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7/11

7/24 14:13

「さ、今日はプリントだね!」

 奏歌がいそいそと暗室に薬品と印画紙の準備を始める。俺はフィルムを適当な長さに切り、ほこりを掃いてから台紙の上に伸ばした。

「気に入ったの選べよ。どれが一番写真にしてみたい?」

「えーっとね……」

 ルーペでネガをのぞきこむ奏歌。暗いのでやや見づらそうだ。窓の外に目を向けると、ちょうどコンクリート地にぽつぽつと水玉ができだしていた。

「降る前について良かったわ。どしゃ降りになりそうだし」

「天気予報で雷に注意って言ってたよ。日の出のときは全然雲なんてなかったのに」

 俺が塾へ行くころにはもう雲行きが怪しくなっていた。ていうか、今朝も来てたんだな。

「どう? 決まった?」

「そんなすぐに選べないよぉ」

「別に、よく撮れてるのを探せってわけじゃないんだぞ」

「だって、どれも思い入れがあるんだもん」

 奏歌に選ばせたのが失敗だった。自分が撮った写真なんだから、全部良く見えるに決まってるよな。

「もうちょっと待って決まらなかったら、俺が消しゴム転がして上に乗ったやつにしてまうで」

「えぇー……。待ってよ……」

 フィルムが汚れるからそんなことはしないけどさ。口を開けてフィルムのあちこちを行ったり来たりする奏歌は冗談につきあう余裕もないらしい。

 これだけの間にかなり雨足は強くなっていて、遠くに見えるグラウンドのすみでは野球部が急いで片付けをしていた。父さんいわくここは野球が強くて有名だそうだけど、昨日からサッカー部の練習もちらほら見かける。

 改めて、まさか自分が写真にはまって、モノクロフィルムの現像までするなんてな。あの頃は想像もしなかったよ。

「……はい! じゃあこれ!」

 苦渋の決断をしたらしい奏歌から指定のネガを受け取り、光にかざしてみる。

「なんだこれ? ああ、ハトが飛んでる写真か」

「うん。ちゃんと空感出てるかなと思って」

「空感ねえ。そういえば言ってたなそんなこと。俺にはよくわからんがな」

「プリントして写真になったら、きっとキアキくんにもわかってもらえるよ!」

 今までだったら即答で否定してたかもしれない言葉。でも昨日現像したフィルムを見たとき、俺の中でたしかに何かが変わった気がしたんだ。

「……やってみるか」

 暗室に入ると、涼しいというよりは寒かった。薬液の温度を保たないといけないのでエアコンは二十度に設定してある。扉一枚隔てただけでこの温度の極端さだよ。

「寒い上に臭いんだよなぁ」

 フィルムのときと同じように、プリントでも四種類の液体が必要だ。現像液、停止液、定着液、そして水。酢酸のにおいとエアコンのにおいも相まって、暗室の環境は劣悪と言っていい。さらに言えば狭くて暗いしな。

 一人で愚痴るのもむなしいので、その点はあきらめることにする。エアコンは暗室にしかないから奏歌は蒸し暑いところ次のネガ選びを頑張ってくれてるわけだし。

 まずは引き伸ばし機をチェック。ぱっと見れば大きな顕微鏡みたいにも見えるこの機械にネガをはさんで光を当て、印画紙に感光させる。要するにカメラとフィルムでやっていることを、引き伸ばし機と印画紙で行うということのようだ。

本を持ち帰って予習したとおりに光源とレンズをいじってみた。最初なのでマニュアル通りに、レンズをF8に絞っておく。

「あー、なんか眩しい」

 赤いセーフライトは暗い灯りなので、引き伸ばし機の光を出すと目に残ってしまう。カメラのフラッシュさながらだ。数度まばたきしてネガを器具に固定し、スライド映画のように台へ投影した。

「おお……!」

 思わず声を上げた。絵が映し出される。飛び上がるハトの写真だ。ただ、輪郭がぼやけているのでピントを調整しなければならない。

「……えっ」

 合わせてみて驚いた。こんな良い画が撮れてたのか。

淡い諧調の空にはばたく翼がもつリズム。近くに数羽、遠くに数羽、奥へいくほどぼけて、空間が広がりを見せている。そこへ、抜け落ちた羽の舞っているさま。ここに、空があるみたいだ。

これが奏歌の言っていた「空感」っていうことなのか? 奏歌はいつも、こんな風に景色を見ていたのか……。

 それだけじゃない。見たものを写真にして表現するには技術が必要だ。あのときのカメラの設定は試しにF値開放、シャッタースピードを1/1000にしてみただけ。うまく撮れたのは偶然かもしれない。だけど、この構図。ピントの合わせ方。これは天性のものだと思う。

 たぶん、奏歌は普段から綺麗なものや、良いと思ったものに感動して、それがどんな風に自分の心に響いたかを知っているんだ。それでいきなり走りだしたり、変な恰好をしたりして構図を求めていく。

 光の窓に飛ぶ鳥の群れを前に、胸が高鳴った。すごい。やっぱり、あいつはすごいよ。

「印画紙は……これだよな」

 セーフライト下では物が見つけづらい。順序を間違えないよう慎重にやらないと。ただ、フィルムさえ損失しなければいくらでもやり直しがきくのはだいぶ安心できる。すると、外から轟音のような響きが聞こえてきた。

「雷か」

 帰りの心配はひとまず後回しだ。今は作業に集中。

 まるで稲光みたいに光を照射し、印画紙に像を写す。所定の時間で露光を止め、台から固定を解く。それからいよいよ現像液にひたす。

「うわ……」

 俺、さっきからうめき声を出してばっかりだな。でも、これはたしかに楽しい。みるみるうち、にじむように紙が写真になっていく。

 面白がってばかりもいられない。現像にムラができないようピンセットでゆすり、液が印画紙の全体にいきわたるようにする。時間は一分ほど。画像がさっきの状態に近づいたら引き揚げ、停止液の中へ。

 停止液を波立てるとにおいがたってくさい。十秒ほどで十分なのは助かるけど、液を切るときにぽたぽたたれてやはりくさい。

 若干吐きそうになりながら、定着液につけこむ。これはおよそ三十秒。待ち遠しく思いながら数え、最後の水洗いに移る。

「奏歌! できたぞ!」

 水滴のしたたる印画紙をつまんで運び、ひじと肩でドアを開けた。

「本当!? 見せて見せて!」

「ほら」

 奏歌は机から両腕の方へ回りこんでくる。

「わあ……!」

 手を合わせて感嘆する奏歌。撮ったときと同じように、写真をまじまじと見つめ、静かな息をもらす。

「口、開いとるで」

「ん」

 多少恥ずかしそうに返事はするものの、閉じ切ったことはまだ一度としてない。でも、気持ちはわかる。

「これ、良い写真が撮れたな」

「うん。ステキ。うはぁ~っ! って感じ」

「どないやねん」

 あいかわらずの謎表現。だけど、今回は伝わってくる。

「お前の言ってた空感、わかる気がするよ」

「ホント!?」

 いままで写真に向けていたような表情が、今度は俺に向かってきた。

「ホントに……!? わかってくれたの……!?」

 なぜだかつらくなる。やめてくれ。そんな目で俺を見るのは。

「ぜ、全部やないんやで。ちょっとなんやで」

「キアキくん、じゃあ次はこれね!」

「え?」

 顔をそむけた隙に奏歌は新しいネガを指さし、俺に手渡してきた。

「次は自分でやってみたら?」

「私は学校に来ていつでもできるから、一緒のときはキアキくんにやってもらおうかなって。それに、今は早く写真にしてみたいもん」

 体よく利用されてるようにも聞こえるんだけど。でもまあ、仕方ないか。俺だって早く見たい。

「よし。これだな。ちょっと待ってろ」

 暗室に戻り、さっきの要領でプリントを始める。奏歌が選んだのは、川で撮った「水感」だった。

「……できた」

 今度はしっかり水を切って、机の上にそっと置く。

「……すごい、良い写真だな」

「うん。ふおぉ……って感じで、ステキ」

 逆光に乱反射する水面がこちらに流れてくる。夏の雲は高く、大きく、悠々と見下ろし、まるでお城みたいだ。しかしやはり、色濃く描きこまれた川は全体を引き締めていて、潤うような水のつめたい手触りを思い出させた。

「お前……。もしかして、写真撮るのうまいんじゃないか」

「えっ? めずらしいね、ほめてくれるんだ」

「いや、冗談じゃなくて」

 そうだ。だって、これは色も何もない、白黒の写真なんだ。なのに俺は見惚れるばかりで、完全に引き込まれてしまっている。自分で現像したからってのもあるだろう。それは否定できない。だけど、この写真は何か違う。俺が最新のカメラで撮った写真とも、何かが決定的に。

「本当に、感動してるんだよ……」

 ぼそっと小声で言うと、奏歌ははにかんだ。

「なんか、嬉しいな。私が撮った写真でそう言ってもらえるの」

 ふと思って、奏歌に向き直った。

「あの、憧れの写真、いま持ってる?」

「あ、うん。あるよ」

 荷物から出された写真を受け取る。

 手が震えるようだった。

 柔らかな光。街並みのほの暗い建物をモザイクのように照らし、朝の生気を与える。空気は澄んでいるけど、まだ冷えていて重たいのだろう。山の木々は静かで、眠っているらしかった。雄大なのは天空だ。たなびく雲の切れ間から帯がさす。明から暗に、どこまでも続いていく、絹みたいになめらかなトーン。

 そこにある色の調和――

「あ……」

「キアキくん、どうしたの?」

 すいこんでいた息をゆっくりとはきながら、奏歌に答える。

「……見えるかもしれない」

「見えるって?」

「今、なんていうか、見えそうだったんだ。この写真に色があるみたいに感じて……」

「……ホントに?」

 奏歌は微笑み、たしかめるように言った。

「私たち、仲間だね」

 今までどこか遠い存在だった奏歌が、急に近くにいるように感じられた。これまで届かなかった感覚に、もしかしたらたどり着けるような気がした。

「……ああ、仲間やな」

 まだ全部が見えたわけじゃない。だけど今は、自然と素直にそう言える。まあ、少しだけ照れくさいけど。

「あっ」

 奏歌の抱えていたファイルから紙がすべり落ちたので、俺が拾い上げる。前に見た、ここの文化祭のチラシだった。

「……そうだ!」

「ど、どうしたの?」

 チラシの一部分を奏歌に示す。

「この写真コンテスト、応募してみないか!?」

 久しぶりの意外そうな反応。

「応募するの? コンテストに?」

 きょとん、っていう感じ。そういえば前聞いたときもあんまり興味はなさそうだったな。

「お前のじいさんが撮った、この憧れの写真みたいな写真を撮るんだろ。どうせなら文化祭でみんなに見てもらうんだよ。別に見せ物にするわけじゃなくてさ、賞品もたいしたことないし」

「で、でも、締め切りまでに感動する写真が撮れるかわからないよ?」

「目標があった方が気合い入るじゃん。それに、とにかく俺はお前の写真をほかの人にも見てもらいたいんだよ。身内のひいき目だとは思うけど、お前、本物の天才かもしれない。ま、カメラがRD―4ってのがあるにしても」

 言いすぎだと思っているらしく、奏歌は両手で否定する。

「そんな、キアキくんの現像が上手だったからだよ」

「今、自分の撮った写真に感動してもらえるのは嬉しいって言ってたよな。コンテストに出せば、みんなきっと感動するって。お前がいつも言ってる、うおぉ~っ、とかいう気持ちも、空感だの水感だの、そういう言い方じゃ正直よくわからんけど、写真にしたらわかってもらえるかもよ」

「わかってもらえる……」

 胸に手を置く奏歌。これまで奏歌が写真を撮ってきたのは、言ってみれば自分のためだ。「ステキ」とか「キレイ」とかみたいな感情に対する反射的な行動。

俺が奏歌の見た世界を分けてもらったように、ほかのだれかとも分かちあえたら。いま感じたような感覚を、感じることができたら。

「それは、ステキなことだね……!」

 口を開いた奏歌は、心からそう思った様子だった。

「じゃあ、決まりやで」

 光のすじが部屋にさして、短い影たちがあらわれた。雨が止んだんだ。

「あっ、キアキくん見て! 虹だよ!」

 二人とも、何を言うでもなく外へ出た。露まみれの植樹の向こう、東の空に虹がかかっている。

「綺麗な虹だな」

 ほぼ無意識的に手はカメラをつかんできていた。一眼レフのレンズを通したファインダーをのぞきこむ。オートフォーカスの電子音につづいてシャッターを切ると、パシャッ、とミラーの音がした。

「……うん。キレイな虹」

「撮らないの? 昨日フィルム交換してたよな」

「あ、そうだね!」

 奏歌は駆けだしてRD―4を取りに行く。こいつの場合、まず景色に感動するのが優先らしい。

「虹って、どうやって撮ったらいいのかな?」

「良い質問やないか。心のおもむくままに……とでも言いたいとこだけど、ここはオートフォーカスを参考にしてみるか」

 パネルを確認。今の設定はF5.6、1/250だった。カメラが違うぶん、どこまで共通してるかはわからない。

「こうだね」

 奏歌はダイヤルを合わせて被写体に構え、フレーミングしながらピントを合わせる。

RD―4のピント機構はレンジファインダーという独特のシステムで、二つの採光窓から送られてくる二重像をファインダーで重ね合わせるものだ。もちろんフルマニュアルなので、ここがセンスの問われるところ。

 風の音や、再開しだした部活の声がなくても、たぶん奏歌の口から息の音は聞こえなかっただろう。

 カシュ、とシャッター音がすると、奏歌は淡い眠りから覚めたかのようだった。

「じゃあ、文化祭に向けて頑張るか」

「うん。だね!」

 気がついた。俺、いつのまにか奏歌みたいなことを言うようになってる。

 途中で飽きてしまうんじゃないかとか、あきらめてしまうんじゃないかとか、そういう不安はたしかにある。でも今、この虹を眺めていると、そんなことは考えられなかった。

 俺にも、あの写真の色が見えるかもしれない。

 モノクロだった世界が、カラフルになるかもしれない。

 とにかく、それが嬉しかった。

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