八
ハプカトゥリポスが僕に言ったことは、あながち嘘ではなかったのかもしれない――僕がそんな風に暗澹となったのは、紘子が耳に挿しているポータブル・プレイヤーのイヤホンからチャカチャカと漏れてくる音楽が、Prince の When 2 R In Love だったからだ。
むせかえりそうになるくらい、甘ったるいナンバーだ。
当初、収録を予定されていたのは、ブラック・アルバムという黒ずくめのアルバムだった。ブラック・アルバムは、プリンスが立脚点としていた黒人ファンクを見失ってポップスに走ったという批判に激してつくりあげた、かれの手掛けたなかでも屈指の完成度を誇るアルバムだ。ところが、発売直前になってお蔵入りになった。負の衝動に任せて製作したことを、プリンス本人が後悔したためとも言われる。ブラック・アルバムが廃盤になった直後には Lovesexy がリリースされたが、ブラック・アルバムからは When 2 R In Love だけが収録された。
つまりプリンスは、負の衝動から生まれたものを否定しながら、唯一この楽曲だけは否定しなかった。プリンスはミューズに愛されたアーティストだ。その寵愛のしるしが、When 2 R In Love に充溢している。この愛とセックスをストレートに謳った幻想的なナンバーを、紘子は聴き、くちずさんでいる。ベランダの手摺にもたれかかって、夜風に髪をなぶらせて。――僕はさっきから幾度も呼びかけているけれど、紘子の耳には届かない。甘い歌に遮られて届かない。この歌はどんなに素敵でも、中学生の女の子が恍惚として聴くようなものじゃない。コードを引き千切ってやりたかったけれど、僕にはどうする事もできなかった。
ララララ……ララ……ラララ……
紘子は手摺に乗り出し、酔ったような眼つきで駐車場を見おろした。僕は絶叫した。
すると、
「シュウ、いるの?」と、紘子はイヤホンを取って、左右を見やったり、振り返ったりした。
いる、ここにいる、飛び下りちゃ駄目だ、とにかく、一緒に、これからどうするかを考えよう――そんなことを、僕は必死に訴えたけれど、紘子はきょとんとしたまま、僕の半透明の姿に、視線を素通りさせた。僕は手をのばして、紘子の肩を掴もうとした。けれども、できなかった。手はむなしく紘子の上体にのめりこみ、むこうに突き抜けるだけだった。
「いるんだね。あたし、わかるよ」と、紘子は微笑んだ。「でも、ゲームばっかりしているシュウとは少しちがう……長い旅から帰ってきたような、不思議な感じ。ちょっと大人っぽくなった?」
そう、話せば長くなるけれど、紘子のことを思わない日は一日だってなかった――僕は一生懸命、話しかけた。けれどもその全てが悲しいほど紘子の耳を素通りした。
「いいなあ。そっちの世界って、なんだか楽しそう。……ねえ、あたしも連れていって」
やめろ馬鹿、だからそこ乗っかるなって、頼むから、頼むから……
紘子は手摺に馬乗りになると、僕のいない方へむかってにっこりと微笑み、
「心配してくれてありがとう。もう大丈夫だから。……待ってて、いま、そっちに行くよ」
薄く瞼を閉じ、ぐらりと上体を傾け、深夜の闇に吸い込まれていった。
あの楽曲は、紘子をいっそう狭いところへ閉じ込め、煽り、けれども鎮痛剤のように包み込んだ。僕はミューズがプリンスに生ませた愛の歌を憎むに憎みきれず、ただ涙をためて闇を切るサイレンの音を聴いた。
ナンバーの収録されたブラック・アルバムを紘子に遺していったのは、おじさんだ。幼かったころ、僕はおじさんが大好きだった。紘子の家に泊まりにいく楽しみの半分は、おじさんに遊んでもらえることにあったと言っていい。履いている靴からして、うちの父親とは違っていた。先の尖った、栗色のかっこいい革靴だ。その靴を紘子のうちの玄関に見出すと、僕はわくわくした。長めの髪をかきあげて、やあ、いらっしゃい、と微笑して云う。洒落た中折れの帽子をたくさん持っていて、煙草の匂いのほかに、オイルと花のような香りを漂わせていた。ギターがうまくて、せがむと、コマーシャルの歌とか、アニメの主題歌を、譜面を見ずに伴奏してくれた。それをおもしろおかしく替え歌にして、紘子と僕をいつまでも笑わせてくれた。ただし、遊んでくれるのは阪神の野球中継がない日だけだった。このおじさんの影響で、僕は阪神ファンになった。
おじさんが大変だったということは、うちの母親から度々聞かされていた。おじさんはディーラー付きの整備工場で働いていたけれど、僕たちが小学校の二年生にあがる頃、メーカーに大規模なリコール問題が起こって、その無償修理に忙殺されるようになった。深夜二時ごろ帰宅して、七時には家を出るという状態が半年ばかり続いて、とうとう身体を壊してしまった。それから整備士を辞めて、訪問販売の職についたらしいけれど、その仕事がおじさんにはまったく合わなかったみたいで、相当にストレスを感じていたようだった。亡くなる半年くらい前からは、抗うつの薬と睡眠薬が欠かせなかったという。そうして、おじさんはある日、仕事の帰りにバイクで自損事故を起こした。即死だった。
おじさんが生きていれば、紘子はあんな目には逢わずに済んだ。あんな風にはならなかった。もっとずっと長く、女の子でいられた。紘子の「運命」を変えることはできなくても、おじさんと問題を話し合って、かれの生きる意志を刺激することはできるかもしれない。目のまえで崩れてゆくドミノの模様には手の出しようがないなら、列を遡って、食い止めればいい――僕は涙をふりきって、魔法の術式をくりかえした。
おじさんは酔いをさますひとのように、夕暮れの公園のベンチにぐったりとして坐っていた。僕は小学校にあがるかあがらないかの頃から紘子のうちに遠ざかっていたので、おじさんに逢うのは随分久しぶりだったけれど、かれのあまりの変貌ぶりには言葉がなかった。若者時代の余韻を感じる、若いお父さん風だった長めの髪は、中年らしい横分けになって、顔にも皺が増え、なんとなく皮膚の弛んだ感じがあった。白いワイシャツとネクタイの上から紺の作業着を着ていて、それが悲しいほどおじさんらしくなかった。痩せた長身は、だぶついて縮んだように見えた。おじさんはそのへんでだらしなくしている浮浪者と、ほとんど一緒の雰囲気をまとっていたのだ。
僕が近づくと、おじさんは濁ったような、ぼんやりとした目をあげて、
「あれえ、シュウ君? ちょっと見ないあいだに、大きくなったね」
「僕が、分かるんですか、分かるんですね」おじさんの声を聞いた途端、小さかった頃を色々と思い出して、懐かしくて、嬉しい気持ちが甦った。おじさんを抱きしめたくなって、かれのまん前に立つと、かれは、なんともいえない嫌な、下卑た表情をして、
「ヤキがまわった、というのはこういうことを言うんだろうなあ。近ごろよく見るんだよ、タクシーの窓にはりつく女のひととか、首だけになって宙に浮いてるひととか……たぶん、薬が合わないんだ。でも、医者から貰った薬を飲まない訳にはいかないじゃない。かわりに酒を飲んで赤くなって会社に出る、なんてことは……」おじさんは突然、こぶしを口にあて、くっくっと笑って、「それも悪くないか。課長はどんな顔をするだろう」
僕はどう言ってあげたらいいのか分からなくて、黙っておじさんの隣に腰をおろした。丁度そのとき、外灯が点って、葉をほとんど落とした欅の淡い影が、おじさんの足許に落ちた。おじさんはそれを避けるように足を組んで、
「シュウ君、おかねに困っても、歩合制のセールスだけは絶対にやっちゃ駄目だよ。――新人研修のとき、初めて『押し売り』というやつを見た。おばあさんと、軽い知的障害のある、行かず後家の――未婚の娘さんの二人ぐらしでね、最初、課長はそこの息子でもあるかのように、おばあさんたちと仲良くしていた。それからしばらくして、始まった。人間性を疑いたくなるくらい、執拗だったよ。最後には、おばあさんも娘さんも、お金がないからと、泣き出してしまった。僕は一部始終を傍で見ていた。そうして家族を養うということの意味を、マンションのローンを背負うということの意味を、はじめて思い知ったような気がした」
「あの、他に仕事は、……」
「ないよ!」と、おじさんは強い口調で僕を遮った。「僕は自動車整備の専門学校を出たきりだもの。整備の専門知識をのぞけば、ただの無能者だもの。――君の年の頃は、世の中がこんな風だったとは思ってもいなかった。世の中を欲望だらけだと言って、ほとんど馬鹿にしていた。どうして大人たちはこうも、我利我利しているんだろうと。違ったんだ、みんな最低限のものを間に合わせる為に、仕方なく我利我利していたんだ。――シュウ君」
おじさんはいきなり、死人のような顔を僕にむけて、
「帳尻を合わせるというのは大変なことだよ。順境にあるうちはいい。けれどもすこし転んだ途端に悪夢が始まる。……だから、なるべく身軽にしていなさい。そうすれば、いつまでも青年らしく生きていられるから」
僕は、おじさんが、暗に家族のことを言っているのだと思って、やりきれなかった。おじさんは大きく息を吐いて、
「先月だったかな、保険会社に勤めている知り合いがどうしてもって言うんで、生命保険に入ったんだ。ノルマの辛さは身に染みて知っているから、つい同情してしまって。けれどもこれで、――僕に万が一のことがあっても、女房と紘子に五千万、遺してやれる。マンションのローンも区切りがつくし、紘子が大学を出るまでは、それでなんとかなるだろうし」と、おじさんは指を折って数えている。僕は自損事故の内幕を見てしまった気がして、ゾッとなった。
そうして煌びやかな駅ビルの背にたれこめる、紫色の空を眺めながら、紘子のことを言うべきか言うまいか、迷った。迷うといっても、理屈より決心の問題だったから、思考はほとんど動かなかった。僕の双眸は漫然として棚引く雲をなぞるうち、欅の梢に一枚だけ残った黄葉をとらえた。宵の冷たい風に揺れるさまが儚い。あれが、十数えるうちに散ってしまったら、黙っておじさんの傍を立とう。けれども残ったら――そんなことを考える先から、はらりと落ちた。
僕はその偶然の現象に冒しがたいなにものかの宣告を見た気がした。「運命」には逆らえないんだと胸を重くし、心を挫かれてしまい、ただ目に涙が溢れてくるのをどうしようも出来なかった。立ち上がると、おじさんは思い出したように、
「紘子はどう、学校でも元気にしている?」
僕は黙っておじさんを見つめた。
「僕は、紘子が寝つくより遅く帰るから、最近は寝顔しか見ていないんだ。だいぶ前だけどね、紘子と一緒にお風呂に入ったとき、こんなことを聞いてみた。お父さんとシュウ君と、どっちが好き、とね。悔しいから答えは言わないけれど、シュウ君――、もし、僕になにかあったら、紘子のことを、どうかよろしく」
僕は、ごめんなさい、と言った。それから、なにを喋ろうとしても、ちゃんとした声にならなかった。僕は気持ちが落ち着いてくるのを待って、すべてをおじさんに打ち明けた。話し終えて、僕はもういちど、ごめんなさいと言った。
おじさんは外灯のひかりの加減も手伝って、異様に蒼褪めて見えた。
「いや、信じるよ」と、おじさんは言った。「ここ三日ぐらい、ほんとうに朝起きるのが辛くって、蒲団をかぶってぐだぐだしながら、事故を起こして死んでしまう妄想をよくしていたんだ。このまま行ったら、たぶん踏み切ってしまうだろうな、という怖さも、漠然と感じていた。けれども……」と、おじさんは口に手をあてて、肩を震わせ、「そのあとで、紘子がそんなことになってしまうなんて」
「僕はなにもできなかった、それどころか、紘子を追いつめる一因にさえなってしまったと思います。ごめんなさい。だから、おじさん、どうか死なないで。辛いと思うけれど、頑張って」
「いや、報せてくれてありがとう。そうだな、僕がしっかりしないといけないな。頑張ってみる、頑張ってみる……」
一筋の光も差さない闇のなかに、嘲るような笑い声が、だしぬけに起こった。僕は身をこわばらせて、耳をそばだてた。声の主がだれであるかは分かっていた。
「哀れな男から憩いを奪う、か……」と、声は言った。「恋はひとを残酷にするというが、まさに至言というべきか!」
「またあんたか」
「涙ぐましいことよ。だが、『無知なる者は幸いなり』、おまえは知る必要のない者に知る必要のないことを告げたに過ぎぬ。ひとの子に定めを変える力などない。男の奮起は十日ともつまいよ。おまえの成したるは拷問を長引かせるに等しい所業」
「………」
「識れ、小僧。運命を操作するちからは神たる余のみが持っている。紘子と手を携えてもういちど中学校へ通いたいのなら、かの少女の無垢な笑みが見たいのであれば、――余に帰依せよ」
「毎朝、祭壇に花や水を供えるくらいはしてやってもいいが……あんたの望みはそういうことじゃないんだろ?」
ハプカトゥリポスは不気味な笑い声をたてて、「おまえは面白い男だ。その通り、二君に仕えること能わず、の言葉どおりである。おまえはいまの主を棄てねばならぬ」
「断る」
「紘子のため、とあってもか? だいたい、貴様がジュノなる女に献身してきたのは、女に紘子の俤を見たからであろう。その女に紘子以上の義理立てをするのか。本末転倒というものではないか」
「あんたの言っていることはどうも胡散臭い。だいたい、あんたはいにしえの神なんだろう? あんたを崇拝していた民たちは滅んでしまったのだろう? あんたに運命を変える力があるなら、どうしてそんなことになった。あんたは所詮、敗北した神だ。滅びゆく定めの神だ」
「なるほど、おまえの言い分には一理あるな」
「僕は『紫の雲』のように篭絡されたりはしない。それだけは言っておく」
「篭絡か、篭絡……」ハプカトゥリポスは、呻吟するかのように、その言葉を幾度か繰り返した。「まるで、あの者が余に誑かされたかのような云いかたをする。だが――、娘を助けたい一心で余に縋ろうとする紫の雲を、おまえは軽蔑できるのか?」
「それは……」
「余にも余の定めがある。世界をあるべき姿に維持することが、それだ。大きな義務を負うものには大きな力が与えられる。紫の雲の幼き娘にしろ、紘子にしろ、余が子供ひとりの定めに深く介入できたとしても、何ら不思議はあるまい」
「……あんたはほんとうに、紘子を救うことができるのか?」
「何度もそう言っている」
「ジュノ様のもとを離れて、あんたに帰依すること――僕への要求はそれだけか」
「おまえはあの者たちを、地下神殿の本殿へとたどり着かせてはならぬ。それは余の定めを妨害するものであるからだ」
「あんたの定めって、なんなんだ」
「すでに答えている」
「だから」僕は苛立ちのあまり、声を荒げた。「具体的にはなにをしようとしているんだ」
「それはおまえの知るところではない」
「いったい、本殿でなにがあるというんだ。まさか……皇女となにか関係が? 皇女とハーディドの『運命』は、あんたの『定め』とどう関係している?」
「あの者たちには望むものを与える。いま言えるのはそれだけだ」
いにしえの神は、僕の沈黙をしばらく窺っている様子だったが、――よく考えることだ。と言い残して、気配を雲散させた。
逡巡の欠片もなかった――と云えば真っ赤な嘘になる。それどころか、僕のこころは大揺れに揺れた。仮に、ジュノ様たち三人を敵に回したとすると、どういう戦いかたがあるだろうか。僕はぐらぐらする精神をそのままにして、思考を奔走させた。胸のあたりが冷たくなって、腋のしたを厭な汗がつたった。罪悪感がむらむらと湧起ってくるあたり、僕はすでに片脚を裏切りの櫃のなかに差し込んでいたと見える。
深い瞑想から意識を回復したとき、頭のしたに柔らかいものを感じた。ふっと想像の視界に現われたのは、皇女だった。僕がビアガーデンで泥酔して尻餅をついて、皇女が抱き上げてくれたときに強く匂った、化粧品と薔薇の混じったような薫りが、鼻腔にくすぶっている。そうして、かの女の裸体が、僕の肌のうえでよじれ、軟体生物のようにのたうつ感覚が、ありありと身体に甦った。はっとして瞼を開いたとき、僕は上から覗きこむジュノ様と、視線を交錯させた。
僕の頭蓋のしたには、ジュノ様の太腿があった。かの女は、鎧のはいだての硬い部分をわざわざ横に寄せていてくれた。僕はそんなふうにしてもらって、畏れ多いなかに胸の温かくなるような嬉しさを噛みしめながら、上体を起こした。
「仕方、なかったんだ」まるでジュノ様は言い訳をするように、「食事が出来たから、起こそうと思って、傍に膝をついたら、シュウが寝返りをうったんだ。そうしたら、ちょうど頭がここに……。疲れているだろうし、無理に起こすのも可哀想だと思ったから、そのままにしていた……」
ランタンの光をうけて亜麻色の髪が輝いている。その陰になってすこし淋しそうに見える横顔が、ほんのりと赤く染まっていた。
ジュノ様の漂わせている薫りは、自身がひどい匂いだと酷評した、皇女の香水のそれとおなじものであると、僕は初めて気がついた。その意味するところが分からないほど僕は馬鹿ではないつもりだ。そうして一瞬でもジュノ様を裏切る可能性を考えた自分が情けなくて、はらはらと涙が零れてきた。
「どうした、シュウ?」
ジュノ様は膝立ちになって、僕を心配そうに覗き込んだ。
「悪い夢を見ました」と、僕は答えた。「ああ――、あれはまるごと夢だったのです、なんでもありません」
「昔のことを見ていたのか? こっちに連れてこられる以前のことを……」
僕は、大したことではないからと言って、レザー・コートの裏地で涙をぬぐった。ジュノ様はしばらく黙っていたけれど、やがて白黒をはっきりさせるというような厳しい目つきで僕を見据えた。
「……むこうの世界に、大切なひとがいるんだな」
僕は溜息をついて、
「かの女は死んでしまいました。自殺でした。幼馴染だったんです」そうして初めて、紘子のことをうちあけた。「――こっちへ来て、ジュノ様をはじめて見たとき、僕は雷に撃たれたような気持ちでした。貴女は、まるで紘子の生き写しだったから」
ジュノ様の、桃色の唇が、すこし震えていた。僕は申し訳なくて、うなだれ、かたく目を閉じた。
「ごめんなさい。僕がジュノ様に捧げてきた忠誠は、すべてまがいものだったんです。少なくとも、純粋なものではなかった。僕にとって、貴女は紘子のかわりでした。紘子になにもしてあげられなかった僕は、貴女に献身することで、自分を慰めていたんです。貴女には感謝してもしきれない。僕がこれまで、後悔と自責の念で潰れずにいられたのは、貴女がいてくれたお蔭です」
自分がどれだけひどいことを告白しているか、分かっている。それだけに、ジュノ様の、うっ、うっ、というささやかな嗚咽が耳に這入りこんでくると、僕は心臓を剃刀でなぞられているように切なくなった。
耐え切れず、顔をあげた。ジュノ様は、両手で顔を蔽っていた。
「受けとめる覚悟もないのに、どうして尋ねたりなんかしたのだろう。バカだな、私は」
「ジュノ様……」
「違う。ほんとうは分かっていたんだ。ただ、とつぜん聞かされるのが怖くて、怖くて……だから、いっそ自分から訊いた、それだけだ。けれど、――」ジュノ様は涙を拭い、天井を仰ぎ、息を震わせて、「私はだれのかわりでも構わない。もし、私がいままで少しでもシュウを励まし、支えになることができたなら、しあわせに思う。ほんとうだよ」
水っぽい声でそう言うと、僕をまっすぐに見て照れくさそうに微笑んだ。
「ああ、ヒロコというひとが羨ましいよ。もし、シュウのこころを十二年も独り占めできるのなら、斃れるのも悪くないかもしれない――ふふっ、冗談だ、そんな顔をしないでくれ」と、悪戯っぽく言って、部屋の角のほうを向いた。食べかけのピザやウィンナーの皿が並ぶテーブルのむこうに敷物があって、ベネッタが腹這になってすやすやと寝ている。脇のソファには、ロアがふんぞりかえって、小さな鼾をたてていた。ジュノ様はそれらを目を細くして眺めながら、「いま、死ぬわけにはいかない、絶対に。私は、兄上のために、是が非でも皇女を連れて帰らなければならないからな。――ディオール殿が机のノートをあたったところによると、どうも『紫の雲』は邪神の類と契約を交わしているらしい。この邪神の如何によっては、面倒なことになるかもしれない」
ジュノ様は、いまのうちに食事を取っておいたほうがいいと、僕にテーブルのものを勧めて、
「――『紫の雲』は邪神に生贄をつれてくるようにと強請られていたようだ。それで、皇女が当座の生贄に選ばれ、騙されて地下神殿の本殿まで連れていかれた可能性がある。その邪神の名は……」
「ハプカトゥリポス」僕はピザに手を伸ばしながら言った。
「知っているのか?」
「ついさっきも、夢のなかで誘惑されました。黴と苔にまみれたロクでもない神です」
「だいぶ古い時代の神格らしいが、今更甦ってなにをするつもりなのだろう」
「ヤツの狙いは、大陸の戦争を長引かせることにあるのかもしれません。そんな気がします」
ジュノ様の蒼い瞳に、独特の鋭さと力強さが戻った。
「邪神がそれらしきことを匂わせたか」
「僕に、仲間を裏切れと持ちかけてきました。要するに、ヤツは皇女を連れ戻されると困るのでしょう。それはたぶん、王国と帝国の関係がこじれることを目論んでいるからだと思います。ベネッタの話だと、ああいう古くさい神は群衆の負の思念をあつめて歪んできてしまいがちらしいですし」
「それで皇女を……なるほど。となると、ヤツはそう易々と皇女の身柄を明け渡さないだろうな」
僕が頷いて、戦いは避けられないでしょう、と答えたとき、木製の扉が俄然としてがたがたと鳴り始めた。それから少しもしないうちに地響きのような音が白漆喰を揺すりはじめ、やがて林立する軍旗の突風にはためくような騒音が轟くようになった。そこに鼓膜をひっかくような甲高い鳴声が混じって、遠近感のぼやけた調子でおおきくうねり、迫ったり退いたり、音の構成を目まぐるしく変えたりする。
ベネッタはすでに敷物のうえに手をついて身体を起こし、ピンと耳を立てていた。玩具のような尻尾が背中のうえでうねっている。ロアはソファにもたれて大きく伸びをすると、手のひらでごしごしと顔を撫で、
「……吸血鬼どもが動き出したか?」
ベネッタは頭だけで振りかえり、多分ね、と答えた。
出発が近いことを感じ取った僕はウィンナーを三本、ピザに挟んで齧りついた。するとロアが、
「おいシュウ、あんまり詰め込むと歩くのが辛くなるぞ。ほどほどにしとけよ」と欠伸まじりに言ってからかった。
吸血鬼らが獲物を求めて地下神殿をあとにし、森へと散っていったからには、一刻の猶予も許されなかった。皇女の消息についてはっきりと危機感を共有した僕たちは、驀然として神殿の奥へと進んだ。谷を越え、地下水の急流を渡り、漆喰の内装のしっかりした回廊を過ぎ、鏡のように僕らのすがたを映す大理石の階段をあがりきる頃になると、うっすらと漂っていた吸血鬼たちの糞の悪臭はほとんど消え、かわりにダンジョンの深層に特有の、身の毛のよだつような不吉の気配が、僕らを覆いはじめた。
この気配は、気のせい、という言葉で片のつくような、生易しいものではなかった。心にじかに響いてくる。穏やかな学者を、粗暴にする。勇敢な戦士を、臆病者にする。陽気なひとを、陰鬱な顔つきにする。――ようするに、瘴気とでも呼ぶべきもので、精神状態をネガティブな方向へと引っ張っていく。この気配に飲まれるのに一番いい方法は、黙り込んで鬱々と物思いに耽ることだ。だから僕たちはその逆をやった。なるべく話題を見つけて喋りあうようにしたり、馬鹿らしい冗談を言い合ったのである。
僕はランタンを掲げるロアと並んで、薄く水を張ったように光沢する黒々とした大理石の床を歩いていた。話題は幾度か転じたのち、ロアがオールギュント様と知り合うに至った経緯のことになった。
「……傭兵をやめる最後の年だったから、五年前のことだ」と、ロアは指折り数えて言った。「俺はとある城塞都市に雇われて、そこのマスケット兵の部隊を指揮することになった。自慢する訳じゃないが、俺はいい仕事をしたと思う。落城寸前だと高を括っていた王国軍の陣地に夜討ち朝駆けを繰り返し、さんざん悩ませてやった。連中は困り果て、とうとう俺をカネで釣ろうとしはじめた。王国軍の密偵が、お偉いさんの書状をもってきて俺にこう言うんだ、『貴下が我が軍に寝返ってくれるのであれば、相応の謝礼を支払う用意がある、なんなら王国貴族として迎えてもよい』とな。最初は準男爵という話だったが、二三度蹴っているうちに、子爵にまでなった。で、俺はその書状を街の総督のところへもっていって、こう言うわけだ、『王国は俺にこんだけ出すって言ってるが、おたくはどうする?』……ああ、俺は悪いヤツだったよ。
そうこうしているうちに、俺には女房ができた。最初は遊びのつもりだったが、どうもな、一緒にいると、心が落ち着くんだ。他の女にはないものを持っていた。鍛冶屋の娘だったが、ある晩、忍んで逢いに行くと、あいつはとつぜんトイレにかけこんで嘔吐を始めた。問い詰めたら、腹のなかに赤ん坊がいるっていうんで、傭兵稼業の俺でよかったらおまえを女房に迎えたいって打ち明けた。その翌日、親父さんに挨拶に行ったよ。ハンマーでぶん殴られるンじゃないかと、おっかなびっくりだったが、まあ、最後にはなんとか話をまとめることができた。
ところがな……、その城塞都市に疫病が流行り始めてな。天然痘だ。それを知った王国軍は、攻撃を一切やめる代わりに、街を厳重に封鎖しやがった。けれど、仕方ないといえば仕方ない。天然痘が外に拡がったら、とんでもないことになるからな。我らが城塞都市は、帝国軍にも見捨てられた。食料は入ってこなくなり、消毒用の酒は尽き、どうにもならなくなった。もちろん俺も、稼業どころじゃなくなった。医者の先生が組織するボランティアに部隊ごと加わって、病人の隔離や死亡者の埋葬を手伝った。
毎日、ボランティアの仕事に追われて、月を経るごとにお腹を大きくしていく女房のことをかえりみる暇もなかった。俺は市街の比較的閑静なところに屋敷を買って、そこに女房を住まわせていたが、相手をしてやるどころじゃなかったんだ。そうしてある晩、二日ぶりに帰宅すると、女房が顔を火照らせてぐったりとしていた。俺は言葉にできないほど嫌な予感がした。調べてみると案の定で、女房の首筋にちいさな膿のかたまりができていた。泣きたくなったよ。
その頃、城塞の封鎖を監督していた王国の行政官のひとりが、いまのクロウザント候、オールギュントだった。あいつはあろうことか、単身、一般人を装って城塞のなかへ這入りこんで来やがったんだ。女房が倒れるすこし前のことだった。最初、俺はそうとは知らずに、あいつと偶然知り合って、すっかり意気投合した。妙なやつだと思ったよ。品があっておっとりしてる割に、剃刀のように鋭いところがあった。街の惨状を話して聞かせてやると、あいつはボランティアをやってみたいと言った。それで俺たちと一緒に仕事をするようになったんだが、半月もすると忽然とすがたを消してしまった。それから四五日して、王国軍から、封鎖を解くわけにはいかないが、食料と消毒用のアルコールを援助する用意ならある、また医師、薬師、法術師に限って、ひとの出入りを許可してもいいと、申し入れがあった。こいつは渡りに船だった。物資の受け取りのとき、オールギュントが宰相府の行政官をつとめていると知って、度肝を抜かれたよ。あいつが、物資の援助と封鎖の一部緩和のために、相当骨を折ってくれたようだった。お蔭で、街の住人がどれだけ助かったか分からない。――女房は結局、助からなかったが、でも、最後までひもじい思いをさせずに済んだし、医者や法術師の先生に見てもらうこともできたし……これは奇跡的なことだったが、赤ん坊もなんとか無事に生まれた。それから俺はオールギュントの勧めで傭兵稼業から足を洗い、ジャーナリストに転向したんだ。俺があいつに敬称をつけて呼ばないのは、あいつを親友と思っているからだ。だいいち、あいつが嫌がる。シュウは俺のことを礼儀知らずな奴だと思ったかもしれないが、そういう事情があるんだよ」
「あのときは、そんなことを思う余裕なんてなかったよ。ロアに人質に取られたジュノ様をどうやって助けようかと、そればかり考えてた」
後ろのほうで、ジュノ様とベネッタが笑いあっている。クロウザントの屋敷にいた頃、ジュノ様は侍女とお喋りをして無邪気に笑うということがなかった。こんな物騒なダンジョンの深層でも、屋敷よりは居心地がいいのだろうか――などと思いつつ、
「でも、」と、こだわりのないように見えるロアを不思議に感じて付け加えた、「奥さんが亡くなったのは残念だったね」
ロアは心持ち視線をさげて、ほろ苦い笑みを浮かべ、
「これも運命だ、仕方ない」
「運命、か……」
僕はランタンの揺れる反照を踏みながら、聞き飽きるぐらいなんども繰り返して聞いた「運命」なるものについて、ロアがあまりに受容的でいるのを見て、つい意地悪な気持ちを起こした。云うべきかどうか、悩まない訳ではなかったけれど、敢えて、
「僕たちの世界では、天然痘はほぼ根絶した。牛痘にかかった牛の膿に、天然痘を予防する効果があると分かって。もうずっと昔のことだと思う。――もちろん、この世界の天然痘が、僕らの世界のものと同じかどうかは、分からないけれど。いずれにしても、この世界でもそう遠くないうちに、医学の発達にともなって、特効薬が見つかるかもしれない。そうしたら、天然痘はなくなる。奥さんは死なずに済んだかもしれない」
僕は、ロアが無念そうな顔をするのを望んでいるのか、それとも見たくないのか、自分でもよく分からないまま、そっとロアを見上げた。かれは無表情のまま、二三度頷いただけだった。
それで僕はつい、
「ねえ、全然悔しくない? 運命にどこまでも逆らいたいと思ったことはない?」
ロアは穏やかに笑って、
「おまえさん、自分自身と運命はべつべつの背景をもっていると考えてるな? まあ、シュウが運命や人生のことをどう考えようと自由だ。俺は聖職者でもなければ魔法使でもないから、説法や摂理のようなことは言えない。だが、体験なら語れるぞ」
僕は、ぜひ聞きたいと言った。するとロアは不精鬚をしごいて、
「……あの城塞都市に雇われる半年くらい前のことだ。俺は深い森のなかに一人居座って、そこに這入り込んでくる敵兵を、茂みや木立の陰から、狙撃しつづけた。――俺は戦争を喧嘩と一緒だと思っている。とにかく相手をビビらせれば勝ちだ。それで俺は仕留めた奴を、杭や竹槍で串刺しにして、そのへんにおっ立てておくのを習慣にしていた。するとそれを見た敵兵は、ゾッとなって、森のなかに潜む俺の影を、何倍にも大きく感じる。恐怖に囚われた奴ってのは面白いもんでな、自分から危険な場所へ、罠のあるほうへと吸い寄せられていくんだ。俺は敵をビビらせることの重要性を、絶対的に信じていた。
けれどある晩、そうして杭にブッさした遺体の鎧の合わせ目から、はらはらと手紙が落ちてきてな。差出人は、そいつの故郷の母親らしい。いつもの俺だったら読みはしないんだが、もう孤独な戦いが二ヶ月も続いていて、ついもの淋しくなって、読んでしまった。そうしたら、杭に貫かれた肉の塊が、母親の愛情を一身に受けて成長した青年の死骸に変わっちまったんだ。自然、俺はただの傭兵から、哀れな母親から一人息子を奪った殺人鬼になった。その晩、俺はいったい何をやっているんだろうと、延々とねぐらの筵のうえで考えた。考えて、考えて、もっと違う生き方がしたいと強く思った。人間の温もりのなかで生きてみたいと激しく願った。
城塞都市にやってきて、女房とはじめて会ったとき、他の女に感じないなにかを女房から感じたのは、つまり、あの森のなかで煩悶した晩に、俺のなかでなにかが変わったからだと思う。そうしてあいつを女房にした。それから街は疫病で覆われた。女房とその家族がいなかったら、俺はさっさとずらかっていただろう。
ボランティアに加わって、たくさんの男が、女が、子供が死ぬのを見てきた。辛かったが、ひとを殺すことを仕事にしてきた俺が、まったく逆の、救うことを仕事にして、自分で首をかしげたくなるくらい充実していた。あの経験で俺は決定的に変わったんだ。
女房が死んだという事実だけを他から切り離して考えれば、そりゃあ運命に逆らいたくなる。けれども、大きな流れのなかに置いてみると、また違うものが見えてくる。――俺は、運命に怨みつらみをぶつけるつもりはない。ただ女房が死んだことで変わった自分のこころの部分々々を、大切にしようと思うだけだ」
「でも、奥さんはもっと生きたかったんじゃないかな」
「そうだな、そんな風に思うと俺もつらい――」と、ロアはそっとむこうを向いた。「けれど、あいつが最後にこんなことを言い残してくれた。『たった一年きりだったけれど、あなたと一緒に過せて幸せだった』と。俺にはもったいないくらいのいい女だった。あのとき、はっきりと思った。女房は不幸だったが、俺は世界一、幸せな男だったかもしれない、とな」
僕は突如として足許から吹き上げてくるように起こった激情を、名状しかねていた。けれどもすぐに候補は二つに絞れた。嫉妬と羨望である。その境界の際どいところを、万感が怒涛となって渡っていくようだった。好きで好きでたまらないひとが、別れぎわ、一緒に過せて幸せだったと言ってくれる――そんな無上の贅沢に値するものを、ロア・ディオールという男は持っていた。僕は持っていなかった。それだけの違いだ。けれど、僕には運命の僕に対する特別な悪意と思えて仕方なかった。
ロアは僕の顔色が一変したことに気付いたのか、「つまらないことを話した、忘れてくれ。話題を変えよう」と、穏やかに言った。それで僕は、瘴気の只中にいることを否応なく想起して、烈しく頭を振るい、脳に浸透してくるような悪意の触手を払った。
回廊が終わると緩やかな降りの階段にかわって、壁にはめこまれた魔法の燭台が煌々と僕らを照らすようになった。ランタンの必要がなくなると、ロアは硝子の蓋いを持ち上げて芯を吹き消した。
前面を塞いでいた降りの天井は、柱に押し上げられるようにして少しずつ高くなっていき、そのうち夜空のしたに出たかと錯覚するほど、唐突に、広大な空間へと出た。地下水がせせらぎとなって、ごつごつした岩のあいだを流れている。そのなかを、黒光りする床が、まっすぐ続いている。ずっと先が一段高くなり、縁に彫像とも石碑ともつかないものが立ちならんでいる。四辺に焚かれた篝火のせいで、その一帯が、ライトアップされた屋外舞台のように見えた。
ベネッタが大きな瞳にその光り輝く高台を映しながら、
「あれが、本殿?」と言った。
「ああ……間違いない」と、ロアが開いた地図を見ながら答える。
「誰か、いるな」と、ジュノ様は前方を指差す。
目を凝らしてみると、たしかに、舞台のうえでひらひらしている白っぽい布切れがある。どうも男の衣服――ローブであるらしい。男は火影のなかを歩きまわりながら、両腕を天にむかって広げたり、手のひらをすり合わせたり、口もとをしきりに動かしたり……芝居の稽古でもしているような風情だった。
「あいつ、『紫の雲』かな」
「多分、そうだろう――」と、ロアが地図を懐に押し込みながら、「それより、皇女とボーイフレンドの姿が見えないことが気になる。行こう」
僕たちは靴音を高く鳴らすことを厭わず、駆けて本殿へむかったが、「紫の雲」はいっこうに振り返らない。かれがなにをしているのかは依然分からなかった。ともあれ、よほどその作業に熱中していると見える。――近づくにつれて、高台の縁に並べられた、柱とも石像ともつかない存在の正体が分かってきた。それらは水晶に閉じ込められた人間や精霊であった。とくに美女や美貌の妖精を封じたものは美術品として愛好者が多く、闇市場で高く取引されるらしい。ほかにも、一部の鍛冶屋が精霊や高名な戦士の魂魄を剣に宿して魔法の力を付与するために用いたり、邪術師が人造人間を製作するときの主要な材料として買い求めたりするという話だった。いずれにしても、まっとうな人間ならば一生関わることのないアーティファクトである。
男は、腰の高さほどのテーブルに向かっていた。テーブルには漆黒のクロスがかかり、象牙色の小さな像、無数のろうそくを立てた燭台、銀製のおおきな杯、それからこぶし大の瑪瑙を磨いて作ったと思われる髑髏などが並べられていた。テーブルの先には黄ばんだぼろぼろの布が掛軸のように垂れていて、そこに古びた肖像が描かれていた。白い髭を蓄えた、仰々しげな人物である。男はその人物に語りかけるように、なにやら呪文のようなことを口にし、ときおり天を仰いだり肩に手をあてたり、拳を額のちかくに持っていったりするばかりで、相かわらず、僕たちを無視し続けている。それが、ベネッタのロング・ブーツが段々にかかった途端、鞭に打たれたかのように仰け反り、それからローブの背中を戦慄かせながらゆっくりと振りかえった。
いくらか藪にらみの、馬のようにせり出た眼球が、篝火のひかりをあつめてぎらぎらと輝いている。面長だが、顎は逞しい。高い鼻と、ぼってりした唇に、精力的な印象があった。頬や額は、脂っぽく光沢している。皮膚に皺はないが、かといってハリも感じられず、しみとも痣ともつかないものが、左の頬骨の辺りに散らばっていた。歳は、四十前後だろうか。黒々とした眉に、なんとなく昔の日本人の毅然とした雰囲気があった。
かれは物凄い怒号を発した。自然、オプス語を予期していた僕の耳には、意味不明のものとして届いたが、その音声を日本語として識別しなおすと、ひとつの明瞭な言葉になった。
(蒙昧の奴輩めが、その罪赦しがたし……)
僕たちのなにを指して蒙昧と言っているのか――多分、魔法に精通していないことだろう。少なくとも、かれにはそう見えたに違いない。高台のうえにはコバルト・ブルーの顔料でおおきな魔方陣が描かれていた。それが蛍光塗料のようにうっすらと光り輝いている。これは、魔方陣のなかに魔法の力が流れていることを意味する。つまり、儀式の最中であったのだ。それが、僕たちが立ち入ってきたことで成功から判然として遠退いた。かれの、――いや、今や断定して差支えないだろう――、紫の雲の、憤る理由である。
ロアはつかつかと魔方陣のなかへ踏み入って、それから、
「おっと失礼、儀式の最中とは知らなかったもんですから」と、露骨にとぼけて言った。魔方陣のなかへ侵入することで儀式の息の根を完全にとめる意図がかれにあったのは間違いない。危険な術であれば僕らの不利に繋がりかねない。ロアらしいやりくちだった。
魔方陣から光が消失すると、紫の雲の、こめかみの辺りに、血管が浮き上がった。
「ひとつお尋ねしたいんですがね」と、ロアは紫の雲を不敵に見おろして、「帝国の皇女が――アーリアという偽名を使っているようですが――その女性が、ここに連れてこられたと思うンですけど、どうです、ご存知じゃありませんかね」
「貴様……私を愚弄しているのか」
「愚弄? いやいや」と、ロアは挑発とも取れるような大げさな仕草で手を振り、「そんな甘っちょろいもんじゃありません。――あなた、返答次第では只じゃ済みませんよ。つまり、そういうこと」
紫の雲は僕らをかわるがわる睨みながら、テーブルをまわりこむように移動する。そのとき、裾のひらいたローブの陰から一際大きな水晶が現われた。六角の透きとおったなかに、恋人たちがいる。それはひと目で愛し合っていると分かるほど、感情的な抱擁のしかたをしていた。女の、男の首にまわす腕が、優しく包み込むような動きのなかに、もうけっして離さないと訴えかける力強さを示している。男の瞳が醸し出している印象は、静止の状態からくる虚無の雰囲気が支配的だったが、そのなかに一抹の、愛しいものを見るひとに特有の、切ないような、悲しいような色が湛えられていた。
その水晶をベネッタが指さして、ねえあれ、と言った。僕は頷いて、
「間違いない。左のひとは皇女、右の青年は強盗と一緒に僕を襲ったやつ――つまり、ハーディドだ」
ジュノ様が、組んでいた腕をほどいて颯と金髪を肩のうしろへ払い、
「……『紫の雲』とやら、弁明の機会を与えてやってもいいぞ」
「なにを勘違いしているのか知らんが、殿下とその御連れの方は、自らの意思によって時の流れから隔絶され、水晶のうちに閉じ篭ったのだ」
「どうも、俺が聞いた話とは違うようだが……」と、ロアが有無を言わせない響きをもって、「皇女はハーディドという男の魂魄を身体に戻したいと、あんたに相談をもちかけたそうじゃないか。それがこのザマだ。……要するに、二人を騙したのか?」
紫の雲は狡猾そうな笑みを浮かべて、
「そうではない。私は頼まれたとおり、ハーディドの彷徨う魂を召喚し、皇女が逢いたがっているから肉体へ戻るようにと説得した。それだけだ。だが、ハーディドの、長くアンデッドとして放置されていた身体が、久しぶりに降りた魂に耐えられなかった。壊死が著しく進行し、放置すれば五分ともたないような有様だった。それで私は嘆き悲しむ二人にこう提案した、『あなたがたは水晶のうちに封じ込まれることで、永久に互いを抱擁し、甘い夢を見続けることができますが……』と。二人はそれを承諾したのだ」
僕はこぶしが震えるのを感じながら、
「おまえは最初から、ハーディドの魂を無理に戻したりすれば身体が耐えられないことを知っていて、黙っていた。だったら、騙したのと一緒のことだろう」
「だからどうした。貴様がどう考えようとも、二人はこれで幸福なのだ」
紫の雲の、焦点を結ばない藪にらみの瞳が、異様に大きくなって輝いた。そうして、高笑いが朗々と本殿に染み渡った。
「……いますぐ、皇女を元に戻せ。これは最後通牒だ」と、ロアがマスケットの銃口を紫の雲にむける。
「それは無理というものだよ、君。なぜと言って、二人は自らの意思でこうなったのだからね。忠告しておこう! 長生きしたいのなら、運命の潮流とひとつになった魔法の力を、軽く見るべきではない!」
紫の雲は、テーブルの紙片の束を鷲掴みにして、なにか呪文らしきことを呟きながら、ばっと宙に放り投げた。それが鳥の羽根のようになって、はらはらと辺りを白っぽく舞っている。ロアが轟音とともに放った銃弾は、そのなかを通過して、虚空に消えていった。――僕は足許に落ちた紙片をひろいあげた。そこには邪術の意匠と呪文が確認できた。
紫の雲のすがたが見えない。ただ、その声が反響するように聞こえてくる。
「偉大なるエウハールの主神ハプカトゥリポスよ、今こそ契約に則って我を守護せよ」
僕は目に見えない魔法のちからが周囲に渦巻くのを感じた。それが気のせいなどではないことは、魔方陣が淡く輝きはじめたことで確認できた。そうして、呪符がいっせいに桃色の焔を吹いて燃え上がり、強烈なひかりを本殿に充溢させた。僕の眼はフラッシュにやられたようになって、ひかりの靄が網膜に焼きつき、ほとんど視野がきかなくなった。
苦しげな呻きとも、憤怒の咆哮ともつかない声が、ひかりに濁った本殿の奥から聞こえてくる。そこへじっと目を凝らすうち、次第に異様なものが姿を現わした。
人間の三倍はあろうかという巨躯――それも、真っ赤な肉がむき出しになっている。リンパのような薄汚い粘液が身体の随所から滴りおちて、床に光沢を拡げていた。顔面は、なにかの不快のせいで歪んでいるように見える。おおきな鼻と、血走った藪にらみの目に、紫の雲の面影があった。
かれにとって、この変身は予期しないものだったのかもしれない。なぜならかれは、
「おお、ハプカトゥリポスよ……なぜ私にこのような仕打ちを?」と、恨めしげに天を仰いでいる。そうして、痛い、痛いと悲しげに呻いた。
ロアは銃を構えながら、
「余計なお世話かもしれないが、あんた、帰依する神さまはちゃんと選んだほうがいいぜ……」
二発目を撃ちこんだ。銃弾はバシュっという水音に似た響をたてて、異形と化した紫の雲の、ちょうど眉間の部分を貫通した。そこからどっと粘液が溢れて、顔がみるみる覆われていく。紫の雲は凄まじい悲鳴をあげて、上体を前に傾けた。――けれど、眉間の穴はみるみる塞がれてしまった。
「どういうことだ?」と、ジュノ様が鋭い声で問う。
「さあ……驚異的な再生能力をもっているのかもしれません。令嬢、ためしに、あいつの腕を落としてみてくれませんか」
「心得た。――うおお!」
ジュノ様はツーハンデッド・ソードを振りかぶり、疾風のように躍りかかる。肉を断つ小気味いい音とともに、紫の雲の、巨木の幹さながらの腕が、ドスンと落ちた。
異形は重低音の叫びをあげ、切断面をもういっぽうの腕で庇う。その赤黒い肉のしたから、ぎゅるぎゅると不気味な音がたち、筋肉や脂肪がもりあがっていき、あっという間に元通りの腕に戻ってしまった。
粘液にまみれた眼球が、ジュノ様を睨みつける――
「危ない」と、ベネッタが叫ぶ。
ジュノ様が床を蹴って跳躍するそのすぐ下で、てらてらと赤く濡れた腕が、風を切った。宙に漂ったままのジュノ様に、もう一方の腕が迫ると、かの女は鋭くソードを薙いで、指を二三本まとめて断ち切り、その反発力をもって異形から距離をとる。
紫の雲は、痛い……痛い……と喚き散らすが、指はすぐに再生した。そうして表情に興奮の色が判然と現われてきた。本格的な攻勢に出てくるつもりかもしれない。僕は異形を眩惑しようと、イパルネモアニを召喚する呪文を脳裏でなぞった。発動までもうすぐというところで、僕を凝視する紫の雲の瞳が、魔法の光に輝きはじめた。
淡い緑の、透きとおった光である。異形の醜い姿からかけ離れて美しく、幻想的であり、見るものを陶酔させるような妖しさをはっきりと伴っている。
(駄目、あれを見つめては駄目……!)
その声は、イパルネモアニか――けれど、遅かった。僕は女神の声より、不思議なひかりのほうに親しみを抱いていた。ひかりのむこうに、懐かしくていとしい感覚の奔流がある。それは僕が長いあいだ焦がれ続けてきた、むこうの世界を連想させるものだった。
おかえり、という少女の懐かしい声が、脳裏にやわらかく響く。
紘子……紘子なの……だろうか。
………。