75 生贄の羊
麻痺の魔法を受け、一切体が動かなくなった。
その状態のまま、全裸の集団に誘拐された。
エリが記憶していたのはそこまでであった。そこからしばらくの記憶が無い。次に気づいた時には、仰向けになって天井を見ていた。
麻痺の魔法の効果は無くなっていた。指先を動かそうとすると、ちゃんと動いている感覚がする。
手足も動かしてみる。重い。そしてジャラジャラと音がする。どうやら枷か何かで固定されているらしい。
エリは起き上がろうとした。しかし、腕が固定されているせいでほとんど起き上がれなかった。それでも、できる範囲で自分や周囲の様子を見回した。
まずは自分。
少なくても、見えた範囲では服を着ていなかった。いや、おそらくは全裸だろう。様々な場所が涼やかなのだから。
そして、自分は何か台のような物の上に載っている事も分かった。
次に周囲の様子。
祭儀所のような所であった。照明はたくさんのロウソクだけで薄暗い。
そして自分の事をジッと見つめる人物の姿も見えた。
「お気づきのようですな」
自分の事を見つめていた人物は話しかけた。
「こ、ここはどこですか?私に何をする気なのですか?」
エリは質問した。
「私の名前はパトリック。ここの神父を務めています」
パトリックと名乗った男はエリの質問には答えなかった。
「し、神父?」
「はい。つまりは神に仕える身という事です」
「神父様がどうしてこんな事を……」
「私の、いえ私達の信仰のためにですよ」
パトリックはエリに顔を近づけた。
ロウソクの灯りに照らされて、彼の姿がボンヤリと見えてきた。
彼はジャッカルであった。
身長が高く、誘拐犯と同様に服を着ていない。
うっすらと笑っているのが、なんとも不気味に思える。
「信仰?」
エリは聞き返した。
「ええ、そうです。貴女を生贄に捧げ、御主への敬愛を示すのです」
「生贄!」
「そう、生贄に!貴女の心臓をコレで貫くのです!」
そう言って、パトリックはナイフを取り出した。
装飾が施された、儀礼用と思われるナイフであった。
「あ、ああ……」
エリは恐怖で何も言えなくなった。
「そして!その後で貴女の体は我々がいただきます。食べられる部位は残さず……ね」
パトリックはナイフを舐めながら嬉しそうに言った。
エリは必死でもがいた。殺されたくない。食べられたくない。その一心でもがいた。
しかし枷で固定されているせいで、身動きがとれない。
その一方でパトリックは冷静であった。
ナイフを持ったまま両手を組み、祈るようなポーズをとる。
「ああ、敬い申し上げます、天におわする御主」
パトリックは祈り始めた。
「また、新たな贄を得る事ができました。感謝いたしまする」
「うっ!うっ!」
エリは暴れようとした。しかし枷が外れる様子は全くない。
「お静かに。御主に失礼ではありませんか」
パトリックは右手の人差し指を立てると、『静かに』のジェスチャーをしてみせた。
「ゴホン……ただいまより、そちらにお送りいたします」
祈りが再開された。
「どうか、我々に加護を!安息を!」
彼は叫んだ。
「……ただいまより、儀式を開始いたします」
彼は祈るのを止めた。そして、さっきまで順手で持っていたナイフを逆手に持ち替えた。
ナイフは上へ上へと上がっていく。そしてパトリックの頭の高さまで上がると、そこから一気に、エリの胸へ振り下ろされた。
「い、いやぁぁぁぁ!」
エリは叫んだ。
すると、不思議な事が起こった。
金属の音がして、ナイフは胸に刺さるスレスレで止まっていた。
胸から湯気のような物が出て、それがナイフを防いで守ってくれていたのであった。
「ほう、そういえば貴女は魔法使いでしたねぇ。魔力の鎧を習得済みでしたか」
パトリックは感心した様子で言った。
魔力の鎧。そういえば、タクミやミアがそんな話をしていた気がする。
確か、魔力で鎧を作って身を守るというものだったはず。
エリは思い出した。
エリはどうやって出したのか分からなかった。ただ、殺されたくない。その一心で念じただけだ。
とりあえず、今はまだ生きている。それだけでも助かった気分であった。
「ふむ、まあいいでしょう。それならこうするだけですし」
パトリックはそう言うと、ナイフを振り上げた。
すると、ナイフから湯気のようなものが出てきて、刃を包んだ。
「目には目を、魔力には魔力を。鎧ごと貫いてさしあげましょう」
彼は再びナイフを振り下ろした。
嫌だ、死にたくない。魔力の鎧の出し方が分からないエリは、とにかく生きたいと念じた。そうする事でしか、魔力の鎧を強くする事はできないと思ったからである。
再び金属音。ナイフは魔力の鎧に止められた。しかし、今度は少し様子が違っていた。
少しずつではあるが、ナイフの先端が胸に近づいていくのだ。
エリがふと、パトリックの方を見ると、彼は力いっぱいナイフを押し込もうとしていた。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
このままでは刺さる。そう思ったエリは、必死で願った。
すると、ナイフの先端が少しずつ胸から離れていった。生きたいという思いが、ナイフを跳ね返しているらしい。
「諦めなさい!御主の元へ向かうのは名誉の死なのです!」
パトリックは牙をむき出しにしながらナイフを押し込もうとする。すると、またナイフの先端が胸に近づいてきた。
エリは再び生きたいと願うが、今度は跳ね返す事ができない。
今度こそダメなのだろうか。エリは絶望感を感じた。
しかし、その時であった。
誰かが乱暴に扉を開ける音が聞こえてきた。
「大丈夫か!戸塚!」
「姫!ご無事で!」
二人の声が聞こえてきた。その声をエリは知っていた。
タクミとアルマンだ。
パトリックが邪魔で姿が見えないが間違いない。
彼らが助けに来てくれたのだ。エリは急に安心感を感じた。
「何者ですか?」
パトリックはエリを刺すのを止めると、彼らの方をゆっくりと向いて聞いた。
「そいつを解放しろ!殺すぞ!」
タクミは杖を構えた。
「解放せよ!さもなくば死あるのみ!」
アルマンは銃を向けた。
どうやら二人とも、パトリックと戦う気で満ちているらしい。
「なるほど、彼女が目的と?」
パトリックはエリの方を向いた。
「いけませんねぇ、神聖な儀式を邪魔しては。信者の皆さんは何をしているのです?」
「さあな。無事にあの世へ行ったと思うけどな」
「ほう、皆殺しですか……なんとも罪深い事を……」
「罪深いのはどっちか!姫を食い殺そうとするなんて!」
「命の価値は御主の前では平等!誰を贄にしようが関係ないでしょう」
「だったら、誰も生贄になんてさせねぇ」
「我々でお前を始末する!」
「いいでしょう。神父として、御主のご意思に逆らうような者は許しません。始末します」
パトリックはエリから離れた。
これでエリはタクミとアルマンの姿を見る事ができた。
「これでもくらえ!」
アルマンはパトリックに狙いを定めた。
そして発砲。彼に命中した。
「うぐぅ!」
パトリックはその場で膝をついた。
「始末されるのは……貴様の方だぁ!」
タクミは両方の杖の先から緑色に光る棒状のものを出すと、パトリックへ突っ込んでいった。
一閃。光る棒状のものがパトリックの首のあたりで交差した。
すると、パトリックの首が宙を飛んだ。そして胴体からは大量の鮮血が噴き出す。
決着はついた。
マンガやドラマで見るような激しい戦闘が行われる事もなく、あっという間についた。
「ふん、あっけない」
アルマンが鼻を鳴らして言った。
「これが現実だ。ドラマチックな死に方なんて滅多にない。奴もそうだった。それだけだ」
タクミは首を横に振りながら言った。
エリの目の前で殺人が行われた。
いつものエリだったら、悲鳴を上げていた事だろう。
しかし、今日は違っていた。
嬉しかった。助かった。生き延びる事ができた喜びを感じていた。
もちろん、二人に対して嫌悪感を感じる事もなかった。
「タっ君!アルマン!」
エリは嬉しさを隠す事無く、二人の名前を呼んだ。
「大丈夫か戸塚?」
「うん……」
「今解放してやる。動くなよ」
「分かった」
エリは言われた通りにした。するとタクミはさっきの光る棒状のもので枷を全て切断した。
「これでいい」
「はぁ……助かったぁ」
エリは上半身を起こすと大きく伸びをした。
「あー、姫?お召し物です」
アルマンに呼ばれてエリは彼の方を見た。
すると彼は脱がされた衣類一式を持って立っていた。
きっと、その辺に捨てられていたのを拾い集めたのだろう。
「あ、ありがとう!」
エリは喜んで受け取った。
ぱっと見た限り、衣類に破かれたり割かれたりした場所は見つからない。たぶん、丁寧に脱がされたのだろう。
「えっと、その、早く着てください!我々には目の毒です」
アルマンは恥ずかしそうに向こうを見ながら言った。
「俺を一緒にするな。俺は戸塚の裸ぐらいでどうもしねぇよ」
タクミは訂正を求めた。
「あの……でも私は恥ずかしいから……」
「分かった。向こうを見てるからさっさと着ろ」
タクミはこちらに背を向けた。
ああ、生きているんだ。
服を身に着けながら、エリは思った。
エリは幸せだった。
食べられる事なく済んだ事を。無事に帰る事ができる事を。
今まで当たり前だと思っていた事を今はとても嬉しく感じていた。
そしてこれからは、危ない事はしないようにしようと反省した。
外出する時には、暗くなる前に帰ろう。多少遠回りをしてでも、大きな道を通るようにしよう。
そう心に誓ったのであった。




