Rapunzel Ⅱ
あらすじにも記しましたが、Rapunzel(Ⅰ)の続編的ストーリーです。
若干ですが、百合要素が含まれています。苦手な方は表面だけをサラっと読んでいただければ、と思います。
今日もまた、太陽は昇る。
あたしは太陽よりも雨が好きなのに。
雨――いや、あたしが好きなのは水だ。
全てを呑み込み、全てを包み、全てを洗い流す、水。
だからあたしは、今日もあの子を想う。
乾いた心を潤す術を持ちながら、それでも攫めない存在。
あたしに水を注ぐ、あの子を想う。
「おい、ヒサキ」
名前を呼ばれて顔を上げた。
見れば、入り口の扉を開けて見慣れた白衣姿の先輩が手招きしている。
あたしは軽く息を吐いて立ち上がると、静かに研究室を後にした。
「今日も来るんだろ、例のカノジョ」
研究棟の中庭に向かいながら、浮ついた様子の先輩が話を切り出した。
片手には雑誌と教本。首に提げた携帯がカチカチと音を立てていて耳に付く。
「先輩…。いい加減にそのストラップ、止めたらどうですか?」
「ん? コレか?」
あたしの視線に気付いて、先輩は携帯に手を伸ばした。
「お前な~。コレは幸運を呼ぶストラップと言ってだな…――」
「でも、一向にその指輪に合う女性と出会えていませんよね、センパイ」
「お、お前…っ」
「大体、ただの指輪じゃないですか。ストラップに無理矢理しているだけでしょ。しかもそれを売っていた店員のお姉さんが美人で好みだったから、口車に乗っちゃったんですよね~」
「な、何で知ってんだよっ!」
「でも買った手前、どうすることもできなくて仕方無しに携帯に下げている…って、ホマレ先輩が笑っていましたよ」
「あのヤロウ…!」
「はい、一つ日本語間違っていますよ。野郎は男性に向ける言葉です。ホマレ先輩は生物学上、女性ですよ」
「なかなか厳しいな……イロンナ意味で」
「あたしなりの優しさですよ。カノジョの前で、恥をかきたくないでしょ?」
「どういう意味だソレ……」
「だってカノジョ、国語科の教員免許取得してますから」
「流石だな~、正に才媛」
「そうですよね~。美人で優しくて料理上手。言葉通りの“若奥様”ですよね~」
「うんうん。――…って、若奥様ぁ!?」
「はい」
「ソレってまさかアレか…別名、人の妻と書いて“ヒトヅマ”と言うアレか!?」
「先輩の口から聞くといかがわしく聞こえますけど……そうとも言いますね」
「んな話聞いてねぇぞ、尋木!!」
「聞かれませんでしたから」
「そりゃ確かに聞いちゃいねぇけど…っ。…ってか冗談だろ?」
「何なら証拠見ます?」
あたしは腰に下げていた携帯を取り出し、先輩の目の前に差し出す。
「……っ!!」
先輩は食い入るように見詰めて、おもむろに手を伸ばして来る。
まるでゾンビ映画を観てるみたいだなぁ、なんて思う。
だけどその手が触れる直前にひょいと携帯を取り上げて、あたしは元の場所に携帯を戻した。
元から血走っていた眼が一層険しくなり、異様な空気を感じたからだ。
徹夜明けなのかもしれない。
「ま、待て…ソレは…アレだ、最近巷で流行のコスプレだろ」
「そんなに現実逃避したいのなら止めませんけど、事実は真摯に受け止めるべきではありませんか、ミシマ班長?」
あたしはニヤリと笑みを浮かべながら、研究チームでの呼び名を口にする。
それに出掛かった言葉をぐっと堪えて、先輩は眉を顰める。
異論はあるだろうけれど、残念ながらこれが現実だ。変え難く紛れも無い現実。
落胆も露わに、先輩はトボトボと踵を返した。その頼りない背中に苦笑いを浮かべて、あたしはそのまま歩みを進める。
法律上はまだだが、事実上では既婚者となったその人物の待つ中庭へ。
「潮」
「ごめん、享。待った?」
「ううん。少しだけだから大丈夫」
あたしの姿に気付いて、顔をほころばせながら名を呼ぶ。その笑顔にあたしも微笑みを返す。
「今日はね、潮の好きなグレープフルーツのゼリーもあるのよ」
「あ、待って享」
腰を下ろしたベンチで、用意していた昼食を広げようとする手を止めると、その眼が不思議そうに見上げた。少し困る。
今日のように天気が良いときは、いつもこの場所で食べていたのだが、今日はヤバイ。
何てったって今日は――――
「おぉ~こんなところでイタイケナお嬢さんが昼食ですか?」
「…譽、先輩…」
さっき噂をしていたせいか、聞きなれた声が背後から聞こえた。
それも真後ろ、肩に手を掛けるオプション付だ。
「お久し振り、尋木 潮君」
「お、お久し振りです…譽先輩」
「んで、さっき振り、享ちゃん」
「はい。先程はありがとうございました。譽さん」
「え、何。会ってたの?」
「うん。校門のところでちょっとね…」
「そうそう。イタイケナお嬢さんをかどわかそうとしていた輩を眼にしたから、ちょっとね」
「か、かどわかす!?」
「そんなに大それたものじゃないわよ、潮。あ、譽さんも宜しかったら一緒にお昼にしませんか?」
「え、良いの、享ちゃん?」
言いながら先輩はあたしの肩から手を外して、既にベンチに腰掛けていた。
喜色満面って、こういう表情を言うのだろうと、先輩の顔を見ながらあたしは思った。
尋木 潮――これがあたしの名前。どちらも一度で正確に読まれたことは無いけれど、今は気に入っている。
それというのも、隣でお手製の昼食を広げている享――真名月 享が「キレイな響きで好き」と言ったからだ。
もう直ぐ姓が変わる享とは中学からの付き合いで、通う大学も近く、今は一緒に暮らしてもいる。
だからこうして一緒に昼食を採ることもしばしばだ。
そして享を挟んで座り、ベーグルサンドを頬張っているのは同じ大学の先輩で、野篠院 譽さん。
ノジョウインという言い難い苗字を気にしているのか、名前で呼ぶことを快諾していて、少し変り者という風評を受けている先輩だ。
聞けば既に留学先の大学で博士課程を修了しているらしいのに、譽先輩は今でもここの研究棟に出入りを許されて来ている。
理由は知らないけど、今日はその数少ない登校日の日だと、あたしは聞いていた。
だから外で享と食事をするのに躊躇いがあった。
ソレというのも、譽先輩はやたらと享を気に入っていて、何かと絡んでくるからだ。ああ、また…――
「このパイ包み美味しい~。今からでも遅くないからウチにおいでよ、享ちゃん」
「ありがとうございます。こっちのコロッケもいかがですか?」
「勿論頂きます。…あ、中はポテトサラダ風なんだ。お持ち帰りしたくなるな~」
さり気無く享の肩に手を伸ばし、譽先輩は妙な言葉を口にする。
「…オヤジかよ…」
「何か言った?」
「いいえ何も。本当、先輩の言うとおり料理の腕上げたね、享」
ボソッと呟いたのが聞こえたのか、低い声が返されてあたしは誤魔化すように享のお手製コロッケを口にする。
顔は笑っているけど、眼鏡の奥の瞳は鋭かった。
危うく自分の首を絞めるところだったと気付いて、口を噤む代わりに食事を進める。
一先ずこの場は我慢するしかない。
今のあたしは、先輩に逆らえないのだから。
「――おっと、もうこんな時間か…。お昼ご馳走様。また誘ってね、享ちゃん」
「こちらこそありがとうございました、譽さん」
首に提げた携帯が時間を知らせて、譽先輩が立ち上がる。それを見てほっとしたのも束の間、あたしは連行されるように腕を引き上げられた。
「キミも研究準備があるだろ、尋木 潮君」
「え、それは別の――」
「あるって言っていたよね」
詰め寄るような視線を向けられて、あたしは小さく「…はい…」と答える。
何度も言うが、あたしは今、譽先輩には逆らえない。
「それじゃ、またね。享ちゃん」
「はい。午後も頑張ってください。潮も、あまり無理はしないでね」
「うん。享も気を付けて…っと、あと、後でメールするから…っ」
あたしは小さな紙袋を受け取り、微笑みながら見送る享に軽く手を振ってその場を離れる。
というよりむしろ、離された。
ずるずると引き摺られるように研究棟へ向かっている途中で、頭上から声が掛かる。
「家に帰れば会えるんだから、そんな恨めしそうにするな」
「…それはそうですけど…」
確かに、譽先輩の言うとおりだ。家に帰れば、享が夕飯を作って待っていてくれるだろう。それこそ絵に書いたような新婚夫婦のお出迎えの如き様子で。
だがそれも、享の結婚相手・賀鳥氏が長期出張でフランスに行っている間だけだ。
「でもまぁ、相手の男も大した者だな。あんな可愛い新妻を置いて遠方にお仕事とは……。仕事人間でかつ、余程信頼しているのか、それとも結婚は単なる儀礼で遊んでいるのか……。邪推の種が多くて興味深いな。どちらにせよ、なかなか肝の据わった野郎だ」
「…まぁ、あっちも突然だったらしいですけど…」
「そういうキミは役得だよな」
「ただ新居のマンションが、此処から近かったからってだけですよ」
「それでも、“信頼できる親友”っていう分類のおかげで今の暮らしが手に入った」
「…譽先輩、もう少し日本語領域広げませんか…?」
「なんだ、言い方に不満か? 同棲とか言っていないだけマシと思えよ」
「…ソウデスネ…」
あたしは何だか疲れて、それ以上譽先輩の話に加わりたくなくなった。
正直、この場から離れたかったが、腕を摑まれているからそうもいかないだけだ。
あたしも身長は高い方だけど、180近くある譽先輩は外見だけでなく力も男性並み…いや、それ以上に強い。
理知的な銀縁眼鏡に切れ長の目。冷ややかに通った鼻梁で鋭敏な印象の面立ち。
線の細そうな外見に反して、譽先輩はどこをどう鍛えているのか、実力も伴った凄味を備えている。
白状すると、初対面であたしは譽先輩を男性と間違ったほどだ。
「――それはそうと、例の報酬は考えたのか?」
唐突に切り出された内容に、あたしはにわかに眉を顰めた。
「…先輩、三択でいきませんか?」
「三択? …内容によるな。言ってみろ」
立ち止まり、扉を開く譽先輩に促されて入ると、そこは標本準備室だった。
嗅ぎ慣れたホルマリンの匂いに包まれながら、あたしは顔を上げる。
「一、カンザキ教授の秘蔵文献閲覧許可証。二、向こう一週間の昼食・夕食ご招待。三、第三講堂のスペアキー。以上、三つの中から選んで頂きたいです」
言い終えて先ず耳に入ったのは、わざとらしい溜め息。次いで肩を竦めたオーバーリアクション。
「まったく…残念だ。キミにとってアレがその程度のものだったなんてな…。本当、残念だよ尋木 潮君」
「これがあたしなりの精一杯なんですよ」
「いいか、一なんて論外。教授秘蔵の文献なんて古すぎて話しにならない。それはマニアにでも持ち込め。二は、まぁ惹かれるものではあるけれども、ひと月以上じゃなければ割に合わない」
「ひと月…は、流石に享の都合を考えると約束し難いんです」
「それはそうだろうな。だが、無理難題であればあるほど、価値が上がるってものだろ?」
「確かにそれは……そう、です…けど……」
「結婚式の主役である花嫁の笑顔。それに見合った報酬を望んだんだが…キミにはその程度か…」
「…――っ」
譽先輩は言いながら側の椅子に腰掛ける。
木製の軋んだ音が、あたしをふた月前に行なわれた挙式の場へと誘う。
そうだ。あの日の午後も、今日みたいに晴れ渡った空が眼を射していた。
祝福の鐘の音と、降り注ぐ陽光。
心地良く吹き抜ける風にベールを靡かせて、来場者の賛美を一身に受ける花嫁。
ゆったりとした足取りに、俯き加減のはにかんだ顔。薄布越しでも、喜びの色が見える。
皆はそれが、今日と言う日を迎えられたからだと思っているだろうけど、あたしは知っていた。
花嫁の笑顔を生み出した理由。
溜め息が出るほどの豪奢な挙式よりも、幾つもの祝福の言葉よりも、たったひとつの、かけがえのないもの。
それを与えたのはあたしだ。
祭壇で待つ、幸せを授けるであろう新郎ではなく、あたしだ。
でも、あたしはその微笑みを受ける場所には立てない。
どうしてあたしじゃないのか。
それはあての無い問い掛け。
だからあたしは口を噤む。そして代わりに、虚構の祝福を口にする―――。
「――そんな顔をするな、尋木 潮」
譽先輩の声が、あたしを現在に引き戻す。
一体どんな顔をしていたのだろうか。そして先輩は、どんなことを思ったのだろうか。
敏い人だから、あたしの気持ちを知られてしまっただろうか。
「ほら、よこしな」
「え…?」
「三番の鍵だ。…ついでに使用許可証を付けてくれると最良だったけどな」
「あ、許可証なら頂いておきました。期限付きですけど」
「手際が良いじゃないか、尋木 潮」
腰に提げていたキーホルダーから鍵を外して、同じく付けていたカードケースから許可証を取り出す。
「確かに。これで契約完了だ。ご苦労だったな、尋木 潮」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
鍵と許可証を確かめて、報酬と認めてくれた譽先輩は口の端を上げる。それにあたしはお礼を述べて頭を下げる。
まさか三番で手を打ってくれるとは思ってもいなかったが、本当に感謝しているのは確かだ。
譽先輩は珍しく機嫌が良さそうで、鍵を右手の人差し指で回しながら準備室を出た。
その背を見送って、あたしはふと思う。
どうして譽先輩は第三講堂の鍵なんか欲しがったんだろう。今は滅多に人の入らない、旧講堂。教会みたいな造りで、日当たりが良いらしいが、そこにどんな魅力があるのかあたしは知らない。お蔭で許可証を貰う理由に苦労した。
それからもうひとつ。譽先輩はどうしてリョウを知っていたんだろう。
人当たりは良いくせに人付き合いを極端に厭う人物。それがリョウだ。連絡を取れる人物なんて、初めて見た。
食堂で呟いたあたしの言葉を、譽先輩が偶然聞いたことがコトの始まりで、これは本当に幸運だったけど、謎ばかりが残ってしまった気がする。
あたしが悶々と考え始めたとき、腰に提げた携帯が着信を知らせた。
『マカロンも最高だったと伝えて。』
差出人は先刻まで一緒だった譽先輩。あたしはハッとして自分の周囲を見回す。
ヤラレタ…。享から貰った紙袋が無い。
あたしのおやつ用にと享が作ってくれるお菓子の入った紙袋。迂闊だった。
「…今日はマカロンだったのか…」
目の前に置かれた蛙の剥製が、微かに笑ったように見えた。
その日の夕方、あたしは帰り掛けに寄った本屋から出たところで、とある人物を見かけた。
大きく心臓が脈打って、あたしは時間が止まったように思う。
人違いかもしれない。
でも、あれは確かにリョウだ。
腰に提げた金の懐中時計。
人魚の尾鰭のように揺れる、享と同じ色をした髪。
人形のように澄ました顔。
颯爽と人混みを歩くその姿に、あたしは何故か享を見る。
だから判る。
見間違う筈が無い。
あたしは駆け出して、その背を追った。
何故かは解らない。でも、話したいことがあった。それがあたしの脚を動かした。
「待って、リョウっ!」
人混みと喧騒の中に響いたあたしの声に、当人は立ち止まってゆっくりと振り向いた。
やっぱり、リョウだ。
「…えっと…確か。ヒサキ…さん?」
「久し振り、リョウ」
戸惑いとも不機嫌ともとれるような表情を浮かべて、記憶を辿るように眉根を寄せながら、リョウは言った。
あたしが息を整え、努めて冷静な声で応えると、記憶にある穏やかそうな微笑みをリョウは浮かべる。
「お久し振り。こんな所で会うなんて奇遇だね」
「うん…あたしも少し驚いてる」
「そう。――あ、でも。式場で見たときより元気そう」
突然核心を突かれて、あたしの呼吸が止まる。
「どうして…?」
「ふふ。招待してくれたのは貴女でしょ? 直ぐに判ったよ。花嫁さんの驚いた顔を見たときにね」
あたしは、譽先輩に自分のことは伏せておくように伝えた。
だから式場と、控え室、それから時間しかメモには記さなかった。
でも、リョウの前にそれは無用だったみたいだ。
あたしは気不味く感じたが、それを認める。
「そ、そっか…それもそうだね。あの場で享意外にリョウを知っているのは、あたしくらいだもんね…」
「でしょ。 ――ところで、何か用件はある? 用が無いのならこれで…」
「用ならある。ずっと聞きたかったんだ。どうして突然、あたしたちの前から消えたんだ?」
あたしはずっと胸の内に蟠っていた疑問を口にした。
目の前のリョウは少し驚いた表情を見せたけど、すぐにまたいつもの微笑みを浮かべる。
「消えたわけじゃない。現に今こうして会っているでしょ。それに――」
不意にリョウの瞳に辛辣な光が浮かぶ。
「残念ながら、貴女の中でも消えていない」
ぞくっとした。
消えて欲しいと願っているのか・と、詰問されているような威圧感。言葉が、出ない。
「――それじゃ、頑張ってね。尋木さん」
固まったあたしに、リョウは花弁が開くような微笑みを見せて踵を返した。
一歩、二歩…と距離が開く。隔絶という名の距離。
咽が、震える。
「リョウ…っ。来てくれてありがとう!」
あたしが声を出すと、一度だけ振り返ってリョウは軽く手を振った。
なんだか無性に泣きたくなった。これは八つ当たりだ。
何をやっているんだろう、あたしは。
気持ちを出せない自分に対する苛立ちを、リョウに向けた。この汚い感情は、嫉妬よりも無様に見える。
だけどこれは表に出せない。それは解っている。痛いほどに。
呼吸が、上手く出来ない。苦しい。水が、足りない。
あたしは駆け出していた。家に向かって。全速力で。
虚構の中でも構わない。潤す水が手に入るのならば。
だからあたしは言葉にはしない。でも、これだけは言わせて。
―あなたが側に在るかぎり、この鼓動は止まらない―