取られた明かり取りから微かに日の光が差し込み始めていた。動き始めた空気の中で何を思ったのか、明良はポツリと呟いた。呟いたというよりも零したというほうが近い。
どこか悲しげに告げられた言葉に、白薇は僅かに自嘲するような笑みを口元に浮かべた。
「躊躇ったりしないわ」
言葉と同時に、ぱくんと手触りのいいビロード地の小箱を閉じた。小箱の中には揃いの指輪が入っていた。
一つは白真――白薇が愛する片割れへの贈り物。もう一つはその指輪と対になる、触れた所からゆっくりと全身に行き渡り、数時間の後に死にいたる毒を塗りこんだ彩香用の指輪。
「私は立ち止まることも、振り返ることも、悔いることも……こうして思考して、言葉を発することすら本来なら許されてはいないのだから」
「……それなら」
部屋を後にしようとした白薇の背中に、明良は躊躇いながらも問い掛けた。
「それなら“白薇”に許されている事はあるのか」
明良のその問いかけは、白薇にとっては断定にも感じられた。
白薇にとって“許された”こと、それはすなわち「自由」だ。名前を奪われ、存在を奪われ、思考を禁じられた“翼”に、自由は許されない。
西長はそこまで白薇――ひいてはその役目を負った「翼」に寛容ではないことを、ここに存在する二人ともが知っていた。
「白薇に許されていることは、何も無い」
「……だったら」
「でも、それだけではないから」
明良の続きの言葉が発せられる前に、白薇はかぶせるように零した。明良に振り返りはせず、ピンと背筋を伸ばしたまま。
手にしているビロードの小箱は、西長から告げられた暗殺に使う品だが、その姿は暗に全てを西長に売り渡したわけではないという事実を物語っていた。
「西長と私では“白薇”の定義が違う。定義が異なるということは、それに伴う存在の有り様も違う。――西長の考える白薇より私の知る白薇の方が、ずっと“深い”」
「深い?」
「そう。現在この村で生きる“白薇”は、全てにおいて深い。……そして私は、結局のところ白薇じゃないもの」
微かな躊躇いの後に告げられた言葉に、明良は眉を寄せた。
「けれど“彼女”は……諏澤昴と翼の双子は死んだ」
「そう。昴と翼は死んでいる……たとえば昴の死体が白真のものだったとしても。翼の死体は出ていないとしても」
さも当然のように告げられたのは、事実だった。明良に向けて告げられた事実だが、その事実を突きつけられているのは“白薇”だった。
本物の白薇が戻ってこない保証は無い。その時に明良の目の前にいる白薇――死んだはずの翼が西長に切り捨てられることも、想像に難くない。
白薇には文字通り“何も無い”。寄るべき場所も、人も。
「……それなら、キミは誰なんだろうか」
ポツリ、と落とすように零された言葉に白薇は残酷に微笑んだ。壮絶な色香を含んだそれは、けれど明良には背を向けていたことから見られることは無かったけれど。
「その答えは一つ。私は西園寺白薇――今は」
「今?」
「そう。そして諏澤翼の亡霊でもある」
「……」
白薇の答えは明良の中では――いや、翼が白薇の影武者であるという事実を知る者の中で、昴を除く全ての者が想定する答えであると同時に、何の解決にもならない言葉だった。
「……白」
「ただ、私はそれだけでは終わらないけれど」
白薇の名を呼ぼうとした明良の言葉に、再び白薇の言葉が被せられた。酷く意味深なその言葉に、明良は訝しげな表情を浮かべていた。
明良の表情を見てはいなくてもそれを理解しているはずの白薇は、けれど何も言わずに蔵の扉を開け放った。
「そのうち判ると思うわ、無理に知ろうとしなければ……それが良い事か悪い事かは、人によって違うとは思うけれど」
「白薇にとっては?」
訝しげながらも今までよりも少し大きな声で白薇を呼び止めるかのように訊かれた言葉に、白薇は楽しげに笑いながら軽く振り返った。
「もちろん良い事になるわ。その日が来たら私は誰に憚ることも無く、新しい私になれるのだもの」
告げられた言葉の意味は明良には理解仕切れなかったが、白薇のその表情に安堵にも呆れにも似た、溜息を吐き出した。
「そうか」
「明良にも……そうね、多分悪いことではないとは思うわよ」
軽く首を傾げながら、それでもけして“悪いことではない”と言い切る白薇に、明良はただ軽く諦めたような息を吐いた。
「良い事とも言ってないけどな……まぁ多大な期待はしないで、楽しみにしておく」
言葉と同時にいつもの“明良”を取り戻したその姿に、白薇は満足げに微笑んだ。即ち「合格」とでも言ったところであろうか。
白薇の一番はもちろん双子の片割れである白真――昴だ。けれども世界が二人きりの閉じた場所で完結するものではない限り、白薇にも必要な相棒がいる。
明良は、見事に白薇の求める基準に達していた。白薇の示すその相棒と、明良が白薇に求める役割は、微妙に似て非なるものではあるが。
××××
「今日の午後が、結納だって聞いたから」
ふわふわとした雰囲気の漂う、どこか困惑げな少女の視線に敢えて気づいていないふりをしながら白薇は自身とどこか似通った顔立ちの青年にビロード張りの小箱を差し出した。
「白薇……」
「白真には話したことがあるでしょう? ……細工したのが私だから、気に入らないかもしれないけれど、指輪が入っているから」
安堵したかのような微笑を向ける白真に白薇は微笑み返すと、ゆっくりと少女――彩香に向かって頭を下げた。
「私が言うことでもないかもしれないけれど、白真をよろしく……お幸せに」
「あ」
驚いたままの彩香の言葉を聞く前に、白薇は優雅に踵換えして二人の前から立ち去った。
「ありがとう、白薇」
「……泣かなくても良いだろう」
「だって……嬉しかったんだもの」
背後からかけられた声と、続けられた幸せそうな二人の会話を耳にしながら、白薇はただ酷薄に嘲っていた。
将来を誓い合う二人に渡したのは揃いの指輪だ。日本ではあまり一般的ではないが、彩香の性格と好みを鑑みると二人がそれを付けることを拒むことは無い。
だから……。
「白薇」
まるで見計らっていたとしか思えないタイミングで姿を現した明良に、白薇は苦笑しながら吸い込まれるかのように胸に頭を押し付けた。
「大丈夫か?」
「少しだけ」
心配から掛けられた明良の言葉と、白薇の呟くような声は図らずとも重なっていた。声が聞こえない程度に離れている場所には、二人がいる。
向こう側からは見えない。けれど明良からは見える場所だったが、白薇はその光景を目にすることを拒んでいた。
「いいのか?」
「……」
訊ねる明良の言葉に、白薇は無言で肯定を示した。そうしていながら、白薇は無意識のうちに明良の胸元を握り締めていた。
とくん――
規則的な明良の鼓動にあわせて白薇はゆっくりと息を吸い、吐き出していた。
(ひとつ……ふたつ……)
白真と彩香の声は聞こえない距離のはずなのに、白薇は二人の声が迫ってきている気がして仕方なかった。
(みっつ……よっつ……いつつ)
何も考えずに、ただ耳に届く明良の心音を数える。彩香に用意した指輪に塗りこんだ毒は遅効性だ。今すぐに死に至るわけではなく、これから数時間後の午後がタイムリミットだった。
明良を巻き込んだのは、白薇の計算ではない。明良の自業自得にも近い偶然だが、今はその事実に、白薇は安堵の息を吐いた。
彩香のタイムリミットを知っているのは白薇と明良の二人だけ。
今、ここにいる二人だけが明確な“彩香の終わり”を、知っていた。