第五話―雪明かり―
―冬は嫌いだ―
嫌な記憶があるから…
自分の弱さで彼女と離れてしまった。ただ、自分を見つめられなかったから、彼女を見てるつもりで彼女の姿を見ていなかった。
―冬は嫌いだ―
自分自身の弱さを思い出し、自分自身の幼さを痛感するから…
彼女の笑顔はいつも俺に向けてくれた。彼女の優しさはいつも俺を支えてくれた。ただ、それらが全て俺自身を年下と見てたと思っていた。彼女は俺に対して下に見る事なんかしていなかった。
俺が弱さで自分自身を保てなくて、幼さでそれを正面から受け止める事が出来なかった。
―冬は嫌いだ―
―あら、何で?―
―んー何でだろ…まぁ寒いし、虚しさを感じるからかな…―
―そっか…でも…私は好きだな―
―どんなとこが?―
―寒さの中にも人の温かさを感じるからよ―
―人の温かさか…―
―もう一つ理由あるのよ―
―ふーん―
―ちょっとー何でとか聞かないの?―
―じゃあ…何で?―
―ふふ…それはあなたの名前と同じ季節だからよ―
俺は先程自動販売機で買った缶コーヒーをゴミ箱に入れ、公園の中心にある時計に目をやった。時計の針は両方とも六を少し過ぎたくらいだった。
「そろそろ戻るかな…」
俺はよっこらしょ、と立ち上がると家へと帰って行った。
「うーさみ…やっぱり朝は特にさみーな。」
俺が家の中に入ると雪が頬を膨らませ、立っていた。
雪さん…目がかなり怒ってます…
「た…だいま。」
「お帰りなさい。」
俺が靴を脱いでいると上から雪が言葉を投げてきた。
「どこに行ってたんですか?」
「いや…早く目が覚めたから、ちょっと散歩に…」
「とりあえず朝ご飯出来てますよ。」
雪は俺が靴を脱ぎ終えたのを見計らい、朝食にしてくれた。
「あ…りがとう。」
朝食は今日はパンにサラダ、ベーコンエッグ、そしてコーンポタージュと言う比較的シンプルな物だった。
「いただきます。」
「何で黙って行ったんですか?」
「だって…雪、寝てたし…」
その言葉の後二人の間に沈黙が流れた。
(空気が重い…俺そこまで怒られる事したかな…)
正直、朝食の味が分からない。味云々の前に今、自分の口の中にあるのは食べ物か疑う程、場の空気は重くなっていた。
「ずるいですよー」
唐突に発せられた雪の言葉は予想をかなり上回る物だった。
「は?」
「だって一人で散歩とかずるいじゃないですか。私を連れて行ってくれたっていいのに置いてけぼりにしたんじゃないですか。
だからずるいですよー」
俺は雪の言葉を聞いてクスリと笑ってしまった。
「そこ何笑ってんですかー」と言いながら雪はビシッと俺に指を向けてきた。
「いや、怒ってた理由が単純だったから…」
「私には重要なんですよー」
「ごめん、ごめん。今度は一緒に行こう。良ければ今日の夜だっていいぞ。だから機嫌直してくれよ。な?」
「仕方ないですねー許してあげますよ。その代わり今日の夜散歩ですよー」
「はいはい。分かったよ。今日俺が帰ってきたらな。」
「はーい。」
元気に返事をした雪を見ながら俺は残りをかき込み箸を置いた。
「じゃあ行ってくるな。」
「行ってらっしゃーいー」
街中で鈴の音が鳴り響いていた。
柔らかく、優しく、切なく…
「今日はイヴか…」
俺はいつの間にか昔いつも待ち合わせしていた時計台の下に立っていた。
―これからクリスマスはここに待ってるわ―
「俺が消したつもりの記憶も残ってるのか…」
俺は一人呟き、その場を後にした。
俺が家に着くと、雪の目はこの時間には珍しく爛々と輝いていた。
「おっかえりなさぁーい。」
「ただいま…」
「ご飯でーきてますよー」
「お、おぅ。」
雪の元気な姿に苦笑いしつつ俺は鞄を起き、テーブルの前に腰を下ろした。
「今日はご馳走ですよー」
雪はそう言うと調子外れな鼻歌を歌いながら晩御飯を運んできた。
確かに今日の晩御飯はとても豪勢な物だった。
七面鳥とまではいかないが鶏のもものローストした物、小さめなピザ、スライスされたガーリックトースト、上に少し焦がしたチーズが乗っているオニオンスープ、コーンサラダだった。
「す…すごいな…」
「一日中これ料理してましたもんっ」
「お疲れ…」
苦笑いしながらも俺はとても感心していた。
「さぁー食べましょー」
雪は両手にナイフとフォークを持ち、食べる気が満々と言った様子だった。
「じゃあ…」
いただきます、と二人の声はほぼ同時だった。
ローストチキンを一口大に切り、口に運んだ。
「うまい!!雪、すげーうまいよ。」
「良かったですー」と言って、雪もチキンを一口食べた。ゆっくり咀嚼してから、飲み込み、目をまん丸にして俺に呟いた。
「すごーく美味しく出来たみたいです…」
「何で雪自身も驚いてんだよ。」
「だから私もここまでうまくいくとは…」
俺はスープにも手を伸ばした。
オニオンスープのチーズは上はパリパリしているものの、下はとろりと溶けていた。ピザはトマトソースにチーズ、バジルという比較的シンプルな物ではあったが、それでも雪の味付けは絶妙だった。
「このガーリックトーストも手作りなんですよー」
「え?買って来たんじゃないの?」
俺は食べかけの手を止め、尋ねた。
「にんにくと鷹の爪をオリーブオイルで軽く炒めて、それをフランスパンに少しかけて、パセリをパラパラっとすれば完成ですー」
「すごい…な…」
俺はただただ感心しているだけだった。
「雪、料理人なれんぞ。」
「えっへん!」
料理は多く見えたものの、食べてみると味付けが美味しいのもあって、実際はあっという間になくなってしまって、テーブルの上には綺麗な皿が残っているだけだった。
「コーヒーか紅茶どっちがいいですか?」
雪がそう言いながら皿を片付け始めたので俺はそれを制止し、答えた。
「いいよ。そんくらいは俺がやってやるよ。」
俺は雪から皿を受け取り、流しに置いて水につけた。そして、雪の方を振り返って尋ねた。
「で、雪は何飲むんだ?」
「一緒のでいいですー」
「分かった。」
俺が珈琲をいれるため、やかんに水をいれ、火にかけている間に雪は冷蔵庫から何かを取り出してテーブルに戻って行った。
テーブルの方からは雪が歌詞の分からない所は鼻歌で誤魔化しながら歌っているジングルベルが聞こえてきた。
やかんが鳴り始めたのでインスタントコーヒーを用意しておいたコップの中に注いだ。
「出来たぞ。」
俺がテーブルに運んだ時、何を取り出したのか理解した。
そこには二つのショートケーキが用意されていた。
「買っちゃいましたー」
「まぁ、イヴだしな…ほら。」
俺が雪の前に珈琲を置くとほぼ同時に雪は俺の前にショートケーキを一つ置いた。
「んーおいしいー」
雪はケーキを一口食べ、幼い子供のようにキャッキャッと喜んでいた。
俺はふと疑問が浮かんだ。
「雪…食費いくらかけた?…」
雪は人差し指を口元に持っていき、少し考えてから答えた。
「大丈夫ですよーちゃんと計算して、安売りの店の特売品選んで、商店街では値切りもちょっとしましたし、後は今まで余ってたお金をちょっとだけ使いましたけど…ダメでした?」
口元に少しケーキのクリームが付き、そして上目遣いでダメでした?何て聞かれて
「はい、ダメ」と答えられる男もそうそういないと思う。
「ま、まぁ…足りたんなら別に大丈夫。」
「良かったですー」と言って、またケーキを美味しそうに食べ始めた。俺はフッと微笑み、自分のショートケーキにちょこんと乗っていた真っ赤な苺を掴むと、雪のケーキの上に乗っけた。
「えっ?」
「やるよ。」
「ありがとうございますー」
雪は満面の笑みで俺があげた苺を口にいれた。
「おーし、次は散歩行きますよー」
雪は俺が珈琲を飲み終えると、すぐに運んで、洗い物をし始めた。
俺はさっきまで着ていた上着を羽織り、雪の白いコートに白いマフラーを片手に持って、出発する用意は出来ていた。
「洗い物終わりましたー」
「ほら、準備は出来たぞ。」
俺が雪にコートとマフラーを渡そうとすると、雪はぷーっと頬を膨らませた。
「女の子には準備があるんですー待ってて下さいよーあっ後覗かないで下さいよー」
雪はニコッと笑ってそう言うと着替えに向かった。
「覗かねーよ!」
俺は深い溜め息をつくと、何気なしに台所の流しに目をやった。雪が来て、まだ数日しかたっていないというのに、今まで少し乱雑になっていた流しは綺麗になり、その他の物も整理整頓されていた。そして、端っこには小さなコップに植えられた植物が置いてあった。
どの位待っただろうか、雪はやっと用意が出来たらしい。
玄関でブーツを履いている雪を見て俺は息を呑んだ。
(おいおい…変わりすぎだろ…)
「コートとマフラー下さいー」
「お、おう。」
俺の手からコートとマフラーを受け取った人物は本当に雪なのかと見間違う程だった。雪は今までが"可愛い少女"だったとすると、今は"美人な女性"と表現した方が正しい。
「行かないんですかー?」
この間の抜けた喋り方も今までだったら、雰囲気と結構合っていたが、今の雪ではギャップを感じられた。
「あー行くよ。」
そして、そのギャップは俺に再び彼女を思い起こさせた。
別に雪と似ている訳ではない。しかし、大人びた格好なのだが、どこか幼稚さを残した話し方、考え方。そうかと思うと俺の考えが及ばない程の事を考えている。
俺はそんな彼女が常に俺の前にいるように感じていた。
どんなに歩いても、走っても追い付かない距離…
必死になるのに縮まらない距離…
しかし…そんな距離なんか無かったと気付いたのは…
「大丈夫ですかー?」
俺の思考は雪の言葉によって止められた。俺はゆっくりと辺りを見回した。いつの間にか家を出て、公園へと向かっていたらしい。
「悪い、大丈夫だ。」
「なら良かったですー」
雪は俺のその言葉を聞くと、俺に合わせたゆっくりのスピードでスキップをし出した。いや、先程からしていたのかもしれない。
「あっ…ちょっと待て。」
「はいー」
雪がスッと立ち止まり俺を振り向いた。俺はすぐそばの自動販売機で温かい缶コーヒーを二本買うと、雪に一本渡した。
「あったかーい。ありがとうございますー」
「どう致しまして。」
「あっ公園着きましたよー」そう言いながら雪はちょこんと俺の隣にやって来た。
カシュッ
俺は缶コーヒーを開けた。隣では雪がなかなか開けられずにいた。
「ほら。」
俺は蓋を開けた缶コーヒーを雪に渡し、雪の手に握られていた缶コーヒーを手にした。
「ありがとうございますー」
「どう致しまして…」
俺達はいつの間にか最初に出会った場所まで来ていた
「雪、ここ覚えてっか?」
「ここ、何かあったんですかー?」
「覚えてないならいいよ。」
ベンチの近くを通り過ぎようとした時、雪が呟いた。
「ベンチ座りませんか?」
雪は俺を見つめていた。俺は無言でベンチへと歩き出し、すぐに腰を下ろした。雪もすぐにベンチに座った。
雪は特に何を話す訳ではなく缶コーヒーをじっと見つめていた。
「あのですね…」
「ん?」
雪が突然口を開いた。雪はまだ神妙な顔付きで缶コーヒーを見つめていた。
「短い間でしたが今までありがとうございました。」
雪が発した言葉は俺の思考をストップさせた。
「私の翼見ましたよね?」
俺は雪を始めて見た時の事を思い出した。そして、雪の翼の事も…
「あぁ…」
「あんまびっくりしてないですね…」
「びっくりしてんに決まってんだろ…ただ、反応がうまく出来ないだけだ。」
「そうですか…そりゃ驚きますわよねー
えと、話続けますけど、私は雪その物なんです。」
「ごめん、理解できるように話して…」
「前、雪は神様の翼と言っていましたよね。それとほぼ同じと思ってくれれば良いですよ。」
「あーえーじゃあ雪は神様って事…か?」
(あーあー意味が全く分からなーい…)
「一概にはいとは言えませんが、似たような感じですー」
正直、意味が本当に分からない。
混乱している俺に対して雪はさらに言葉を続けた。
「でも…それでも…一緒にいた5日間はとても楽しかったです。」
「俺もそりゃ何だかんだ言って楽しかった…よ。」
「私、迷惑ばっか掛けてた訳ではなかったんですね」
「今、一番迷惑掛けてんぞ。」
もうこの際、雪が何なのかは関係ない気がしてきた。
ただ…雪の口から聞きたくなかっただけかもしれないのだが…
俺は冷え切った缶コーヒーを飲み干し、立ち上がった。
後ろから雪が
「ぶー」と言って、俺の背中をポコポコと叩いてきた。
「ほら行くぞ。」俺は雪に向かって手を差し出した。
とりあえず今はもう雪が言っていた意味の分からない事は考えるのをやめた。
「はーい。」
雪は俺の手を掴み、立ち上がった。
ガチャッ
俺の手がドアノブを回した。
今まで外にいたので、俺の手の方がドアノブより冷たく感じた。
「ただいまー」
俺の後ろからさっきまで意味の分からない話をしてきた"馬鹿"な美人な女性が能天気な声を上げた。
俺が特に反応もせずに靴を脱いでいると、後ろからトントンと雪が叩いてきた。
「ん?」
靴を脱ぎ終え、雪の方を振り向くと、雪はその場でニコニコと笑みを浮かべながら立ち止まっていた。
「どうした?」
「ただいまー」
俺はやっと雪の意図していた事が理解できた。
「雪、お帰り。」
「えへへー」
雪は照れながらそう笑うとやっとブーツを脱ぎ始めた。
「雪、今日はまだ風呂入ってないだろ?先入れよ。」
「悪いですよー」
「遠慮せずにさっさと入って来いって。だいたい寒かったんだから、風邪ひく前に温まって来いよ。」
「そこまで言うなら…」と言って、脱衣所へと向かった。
「またバスタオルで出て来る気かー?」
俺の言葉を聞き、雪は顔を真っ赤にして戻ってきた。
「えっちーばかー私にはそ、そんな気はないですよー」
「分かったからさっさと入って来い。」
俺がそう言うと雪はまだ赤く染まっている頬を膨らませながら、服を抱えトテトテと小走りで再び脱衣所へと向かって行った。
俺は台所へと向かい、雪のためにココアを作り始めた。
手鍋に牛乳を入れ、火にかける。
少し沸騰してきたらココアパウダーと砂糖を少しずつ入れていき、溶かしてゆく。そして、良くかき混ぜて、完成だ。
「よし出来た。」
コップに入れ、テーブルに置く。
(雪が上がって来るまで待ってるか…)
俺は床に横になった。すると、さっきまではあんなにはっきりしていた意識が徐々に薄れていった。
「起きて下さいー」
そんな声が聞こえたかと思うと、俺の上に何かが乗ってきた。
「ぐはっ!!」
飛び起きると上になっていたのが雪だと分かった。
「雪…何やってんだ…」
「起こしてたんですー」
「人を起こす時お前は思いっ切り飛び乗るのか?…」
俺がそう言うと雪はスーッとと目線を逸らした。
「いや…まぁ…えへへー」
「いーからどけっ」
「はーいー」
上に乗っていた雪をどかせて、まだ濡れた雪の髪をクシャッと撫で、俺は立ち上がった。
「そのココア飲んでいいぞ。」
「やったー」
雪は万歳してから、コップに手を伸ばした。
「あっ…でも冷めたかもな…今温め直してくるよ」
俺はそう言うと、雪の手からコップを受け取ろうとした。しかし、雪はそのコップを俺に渡そうとはしなかった。
「冷めてるだろ?貸せよ。」
「大丈夫です…とってもとってもあったかいです…」
雪は一口飲んだ。
俺は雪の言葉に口を噤んでしまった。
「お風呂入ってきて下さいー」
少し潤んだ瞳が俺を見つめていた。
いつものように熱めのシャワーを頭から浴びる。
冬の寒さで冷え切っていた俺の全身がだんだんと温かくなってきた。
シーンとした風呂場の中、俺は雪の潤んだ瞳の理由を理解する事は出来なかった。
風呂から上がってきた時は確か潤んでいなかったはずだ。しかし、どんなに考えても俺に解答が出てくる事はなかった。
俺が風呂から上がり、歯を磨いてから脱衣所を出ると雪はちょこんとベッドの上に座っていた。
「もう寝れんのか?」
「はーい。」
雪と目が合った。しかし、雪の瞳はもう潤んでいなかった。
俺は電気を消し、布団に横になった。
「雪、おやすみ」
「おやすみなさーい。」
冷え切った冬の夜、カーテンから漏れる月明かりのみの暗闇の中、俺の背中に誰かが触れた。
「……一緒に…寝ていいですか?」
「あぁ…」
俺の背中には雪の温もりが確かに伝わっていた。俺の前にある雪の手は崩れそうな程細かった。
「今まで…本当にありがとうございました…」
俺の首もとを何か冷たい物が流れ落ちた。
「本当に…本当にありがとうございました。」
俺は必死に振り向こうとするものの、体の自由は全く聞かず、何か言葉を発しようとしても口が動かず、ただ眠りの中に落ちないようにしているだけで精一杯だった。しかし、俺の耳にはしっかりと言葉は届き、俺の頭の中で大きく、深く響いていた。
「さよなら…冬馬さん…」
俺の頬を何か冷たい物が流れ落ちた
俺の頬に誰かの唇が触れた
俺の意識は深く深く落ちていった