10話 アリエッタの日常
礼の一日は朝日が昇った頃に起床する事からスタートする。
最初の頃は寝過ごしてばかりだった目覚まし用の魔道具だが、今でもしっかりと起きる事ができるようになった。さすがに居候の身で家主より遅くの起床など許されないと思っている礼は必ずエメラが起きる前に起床する事にしている。
「最近アリィが起こさせてくれない…」
エメラはそんな謎の嘆きを呟いているが、礼にとっては理解し難い感情だ。
それと、最近エメラは礼の事を親愛を込めてという事か、「アリィ」と愛称を使って呼ぶようになった。さらには突然良くわからない要求をされた。
「今後あたしに対して敬語とさん付け厳禁ね」
「えぇ!?急にどうしたんですか…」
「ブッブー、アリィさんペナルティー1~」
「ペナルティーって何!?」
そんなやり取りもありながら、結局礼はエメラの言う事に従っている。なんだかんだ言っても礼にとってエメラは命の恩人だ。それに加えて、付き合いこそ1ヶ月に満たないが礼もエメラの事を少なからず好ましく思っている事も確かな事実だった。そしてまだ地球にいて礼の事を案じているであろう姉とエメラを礼が無意識に重ねている事も影響していた。
エメラが起き出す前に礼がする事は、キッチンに置いてある大型の木でできた桶を魔法を使って水で満たす事だ。実の所、エメラがやっても大して負担はないのだが、ほぼ唯一と言ってもいい礼のできる仕事だった為、少し強引に礼が担当しているようなものだった。
それが終わると早くも礼ができる事は無くなる。外に出て、家の前にある椅子に腰掛けて日が昇るのを何をするでもなく眺めながらエメラが起きてくるのを待つ。少しウトウトしている所をエメラに起こされる事もあった。
実は礼、地球にいた頃は多少料理はできた。しかし食材はおろか調味料が地球のものとまったく違うのだ。用途のわからない調味料ほど使うのが怖いものは無く、礼としては料理は完全にお手上げ状態だった。できるのであれば朝食を作っておけば良いのだが、そんな理由で礼としては待つのが正解となっている。
朝日が出るのを見ている礼を見に、街の若い男がチラホラいたりもするが、礼はまったく気付いていなかった。
「アリィ、おはよう。今日もいい天気ね」
「おはよう、エメラ」
朝焼けの時間が終わり、辺りを明るい日差しが照らし出す頃になるとエメラが起きてくる。そしてエメラが朝食を作ってくれると朝食になる。本当に朝早く目が覚めてしまう老人のような礼だった。
朝食が終わると今度は日課の水浴びをしに湖に出掛ける。
最初エメラが礼を連れて行った場所は本当に穴場のようで、他の人とかち合った事はない。実はこっそり覗き見していた不逞な輩がいたのだが、幸か不幸か礼は気付いていない。しかし、エメラにはしっかりと気付かれており、覗き犯はその後たっぷりとエメラに粛清されていたのだが、それはまた別の話だ。
モンスターの襲撃があったのも一番最初の一回だけで、その後は一回も無い。この周辺にも狼型やイノシシ型のモンスターが生息しているのだが、獣のわりに賢く一回負けた事のある相手はしっかり覚えており、決して近づかない。水浴びの間に襲ってこないという事は、初回に襲ってきた狼型がちょうど水浴び場周辺の主だったと言う事なのだろう。
そしてもう一つ礼には気になっている事があった。アリスフィア全体なのかセヴィーグ特有なのかはわからないが、入浴するという習慣がないのだ。その代替として湖や川で水浴びをするのだと礼は考えていたが、日本に近い気候であるセヴィーグで冬場はどうしているのかという点だ。それを礼がエメラに聞くと
「水を温めてから入るのよ」
という返答が帰ってきた。
礼も湖全体というとはさすがに規格外過ぎて考えていないが、一部分という器用な真似ができるのだろうかと疑問に思う。
それと同時に、どうしてそこまでやっておきながら温まれる温度まで上げる事を考えなかったのかとも思った。魔力の消費が激しいからなのか、そもそも気付いていないのか、判断に迷うところではあるが、そういった文化がなければ恐らく気付いていないのだろうと結論付ける。
礼は今日は少し思い切ってとある提案をしてみる。
「冬入るみたいに水を温めるならさ、お風呂みたいに人肌より少し暑いくらいまで温めてみない?」
「ものは試しね。やってみようか」
そう言うなりエメラが魔力を操作してしばらく待つと、手前の湖面から湯気が上がり始める。それを見た礼が「うわぁ」と歓声を上げながら、手を入れて湯加減を見る。
「どう?」
「ん、いい感じじゃないかな」
礼の手の感覚は少し熱めと告げるが、礼は熱めが好みだった事もあって良い湯加減と判断する。さっそくとばかりに礼は裸になってお湯になった湖の中に足から入っていく。入ってみると思ったよりぬるめではあったが、それは久しぶりに感じるお風呂の感覚そのものだった。
「ちょっと!一人で楽しんでないで説明してよ」
恍惚の表情で久しぶりのお風呂を堪能していた礼はエメラに説明するのをすっかり忘れていた。そんな礼に対してエメラが抗議の声を上げる。
「あ、ゴメン。そのままお湯に入って上半身まで浸かるといいよ」
半信半疑の様子だったエメラも礼のその言葉に従って恐る恐るお湯に入っていく。
「ふわぁぁ…きもちー…」
予想外の感覚だったのだろう、思わずエメラの口から声が漏れる。常温の水に入るという行為そのものでも人は気持ち良さを感じるが、それがお湯となるとまた別種の心地よさと感じるものだ。そして、エメラはその感覚を知ってしまったようだ。
「なかなか良いでしょ?」
「うん、想像以上」
その後、礼とエメラの湖での水浴びは完全にお風呂に変わったのだった。さらに、エメラによってお湯に入る入浴方法が爆発的に広がっていくのだが、それはまた別のお話。
湖から帰ってくると、礼はお昼を挟んでひたすら魔力操作の練習をする。
基本的で簡単な魔法、例えば水を出す、火を起こすといった事は問題なく使えるようにはなったものの、水を凍らせたる、火に強弱をつける等の応用的な真似はまだまだ練習が必要だった。本来アリスフィアで生まれ育った者であれば成長と共に徐々にその方法を体で覚えていく。しかし礼にはその下地がなく約二十年分の練習をしなければならなかった。エメラ曰く、礼のセンスはなかなか良く上達のスピードはかなりのもののと言うが、比較対象が子どもの為に単純に比較ができないという側面もあり、その辺はあまり考慮されていない。
通常、魔力量が少なくなると倦怠感を伴った疲労を感じる。そして一定量を下回ると意識を保てなくなる。
礼の場合、ほぼ一日無駄使いしている割にはそういった疲労を感じたことがない。あまり魔力量を使うような操作ができていない事も影響しているかもしれないが、一般的な魔族であっても一日無駄遣いをしていれば意識を失うことはないだろうが、それなりの疲労を感じるものだ。そういったところから、礼の魔力量は水準を上回る量と推測できる。その辺はエメラも気付いていた。
「アリィ、そろそろご飯にしよ?」
エメラから夕食の声が掛かるとその日の練習は終わりになる。
礼は夕食を挟んでのエメラとのおしゃべりを楽しんでいた。
「今日は水を凍らせられたけど中は水のままだったよ」
「二件隣に赤ちゃんが生まれたから見せてもらったの」
「朝、日の出見てたら知らない人に声かけられた」
「今日は久しぶりにジェシカさんとお茶して来たの。次はアリィも一緒に行こうね」
そんな他愛もない、その日あった出来事をお互いに話す。せかせかした日本の生活では考えられないようなゆっくりとした時間が流れていく。この時ばかりは礼も心の底から楽しいと思えた。
夜も更け徐々にまぶたも重くなってくる時間。その時間に一人になると、礼はどうしても地球にいた時のことを思い出してしまう。
両親や姉はまだ自分のことを探してくれているだろうか。
家族は自分がいなくなってしまった事で塞ぎ込んでいないだろうか。
合格が決まっていた大学は入学自体がなくなっているのだろうか。
少し前まで一緒になって遊んでいた友人達は今どうしているのだろうか。
もし今の姿のまま地球の知り合いに会ったとして以前と同じように接することができるだろうか。
礼は今の生活にほとんど不満はなかった。しかし一人になって寝る頃になると、地球にいる家族・友人とは二度と会えないかもしれないと考えてしまい、いつも寂しさを感じる。礼の責任ではないとは言え、何も告げずに突然いなくなってしまったのだ。親しい人達、特に家族には申し訳ない気持ちでいっぱいにもなる。この気持ちだけは薄れる事がないだろう、礼はそう思っていた。
そしてもうひとつの不満。それは体の事だった。約一ヶ月が経つが一向に女の身体には慣れない。
無駄に大きな胸の脂肪は腕を動かすのに邪魔になるし、トイレは我慢がききづらい上に、いざしようとすると制約が多い。魔力の存在のおかげで地球のように男と比べてひ弱さを感じることこそないものの、色々と勝手の違う身体には戸惑うこともまだ多い。
精神的には男である礼は、恋愛に関してはノーマルで当然の事ながら対象相手は女性だ。男の身体に戻れないのであれば、せめて女同士でもデキればいいのに、と俗っぽい事も考えてしまう礼だった。
礼としては男同士という思考が無ければ、そんなつもりも選択肢も無かった。
ポジティブな礼ではあったが、そういった性に対する事を考え始めると少し気分が落ち込む。どうにもならないからと開き直っているつもりで、その実それなりに引きずっていた。
そんな少し暗い気分のままベッドに横になっていると控えめにドアがノックされる。これも最近は頻繁にある事だった。礼は特に返事はしなかったが、ドアが開きエメラが中に入ってくる。その腕には枕が抱えられている。
「今日も一緒に…いい?」
エメラのいつもの明るい雰囲気は鳴りを潜めて、拒否されるのを恐れるような不安げな表情を見せるのもいつもの事だ。礼の本音としては一人で寝かせてほしいと思っているのだが、家主にこんな表情をされては断れない。
「うん、いいよ」
これもいつもの通り礼が了承の返事をしてベッドに迎え入れる。
初めての時はドギマギしてしまってなかなか寝付けなかったが、今ではそれも慣れてしまった。
最初の頃は礼も気付かなかったが、最近わかってきた事がある。それは、意外とエメラが寂しがり屋だということだ。レーンズの店で礼が働くことを反対したり、礼がジム夫妻からの同居の誘いを受けた事に寂しそうな顔をしていたりと節々にそう思わせる行動を見せるのだ。
礼はそういうところも含めて、命を救われた事にたいする恩返しになるなら安いものだと思っているのと同時にできる限りエメラの事は傷付けたくないという思いが強かった。
エメラは基本的にベッドに入ると何も喋らない。寄り添うように横になるといつの間にか寝入っている。この日も同様に礼より先に静かな寝息をたて始める。礼もそれを子守唄代わりに、目を閉じるとすぐに意識が遠のいていくのだった。
翌朝、気付くとエメラに抱き枕にされていて、一足先に起き出すのに苦労するのもいつもの通りだった。
お風呂、というか入浴の文化って調べてみるとかなり多様性に富んでるんですよね。湯船につかる習慣って日本人特有だと思ってたら紀元前とかでもそんな文化があったみたいで、個人的にはちょっと意外でした。でも裸で公衆浴場を利用するっていうのはやっぱり日本ならではのようです。




