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Slow Luv Op.1  作者: 紙森けい
5/8

[ 金曜日 ]


 一秒でも時間が惜しい悦嗣に、英介が当日までの間――と言っても金曜日の一日だけだが――、弾けるようにとスタジオを用意した。

 英介以外のヨーロッパ組は観光に出かけ、スタジオには夕方に入る予定になっていた。さく也はともかく、日本が初めてのウィルヘルムとミハイルは観光も目的で、滞在日程はそれ込みのゆったりとしたスケジュールになっているらしい。

「おまえまで、付き合わなくていいのに。案内してやらなくていいのか?」

 英介は悦嗣の練習に付き合うつもりで、彼らとは行動を別にしている。

「行き当たりばったりで出かけるのが好きな奴らなのさ。それに少しでもいいコンディションで、エツには明日がんばってもらいたいからね。どーせオフだし、建設的ないい暇つぶしさ」

「暇つぶしかよ」

 来日した四人はオーケストラのオフを利用して、ヨーロッパでもアンサンブルのサロンコンサートを開いたり、音楽祭に出演したりしているらしい。特にさく也以外はWフィルの所属で、日ごろの練習も同じくしているから、息もよく合っている。

「中原さく也はWフィルじゃなのか」

「うん、あっちでは中堅くらいのオケに所属してる。うちのオーディションを受けるように勧めてるんだけど、面倒臭いって受けないんだ」

「面倒くさい?」

「変わってるんだ、あいつ。そういうとこも誰かさんと似てると思わないか?」

 英介はニヤニヤと笑った。

「おまえなぁ」

 と悦嗣はその額を軽く小突く。そしてピアノの前に座ると、指慣らしに簡単なメヌエットを弾き始めた。

 英介も傍らに立って、それを楽しげに聴いている。

 学生時代を二人して思い出していた。英介が演奏する時の伴奏はいつも悦嗣が担当し、テストが近づくとレッスン室に篭って、遅くまで練習したものだ。自分のテスト練習はなおざりだった悦嗣も、彼の練習にはまめにつきあった。

 思えばあの頃から、すでに英介に対する恋心は芽吹いていたのかも知れない。

 今では無くなった二人だけのこうした時間が、実はとても嬉しい悦嗣だった。

「さく也はすごいだろう?」

 メヌエットが終わったところで、英介が話し掛ける。学生時代の懐かしい空気は霧散した。

 悦嗣はブラームスの楽譜を開く。第一楽章の冒頭の音符を見ると、第一ヴァイオリンの音が聴こえるような気がした。

「ああ、すごいな」 

 あまりの『音楽』に聴き入って演奏の手が止まってしまったこと、再開後も何度も止まりそうになったこと、その音が楽譜を見ただけで耳の中に蘇って響いてくることなど、中原さく也と合わせた感想を話した。

「あれは天性のソリストだ。アンサンブルするのは反則だろーが。セカンドはどうしてもその差を埋められない。ヴィオラのEが目立つのも、チェロのテンポが鈍く聴こえるのも、あれの所為だ」

 こうしてあの音を言葉にして表現すると、鳥肌が立つ。

「それから、自分が素人だって思い知らされる」

「さく也が本気を出したのは、今回、この前のセッションが初めてだ。ステージではあんなことはないよ。きっとエツが本気にさせたんだ」

「おまえは褒め殺しの天才だな」

「子供は褒めて伸ばせって言うだろう?」

 彼は甘い笑顔を作る。

「冗談じゃなく、エツに触発されたんだよ。さく也は人に対してひどく慎重で、なかなか自分を出さない、感情にしても音楽にしても。だから無防備に自分を出すようになるのは、よほど相手を信頼しているってことなんだ。それは演奏にしても同じさ」

 英介はチェロ・ケースの方に動いた。

「きっかけは何でも構わない。さく也もエツも、その才能を無駄にしてほしくないから。ま、俺が一緒に演りたいってだけなのかも知れないけどさ。Wフィルのファースト(ヴァイオリン)は、若返りが必要だし。それに、俺は特にエツのピアノのファンだから」

 彼は話ながら、楽器とパイプ椅子をピアノの傍に持ってきた。

 英介の言葉に、悦嗣は胸の辺りが熱くなるのを感じていた。それはだんだんと首から頬へと上っていく。頬が紅潮するのは間もなくだ。

 隔てられた四年など、結局、何の用も為さなかったのだ。想いを再確認したおかげで、むしろ感情の抑えがきかなくなり、表情に出てしまいそうになる。

「指慣らしに、もう一曲どうだい? あれ合わさないか? エルガーの『愛のあいさつ』」

 『愛のあいさつ』は、英介の披露宴で二人で合わせた曲だった。彼への気持ちに気づいた、あのスピーチの後で。それを思い出すと、悦嗣の頬の熱さは途端に冷めていく。

「『愛のあいさつ』 考えてみれば不吉な曲だぜ」

「なんで?」

「友達の披露宴で五回弾いたけど、その内二組が離婚して、一組は離婚調停中だ」

 英介は「いい打率だな」と爆笑した。

「笑ってる場合か。調停中はおまえだろ? ほら、チューニングしろよ」

 悦嗣が促すと、英介はチェロを持って座った。

 さあセッション、と悦嗣がブレスで出を合図した時、スタジオのドアが開いた。

 入って来たのは観光に行っているはずの中原さく也だった。

「あれ、さく也どうした?」

 英介は手を止める。さっきまでの話題の主がタイミングよく現れて、悦嗣は思わず彼を凝視する。

「寝過ごしたら、置いてかれた。ホテルにいるのも暇だから」

 荷物置きに用意された机にヴァイオリン・ケースを置くと、大きなあくびを一つしてさく也は答えた。

「じゃあ、一緒に暇つぶししようか。寝覚めの一曲、エルガーの『愛のあいさつ』なんだけど」

 いたずらっぽく英介が言った。

「俺は暇つぶしの道具かよ」

 悦嗣の口が、への字に曲がる。

 その言葉にさく也の口元が綻んだように見えたのが、悦嗣には意外だった。


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