[ 水曜日 ]
加納家の末っ子・夏希は玄関のドアを開けようとした時、離れのレッスン室に灯りが点いていることに気がついた。
腕時計を見ると、十時を回っている。生徒が来ている時間ではない。
「ただいまぁ」
それではピアノ教師の母が弾いているのかと思ったら、居間の方からその母の声が返ってきた。
「お帰り。遅かったわね。ごはんは?」
居間に入ると、父と母が仲良く並んでテレビを観ていた。
「食べてきた。レッスン室、電気点けっぱだよ」
「エツが使ってるのよ」
「エツ兄が? 調律に来てるの?」
「弾いてるのよ。夕方からずっと。自分とこじゃ、防音になってないとかなんとかってね」
母は時計を見やると、立ち上がってキッチンに入った。
トレイにマグカップを一つ置いて、コーヒーメーカーに残っているコーヒーを注いだ。
「エツ兄がうちで弾くのって、大学卒業以来じゃない?」
夏希は自分のマグカップを戸棚から取り出すと、母の前に差し出した。
「そうなのよ。今、英介君が帰国してるって言うから、刺激されたのかしらね」
「ふーん、それエツ兄の? 私、持ってく」
母が持ち上げたトレイに自分のカップを乗せて引き取ると、夏希は居間を出た。
加納家は少子化の現代では珍しく四人きょうだいである。上三人が男――悦嗣は二番目――で、皆、独立して家を出ていた。末の夏希は両親待望の女の子で、悦嗣の母校である月島芸大に在学中。器楽科で弦楽を専攻している。
ちなみに四きょうだいはみな、母親が開いているピアノ教室の出身者だった。音楽の道に進んだのは二番目と末っ子で、特に悦嗣は期待をかけられていたが、演奏家にはならなかった。
「エツ兄!」
ノックもしないでいきなりドアを開けられ、指はたちまち止まる。
悦嗣はムスッとした表情で妹を見た。
「相変わらず、プライベートのない家だな。ノックぐらいしろよ」
悦嗣の注意などにひるまず中へ入った夏希は、ピアノの脇のテーブルにマグカップの乗ったトレイを置いた。
「久しぶりだねぇ、うちで弾くのって。何かあるの?」
カップを手に取ると、悦嗣は口をつける。好奇心満々で夏希は答えを待っているが、「ねえよ」と素気無く答えた。
彼女は譜面台の楽譜に目を移した。手を伸ばして表紙を見ようとするより先に悦嗣はそれをさらって、譜面台の脇に追いやった。
「珍しいね、ブラームス? エツ兄、ブラームス嫌いだったじゃない」
『ブラームス』の文字は辛うじて見えたらしい。
「嫌いじゃない。苦手なだけだ」
ブラームスの楽譜は、ピアノ五重奏曲ヘ短調Op.34である。
結局、悦嗣は例の件を引き受けてしまったのだ。
無理やり音合わせさせられた日の夜、英介から何度もメールと留守電が入っていた。内容はどれも同じ。
『代わりは探さない』
温和な性質でありながら、英介のしつこさと粘り強さは周知だった。
惚れた弱みという言葉は自分には縁遠いと思っていた悦嗣だが、振り返ってみるに一度も彼に逆らったことがないような気がする。
翌日――つまり今日だが、仕事先に英介がやってきて、「代わりは探さない。エツが必要なんだ」と言われるに至って、承諾してしまったのだ。その十分後に、都合してもらった大昔の卒業単位を盾に立浪教授から電話が入ったのは、とんだおまけだった。たった一つの単位が一生ついて回るかも知れない。英介の駒として。
「いつもこんなに遅いのか?」
「ううん、今日ねぇ、英介さんが大学に来たんだよ。公開レッスンで。終わった後、教授達とごはんに行くってんで、連れてってもらったの」
「公開レッスン! あいつもお偉くなったもんだな」
「なんたって月島の奇跡、なんたってWフィルのチェリストだもの。英介さんったら、ちーっとも変わってないね。相変わらずの笑顔良しさん。もう、惚れ直しちゃった」
(その笑顔が曲者なんだよ)
と口から出そうになるのを、悦嗣は抑えた。
「今回、アンサンブルのコンサートで来てるんだよね? 他に二人、連れて来てたよ。そんでチケット、もらっちゃった」
口に含んだコーヒーが思わず吹き出る。咄嗟に向きを変えたのでピアノにはかからなかった。鍵盤にかかろうものなら母の雷直撃である。ピアノの上で飲み食いするなと、幼い頃から叱られ続けた悦嗣であった。三十過ぎても同じ事で叱られては立場がない。それに後始末を自らの手――それもただ働き――でつけるのも、情けない。
「やーねー、お兄ちゃん。ほら、これで拭きなよ」
夏希はポケットからハンカチを取り出し、悦嗣に渡した。
「エースケ、何か言ってたか?」
「うーんと、そうそう、今回は東京公演だけプログラムも違うし、サプライズも用意してるから、絶対聴きにおいでって。エツ兄もチケットもらってるんでしょう?」
(あのヤロー、今度会ったらただじゃおかん)
と、実際出来もしないことを心に誓う悦嗣であった。
久しぶりに会う妹は相変わらずのマシンガン・トークで、兄に喋る隙をなかなか与えない。
レッスン室の時計を見ると、いつの間にやら午後十一時を越していた。
明日の夜に合わせがある。それの前に英介がダイナミクス、タイミングなどをレクチャーしてくれることになっていた。
練習を始めて七時間余り。ミスタッチは減ってきたが、まだその程度である。引き受けたからには、生半可なものは出したくない。何しろ、五千円のチケットなのだ。
「おまえ、明日も学校だろ? 早く寝ろよ」
夏希の息継ぎを見計らって、割り込んだ。
「いいよ、明日は二コマ目からだし。まだ弾くの? だったら聴いてていい? エツ兄のピアノなんて、近頃なかなか聴けないしさ」
「気が散るんだよ。今度のバイトはお気軽なもんじゃねぇんだから」
「珍しー、練習嫌いのエツ兄が?」
「いいから、寝ろ」
トレイに飲み終えたカップとハンカチを乗せて、夏希の前に突き出した。頬をぷっくり膨らませて、彼女はそれを渋々受け取った。
ドアノブに手をかけ、夏希は振り返った。
「そうだ、今回、中原さく也もメンバーなんだってね。今日は来てなかったけど」
さく也――第一ヴァイオリンの日本人は、「サクヤ」と呼ばれていた。
「中原さく也?」
「ほら、十四才でザルツブルグの二位取って、昔、騒がれてた子いたじゃん。この人が超美形なのよね。今回のメンバーって、当たりだわ」
と、また話が長くなりそうな気配を察し、悦嗣は「しっしっ」と手を振る。夏希は「ベー」と舌を出して、不承不承出て行った。
賑やかな彼女がいなくなると、レッスン室はたちまち静かになった。楽譜を譜面台に戻し、第三楽章のページを開ける。
「ザルツブルグの二位か。そう言や、そう言う奴がいたな」
悦嗣と英介が月島に入学した年、ザルツブルグ国際コンクールのヴァイオリン部門で、二位の成績を取った日本人がいた。まだ十四才の少年だった上に、そこらのアイドルが恥じ入る容姿を持っていたので、音楽雑誌はもとより、芸能雑誌までが騒がしく取り上げていたことを、悦嗣は思い出した。名は中原さく也と言ったかもしれない。
日本の音楽界が凱旋演奏会を、芸能界が帰国後のメディア露出を、それぞれの思惑で切望したが、中原さく也は日本には帰らなかった。後にわかったことだが、アメリカ生まれの彼の生活圏はボストンで、日本に思い入れが――これっぽっちの興味もなかったらしい。
それから十数年、いつの間にか彼は忘れられていた。時折り『あの人は今』的に思い出されることもあったが、足跡を辿ることは出来なかった。十四才で才能と運を使い果たしたのだと、結論付ける評論家もいた。
「そんなこたぁ、どうでもいい」
悦嗣は独りごちると、鍵盤に指を落とした。