26 痔、有る。ふぃ!
「ふぃぃぃぃぃぃぃ!」
ミアはあまりの痛みで思わず奇声を上げた。
翌日の朝、寮のトイレ、その個室の中。
ミアはいつものように『朝の一仕事』をしようとしていた。
しかし、今日はいつもと違っていた。
尻に激痛が襲ったのだ。
「クッ……はぁ……はぁ……」
ミアは痛みを抑えようと、呼吸を整え始めた。
手や鼻から嫌な汗が出てくる。
焦点が不安定になったのか、時々視界がぼやける。
ズキン。
ズキン。
自身の脈に合わせて、尻に痛みを感じる。
今まで経験した事が無い痛みだ。
無意識に息が止まり、眉間に力が加わるほどに目をつぶってしまう。
尻が痛いという点では昨日と変わり無かった。
しかし、場所は似ているのに、痛みの性質は全然違っている。
これは、幻覚の痛みではない。確実に傷ついている。
そう、つまり、これは、認めるしかない。ミアは思った。
自分は患ってしまったのだ。
痔を。
「あの、クソ女……何が、『大丈夫』、だ……」
ミアは肩で息をしながら、紙を取った。
どう考えてもニコルが悪い。
だいたい、尻に漏斗を、それも勢いよく挿れられて、無事であるはずがないのだ。
彼女のせいで、自分の尻はボロボロだ。
しかし一方で、自分も相当なマヌケとしか言いようがない。
昨日、裏庭で気がついた時からずっと、尻がなんとなく痛かった。
その時点で疑うべきだったのだ。
あの時彼女へ文句を……いや、帰ってすぐに学校の医務室へ行けばどうにかなったのかもしれなかったのに……
そう思いながら、ミアは尻に紙を近づけた。
そして、紙が尻に触れた瞬間、再び激痛が走った。
「クソッ……痛ぇ……」
ミアは歯を食いしばりながら呟いた。
見るまでもない。
紙は赤く染まっただろう。
出る物が出て、傷が広がったに違いない。
ここを出たら、まっすぐ医務室へ行こう。
校長の話によると、ここの医務室は下手な病院より優れているらしい。
きっと、この傷の治療もしてくれるだろう。
少なくても、昨日の手当てよりはマシに違いない。
そう思いながら、ミアは『朝の一仕事』を完遂させ、その場を去った。
「うぅ……」
トイレから出たミアは、呻きながら寮の出口を目指した。
尻の痛みは収まる気配が無い。
刺激しないよう、ゆっくりと小股で歩く。
それでも一歩ごとに痛みが走るが。
一歩、一歩、また一歩。
痛みに耐えながら、ミアは歩く。
視界がぼやけ、洗ったばかりの手は汗で湿っている。
医務室までの道のりが果てしなく遠く感じた。
歩きながらミアは悩んでいた。
正直なところ、誰かの補助が欲しい。
欲を言えば、医務室まで運んで欲しいくらいだ。
しかし、誰にも頼る事はできない。
自分が痔になった事を知られたくない。
第一、誰かの世話になっている自分が情けない。
とはいえ、そんな事を考えている場合だろうか。
……いや、違う。
やはり助けが必要だ。
事態は深刻。
ここ恥を捨て、医務室へ辿り着くことが最優先だ。
とはいえ、本当に恥を捨てる事なんてできるのだろうか。
それを考えると自信がない。
やはり自分一人で行くしかないのだろうか。
昨日タクミがやっていたように、鎮静の魔法で和らげればイケるかもしれない。
だが、力の弱くなった自分にできるだろうか。
しかし……
「おぅ!ミアちゃん、ええとこに!」
突然アカネの声が聞こえ、ミアは意識を引き戻された。
いつの間にか、食卓用のテーブルの近くまで来ていた。
その席に彼女は座っている。
彼女は頬杖をついた格好のまま、頭だけをこちらに向けていた。
その彼女の前には、板状の機械が置いてある。
あれは、タブレット型パソコン。
大学から学生への支給品だ。
どうやらパソコンで何かをしていたらしい。
「ウチ、こないな事初めてなもんで分からへん。教えたってや!」
アカネはそう言いながら、隣の席の椅子を引いた。
隣に座って教えて欲しいようだ。
しかし、今は無理だ。
他人に教える余裕は全くない。
第一、今の尻の状態では痛くて座れない。
現在、食事の時は空気椅子。つまり、座ったふりをしている。
試しに誰もいない時に座ってみたが、地獄を見た。
痛みを堪えて教えるなんてできない。
空気椅子をしながらというわけにもいかない。
「わ、悪ぃ……今はちょっと……」
ミアは申し訳ない気持ちを感じつつ、なるべく平静を装って断った。
頼られるのは嬉しいし、期待に応えたい気持ちはあった。
しかし、それは時と場合による。
「あー、せやなぁ……ミアちゃん、具合悪そうやもんなぁ……」
アカネは残念そうな顔で言った。
その言葉に、ミアは一瞬ヒヤリとした。
痔がバレたのかと思ったからだ。
しかし、すぐに冷静になった。
まだバレていないはず。
きっと、痛みを堪えている様子がそう見えただけだ。
そう思い、自身を落ち着かせたのだった。
第一、バレたらバレたで問題は無かった。
その方が開き直る事ができて、助けを頼みやすくなるからだ。
とはいえ、やはり完全には割り切れるわけではない。
どうしても、恥ずかしさは感じてしまう。
やはり彼女には隠そう。ミアはそう思った。
「そ、そうなんだ。今から医務室に行こうとしてたとこで……」
「大丈夫かいな。ホンマしんどそうやで」
「あ、ああ……結構つらくてな……悪ぃ、また今度な……」
そう言って、ミアはその場を去ろうとした。
彼女が何を頼もうとしたのかは分からない。
しかし、これで完全に諦めただろう。
埋め合わせは、尻の具合が良くなったらすればいい。
そう思いながら、ミアがテーブルを抜けようとした時だ。
突然、アカネに呼び止められた。
「アカン!ちょい待ちぃや!」
「……え?」
呼び止められたミアは、彼女の声に思わず振り向いた。
すると、目の前に彼女の額があった。
近い、近すぎる。
ミアは驚いて、一歩後退した。
その刺激で尻が強く痛む。
思わず顔をしかめてしまった。
「その様子じゃ、途中で倒れてまう。ここは、ウチに任せとき!」
「任せるって……うわっ!」
ミアが質問する前に、アカネは行動に移した。
素早く後ろに回り込むと、抱き上げてしまったのだ。
これは横抱き。俗にいう『お姫様だっこ』というもの。
彼女が力持ちなのは見た目で分かっていた。
しかし、自分をここまで軽々と抱き上げてしまう事に、ミアは驚いた。
ミアは自身を重いとは思っていないが、彼女には見た目以上に力があるようだ。
その上、彼女に抱き上げられると、妙に安心感があった。
失礼な表現かもしれないが……彼女からは父性を感じた。
彼女の筋肉質な肉体は、本当の父親よりも頼もしく、逞しい。
幸福感すら感じる程にだ。
「おしっ!ほな、行こか」
アカネはそう言って、ミアと共に寮を出た。
アカネは駆け足で移動した。
きっと自分を心配して、早く医務室へ連れて行きたいのだろう。
そう思ったミアはありがたいと彼女に感謝の気持ちを感じた。
しかし……素直に言う事ができなかった。
それは振動のせいだ。
彼女が走る事で、振動が尻に伝わる。
自分で歩く程では無いが、それでもやはり痛い。
ミアは我慢できず、彼女に注意した。
「お、おい……もっと、ゆっくり……」
「んあ?」
「振動が……」
「我慢しぃや!はよ医務室に行かな!」
彼女は聞く耳を持たなかった。
彼女にとっては、医務室に行くことが先決らしい。
確かにその通りかもしれない。
しかし、痛いのは困る。
とはいえ、好意でしてもらっている以上、あまり文句を言う事はできない。
やはり我慢するしか無いようだ。
ミアは諦めた。
そして、この痛みを紛らわせるために、別の事を考える事にした。
それは……さっき彼女が頼もうとした事だ。
彼女はいったい何を頼もうとしたのだろうか。
あの時の様子から考えて、パソコンを使った作業である事は間違いない。
正直なところ、ミアはパソコンにはあまり詳しくは無い。
どちらかというと、エリの方が上だ。
しかし、そのくらい彼女は分かっているはずだ。
となるとパソコンは単なる手段であって、目的は別にある。
では、それがいったい何なのか。全く分からない。
医務室に着くまで、まだ距離がある。
気になったミアは、時間つぶしにと聞いてみる事にした。
「なぁ、アカネ」
「んあ?」
「さっき、アタシに何を頼もうとしたんだ?」
「いや、ええねん。ミアちゃんが元気になるんが一番や」
「さっきから気になって仕方ないんだ。言うだけ言ってみてくれ」
アカネはチラリとミアを見た。
そして少し考えた後、もう一度ミアを見ながら口を開いた。
「レポートや。初めてやから、どう書けばいいか分からへんのや」
「レポート……か」
彼女の話でミアは思い出した。
自由探究学科の学生は、校長にレポートを毎週提出しなくてはいけない事を。
レポートの内容は決まっている。
その週、何を学び、どう思ったのか。
つまりは、活動報告を提出して欲しいという事らしい。
提出期限は毎週土曜日だ。
今日は金曜日。そろそろ提出しないと危ない。
そう思ったミアは、さりげなく聞いてみる事にした。
「そうか……もう書かなきゃな」
「せや、ウチちょっとピンチやねん」
アカネは苦笑いをした。
その様子を見ていてミアは思った。
尻が良くなったら手伝ってあげよう、何なら代筆を引き受けてもいい、と。
ミアにとって、彼女が助けてくれた事はそのくらいありがたい事だった。
いうなれば、恩返し。そんな気持ちだった。
「おっしゃ!着いたで!」
アカネの言葉に、ミアは再び意識を引き戻された。
彼女の視線の先を追い、頭を動かす。
そこには扉があった。
さらに頭を動かしてみる。
扉の近くに『医務室』と書かれた札がある。
どうやら、ここで間違い無いらしい。
「ほな、入るで」
「いや、待て!ここからはアタシ一人でいい!降ろしてくれ!」
アカネがいっしょに入ろうとしたので、ミアは慌てて引き留めた。
このままでは、彼女に痔の事がバレてしまう。
彼女の性格から考えて、きっと全員にバラしてしまうだろう。
それは困る。それだけは阻止したい。
ミアは必死だった。
さっきまでは、バレるかどうか気にしている場合ではないと考えていた。
しかし、いざとなると、躊躇してしまう。
やはり知人にはバレたくなかった。
「一人って……大丈夫かいな……」
「だ、大丈夫だ……問題無い……」
「ホンマに?それならええけど……」
そう言って、アカネは仕方なさそうにミアを降ろした。
ミアの足が床についた瞬間、再び尻に痛みが走った。
一瞬息が詰まったが、何とか悟られないように気合いで堪えた。
「じゃ、じゃあ……ありがとな……」
「せめて、手当てが終わるまで待ったろか?」
「い、いや、いい……心配いらない……先に戻っててくれ」
「ミアちゃん、もっとウチを頼ってええんやで?ウチら、友達やろ?」
彼女のその言葉に、ミアは胸も痛みだした。
そして罪悪感から、こんな事を考えた。
また嘘をついている。
自分の小さなプライドのせいで。
自分が多くを語らないせいで、彼女は必要以上に心配している。
実質、彼女の心を裏切っているのと変わらない。
たかが痔。
されど痔。
痔のせいで、自分は彼女を欺いている。
これも皆、ニコルのせいだ。
いや、ニコルだけのせいじゃない。
プライドにこだわり続ける自分にも責任がある。
本当に、本当に申し訳ない。
「と、友達なら……」
「んあ?」
「友達なら、あんまり迷惑かけちゃ、いけねぇと思うんだ……」
ミアは苦し紛れに適当な事を言った。
そして、アカネが何か言う前に医務室の中へ入った。
後ろ向きに扉を閉じて彼女を遮断した時、ミアの顔はズブ濡れになっていた。
目から汗が止まらないのだ。
罪悪感で心がバラバラになりそうになっている。
それでも前に進まなくてはならない。
自分はそう決めてしまったのだから。
そう思ったミアは袖で乱暴に顔を拭った。
そして、部屋の奥へゆっくりと足を進めた。




