[ 火曜日 ]
「やられた…」
悦嗣が大きく溜息をついたのは、飲んだ翌日の夕方のことである。
朝一番で仕事の電話が、楽器店から入った。どうしても今日ピアノを使いたい客がいて、調律してほしいとのことだった。
二日酔いになると踏んで、悦嗣はその日一日をオフにしていた。マンションに戻ってベッドに入ったのが朝の三時半。案の定アルコールは抜けずに残っていて、仕事をするコンディションとしては最悪だ。別の調律師に回してくれと頼んだ。
「依頼主は夕方からでも構わないと言っているんだ。立浪教授のお知り合いらしい」
しかし大学の恩師の名前を出されて――卒業単位を大目に見てくれた教授で、文字通りの恩師だったことから――断りきれずに引き受けた。
演奏会が夜からだとしてもリハーサルでは使うだろうに、夕方でも構わないと言うのもおかしな話だと気づいたのは、指定された場所への道すがら。同時に指定された先が音楽スタジオだった時点で気づくべきだったと、寝不足と二日酔いで頭が回らなかった自分を呪った。
着いた悦嗣を「どーも」と、チェロを手にした英介が人懐こい笑顔で迎えた。
彼の他に男が三人。ヴァイオリン二台にヴィオラが一台。そして部屋の中央にグランドピアノが据えられていた。
どう見てもアンサンブルの構成だ。事情が飲み込めてまず出たのは、肩も揺れるほどの溜息である。
「俺は調律を頼まれたんだけど」
「勿論、それもしてもらうけど、でも先に合わせてくれないかな。待ってもらってたから。あ、紹介するよ。第一ヴァイオリンのサクヤにヴィオラのウィル、それからセカンドのミハイル」
「エースケ!」
悦嗣の制止を意味する呼びかけなど英介はおかまいなしに、英語で悦嗣を三人に紹介していく。
「いい加減にしろよ、エースケ!」
悦嗣は彼の肩を掴んで、自分の方に向かせた。
舌打ちする音が聞こえた。ヴィオラの男が不快感をあらわにした顔で悦嗣を見ている。一言二言、隣の巻き毛、第二ヴァイオリンの男に耳打ちし、された男は肩を竦めた。この二人は白人で、残りの一人、第一ヴァイオリンは東洋人である。彼はさして興味もなさそうに、部屋の隅の物置きとして用意された机の方に向った。
英介がヴィオラに話しかける。相手はチラチラと悦嗣を見ながら何やらまくしたてた。
英会話も早くなるとわからない。しかしその表情から、悦嗣に対する不快感が読みとれる。どうやら代役のピアニストが調律師だったことに驚いているらしい。「こいつにピアノが弾けるのか」とでも言っているのだろう。
このメンバーの中で、英介のポジションはどの程度なのか。困ったような笑顔で、仲間を取り成す英介の形勢は、悦嗣から見てあきらかに不利だった。
上背のある白人二人が言葉をたたみかける様と、我関せず的態度の東洋人に対して、だんだん悦嗣は腹が立ってきた。
「楽譜、寄越せ、エースケ!」
上着を脱ぎ捨てピアノの前に座る。英介が楽譜を悦嗣に手渡す。
ブラームスのピアノ五重奏曲へ短調Op34――悦嗣がこの楽譜面を見るのは十二年ぶりだった。大学三年生の学内演奏会で、英介と組んで弾いたきりだ。彼の好きな曲で、アンサンブルするならこの曲が良いと言って引かなかったことを覚えている。今回の選曲も、英介が噛んでいるのかもしれない。
悦嗣はどちらかと言うと、ブラームスには苦手意識を持っていた。この指が覚えているだろうかと不安が過る。グッと拳を握った。
「とっとと位置につきやがれ」
チューニング用にA音を鳴らした。ピアノはちゃんと調律されている。ハンマーの重さもほどよく、悦嗣好みだった。これのどこに調律の必要があると言うのか。英介の方便にも腹が立つ。
部屋の隅にいた東洋人がスタスタと位置に着きチューニングを始めた。続いて英介が、それを見て後の二人も不承不承、それぞれの位置に着いた。
第一楽章は、ピアノと第一ヴァイオリン、チェロのユニゾンから入る。
(成るように成れだ)
とりあえず全楽章を通し終え、休憩が取られた。
悦嗣はピアノから離れてスタジオから出て行った。残った四人は、ドリンクが乗った机の周りに座っていた。
ヴィオラのウィルヘルム=ブルナーの隣に、英介は席を取った。
「どう、あいつ?」
面積が後退し始めている額の汗をタオルでふき取りながら、ウィルは英介を見た。
「悪くない。ブランクがあった割にはタッチが荒れてないし、何より耳がいい」
「ミハイルは?」
第二ヴァイオリンのミハイル=クルセヴィッツは、クッキーに手を伸ばす。
「ファースト(第一ヴァイオリン)のクセをよく見抜いてるよね。って言うか、感性が似てる。タイミングの取り方とか、テンポ感とか」
「サクヤとは合うと思うよ。エツ好みの弾き手だから。で、サクヤ?」
第一ヴァイオリンの中原さく也は、ミネラルウォーターのペットボトルから口を外した。
「何でもいい。人前で弾ける奴なら誰だって」
「サクヤも好みなんだろ、あのタッチ? 途中で止めずに弾ききったじゃん」
ミハイルがさく也の背後に回って抱きすくめた。その手を彼が払う。
「何にしても今のままじゃダメだろ。練習させとけよ、エースケ。俺達の足を引っ張らないようにな」
「くっくっく、今日はウィルが足、引っ張ってたくせに」
「あれはだなぁ、どんな音が鳴るか気になってだなぁ」
ミハイルにからかわれて、ウィルは首まで赤くして反論する。演奏前の険悪なムードはすっかり払拭されていた。
悦嗣は完璧だったわけではない。ミスタッチも多く、強弱や緩急のタイミングのズレも否めない。しかし一度も止まらなかった。ミスタッチは巧くカヴァし耳障りに感じさせない。タイミングのズレは、何の予備知識もなくぶっつけで合わせたのだから、ブランクを考えると仕方がない。だが止まることなく弾ききったことは、大して期待していなかった、むしろ無理に違いないと思っていた英介以外の人間の口を、黙らせるに十分だった。
「じゃあ、彼でいいね?」
「彼で行きたいんだろ、エースケは?」
ウィルの言葉に英介はにっこり笑って、「エツに話してくる」と嬉しげに部屋を出た。
喫煙フロアのソファに、悦嗣はぐったりと座り込んでいた。手には缶コーヒーが握られていたが、プルトップは上がっていない。
「つっかれた…」
煙草を立て続けに二本吸ったせいか、目の奥がクラクラする。
あんなに真剣に楽譜を見たのは、大学の卒業試験以来。目と耳と脳みそをフル稼動した気分だった。
「エツ」
背後で英介の声がした。悦嗣は振り返らなかった。疲労もあったが、怒りもあったからだ。
「合格だってさ」
悦嗣の隣に英介が座る。
「何が合格だ。おまえ、わかってんのか? 俺は素人同然なんだぞ。立浪の名前まで出しやがって。いつの間に、そんな小賢しい真似、覚えたんだ」
「エツ」
もう一本、煙草を咥えて火を点けた。
「おまえはいつも、俺の欲目が過ぎるっていうけど、」
英介は悦嗣の口から煙草を取り上げて、灰皿に突っ込む。
「彼らがおまえで良いって言ってるんだぞ。ずっと友達やってる俺じゃなく、プロが言ってるんだ。少しは自分の評価を上げろよ。弾けてたじゃないか」
「あれが弾けてたって言うか」
ケンカ腰のタッチだった。途中で止まるものかという意地で、ただ弾ききった。あれ以上、英介の困惑した顔を、悦嗣は見たくなかったからだ。
「とにかく、早く代わりをあたれ。義理は果たしたぞ。おまえの超過大評価に対しても、教授の恩に対してもな」
「エツ」
飲まなかった缶コーヒーを英介に突きつけるようにして渡すと、悦嗣は立ち上がった。
「もうこの話は終わりだ。俺は帰って寝るからな!」
そう言うと足元に置いた商売道具を抱え、エレベーターの方へ踏み出した。




