37 校医エルザ
朝の身支度を終えた後、ジャージ姿のミアは医務室へ向かった。
昨日、タクミと一緒に行なったトレーニングで全身が筋肉痛となっていたからだ。
医務室へと向かうミアの足取りは重かった。
それは単純に体が痛くて動きが鈍いだけなのだが、ミアは尻を負傷した時の事を思い出さずにはいられなかった。
あの校医にまた世話にならなくてはいけない。そう思うと一層足取りは重くなる。
第一印象が悪かった。
初めての手当てが尻。きっと向こうは、自分の事を『尻の人』と思っているに違いない。
きっと着いて最初に言われるのは、『また尻を怪我したのか?』といった内容だろう。
そう考えたミアは顔が熱くなるのを感じた。
「おい、山田。大丈夫か?」
すぐ隣を歩いていたタクミが声をかけた。
「あ……ああ……」
彼の存在を思い出したミアは、曖昧な言い方で答えた。
そう、タクミがいる。
これも不安要素の一つであった。
さっき彼は言っていた。一緒に魔道武術学部へ行くのだから医務室にもついていく、と。
確かに手当てが終わったら、魔道武術学部へ行って、彼と訓練をする事になっている。
しかし、だからといって、医務室にも一緒に行くのはいかがなものだろうか。後で合流というのはダメなのだろうか。
ミアには疑問であった。
ミアが彼を不安要素と位置付けているのは、手当てを受けている間ずっと近くにいるかもしれないという事だ。
そうなると、彼が尻の事を知ってしまう危険性が高い。
とはいえ、手当てが終わるまで外へ待ってもらうのは厳しい状況だ。
彼はハッキリ言った。バディとしてお前の体調は知っておく必要がある、と。
だから、よほどの理由が無い限り、彼は近くにいるだろう。
ミアはモヤモヤとした気持ちをなくそうと、深く息をはいた。
「おい、山田。ここがそうか?」
タクミの声でミアは意識を引き戻された。
「え?あ……そうだ」
気がつくと、ミアは医務室のすぐ近くまで来ていた。
「な、なぁ……タっ君」
ミアはタクミの方を向いて訊ねた。
「どうした?」
「あのさぁ……本当についてくるのか?」
「何故そんな事を聞く?」
「いや……その……例えばさ……服を脱げとか言われるかもしれないだろ?」
「その時は出ていく。それまでは一緒にいる。何か問題はあるか?」
「そ、そうか……」
ミアは視線をそらすために、医務室の扉の方を向いた。
タクミを外で待たせるのは失敗した。
こうなれば、彼が尻の事を知る事が無いように祈るしかない。
ミアは決心して、扉をノックした。
「……失礼します」
ミアはゆっくりと扉を開けて中へ入った。
医務室はそこそこの広さがあった。
ベッドが10床、スペースを空けて設置しているくらいなのだから、それは当然なのかもしれない。
出入口から見て、手前がベッドで奥が診察スペースとなっている。
ベッドの一つ一つと診察スペースが衝立で区切られていて、初めて来た人には衝立だらけという印象を与える。
ミアは診察スペースへ向けて歩き出した。
呼吸をすると消毒液のニオイが鼻をつく。ミアには苦手なニオイだ。
「何の用さ?朝早くから」
ミアが診察スペースまでの道のりを半分程歩くと、診察スペースから女性の声が聞こえてきた。
声の主はそこからすぐに姿を現した。
現れたのは、白衣を着たカワウソだった。
身長は目測で140cmくらい。ハナと大体同じくらいだ。
彼女がここの校医だ。
名前は確か、エルザ。前回手当てしてもらった時に、名札にそう書いてあった。
黒縁で四角い眼鏡をかけた彼女の顔は、明らかに迷惑そうな顔をしている。
それはそうだろう。左手にはコップ、右手には歯ブラシを持っていて、現在進行で歯磨きをしている。
朝の身支度の最中に来てしまったのだ。迷惑と思われるのは当然だろう。
「あの……朝早くにすいません。体のあちこちが筋肉痛で痛くて……」
「ふん。すまないと思うなら、時間を考えて来るんだね。まあ、いいさ。診てあげるからおいで」
エルザはコップに歯ブラシを入れると、手招きしながら診察スペースの奥へと入っていった。
ミアも彼女の後を追うように診察スペースへと入っていった。
「ほら、座るんだよ」
ミアが入ると、エルザはすでに椅子に座っていた。
そして、患者用の椅子を指さして急かしていた。
「……お願いします」
ミアは椅子に座った。
「えーっと、確かアンタは……」
「……ミア」
「そう、ミア。ミア・ヤマダだったね」
エルザはすぐ隣の机の方を向くと、その上のパソコンで何か操作を始めた。
「それで?今度はどうしたって?」
「……筋肉痛。全身が……」
「全身って例えば?ハッキリ言ってくれないと、手当てはできないよ!」
「その……脚。腿とか」
「そうかい。どれ、触らせてもらうよ。服はそのままでいいからね」
エルザは椅子に座ったまま距離を詰めると、ミアの両腿に手を乗せた。
「痛っ……」
「ここだね?じゃあ、さっそく手当てするよ」
エルザはそう言うと、乗せた手を光らせた。
薄い黄色の光。
まるで湯船につかった時のような暖かな感覚をミアは感じる。
「……ふぅ」
気持ちよさにミアはため息をつく。
「他に痛い所は?今のうちに、全部言いな!」
「後……脛、ふくらはぎ、腰、腹、肩、二の腕……」
「ずいぶん多いね。まあ、いいけどさ。で?アンタはいったい何なんだい?」
エルザはここで初めてタクミの存在に触れた。
「気にするな。俺は単なる付き添いだ」
ミアの後ろにいたタクミは答えた。
「何だい、彼氏かい」
エルザの言葉にミアは鼻血を出した。
ミアは気がついた。
そういえば、タクミも同じジャージを着ていた、と。
高校指定のジャージなのだから当たり前だが、ここは外国。それが通じないのが普通と考えるべき。
きっとエルザにはペアルックに見えたのだろう。
「いや!違っ……そういうわけじゃ……」
「俺はコイツの相棒なんだよ。授業でのな。相棒の体調ぐらい把握して当然だろうが」
ミアはうろたえる一方でタクミは冷静に説明した。
ミアは鼻血を袖で拭いながら、顔が熱くなるのを感じた。
「はいはい。そういう事にしといてやるよ。ああ、だからかい?前回は一人で来たのは」
「前回?そういえば、前も来たみたいな事を言っていたな?何があった?」
タクミは気になったらしく、聞いてきた。
「わぁぁぁぁぁ!わぁぁぁぁぁ!」
尻の話に触れそうになって焦ったミアは大きな声を出してしまった。
「分かってるよ。『医者の守秘義務』ってヤツさ。まあ、もう治ったから心配しなくていいとだけ言っておくよ」
エルザは笑いながら答えた。
「そうか……ならいい」
タクミはそれで納得した様子だった。
ミアは安心して、深くため息をついた。
「さて、さっさと残りの部分の手当てをしようじゃないか」
エルザは腿から手を離すと、今度はミアの脛に手を伸ばした。
「……よし。これで全部だね?」
エルザはあっという間にミアの筋肉痛を治してしまった。
「あ、はい。もうどこも痛くありません」
「そうかい。なら、早く出て行っとくれ。アンタのせいで、歯磨きのやり直しだよ」
エルザはそう言うと、机の上のコップに手を伸ばした。
「あの……後でいいんで一つお願いしてもいいですか?」
「あん?」
ミアの言葉にエルザは眉をひそめた。
「今の、治癒の魔法ですよね?アタシに教えて欲しいんです」
「嫌だね、面倒くさい」
エルザはミアに背を向け、歯磨きを始めた。
「アンタが自由探求学科の者なのは知っているよ。でもこっちにも拒否権はあるのさ」
「お願いします。今後も体を痛める可能性が高いんです」
「ダメだね」
エルザは背を向けたまま、ミアの頼みを断る。
「もしかして適性値の事ですか?それならアタシ、90あります」
「90ぅだぁ?」
ミアの言葉に、エルザはこっちを向いた。
「はい、適性なら十分あると思います」
「じゃあ、私の質問に答えてもらおうかい」
歯磨きしたまま、エルザは言った。
「え?」
「外傷によって腸が外に飛び出した場合、どうやって治したらいい?」
「えっと……それは……」
「その程度分からないようじゃ、教えても意味無いねぇ。むしろ、教える方が危険さ」
「そんな……何で……」
ミアには彼女の言いたい事が分からなかった。
「魔法だって万能じゃない。正しい使い方をしないと、逆効果になる場合もあるのさ」
「逆効果?」
「例えば骨折。アンタだったら治癒の魔法で、一瞬で骨をつなげる事ができるだろうさ。でも、それだけ。正しい位置に直してからでないと、ズレたままくっついちゃうのさ」
「そんな……」
「銃で撃たれたらどうだい?そのまま治癒の魔法を使ったら、身体の中に弾が残ったままになっちまう」
「…………」
「生命魔法の適性値が90、それは大変結構。アンタならどんな怪我でも治せる名医になれるだろうさ。でも正しい方法を知らないなら、ヤブ医者でしかない」
ミアは何も言えなかった。
治癒の魔法の事を軽く考えていた。それによる代償の事を全く考えていなかった。
自分はなんて甘いのだろう。ミアは自己嫌悪に陥った。
「だったら……」
ここでタクミが口を開いた。
「俺に教えてくれ。俺は20しかねぇ。この程度だったら、ちょっとした擦り傷や切り傷ぐらいしか治せねぇだろう?」
ミアはタクミの方を向いた。
彼は笑っている。
適性値が低い事を逆手に取ったのだ。小さな怪我しか治せないから、気兼ねなく治癒の魔法を使える、と。
ミアはエルザの方を向いた。
彼女は近くの洗面台でうがいをしていた。
そしてそれが終わると、彼女はタクミの方を向いた。
「アンタってバカだろう?その程度なら鎮静の魔法で痛みを取るだけで、後は自然の治癒力に任せればいいじゃないか」
エルザは顔をしかめて言う。
「ん?ああ、そうかもな」
「『そうかも』じゃなくて『そう』なんだよ。まったく……だいたい、治癒の魔法を使う事にこだわってどうするんだい?専門家には任せられないのかい?」
「いや、そういうわけでは……ん?つまりそういう事なのか?」
タクミは何か分かったらしくエルザに訊ねた。
「そうさ。癒術士とかを目指しているんだったら少しは手伝うさ。でもアンタ達からは、そんな気配は感じられない。なんか『ついで』って感じがするもの。その程度のやる気の相手に時間を割く程、私はお人好しじゃないよ」
「なるほど。俺の国には『餅は餅屋』という言葉がある。俺達は魔道武術を学ぶ事に集中して、怪我をしたらコッチに任せておけばいい。そういう事だな?」
「まあ、そういう事だね。とはいえ、生命が90とはねぇ……ねぇアンタ。本当だろうね?」
エルザはミアの方を向いて訊ねた。
「え?あ、はい。そうです」
「正直に言うとね、アンタの潜在能力は私よりもずっと上だよ。医療関係を目指すなら、素質は十分過ぎるくらいさ。師を探しているなら喜んで名乗り出るよ。どうだい?」
「それは……すいません。アタシ、医療関係って苦手なんです。血とか全然ダメで……」
ミアは申し訳なく思いながら頭を掻いた。
「そいつは残念だね。まあ、生命魔法を扱う職業というのは医療以外にもあるさ。そっちの道に進んだらいいんじゃないかねぇ」
「それは例えば?」
「それは自分で調べるんだよ。私はアンタの人生に関与したくないんでね。それに、自由探求学科の学生ならこれくらいやらなきゃダメじゃないか」
「はあ……」
ミアはあまり納得できなかった。
「さて、用が無いならさっさと出てっておくれ。私は忙しいんだ」
エルザは追い払う仕草をしながら言った。
「そうだな。行くぞ山田、授業が始まる」
タクミはそう言ってミアの手を掴むと、出口へと引っ張り始めた。
「わっ!ちょ、待って……」
ミアはバランスを崩しそうになりながら、タクミに引っ張られていった。
そしてそのまま、医務室を出た。
その後もミアはタクミに引っ張られていった。
そしてそうされながら、ミアはさっきエルザに言われた事を考えた。
生命魔法を扱う職業にはどんな物があるのだろうか。
『生命』という言葉からは、医療関係しか思い浮かばない。
それ以外と言われても、ピンとこない。
後で調べてみようか。
いや、それよりも今は、魔道武術の事の集中しよう。
ミアは考えるのを止めた。
そしてタクミに引っ張られないように、自分で歩き始めた。




