都会と雑踏のゴースト
都会の雑踏。その中で蠢いている欲望やら希望やらといった感情。
都会、街、巨大な牢獄。
長く長く伸びるメインストリートをゆっくり歩いていると、街は時間と感情に縛られた牢獄に思えてくる。
ビルボードの中でほほ笑むグラビアの美少女、車のエンジン音に負けじと声高らかに叫ぶ呼び込みの男。
溜息が漏れた。
何に対して苛立っているのか、何に対してこうも憂鬱を感じているのか。得体の知れない何かに囚われているような、気持ちの悪い感覚。
立ち止まる。道の真ん中に突っ立つ俺を、道行く人々は意にも介さず避けて通っていく。
絶え間なく都会は流れ続けている。時間、人、車、電車。ありとあらゆるものが、常に流れ続けているのだ。
街は流れることで成立している。だから、流れに逆らうモノは存在しないのと同じだ。
こうして道の真ん中で突っ立つ俺も、このまま動かなければ街に呑まれて消えてゆくのだろうか。そんなことを考える。
それでも、結局俺はまた歩き始めるのだ。
存在しない人間。流れに逆らう漂泊者。
ビルの間から冷たい夜風が流れてくる。俺はその風から逃れるように、歩き出した。
※
メインストリートを離れ、ホテルが立ち並ぶ通りへ出る。ざわついていたメインストリートと違い、ホテル通りは静寂に満ちていた。
何軒かのホテル、その中でも特に豪華な造りのホテルに入り、エントランスを抜け、エレベーターで展望バーへと向かう。
柔らかな光に満ちていたエントランスに比べ、バーは暗い中にうっすらと間接照明が灯るだけの、ムーディーな空間になっていた。
店内を見回し、目当ての人物を見つける。俺は、ジャケットの襟を直し、髪をかるく整えると、その人物の元へと向かった。
「ドライマティーニ」
バーカウンターに立つバーテンに、カクテルを注文し、俺は儚げに酒を飲んでいる女性の横に座った。
「気障な男は好きじゃないの」
女はこちらを見ることなく、冷たく言った。
「別に気障でもないさ」
「フォーマルなスーツに、展望バーで注文するマティーニ。これ、気障な男が最も好むシチュエーションだと思うんだけど」
「狙ってるならそうだろうね。ただ、俺がスーツを好んでるのは、フォーマルでスマートな男を演じたいからじゃないし、マティーニだって単に好みってだけさ。展望バーで酒を飲むのも、自分に酔いたいからじゃない」
「どんな理由なの? 予想はつくけど聞いてあげるわ」
バーテンがマティーニのグラスをカウンターに置いた。俺はグラスを手に取ると、ひとくち含むようにマティーニを口に流し込んで、ゆっくりと飲み込んだ。
「いい女に出会うためって言ったら、どうする?」
女はくすりと笑い、初めて俺の方を見た。
「予想通り」
「予想を裏切れなくて申し訳ないね」
「気障な男」
「そうかな? 家じゃボイラーメーカーなんかを飲んで、へべれけになる男だったりするかも」
「へべれけ男がボイラーメーカーをチョイスするかしら。私はリバー・ランズ・スルー・イットにかぶれてる気障男に思えてくるけど」
女は楽しそうに笑う。俺は残っているマティーニを飲み干して、オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルを注文した。
「君のイメージを裏切らないように、少し洒落たものを注文したくてね。残っててよかった。バーボンは好きかい? よかったら一緒にどうかな」
「あまり好まないけど、今夜はいい気分だから、お付き合いするわ」
隣に座る女性の瞳に浮かぶ、疲労が混じった鈍い光。それがたまらなく魅力的だった。
ふたつのグラスに、バーボンが注がれる。アメリカのおとぎ話に由来するこの酒を、俺は好んでいた。この酒を口にすれば、そのまま永い眠りにつけるのではないか。そんな考えがあるからだ。気障、なのかもしれない。ただ味が気に入っているという理由だけでいいではないかと自分でも思う。
「この店に残ってるのはこの一本だけなんだ」
「そんなお酒を、分けてもらっていいの?」
「構わないよ。こうやってうまい酒を君のような女性と飲み交わせる。幸福なことだ。乾杯しようか」
「何に対して?」
「そうだな……気障でもいいかい?」
「ええ」
「君との出会いに」
女性が声をあげて笑った。
「ごめんなさい、あまりにも映画チックというか、ハードボイルド小説にかぶれてる感じというか、とにかくツボに入っちゃった」
グラスを、軽くぶつける。乾いた音が店内に流れるジャズと混じり合い、消える。
そうして、俺たちは酒を飲み交わし、しばらくの間会話を楽しんだ。
「シャワーはどちらから?」
「どちらからでも」
「じゃあ、お先に」
バスルームに消える彼女の姿を見送り、俺は背広を脱いだ。内ポケットからピルケースを取り出し、〈ホルスター〉を外す。窓際に置かれた椅子にホルスターを置き、その上をおおうようにして背広を置いた。
窓の外には美しい夜景が広がっている。
あの後、こちらから誘う前に、女性の方から部屋に来ないかという誘いを受けた。もともとそれを狙っていたのだから願ってもない誘いだったが、その分警戒をする必要もある。
彼女が宿泊している部屋は、高級な部屋が並ぶ高層階にあった。
今のところ待ち伏せもなく、何事もなくただ彼女がバスルームから出るのを待つばかり。
バスルームに誰かしら潜んでいるという可能性もあるが、その時はその時で対処すればいい。
俺は冷蔵庫の上に置かれたグラスを二つ手に取り、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをグラスに注いだ。そのうちひとつにピルケース内の錠剤を溶かし、再び窓の外に目をやる。
虚無感、とでも呼ぼうか。そんな感情が心の中に黒い塊を作り出している。
自らの生き方に後悔しているのか。
それとも、あきれているのか。
考えても答えは出ない。
「いい景色でしょ」
背後からの声。振り返ると、バスローブ姿の彼女が立っていた。
「街の中にいると、ごちゃごちゃして鬱陶しく感じるのに、こうして俯瞰して見てみると、すごく綺麗に見える」
「ああ、本当に綺麗だ。嫌になるほど、ね」
俺はミネラルウォーターの注がれたグラスを彼女に差し出す。
「風呂上がりに一杯どうかな?」
「これ以上酔いをさましていいのかしら?」
「むしろそのほうがいい。酔いのせいにされたくないからね」
彼女がグラスを受け取り、俺ももうひとつのグラスを手に取る。
二度目の乾杯。そして、ふたりでミネラルウォーターを飲み干す。
「じゃあ、シャワーを浴びてくるよ」
不審に思われないよう気をつけながら、警戒心を高める。バスルームへ続くドアに手をかけ、ゆっくりと開ける。視界に入る部分を手早く見回し、脱衣所に入る。どうやら、潜んでいる者はいないようだ。
シャツを脱ぎ、手首に隠していたナイフを外し、バスルームに入る。彼女が出たばかりのバスルームは、まだ温かかった。
シャワーを浴び、汗を流す。
身体を洗い、軽くシャンプーをしてバスルームを出た。
彼女はまだ窓の外を見つめていた。
「景色を見るのが好きなのかい?」
隣に並び、訊いてみる。
「俯瞰して見つめるって、別にこうして高いところにいなくてもできたかもってね」
「どういう意味?」
「ごちゃごちゃしてるって決めつけないで、ちゃんと見てみれば、街も悪くなかったのかもって」
彼女の憂鬱な色彩の瞳に、靄がかかっている。薬が効いてきたのか、それとも、涙を流そうとしているのか。
何か言おう。そう思い、口を開いた瞬間。
彼女が、俺の口をキスでふさいだ。
軽く開かれた俺の口に、彼女の唇が押し当てられ、舌が入り込んでくる。ねっとりとしたキスだった。
それに応えるように、俺も舌を絡ませる。
息遣いが、交わされた口づけを通じて感じられる。
唇を離すと、少し紅潮した彼女の頬を、撫でる。
「いきなりだね」
「ごめんなさい」
「いいや、別にいい。女性の方から求められるってのはうれしいことだから」
彼女が、バスローブを脱いだ。そして、二度目のキス。
先ほどよりも激しく、そして、どこかいやらしく。
そのままベッドに入り、俺たちは夜を共にした。
深夜一時をまわったころ。俺はベッドから身を起こし、脱衣所の洗面台で顔を洗った。タオルの下に隠したナイフを手首に巻き付けたバンドに差し、彼女の元へと戻る。
ベッドで静かな寝息をたてる彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。彼女は今深い眠りに落ちている。薬が効いているので、そうそう目を覚ますことはない。
手早く着替えを済まし、残っていたミネラルウォーターを飲む。そろそろだろう。
外へ通じるドアの横に立つ。サプレッサーが取り付けられた銃をホルスターから取り出し、待つ。
静かに、鍵が開く音がした。ゆっくりとドアが開かれ、男が部屋に入ってくる。
その横顔に、銃を突きつけた。
「動くな」
びくっと肩を震わし、男がうなずいた。
「部屋に入れ」
銃を相手に向けたまま、俺は部屋の奥へと後退する。
男もそれに続き、部屋に入ってきた。
「ドアを閉めて、こっちへ来い」
男は従った。ドアが閉じられ、こちらに向かって歩いてくる。
「ご苦労」
そして、俺は引き金を引いた。
静かに放たれた銃弾は男の胸を貫いた。地に伏した男は、這うようにして逃げようとする。
俺は男に近づき、後頭部に向かって二発の銃弾を放った。男はぴくりとも動かなくなり、俺は男の死を見届けると、銃をしまい部屋を出た。
廊下を足早に抜け、エレベーターホールへ。ここから二階下の部屋。そこが目的地だ。
エレベーターを出てすぐのところに、花瓶が置かれている小さな机がある。その花瓶の下に、マスターキーが隠されている。それを回収し、目的地の部屋を目指す。
見張りと思われる男がドアの前に立っていた。
のんびりと対処している時間はない。
男の横を通り過ぎる時。その注意が自分に向けられた瞬間に、肘を顎に見舞う。ふらついた男の髪をつかみ、眉間に銃を押し付け引き金を引いた。崩れ落ちた男を廊下に放り、マスターキーで部屋の鍵を開ける。一気に部屋へとすべりこみ、目に入った人間に対してまとめて銃弾を見舞う。廊下に放った男の死体を部屋に入れ、残っている人間がいないか見てまわる。どうやら、これで全部のようだ。
部屋の中にはモニターが置かれており、そのモニターには彼女の部屋が映し出されていた。
「のぞきとは、悪趣味だな」
モニターを銃で破壊し、銃をベッドに放ると、俺は部屋を出た。
エントランスまでおりると、清掃業者の掃除人がエレベーターを待っていた。これからお片付けだ。できる限りスマートに対処したつもりなので、そこまで片付けは大変じゃないだろう。
「よう」
恰幅のいい男が、にこやかに俺に話しかけてきた。
「時間きっかりか。噂通りの見事な仕事ぶりだ。早すぎることもなく、かつ遅れることもない。ゴーストと呼ばれる掃除人」
「その通り名は好きじゃない。そもそも、なんでゴーストなんだ」
「さてな。いつも憂鬱そうな顔してるからじゃねえか? 俺からしてみりゃあ羨ましいけどな、今日もあの女抱いたんだろう? 剛龍会会長の愛人と」
男の目に下卑た火が灯る。
「あの女、これからどうするんだ?」
「取引が成立すりゃあアメリカに飛ぶことになるだろうよ。妾なだけあって、あの女が持ってる情報は一発で剛龍会をつぶせる力を持ってる。俺としちゃあ娼館に送ってお楽しみと行きたいが、取引が成立したらそうもいかん」
剛龍会。ここらのシマをドラックストリートに変えた暴力団。
彼女はその剛龍会のトップ、光石会長の愛人だった。その愛人が、取引をしたいと申し出てきた。警察としては願ってもないことだが、剛龍会がそれを黙って見過ごすわけがない。
警察は保護を申し出たが、彼女はそれを拒んだ。もしかしたら、剛龍会の仕組んだ罠なのでは? という疑問の声が上がり始めた。
そこで、警察は裏の力を使うこととなった。
逃げている彼女の情報を剛龍会に売り、それと同時に警察が飼っている掃除人を彼女に近づける。掃除人が彼女を誘い、部屋に侵入。薬を飲ませて眠らせる。その後、罠か真実かを見定める。
真実ならば、仕向けられた殺し屋を掃除人が始末し、眠っている愛人を〈業者〉が保護する。
もし罠であったのなら、掃除人が罠を排除し、愛人は男の願い通り娼館に売られたのだろう。
今回のことで愛人が光石会長を裏切ったことは明らかになった。
百パーセントの真実と言い切ることはできないが、少なくとも真実の方に近いと言えるだろう。
「じゃあ、後のことは任せる」
「ちょっと待てよ。なあ、どうだった、あの女。いい女だったろ? 抱いた感想をちょいときかせてくれよ」
男がすり寄ってくる。不快に思いつつも、俺は答えた。
「文句なしだったよ。容姿もそうだし、あっちの方もな」
「かーっ! 羨ましいねこの野郎!」
ホテルを出ると、迎えの車が出迎えてくれた。
「お疲れ様でした。どうぞ」
後部座席に乗り込み、一息つく。
走り出した車の中から、通り過ぎていく街並みを見つめた。
高いところにいなくても、俯瞰して街を見つめることができれば、街も悪くないかもしれない。
彼女の言葉を思い出す。
忙しなく流れていく街。俺はそれが嫌で、流れから逆らい続けた。
今の仕事に行きついた理由も、正直覚えちゃいない。
覚えがありすぎて、いつ殺しを仕事にしたのかが分からないのだ。
俺は目を閉じた。
彼女の浮かべていた涙を思い出しながら、ゆっくり、大きく息を吐いた。






