第四話―牡丹雪―
「起きてー下さいー」
誰か俺をが呼んでいる…
「んぁ?」
夢の中から目覚めてきた俺はうっすらと目を開けた。俺の視界に飛び込んできたのは鼻がくっつきそうにまで近付いた雪の顔だった。
「うっうわぁ!!」
余りにも雪が近くだったために驚いた俺は大声を上げてしまった。雪は
「そんなに驚かなくても…」と少し膨れっ面をしていた。
「ち、近すぎるんだよ」
「朝ご飯出来ましたよー」
俺の話も聞かずに雪はスタスタと台所へと向かって行った。
俺も立ち上がると布団を畳んで動き始めた。
「今朝は和食だな。」
俺は朝食を見てそう呟いた。実際、目の前に並んだ料理はご飯に野菜の味噌汁、アジの干物に納豆と卵焼きと言う日本の朝食の基本と言っても過言でない物が揃っていた。
「準備出来ましたよー」
俺はやって来た雪の方に目をやった。雪は両手に湯気の立つお茶を持ってきて、一つを俺の前へと置いた。
「さぁ食べましょー」
笑顔で話し掛けてくる雪に対して俺は何も反応する事が出来なかった。
「和食…だめでした…?」
雪が恐る恐ると言った様子で俺に尋ねてくる。
「雪…悪い…そのエプ…ロンは…」
何とか声を振り絞って出したもののその声は掠れていた。
「雪…エプロンは新しいのを買ってやるからそのエプロンだけは…」
俺はどんな顔をしていたのだろうか
怒りの顔だろうか
哀しみの顔だろうか
ただ
ただ
俺の心は
ただ
辛かった
何かを感じ取ったのか雪は無言でエプロンを脱ぎ、綺麗に畳むとしまいに行った。俺は震える手でお茶を手に取ると一口啜った。そして呼吸を一息つくと雪を呼んだ。
「雪ー」
「はっ、はいー!!」
トテトテと小走りにやって来た雪に向かって俺は笑顔で話し掛けた。
「冷めちまうから食べようぜ。」
「い…ただきますー」
「いただきます。」
雪の料理はとても上手いものだった。しかし今の俺には味わう余裕などなかった。
「すいません…」
雪が急に謝ってきた。
「いや雪は悪くないよ。気にすんな。」
「でも…私が…」
「俺のせいでこんなになったけど、もうこの話はやめよう。な?」
俺は箸の動きを止め、雪を見つめた。
「はい…」
それからは二人の間に気まずい空気が流れ、結局俺が家を出る時の
「行ってきます。」と
「行ってらっしゃい。」しか話せせなかった。
俺は改めて心の中で自分自身の弱さと見つめ合った。
いや、見つめ合うだけではなく、再び俺は自分自身の弱さに負けたのだ。
ここまでくると弱さと言うより傷かもしれない。傷を自分で治そうとするが、完治する前に再び自分で傷口を抉り、痛みに耐える。
それの繰り返し。結局、俺は昔いや、あの日から何も変わっていない。変わろうとしていない。全く成長しようとしていない
罪悪感にまみれた中でも時間はしっかりと経過していき、冬の夜は深い闇に包まれていた。
時計を確認すると昨日帰宅した時間より大分遅くなっていた。俺の脳裏に昨日の俺が帰宅した時の雪の眠たげな表情が浮かんできた。
「まだ起きてんだろーな…」
俺の脚は次第に小走りに変わっていった。
「ただいま。」
「おかえりなさいー」
雪はすぐさま俺の所にやって来た。
「寝てていいのに…」と言った俺の言葉に対し
「眠くないー」と反論してきた雪の目は昨日よりも更にしょぼしょぼとしていた。眠気を払うように目をゴシゴシと擦ると、俺へ少し気の抜けた笑顔を向けた。
「ご飯出来てますから食べましょー」
「おう。」
俺が手を洗ったりして、テーブルの前に座った時、テーブルの上には今日の夕食のクリームパスタに野菜のスープが置かれていた。
「うまそうだな。」
「ふっふーん。」
雪は俺に褒められて鼻高々といった様子だった。
「じゃあ、いただきます。」
「いっただきまーす。」
俺はまず、パスタを口に運んだ。
「ど…どうですか?」
雪は自分では食べずに俺が食べている所を緊張した面持ちでじっと見つめていた。
「うん、すげー美味しい。」
クリームソースはとてもコクがあって、ソースだけでも美味しく食べられそうな味付けだった。
「良かったー」
雪はホッと一息付くと言葉を続けた。
「スープはどうですか?」
雪の言われるままに俺は今度はスープにスプーンを伸ばした。
「こっちもすげー美味しいよ。」
「よ、良かったー」
雪は再び一息付くと、やっと緊張が解けたのか見る間に笑顔に変わっていった。雪はそのまま自分もパスタを一口食べた。おいしい、と自分で呟いた後、俺の目を見ると笑顔で話し掛けてきた。
「これ昨日の残りなんですよー」
「え?」
俺はいまいち雪が言った事が理解できなかった。
「雪…意味が分からないんだが…」
「んーだからですねーこのスパゲティーのソースは昨日のシチューをベースに使って、スープはシチューに入ってた野菜を使ってるんですよ。」
「まじ?」
俺は目の前に並ぶ料理を確認した。
もう一度パスタを口に運ぶ。確かにシチューに近い味がしない訳ではない。
「まじですよーでも美味しくできて良かったです。」
雪はエッヘンと胸を張った。
「ん、うまい。」俺がそう言って、どんどんと食べていく様を雪は自分もゆっくり食べながらも笑顔で眺めていた。
「なぁ、雪…」
「はい。」
食器を洗い終えた雪がやって来た。
「今日の朝はごめんな…」
「えっ?…あっいや…私が悪いんで…」
「少し…前の話聞いてくれるか?…」
俺は雪の言葉を遮って呟いた。
「はい。」
俺は雪のその言葉を聞くと、ゆっくり息を吸い込み、そして、そのまま語り始めた。
「あのエプロンは、俺の恋人だった人の物でな…」
雪は静かに俺を見つめていた。
「俺と幼なじみの人でな、まぁ俺の五個上だったんだ。昔からいっつもいっつも姉みたいに俺の面倒を見てくれてたんだ。
いつからかな…
いつの間にか俺はその人の事好きになってたんだ。
高校ん時、もう抑えきれなくなって、彼女にやけくそで告白したんだよ…そしたらさ、向こうも俺の事が好きでいてくれてさ…
それからどんくらいかな…とりあえず最初の方はもうただ本当に嬉しいんだよ。何もかもを許せるって感じだな。
けどさ…彼女が隣にいる事をしっかり理解出来るるようになってくると、今度は自分自身の現実とか二人の未来や周りばっか見えてきて、気になり始めちゃってさ…
もう今の自分自身が分からなくなったりしたりしてさ…」
俺は一息付いた。
「今お茶を持ってきます。」
雪がすっと立ち上がり、台所から俺と自分の前に運んで来た。一口すすると、俺は再び話し始めた。
「意外にも五歳って年の差はかなりでかくて、俺が大学生になった時にはもう就職して二年目なんだぜ?
どんなに届こうって頑張ったって届かないんだよな…
彼女に合うような男になろうって、ただひたすらにがむしゃらに頑張ったよ…
で、何かを終えて、改めて自分の立ち位置と彼女の位置を見ると、彼女はいつの間にかもっともっと先にいるんだよ。それも立ち止まって俺を見つめていてくれるんだ。
勿論、実際の彼女はそんな事はしていなくて、多分ずっと俺の隣にいてくれてたんだと思う。
結局、どんなに頑張っても俺はガキのまんまでさ…
最終的にはその不安からのイライラが彼女に向いちゃってな…それで俺が勝手に別れたんだよ。それからは自己嫌悪の繰り返し。
俺、弱いんだ。この家、同居してて、彼女との色々な思い出があってさ。
やっと慣れてきたんだけど思い違いかもしれないし、雪にとっては傍迷惑なだけだろうが、時々、雪の動作とその彼女が重なって見えるんだ…
それで雪に八つ当たりだもんな…
変わってないよ、俺。
後悔して、凹んで、自分自身を罵ったあの日から…
あの時から何も変わってないよ…」
俺は再びお茶に手を伸ばした。先程まで温かかったお茶はいつの間にかぬるくなっていた。
「変わってますよ。」
「え?」
俺は口元まで運んだ手を止めた。
「私はずっと見てきた訳じゃないけど多分変わって、優しくなって、強くなって、温かくなって、かっこよくなってますよ。」
「何で…何でそんな事が…」
「だって…今、私がそう思ってますもん。」
それじゃダメですか?、と雪は微笑んでくれた。
「あ…あ、りがと…う。」
その後、俺は少しギクシャクとしてしまっていたが、それでも雪は今まで通りに振る舞ってくれた。
電灯を消し、互いの場所に横になった。
「明日も家にいないんですか?」
部屋の暗闇に雪の声が響いた。
「悪いな…明日もなんだ。」
俺は布団の中でゴソゴソと雪の方に向き直って答えた。
「そうですか…」
「どうした?」
「いえ、何でもないです。おやすみなさい。」
「おう、おやすみ。」
釈然としない物が俺の胸に残り、なかなか眠くならなかったが、ベッドから雪の寝息が聞こえ始めるといつの間にか眠りについていた。




