55 カウンセラーは変質者
今日もエリは自室のベッドに横になり、ボンヤリと天井を眺めていた。
傷ついた心のままでは、どうしても体に力が入らない。起き上がる事さえ、今の自分には困難な状況だ。
リンダの研究室での一件から、今日で三日経った。いや、まだ三日しか経っていない。
間接的とはいえ、人を殺したという罪の意識が薄れるには、まだ時間が足りていなかった。
エリはなんとか寝返りを打つと、横向きになった。
それで何かが変わるわけではない。せいぜい見えるものが変わったくらい。それでもちょっとした気分転換にはなった。
現在、エリの目に映るのは自室とを区切るための衝立だけだ。
「エリちゃん、食事を持ってきたで」
突然目の前の衝立を、誰かがノックした。
いや、誰なのかは声ですぐに分かる。
アカネだ。また、彼女が食べ物を持ってきてくれたのだ。
「なー、エリちゃん。たまにはトイレ以外でも外に出た方がええんちゃう?」
皿を床に置く音と共にアカネは心配そうな声で言った。
「……ゴメン。無理」
エリは小さな声で返事した。
正直なところ、傷ついた心によってトイレに行くのも一苦労だ。体が鉛のように重く、なかなか体が動かない。
だから必要最低限の分しか、動きたくなかった。
それにみんなに会うのも避けたかった。
こんなに弱々しくなった自分を見て欲しくなかったし、そもそも人と会う事自体が嫌な気分であった。
「そうかぁ、無理かぁ」
アカネは残念そうな声で言うと、しばらく黙った。
彼女が去る気配はない。
ただ、そこにいる。
「よっと!」
突然アカネは衝立を掴むと、それを持ち上げようとした。
しかし、衝立はまるでボルトか何かで固定されているかのように動かない。
「アカネちゃん!何やっているの?」
彼女の思わぬ行為に、エリは起き上がって大きな声を出した。
「あー、アカン。やっぱり動かへん」
彼女は息を切らしながら言った。
エリは彼女の行動を不思議に思った。
これらの衝立には、魔術的なセキュリティがかかっていて、部屋の主以外には動かす事ができないようになっているのだ。
この事は初めて寮に来た時に説明されている。だから、彼女の行動は始めから無意味なものである事は明らかであった。
「五分でええねん。ちょっと出てくれへんか?」
「……アカネちゃん」
「ウチ、エリちゃんの事が心配でしゃあないねん」
そう言われて、エリは胸が苦しくなった。
自分のせいでアカネを心配させている。もしかすると、みんなそう思っているのかもしれない。だとしたら、自分はみんなに迷惑をかけている事になる。
しかし……
「……ゴメンね。気持ちは分かるけど、今はまだ無理なの」
エリは申し訳ない気持ちで答えた。
心の傷が癒えるまでは外に出るのは無理だと思った。
傷がいつ癒えるか分からないし、もしかすると一生かもしれない。
アカネに答えながら、エリはそんな不安を感じた。
「……分かった。でもちゃんと食ぅてや」
アカネはそう言うと、足音を立てた。
その足音はどんどんと離れていった。そして出入口の扉を開ける音が聞こえた。
彼女は去っていったらしい。
それを確認してから、エリはなんとか上半身を起こした。
そしてゆっくりとベッドから下りた。
彼女の言う通り、食事はキチンと摂らなくてはいけない。
そう思い、持ってきた食べ物を回収しようとした。
衝立を動かして、食べ物が乗った皿を自室の中に入れる。
衝立を元の位置に戻して、皿を持ったままベッドに腰掛ける。
「……いただきます」
エリは食事を始めた。
食事は美味しくなかった。元々あまり美味しくはないが、気持ちのせいでそれが一層強まっているように思える。
エリは味わう事無く胃袋へ納めていった。そして食べ終わると、空になった皿を床に置き、もう一度ベッドへ横になった。
いつの間にか寝ていたらしい。
目を覚ましたエリは、目覚まし時計を見る。
一時間半くらい寝ていたようだ。
ゆっくりと上半身を起こした。
起きたところで何をするわけでもないが、とりあえず起きてみる。
歯磨きぐらいしようか。
エリはベッドから下りると、外へ出るために衝立を動かした。
そしてその瞬間、エリは鼻血を出した。
「やっほ。久しぶりだね、エリちゃん」
衝立を退かすと、目の前には見覚えのある変質者が立っていた。
確か名前は、チェッシャーといったはずだ。
「ひっ!」
エリは反射的に一歩下がる。
するとチェッシャーは一歩近づいてきた。
「君の心を治しにきたよん、にひひ」
彼は両手を挙げると指をワシャワシャと動かした。
「ひっ!」
エリはもう一歩下がる。
足にベッドが引っ掛かり、エリはベッドに腰掛ける。
エリは彼の事が苦手だ。
というより、明らかな精神異常者そのものがダメだ。
だから彼に迫られる事は、恐怖でしかなかった。
「さあ、君の悩みを言ってごらん。僕ちんが解決してあげよう」
チェッシャーは顔を近づけてきた。
「あ……あ……」
エリは恐怖で何も言えなかった。
彼が何を言っているのかさっぱり分からず、答える事もできなかったとも言える。
「ふぅむ、言えないか……じゃあ、こうしよう」
チェッシャーはそう言うと、エリの頭を触った。
そして引っ張ると、パカッと謎の音がして、頭が急に涼しくなった。
「どれどれ……ふぅん、なるほどなるほど……」
チェッシャーは頭を覗き込み始めた。
「え?ちょ、何を……」
エリは何をされたのか分からず、不安になって訊ねた。
「君の頭の中を覗いているのさ。ほら」
チェッシャーはどこからか手鏡を取り出すと、エリの頭を映した。
その瞬間、エリは悲鳴を上げた。
自分の頭は文字通り開いていた。
まるで蓋を開けた炊飯器のようにだ。
「君の事を把握するには、コレが一番簡単な方法だね。プライバシーを侵害するけど、ま、気にしないで」
チェッシャーは覗き込みながら答えた。
「なるほど。殺人の手助けをねぇ……」
彼が呟いた瞬間、エリは口から心臓が出そうになった。
頭の中を見られている以上、それを知られるのは明らかだったが、それでも口に出されるとダメだった。
「いいよ、良く分かったよ」
彼は再びエリの頭を触ると、パタンと音がして、頭が急に涼しく無くなった。
エリは自分の頭を触った。
特に変わった様子はない。
頭が閉じて元に戻ったらしい。
「まあ、思春期真っ盛りな君には、ちょっと刺激が強い経験だったかもしれないねぇ」
チェッシャーはニヤけ顔で言った。
「でも、合法的に人を殺しただなんて、滅多にない経験だと思うよ。そういう意味で、君は運がいいんじゃないかな?」
「そんな事ないです!私はなんて酷い事を……」
エリは叫んで言い返した。
殺人は絶対的に悪だ。そう思う彼女には、そんな事は考えられなかった。
「まあまあ、過ぎた事なんて気にしない。そんなの笑い飛ばしちゃおうよ」
チェッシャーは宥めながら言った。
「無理です!」
エリは再び叫んだ。
「よし、じゃあこう考えてごらんよ。悪いのは本当に君なのかな?」
「え?」
「君はリンダとやらに言われてやったんだろう?だったら、君にやらせようとした彼女が一番悪いんじゃないかな?」
「それは……」
「僕ちんはそう思うよ。つまり君は悪くない」
チェッシャーはそう言うと、右手から棒付きのアメと出してみせた。
「そう……なんでしょうか……」
「そうだと思うよ。レロレロレロレロ」
チェッシャーは出したアメを舐めながら答えた。
「君が罪の意識に囚われているのは、彼女のせいなのさ。だから彼女を恨んでいればいいのさ。ほぅら、少しは気分が良くなっただろう?」
「リンダさんが悪い……」
エリは呟いた。
彼にそう言われると、本当にそうであるような気がしてきた。
確かに彼女があんな事を言い出さなかったら、こんな事にはならなかっただろう。
いや、そもそも彼女が銃を渡してきた時から、人殺しの手伝いをさせるつもりだったのかもしれない。
自分は利用されたのだ。
憎い。彼女の事が憎い。
「うん、良い顔になった。じゃあご褒美にコレをあげよう」
チェッシャーはそう言うと、左手から大きめのマシュマロを出してみせた。
そして差し出してきた。
「あ、どうも……」
エリは受け取って礼を言った。
「これを食べ終わる頃には、次に何をするべきか分かるはずさ。じゃあね」
チェッシャーはそう言ってエリの自室から出ていった。
そして完全に外に出た瞬間に、文字通り消えた。
寮は急に静かになった。
彼がいかに騒がしい存在だったのかよく分かる。
エリはもらったマシュマロをジッと見た。
そして彼の話を思い出し、大きく口を開けて噛み千切った。
甘い。口の中に甘さがジワッと広がる。
それだけではない。さっきまで鉛のように重かった体が急に軽くなってきた。
活力だ。動こうとする力が湧いてくる。
エリは残りを一気に口に押し込んだ。
そして噛み砕き、飲み込む。
「……ふぅ」
エリは小さくため息をついた。
元気が出たおかげか、気持ちの整理もできたような気がする。
まずはリンダに電話しよう。
電話して、自分の思いを伝えなくてはいけない。
そう思ったエリは机の上に置いていたV.I.P-Boyを手に取った。
そして通話アプリをタッチし、リンダへ電話をかけた。
コール音が一回、二回、三回……
そして四回目のコール音が鳴った時、ようやく彼女は電話に出た。
『もしもーし!どうしたのエリちゃん?』
「あの……今大丈夫ですか?」
『うん、大丈夫だよ。どうしたのかな?』
「実はリンダさんに言いたい事があるんです」
『ほうほう。何かな?』
エリはここで一呼吸した。
そして本題を話そうとした。
「この前の事なんですけど――」
『あ、そうそう!そういえばその事で君に言っておきたい事があるんだ』
「……はい?」
『君の協力のおかげで、例の拳銃のデータが色々と取れたよ。これで量産化に一歩前進したんだ。ありがとね』
「……はぁ」
リンダに感謝されて、エリは目が点になった。
『えーと、それで?ボクに何を言うつもりなのかな?』
「あ、えっと、それはですね……」
『うんうん』
「私、アナタがした事を絶対許しません」
『うん?』
「アナタのせいで、私は人殺しの手伝いをさせられました。絶対許しません」
『うーん、困ったなぁ。それを聞いてボクはどう返せばいいか分からないよ』
リンダはいかにも困ったような声を出した。
「私はこれからもアナタの所へ行きます。アナタから学ぶ事は多いですから。そして勉強しながら、あんな事を二度とさせないようにします」
『ほうほう。それは……ちょっとキビしいね。ボクの所で勉強したいのは嬉しいけど、実験を阻止されるのはちょっとねぇ……あ、他に方法が無いわけじゃないか』
「アナタにも……そしてみんなにも……人殺しをして欲しくないんです」
『うーん、まあ、君がいる時にはしないってぐらいなら約束できるかなぁ?』
「では、まずはそれで。絶対ですからね」
『うん、まあ、分かったよ。他に用事はあるかな?』
「言いたい事はそれだけです。では」
『あっ、そう?分かった。じゃあね』
こちらの方から電話を切った。
エリは机の上にV.I.P-Boyを戻すと、小さく息を吐いた。
少しだけ気持ちがスッキリしたような気がした。
エリはパジャマを脱ぎ始めた。
そして学生服へ着替えると、再びV.I.P-Boyを手に取った。
気分が楽になって、何かをしたくなった。
モテない三銃士と会って勉強をしよう。
そう決めたエリはアルマンへ電話をかけた。




