9/17 18:05
四本目の現像。コントラストを押し出したぶん、けっこうパンチのきいた作品が出来上がってきた。
「奏歌、どう?」
「うーん……」
甲乙つけがたいといった様子。このくらいになるともう俺には違いがわからなくて、判断がつかなくなってしまっている。あとは奏歌の感覚次第だ。
「その感じだと、また駄目みたいだな」
「……ごめんね、わがまま言って」
俺としては、迷っているという時点で、奏歌の基準からは外れていると見ている。本当に素晴らしければ、奏歌は口をぽっかり開けて陶酔するんだろう。そのへんはわかりやすくていい。
「いいんだよ。そのためにやってるんだし。ただ、明日から天気がな……」
明日の朝までは晴れるらしいけど、その後は台風が来る。もう西の方ではすごいことになってるらしく、今朝も大気が不安定で雲が多かった。
「十八、十九、提出が二十日だから、あと三回だね」
夏休みの序盤からやってるというのに、時間はあっという間に過ぎていった。父さんなんてもうぴんぴんしてるし、前借りした給料だってほとんど返済し終えてるんだから驚きだ。
「あと何枚撮れるかわからない。今のうちにネガを絞って、プリントも最終調整に入らないと」
9/18 05:38
日の出はあと三回。が、今日は曇っていた。
「まあ、そう気を落とすなって」
「でも……」
真夏の暑さがうそのように、今朝は涼しかった。風が湿っぽくてこれからは蒸してきそうだけど、秋の気配がだんだん近づいているのがわかる。
「どうにもならないものはどうにもならない。あきらめも大事やで」
「キアキくんはいいなぁ。あきらめるのが得意で」
奏歌がフェンスから飛び降りると、固定用の枝が風にざわざわ鳴った。
「あきらめるは一時の恥、あきらめぬは一生の恥ってな」
くすっと笑う奏歌。
「なにそれ。なんか違うよ」
「思いつめたってなんか変わるわけじゃない。今できることをすればいいんだよ。とにかく、午後はひたすらプリントを頑張らないとな」
「そうだね……」
励まそうと思って冗談を言ってみたものの、奏歌の表情は暗かった。
「ね、明日どうしようか?」
明日は台風。直撃だそうだ。
9/19 05:19
強い風の音で目が覚めた。時計を見ると五時十九分。じっさい、音なんかなくてもこのくらいの時間には起きてしまう体になってしまっていた。
カーテンを開ける。すごい雨だ。暗い夜明け前に、いつもの木がばさばさ踊っている。
そこに、人影があった。
「……奏歌!?」
窓から大声で呼ぶ。
「奏歌! なにやってんだよ!」
「あ、キアキくん……」
声は風にすこしかき消された。レインコートの奏歌はゆっくりと出窓に近づいてくる。
「お前、どう考えても今日は無理だろ」
「うん。だけど……」
「とりあえず玄関入れよ。そんなとこいたら風邪ひくぞ。ていうかいつからいたんだよ? どうやって来た?」
奏歌はうつむくだけ。雨がどんどん吹き込んできて、俺も奏歌と同じくらい顔がびしょ濡れになっていた。
「……ごめんね。私、あきらめられなかったの」
「いいよ、謝ることないって」
「ずっと頑張ってきたから。ずっと頑張ってきたのに、こんなのってないよって思ったら、どうしても来ないでいられなくて……」
髪が額にはりついている。部屋の電灯を水滴がほのかに映した。
「こんな雨のなか、突然晴れて太陽が出てくるなんて、そんなわけないってわかってる。そんなキセキみたいなこと、起こったりしないって知ってる。そんなふうに期待するなんておかしいって。でも、あきらめたくなかったから。それで……」
吹きすさぶ風も、たたきつける雨粒も、感覚がなかった。
「だから、ごめんね……」
言葉につまる。こんなこと言う奏歌ははじめてだ。俺は、どうしたらいいんだろう。
「……駅まで送ってく。着替えて傘持ってくるから、ちょっとそこで待ってろ」
駅に送り届けるまで、奏歌は一言も話さなかった。俺が話しかけなかったっていうのもあるけど、体調を崩してるのは間違いない。あれじゃ学校は休むしかないだろうな。
明日は文化祭前日。当日の出品は認められないから、チャンスはあと一回。
9/20 05:21
晴れた。綺麗な朝焼けだ。昨日の雨が空の汚れを取り去って、かわりに飾りつけしていってくれたみたいに。たぶん、朝焼けを撮りはじめてから俺が覚えてるかぎり、一番鮮やかな朝だと思う。
でも、ここに奏歌はいない。
昨日の出来事を思い返す。ずっと俺が感じていた、言い知れない不安が悪い形で現れたかのようだった。奏歌は、ちょっと人とは違うところがある。天才的な感覚を持っていて、好奇心や行動力が強く、感性が鋭い。それはとても良いことだ。
だけど同時に、その力は自分自身さえ知らないうちに奏歌をどこかへ連れ去ろうとする。この凡庸な世界から抜け出して、奇跡みたいな感動を求めて飛び去って行く。危うい舵を軋ませながら。
だから、俺のような普通のやつがついていけるはずがないんだ。
庭はどこからか落ち葉が散っていて、嵐が去ったあとの名残りを残している。もうこれっきり、奏歌は来ないのかもしれない。そんなことを告げられているように感じた。
フェンスに肘をつき、腕を三脚がわりにして800SPのファインダーをのぞく。
直に見られないのなら、写真にしておいてやらないと。
無理しすぎたんだ。少し休ませてやろう。
今ごろ家で寝てんのかな。寝顔を撮ったら怒られるだろうか。
いつも寝癖をばかにされてるんだ。少しくらい仕返ししてもいいだろ。
ぴょん、とフレームの中で髪の毛が跳ねた。
「キアキくん、遅くなってごめんね! 寝坊しちゃって……!」
「奏歌!? なんでそっち側から来るんだよ!」
「だって、入り口の柵が閉まってたんだもん」
そういや台風で車に物が飛んでこないように父さんが閉めてたっけ。
「ていうかお前なにその服、それパジャマじゃない?」
奏歌は恥ずかしがりたくてもそんな暇はないという感じだった。
「だから寝坊したんだってば! 早く撮らないと!」
太陽はもう顔を出そうとしている。格好を面白がってる場合じゃない。奏歌は一度フェンスを乗り越え、こちら側から脚立でまた上った。
「大丈夫か? なんかふらついてるみたいだけど」
「うん。まだ熱あると思う。それに急いできたからちょっと……」
「ふふ……。ははは……」
まずい。なんか笑いがこみ上げてきた。
「キアキくん、いくら寝起きで来たからって笑うのはひどいよぉ」
「悪い。ちょっとおかしくってさ」
たしかにちょっとおかしいかもしれない。でもそれが何だっていうんだろう?
「よし、キャップ外した? 設定は合ってる?」
「F11、1/60だったね」
結局、最後まで設定は確立できなかった。白飛びを押さえながらコントラストで見せるには、暗めに撮っておいてプリントで補正するというのが今のやり方だ。
「これで最後だ。あとはまかせるからな」
奏歌がうなずき、木の枝で体を支えようとした瞬間。
めきっ、と枝が折れた。
「え……うそ……」
なんとかフェンスの上で奏歌はバランスを保った。俺も呆然としながら、落ちるように飛び降りる奏歌と折れた枝を見比べる。
「キアキくん、どうしよう!?」
台風で折れかけてたんだ。枝がなければ体を固定できず、今までの構図では撮ることができない。
「くそっ、こんなときに限って……!」
どうする? 脚立から撮るか? いや、それじゃ高さが足りない。ただフェンスの上で立つだけじゃブレが激しすぎる。納得がいかなければ奏歌はシャッターを切れない。切る意味がない。
いつもこうだ。いつも、うまく行っているときに限って何か悪いことが起きる。
あきらめるか?
あきらめるしか、ないのか?
「そうだ! 良いこと思いついたよキアキくん!」
「え?」
奏歌の顔は、空と同じオレンジ色をしていた。
「私たちの、二人三脚だよ!」
あっけにとられる間もなく、奏歌の指示にしたがう。
「こ、これでいいか……?」
「うん、そんな感じ!」
フェンスに立った奏歌を、俺が脚立から支える。これが俺と奏歌の二人三脚だった。
「だけどこの姿勢、いつまでもつか……。いつ撮れる!?」
両腕で奏歌の背中を押しつづける。思った以上に辛いんだけど。早くも二の腕がつりそうだ。奏歌が構えているカメラは相当ぶれているだろう。そりゃそうだ。一応シャッタースピードを一段早めておいたものの焼け石に水。
「わ、わかんない。ごめんね」
奏歌が喋ると、背中から動きが伝わってきた。
「いや、いつでもいい。余計なことは考えなくていいから、お前はシャッターを押すことだけに集中しろ」
「うん、わかった……」
奏歌の呼吸が変わった。たぶん口で息をしはじめたんだろう。奏歌の撮るタイミングなら、この二ヵ月ずっと見てきた。うまく合わせればブレを抑えこめるかもしれない。
景色は見えなくなった。見えるのは逆光の奏歌の背中だけ。
両手で読み取ろうとする。奏歌の目が見ているものを。
太陽が遠い山々の稜線から離れる。街は照り返し、眩しさを増す。雲のふちが燃える。
風景だった世界が心に入りこんで、感動に変わるとき。
大きく息を吸いこんで、ゆっくりと長くはきだすとき。
カシュ。
思ったとおりのときに、思ったとおりの音がした。
「……撮れた! 撮れたよ、キアキくん!」
「よし、よくやっ……うわああああ!」
「きゃあああ!」
足をすべらせた奏歌がこっちに倒れてきて、俺を脚立ごと崩し落とした。横になったまま目が合うと、いっせいに叫ぶ。
「カメラは!?」
二人して見まわす。ない。奏歌の腕の中にもない。どこに落ちてるんだ?
「あ、あったよ!」
フェンスの根元から奏歌が拾う。
「どう!? 壊れてないか!?」
「あ……」
向けられたレンズには、削ったようなひどい傷がついていた。
「レンズが……!」
どこかにぶつかったんだ。フェンスの金具か、コンクリートの角か。どっちにせよ、結果は変わらない。
「な、直るの……?」
カメラのことをよくわからないぶん、心配そうにする奏歌。
「こうなったら無理だ。でも、レンズを交換できれば大丈夫だと思う。衝撃でマウントの部分までいかれてないといいんだけど……」
レンズ自体は取り外せばいい。しかし、接続するところが痛んでいては本体の修理が必要だ。新しくレンズを買うにしても直すにしても、かなりのお金がかかる。なにせ、これはあのRD―4なんだから。
「カメラに穴開いて、フィルムが感光しちゃったりしないかな?」
「そんなやわな造りじゃないから安心しろよ。ふたも開いてないみたいだし撮れた写真は無事だろ、たぶん……」
「たぶん!?」
泣きだしそうな奏歌が可哀想になる。少なくとも、もうこのカメラで写真を撮ることはできない。名実ともに今のがラストチャンスだったわけだ。
「悲しんでる暇はないって。今日中にこれを現像して、写真にしないと」
「うん、だけど……」
傷ついたRD―4を両手に包んで、朝の光に抱れる奏歌。
今はもう少し、このままでいさせてやりたい。
最悪なことに今日は普通に学校がある。現像とプリントのシミュレーションをしていて授業は何も頭に入らなかったし、体育のサッカーですら凡ミス連発だった。終わると同時に速攻で家に帰り、自転車で奏歌の中学へ向かう。
「キアキくん、こっちこっち!」
いつもの裏門、自転車置き場に停め、待っていた奏歌と元職員休憩室に入った。
「お前、目立たないようにしてろって言ってるだろ」
文化祭前日の今日は準備で高校生たちがいろんなところを動き回っている。一週間くらい前から、普段は人気のないここにも使わない机やロッカー、その他よくわからない木材、段ボールなどが置かれるようになっていた。
「だって、急がないと」
「それはわかってるって。だけど焦らせるなよ。時間どおり現像しなきゃ水の泡になる」
「う……そっか。よろしくお願いします」
まったく、風邪ひいても暴走癖は治らないらしい。
「さて、俺にとってはここからが本番だな」
何度となく繰り返した現像。ただ、一枚しか撮ってないフィルムを現像するのは初めてだ。念入りに薬品を調整してから作業に移る。
「……はい、時間だよ!」
定着液を排出。慎重に水洗い。傷つけないようタンクから出す。
「キアキくん、どう!?」
並んだ三十六個の部屋の中に、一枚だけ感光した部屋。
「大丈夫そうだ。ひとまず安心できそう」
ほっと息をつく。が、それから乾燥するまでが長い。そわそわしながら待つ間、予備の作品を選んだり、緊張に耐えかねてお菓子を買いに出たりしたけど味がしなかった。というより停止液のにおいで変な味になった。
「もう四時だ。プリントしないと間に合わなくなる」
六時までに、大学に行って係の人に渡さなきゃならない。プリントの出来を吟味できるのはそれまで。
「……キアキくん、頑張ってね」
暗室に入ろうとしたとき、奏歌が声をかけてくれた。
「ああ。頑張ってみるよ」
スイッチを入れると、ぱっとセーフライトが灯る。頑張るさ。そうだ、俺は今、頑張りたいんだ。絞りと明るさを調整し、ピントを合わせる。
「やった……ちゃんと撮れてる」
しかも、かなりいい具合に。今わかるのはそのくらい。何十枚とプリントしても、結果を見るまでは何とも言えない。
まずはテストプリント。一枚の印画紙に、露出を変えた部分を何段階か作り、奏歌に選んでもらう。
「これ! キアキくん、これがいいよ!」
すごい食いつきの奏歌の反応から、期待が高まる。
決めた時間で露光。現像液から定着液、そして水洗へ。
「奏歌、これでどうだ!?」
水かこぼれ落ちるまま、よく確認もせずにドアを開け、奏歌に見せる。実際のところ、俺は見なくたっていいくらいなんだ。
奏歌は、一瞬言葉を失ったらしい。
「……なんか、ぎゅう~っ、って感じ。すごくステキだよ」
なんだそれ。持ち替えて、俺もよく見てみた。
印画紙を落っことすところだった。
ハトや小鳥の鳴き声が聞こえる。暗さと明るさのはざま、街の静けさの向こうに、近づいてくる紅の帯。群青から金色まじりのピンクへ色が移りゆく空は、まるでとてつもなく大きな虹のようだ。雲は、染めた紙細工みたいに光を吸い、翼を広げて浮かんでいる。
奇跡。そういう大げさな言葉がしっくりくる。
だって、これは白黒の写真なんだ。天然色じゃない、モノクロの。
本当にここに、本物の今朝があるみたいじゃないか。
記憶の中のイメージが弾ける。知っている色たちがどんどんあふれでて、奔流になってほとばしるんだ。
「見えた……」
「え?」
感動に震えた声で、口の開いた奏歌に伝える。
「奏歌……。俺にも、色が見えたよ!」