[三題噺]遠い世界で、
さらさらと風が凪いだ。
空はまっくら。あたりもまっくら。
水面はたゆたゆと静か。ゆらゆらと船は揺れている。船の先に下げたランタンの明かりだけが周囲を照らしている。
ぴちゃりと船から零れる雫の音が聞こえた。
リタはゆらゆらと船と共に揺れながら、まっくらな空を見上げる。
べたりと黒で塗りつぶしたような空だった。何気なくリタは手を伸ばしてみたりしていた。
その間にもちゃぷちゃぷと船は流れていく。リタはそれでも寝転んだままだった。
そうしていると遠くに明かりが見えてきた。リタはようやく起き上がってオールで船を進める。
明かりはどんどんと近くなってくる。それにつれてそれが何なのかも見えてきた。ネオンの明かりだった。
『Shop』『Store』『Market』
色とりどりの無数のネオンで綴られた文字が周囲を照らしていた。リタは船をオールで操作するとネオンの真下へと寄せていく。するとネオンとは違った明かりがリタを照らしてきた。
「おや、リタじゃないかい。よく来たね」
ネオンの下、蛍光灯が明るいカウンターの奥から声がかけられた。
「こんばんは。セーナおばさん」
「こんな夜にお使いかい?」
「ううん。自分で来たの」
リタはそう言いながら船をカウンターの前に固定する。
「何か欲しいものでもあるの?」
そう言って、カウンターの奥に座っていたセーナは椅子から立ち上がった。
リタは一拍置いて小さな声で答える。
「……うん」
「じゃあ改めて。いらっしゃい、リタ。さあ、何が欲しいんだい。あたしのお店には何でもそろっているよ」
カウンターに両手を肩幅ほどに広げてセーナは微笑んだ。
「えっと……えっとね」
リタは少し恥ずかしげにもじもじとした様子で、言葉を続けない。それをセーナはやんわりと微笑んだまま眺めている。
「おばさんは、」
こくりと一口、息を飲む。そして言葉を続けて、
「花火って知ってる?」
と言った。
「ハナビ?」
セーナは聞き返した。
「うん。……やっぱり、知らないかな?」
「うーん……」
「わたしも本で見ただけなの。ずっと昔にあったものらしいの……」
セーナは腕組をして考えていた。それを見てリタは更にあたふたした。
「えっと、えと、知らないなら、いいの。古い本だったし……」
そう言ってリタはうつむいて黙ってしまう。リタの頭の中は変なことを聞いてしまった恥ずかしさでいっぱいだった。
セーナは同じ体勢でまだ考えていた。そして、しばらくして言った。
「そうだね、リタ。あたしはそのハナビって名前に聞き覚えはないね」
セーナの声に一度顔を上げたリタだったが、最後まで聞くと残念そうに顔を再び落とした。
だが、セーナはそのままリタに諭すような声で続けた。
「だがね、リタ。名前は知らないけど、同じようなものは知っているかもしれない。だからどんなものか話してごらん。古いものなら名前が変わっているかもしれないからね」
「え……」
ぼうとしていたリタだったが、セーナの言葉を最後まで理解すると、一瞬で晴れやかな顔になった。
「えと、えっとね……」
「落ち着いて話しな。あたしはちゃんと聞いているからね」
慌てて話そうとするリタを、セーナは落ち着かせる。そしてセーナ自身も落ち着くためか椅子へと腰をおろした。
リタは「うん」と素直に頷いて、一呼吸置いた。
「えとね。古い本で見たの」
「うん」
「くらいところにね、おっきな花が咲いてるの」
「へぇ。どんな花なんだい?」
リタは手を何度も何度も目いっぱいに広げた。
「……なるほどね。とにかく大きいのかい」
「……うん。それでね、きれいな火で出来てるの」
「火? 火っていうと、燃える火かい?」
そう言ってセーナはリタの船に取り付けられたランタンを指差した。
「うん。そうなの。でも普通のじゃなくて、緑とか青とかの色もあるの。あ、ちょうどセーナおばさんのお店みたいな」
リタは真上で輝いているネオンを見た。
「へぇ、なるほど。それは奇麗だね。ああ、それで花火なんだね」
セーナが納得したような顔をしたのを見て、リタもほっとした。
「なるほどね……」
セーナはそのまま何かを考えるように視線を空に移した。
「セーナおばさん……」
リタはその様子を見て再び不安になった。
「やっぱり、」
「安心おし。大丈夫だよリタ」
セーナはカウンターの奥から微笑んだ。
「リタの説明を聞いて、思い当たるものを思い出したよ」
「ほんとっ!?」
「ああ、本当さ。あたしは嘘は言わないよ」
リタの顔には笑顔が現れていた。セーナはそれを見て満足したように更に頬を緩めた。
「それに、ここはあたしの店だよ。あたしの店に無い物なんてないのさ」
リタはうれしそうに頷いた。
「でもね」
セーナはそう言いながら立ち上がってリタの頭に手を乗せた。
「今は在庫が無いんだ。だからちょっと待っててもらえるかい」
乗せた手でリタは頭をなでられる。腕の向こうにセーナが優しく笑っていたのを見て、リタもつられて笑った。
「うん。大丈夫。急いでるわけでもないし」
「そうかい。でも出来るだけ急いでみるよ。早ければ明後日には届いているかもね」
「うん、分かった」
リタは大げさに頷いた。うれしさを抑えることが出来なかった。
「よし、物分りのいい子だ」
セーナはリタの頭をもう一度なでた。
「じゃあ、とりあえず明後日にもう一度来てみな。その時に入ってたらリタに渡すよ」
そう言って、そのまま後ろを振り向かせると、
「それじゃあ、今日はこの辺りで帰りな。もう遅いからね」
そう言った。
「うん。じゃあ明後日。また来るねセーナおばさん」
リタは船を固定させるロープを外して、船を店から離した。ちゃぷりと水面が揺れた。
「ああ。気をつけてお帰り」
セーナはリタに手を振った。リタもそれに気づいて手を振り返した。それからようやく漕ぎ始めた。
「セーナおばさん!」
二日後、リタは時間が出来ると真っ先にセーナの店へと向かっていた。そして着くや否やカウンターに飛びついた。
「おや、リタ。こんばんわ」
「あ、こんばんわ」
リタはニコニコとカウンターの向こうを見ていた。セーナを一度見て、カウンターの奥を隅々まで見る。そしてまたセーナを見る。
「どうしたんだい。何か探し物?」
セーナはその様子を見そう言った。
「え……」
リタの表情が一瞬で曇る。そして黙ってうつむいた。一歩後ろに下がった。
一方、セーナはにっこりと笑っていた。
ごとり、と音がした。
「リタ」
呼ばれてリタは前を見た。カウンターの上には茶色の紙で包まれた、何かが置いてあった。
「注文の品だよ」
ぱあっとリタの顔が明るくなった。
「ありがとう! セーナおばさん!」
「それじゃあ、リタ」
セーナは立ち上がり、カウンターを横から抜けた。
「さっそく使ってみようか。どんなものかテストしないとね」
「あ……うん!」
「じゃあこっちにおいで。少し出るよ。あたしの船を使おう」
そう言ってセーナは店の裏手へと回っていく。リタもそれを追って行った。
裏にはリタの船とは比べ物にならない大きさの船が置いてあった。
「さあ、おいで。乗るときには気をつけるんだよ」
「うん。大丈夫」
「じゃあ少し離れよう」
船はざぶざぶと波をかき分けて進んでいく。セーナの店はあっという間に遠くになってしまった。
「この辺りでいいかね」
セーナは船を止めた。風が止まった。
「じゃあリタ。そいつを開けてごらん」
「これ?」
リタはそう言って茶色の包みを出した。
「そう、それだよ。中に入っているのが、花火さ」
「うん。分かった」
リタはがさがさと包みを開けていった。すると中から一本のガラス瓶のようなものが出てきた。中には何かが詰まっているようだった。
「出した? じゃあ紐が出ているのは分かるかい?」
リタはひっくり返してみた。すると、一本の紐が出ているのが分かった。
「あったよ。これをどうするの?」
「じゃあそいつに火をつけるんだ」
そう言ってセーナはランタンを取り外した。そしてランタンのカバーを外してリタに向けた。
リタはおずおずとランタンの火に近づけていった。そして、紐にぼうと火がつく。
紐はばちばちと音を立てて、見る見る間に燃え始めた。
「あ、あわわわ」
焦ったリタは思わず放り投げてしまった。ぼちゃんと音が聞こえる。
「あ、あああ……」
リタは自分が何をしたのか理解した。おずおずとした様子でセーナの顔を見る。
セーナはランタンのカバーを閉めると、笑って言った。
「ふふ。大丈夫だよリタ」
「え」
リタはきょとんとした様子で聞き返した。
「で、でも。落としちゃって……」
「それはね、リタ。水に落とすのが正しい使い方なんだよ」
「え……?」
「ほら。向こうを見ててごらん。そろそろだよ」
リタは振り返った。
ざぶんと水面が大きく波打った。
「わ……」
リタの視線は水の中にあった。
さっきまでまっくらだった海はが、広く輝いていた。
それはまるで大きな花が咲いたかのように。リタが瓶を落としたところを中心にして。
水の中で輝く光は色とりどりに変化していた。
黄色からオレンジ、オレンジから緑、緑から青。
「本で見たのと同じだ」
リタは水の中で彩られる幻想的な光景に、しばらくしてそれが終わるまで目を奪われていた。
「どうだった?」
隣で見ていたセーナがリタの頭越しに言った。
「うん! きれいだった!」
「そうかい。それは良かった」
「ねぇ、セーナおばさん」
リタは振り返ってセーナを見た。
「どうしたんだい?」
「えっとね、」
リタは少し恥ずかしげにはにかんで、
「また、花火、仕入れてもらえるかな」
「ああ、任せておきな。なにせ、あたしの店は何でもそろっているからね」
リタはうれしそうに笑ったのを見て、セーナもまた笑った。
「それじゃあ、戻ろうか。少しお茶でも飲もうかね」
船はきびすを返し、店に戻っていった。
見慣れたネオンが二人を出迎える。その一つが、少し欠けていた。
執筆:2009年