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 ロア・ディオールが僕たちを連れていったのは、煉瓦造りの民家を改築したようなこぢんまりとしたビストロだった。梁からぶら下がる三つばかりの煤けたランタンが明りのすべてで、食卓のまわりは赤味を帯びたひかりに覆われていた。

 かれは酒以外の注文を自由にさせてくれる代り、前菜が運ばれてくる先から本題に入った。

「俺は、貴女の兄貴――クロウザント候から依頼を受け、この街でさる調査を行っていたンです。そのことはシュウも知っているが、まずはそこからお話ししましょうか」

「いや、だいたいのところは分かっている」と、ジュノ様は仰って、僕の反応を楽しむかのように、悪戯っぽい一瞥を投げかけた。

 ベネッタが、「ごめんなさい……」と言って、耳をぺたっとさせた。「シュウのことが心配で、すこし後をつけさせて貰ったの。だって、ほら、へんなひとに引っかかったり、またこのまえみたいに強盗に襲われたら、大変だし……」

「ほんとに?」僕は驚いて云った。「全然気がつかなかった。さすが密偵」

「ご存知なら、手間が省けてありがたい」ロアはウェイターがテーブルに腕をのばして前菜やスープを並べるのをほとんど気にせず、「なにせ、今は時間が惜しい。――ああ、どうぞ、食べながらで結構。じつは今朝、付き合いのある通信社から急報が届きましてね。少しばかり厄介なことになった。アザド帝国海軍がヘクザイム島の沖合いで軍事演習をやるらしいンです。この意味がお分かりですか。皇帝が、皇女の行方のいっこうに掴めないことに業を煮やして、いよいよ共和国政府に軍事的圧力をかけ始めたということですよ。フィオール王国にしてみれば、中立を維持してきた商業都市に帝国の威が及ぶようになるのは面白くない。対抗処置として、ヘクザイム海軍との合同演習を行なうことを即日決定しました。そんなわけでいま、両大国の海軍が、内海で睨みあいの状態になっている。ささいなことを切欠にして、本格的な海戦を始めかねない状況です。そうなってしまったら、両国の和平推進派が水面下で進めている停戦交渉は御破算になる。――島の情報の遅れを加味すると、演習はどうも昨日あたりから始まっているようです。俺としては、すぐにでも皇女の身柄を確保し、演習を中止させたい」

「で、皇女さまの消息は分かった?」

 僕がシーフード・サラダを突きながら尋ねると、ロアは、ああ、と頷いてコップの水を含み、それから顔をしかめた。切った口に染みるらしい。

「……皇女さまはシュウの見立てどおり、アンデッドと化したハーディドの蘇生を『紫の雲』に依頼するつもりだったようだ。紹介状を書いたという人物からじかに聞いたから、間違いないと思う。で、ご令嬢、その『紫の雲』なる邪術師ネクロマンサーのことですがね、ダンジョン管理局の重犯罪者名簿に名前の載っているような男で、取引が禁じられている物品の売買の元締めなんかもやっているらしい。具体的にどんなものを扱っているかというと――食事中ですが敢えていくつか挙げましょうか、幼児の脂肪をクリーム状にしたものとか、魔物の臓腑とか、ダンジョンの深層に自生している悲鳴茸マンドラゴラとか、要するにそういうのですよ。それで、そっちのほうに手を染める犯罪者の間じゃ、かなり有名らしい。ちょうど俺は、あの酒場に人攫いをやるという盗賊シーフの一団が出入りするのを知っていたから、話を聞きに行ったンですが、生憎むこうの機嫌を損ねてしまいましてね、やむなく力づくでものを尋ねなきゃならなくなったって訳です。おかげでこのザマですが――」と、ジャケットをひらいてぼろぼろのワイシャツを露出させ、「まあ、その甲斐あって、『紫の雲』の根城の場所がわかりましたよ。遺跡群のちょっと遠いところなんですがね……」

「ほう。あのシーフどもが、よく喋ったな」と、ジュノ様がフォークを止めてロアを見やる。「仲間を裏切った者は厳しい制裁を受けるそうじゃないか。秘密は死んでも漏らさないと評判の連中だ。口を割らせるのは尋常のことではなかったはずだ」

「おや、ご興味がある? しかし、」ロアはいかにも残念だという風に首を振って、「これは良家でお育ちになったご婦人のお耳に入れるような話じゃありませんよ」

「かまわない。後学のために聞かせてくれ」

 するとロアは、苦笑いをしながら窓辺に立てかけたマスケット銃を親指でさし、「そいつで、シーフの股間にぶらさがっているもののすぐ下を、ズドンと撃ち抜いてやったンです。『おっと手元が。くそ、次こそオカマちゃんにしてやるからな!』……ヤツは唯々として洗いざらい喋ってくれましたよ」

 ジュノ様は楽しそうに笑って、「気に入った」と仰った。「で、私たちはディオール殿に同行し、皇女の身柄確保に協力すればよいのだな?」

「お願いできますかね」

「お引き受けしよう。――構わないな、二人とも」

「感謝しますよ。しかしご令嬢、楽な仕事じゃないってことは覚悟しておいてください。紫の雲は犯罪者どもの顔役を張るだけあって、かなりの使い手だという評判だし、ヤツの根城も、そう簡単に行ける場所にはない。確認しますが、ほんとうにいいんですね?」

「……ディオール殿は兄上のまえで、私が王国とクロウザントに仇なす存在であるかのような言い方をしたが、」ジュノ様はスープの皿のうえに落としていた視線を急にあげた。その双眸には、烈火のような激しさが湛えられていた。「私としては、兄上のご友人にそのように思われているのが心外でならない。いつか、自らの行動をもって、認識を改めてもらおうと考えていた」

「ああ――あのときは、頭に血がのぼっていたンです。つまらないことを口走ったと反省していますよ」

 ロアがすこし項垂れると、ジュノ様は目元を和らげて、

「いや、あなたを責めているのではない。あなたの言ったことは、恐らく、和平派の一般的な認識だと思う。これはあなたの、ではなく、私自身の問題なのだ。――それにしても、ディオール殿は佳い店を知っているな。これほどブイヨンのきいたスープは味わったことがない」

 ジュノ様は、ウェイターを呼び止めて、コックに美味しかったと伝えて欲しいと仰った。ウェイターが一礼して厨房のほうへ歩いていくと、その後ろ姿を眺めていたロアが、

「お気に召されたなら、なによりですが――ただ、繰り返し申し上げるが時間が惜しい。食事が済んだらすぐに準備にかかってください。俺はそのあいだに信用の置ける人足を雇い入れておきますので」ポケットから懐中時計を取り出すと、嶮しい目でそれを見つめ、「二時間後、皆さんの宿のラウンジに集合――ということでよろしいですかね」

「了解した」と、ジュノ様は言った。


 僕たちは宿の一階で打ち合わせをしながら、矢弾やキャンプ用具一式、それから縄やナイフなどの道具類、水と食料を、幾つかのリュックにおさめ、それをロアが雇い入れたドワーフの夫婦に預けて、寂然とした夜の街路に出、もう少しで日付が変わるという頃、遺跡群の門のまえに着いた。門番たちは、夜半に遺跡群のなかを歩きまわるのは危険であり、夜が明けるのを待ったほうがいいと、月並みの警告を並べたが、ロアは言を左右にして飄然と門を抜けた。僕たちは、やれやれという調子で首を振りながら詰所へ戻っていく門衛たちを横目に、ロアのあとに続いた。

 豊かな月光が、遺跡の敷石を割って伸びる楡にそそぎ、蒼白く浮かび上がらせている。空には銀河が瞬いていたが、雲も幾分出ていて、燻し銀の輪郭だけを残して高々とうろこを組み、地平線にかけて裾を延ばしていた。その地平は、峻厳な山脈が、鮫の牙さながらに峰々を黒っぽく尖らせて、微光の行き渡った夜空をいまにも飲み込もうとしているように見えた。――そんな空のしたを、僕たちは歩いている。風のない夜で、遺跡を蔽う木立はひっそりとしていた。荷物持ちの夫婦の、ときどき低く囁きあうのが聞こえた。僕はロアの人を見る目を疑うつもりはなかったけれど、気になってさりげなく聞き耳をたてた。

 ――あんたちょっと、ディオールさんの仕事だっていうのに、なんで穴の開いた上着なんか着てくるかねえ。これは奥さんの声である。たしかに旦那のほうの濃緑の上着はちょっとみすぼらしい。旦那が答えるに、――へっ、ディオールさんは大陸から来た気取った学者連中とはちがうんだい、格好でひとを判断したりしねえさ。――あんた、ディオールさんはそうかもしれないけど、ちょっとうしろのハイカラな方を御覧よ、あの方はきっと大陸の偉い貴族のお姫様だよ、あんたのその格好を見て内心おかしく思ってるに違いないよ。――莫迦かおめえは、大陸の姫様が鎧を着こんだりツーハンデッド・ソードを背負ったりするもんけえ、あの方はたしかに都会の洒落た感じがするけどよ、女騎士だよ、おいらはひとの目を見りゃあだいたいのことが分かるんだ、ましてこれからダンジョンに這入ってくってのに、おいらの格好なんかいちいち気にするものけえ。それから二人は、近所の穀物屋への支払いがどうだとか、奥さんの実家の誰それが食べすぎで胃を悪くしたから自分たちも気をつけないといけないとか、そんなことをぶつぶつと喋り合った。わるい人たちではなさそうである。僕は安心して、つい笑い声を漏らした。すると奥さんのほうが僕をふりかえり、ドワーフ族特有の小さな目をめいっぱい開き、それからあまり知的な感じのしない愛想をつくった。上顎の歯が幾本か欠けている。扁平の顔とあいまって、ふしぎな愛嬌があった。

 左手に、東屋を抱いた大きな沼があって、水面に雑木林と空がゆらゆらと反射している。まるで地下世界がさざなみの下にひらけているようだった。その沼が終わるあたりに、叢林のなかへ切れ込む狭いわかれ道がある。ロアはその方向を手で示しながら、僕たちを振り返り、「こっちを往きましょう」と言った。「近道だし、魔物の出没も寡ない。ただ、少しばかり路が悪いンですがね……」

 しばらく歩くと、鬱蒼とした木々が尽き、星空が広がった。むこう側に崖が聳えていて、路の縁に立って下を覗くと、底の知れない闇になっていた。遠くに水の音がする。涼気と湿気をたっぷり含んだ風が吹き上げてうしろの雑木林をざわめかせる。そこから崖に沿って路は急な下り坂になった。ハイキングのコースなどではないから、谷にむかって傾斜する狭いところには落下防止のフェンスなんかないし、崖崩れを起こして抉れたところには木の板を縛りつけた狭いつり橋が架かっているだけである。命を預けるべき板は、水気のせいで部分々々腐りかけている。ドワーフに大量の荷物を持たせて歩かせるのは危ないので、僕たちは一時荷物を分けあい、ベネッタがむこうに渡した命綱をそれぞれ胴にくくりつけ、ひとりずつ慎重に渡っていった。板は三枚ほど外れて、闇のなかに吸い込まれていったが、みんな無事に渡ることができた。

 水の轟々という音が少しずつ強くなり、あたりが青く煙るようになる頃、僕たちは谷底に水深のありそうな渓流とささやかな川原を見出した。狭い空はだいぶ白んできて、雲のすがたかたちが判然とするまでになった。僕たちはここで日が高くなるまで休むことにし、崖の窪みにテントを張った。見張りは僕とベネッタが交替で立つ慣例である。

 幸い、魔物の襲撃を受けることもなく、午後の早いうちに簡単な食事を済ませた僕たちは、キャンプを畳んで渓流をすこし遡り、備え付けの、ロープに滑車を載せただけの簡単な装置をつかってむこう岸にわたり、それから浅い支流と一緒に地下遺跡の坑道へと足を踏みいれた。採光の窓から、石を敷きつめた回廊に靄っぽい光がさしこんで、崖の側を歩くかぎりは松明の必要を感じないほど明るい。それを頼りに僕たちは延々と階段をのぼったが、少しずつ崖の内部のほうへ折れていく感じになっていったらしく、光が届かなくなって歩行にも支障を来たすようになった。明かりを灯すかどうかで、議論になった。ベネッタは魔物の注意を集めることになりかねないからと、あくまで反対したが、ダンジョンの内部で迷うのはもっと危険だし、第一時間を食うというクライアントたるロアの意見が通り、かれの火蜥蜴の火がランタンの芯に移された。

 地図を信じるなら地表までそう遠くないはずのあたりまで上ってくると、ロアは僕たちをあつめて、

「本来なら、ここから西へ出て、森伝いにエルヴァ山の麓を目指すのがいいんですが……比較的、安全ですしね……ただ、二日かかる行程です。ここは、敢えて近道を取ろうと考えているんですが……」と、正面の薄暗い空間を、嶮しい眼つきで眺めた。

 等間隔に円柱が立ち、それが闇に紛れて見えなくなるあたりまで、ずっと続いている。そうとうに広い場所なのかもしれない。

「待って」と、ベネッタがかの女にしてはやけに強い口調で言った。「この先はたしか、『王族の共同墓地』でしょう? 年間、なん十人と墓荒しが斃れる鬼門中の鬼門だって聞くけれど……」

「そのとおりだ。だがどっさりと宝を持ち帰ったやつだって沢山いる。――あんた、イーヴル美術館に行ったことはないか。黄金のマスクとか、腕輪とか、神々の像とか、見たことがあるだろ。あれはぜんぶ、この先の墓地から持ち出されたものだ」

「そうね、命からがら逃げ帰ったひとは確かにいるらしいわね。でも、墓地を突っ切って東側の出口にたどり着いたひとの話はすこしも聞かないけれど? ――ジュノ様、あたしは反対です」

「シュウはどう思う?」と、ジュノ様が僕をふり返った。

「今回は、時間の制約があります。やむを得ないかと」

「ちょっと、シュウ?」ベネッタが眉根をあつめた。「じゃあ、せめてランタンを消して。それから、あたしを先頭にして。みんなより目も鼻も利くから」

 ロアは腕を組んで、しばらく足元を見おろしていたが、「……いや、ハーフエルフの姉さん――ベネッタさんだったっけな――あんたは俺と一緒にすこし後ろを歩いてもらう。先頭はご令嬢とシュウにお願いしようか。ランタンはドワーフの旦那さんに持ってもらって、奥さんのほうは俺たちと一緒に行く」

「どうして?」

「あんたのメインの武器はそれなんだろ」と、ロアがベネッタの背を顎で示す。そこには長弓と籐の矢筒がある。「飛び道具の得意なやつは後衛にまわったほうがいい。あんただって素人じゃないんだから、分かるはずだ」

「でもッ!」

「ご令嬢に怪我をさせたくないなら、腹をすえて援護してくれ」

「ベネッタ、心配するな」と、ジュノ様がこだわらない風に言った。「いかに闇のなかとはいえ、墓場に屯する死に損ないの魔物どもに後れをとるような私ではない。それに、シュウもいる」

 ベネッタは不承々々という風に頷いたが、そのつらぬくような視線はロアの横顔に張り付いて離れなかった。ロアは気付かないのか、それとも気付かないふりをしているのか、黙々とリュックに腕をつっこみ、火薬と弾をまとめて紙に包んだものを取り出しては、ジャケットのポケットに押し込んだ。

 そうして包みをひとつ取って端を噛み切り、黒色火薬と鉛の弾をマスケットの銃口から落とし、銃身に附属した鉄の棒をつかってしっかりと押し込む。鮮やかなほど慣れた手つきだった。

「それじゃあ……行きましょうかね」

 ランタンの小さな焔が、漣に乱反射する夕日のかけらのように、儚くゆれる赤いひかりを、四辺の闇へ投げかけていた。


 夜の神殿のような、円柱と平らな床と闇しかない空間のなかに、少しずつ崩れた石壁や土台がすがたを見せるようになり、そのうち辺りははっきりと廃墟じみてきた。火影が建物の狭いあいだの、井戸とも竈ともつかない石の構造物を浮き上がらせる。戸口のむこうに蟠った濃い闇が、僕の想像力をへんな風に刺激した。視界を遮るものが増えたせいで、警戒心は張り詰めっぱなしだった。

「へえ……それじゃあ、やっぱり貴女様は貴族のご令嬢で? これは失敬をば」

 すこし後ろを歩く、ドワーフの旦那さんが、ジュノ様と雑談をしている。ドワーフというのは総じてあまり深刻にならない性格らしいし、ジュノ様はもとより恐怖という感情にすこぶる鈍感なひとである。僕は振り返って、注意を促そうと思わなくもなかったが、ジュノ様がまんざらでもなさそうに、

「ほう、女騎士に見えたか」などと答えているので、タイミングを計りかねた。

「まったく、相すみませんです」

「いや、構わない。――そうか、私の眼つきがどうしても深窓の令嬢のものとは思えなかったか」

「お心のひろい方でようござんした。もう、気分を悪くされたら、どうしようかと」

「そう畏まらないでくれ。私はむしろ愉快なんだ。貴族の家に生まれたせいで窮屈をしてきたし、できるものなら男に生まれてきたかったと思っているくらいだからな」

「へえ、男に? お奇麗な方なのに、意外なことを仰いますなあ。おいらなんか、貴女様があまりにお美しいんで目が潰れるかと思いましたで」

「そういうことはあまり言わないほうがよいのではないか。細君が臍を曲げるぞ」

「うちのが嫉妬すると?」ドワーフの旦那は辺りを憚らずからからと笑った。「おいら夫婦は、割れ鍋に綴じ蓋、の言葉の意味を、ちゃんと分かっておりますよ」

 辺りを音もなく流れる空気はすこしひんやりとしていて、黴っぽいような、湿った腐葉土に似たような匂いを孕んでいた。それが具合によって濃く匂ったり、匂わなかったりする。相変わらず天井はたかく、木の根や蔦のようなものがぶら下がり、石材が崩れて土がむき出しになったところも散見できた。

「あなたはよくガイドをするのか」と、ジュノ様がドワーフに尋ねている。

「ええまあ。この辺りは幾度か来ておりますよ」

「考古学者には興味深そうな場所だな。――謂れはあるのだろうか」

「詳しいことはあんまり分かってないようですよ」と、ドワーフが残念そうに云う。「いや、おいらもねえ、学者先生の話についていけないとガイド業に差支えがあるから、学会誌ってえんですかい、時折先生がたから拝借して読んでいるんですがねえ……」

「ほう。ぜひ聞かせてくれないか」

「いやいやいや、ご令嬢に披露できるほどの知識はありゃしませんて」

 ドワーフはかたくなに遠慮したが、ジュノ様にたってと促されて、それではと話し始めた。

「ヘクザイム共和国の興りは、一千年のむかし、大陸の南岸にのさばっていた海賊たちが帝国の討伐にあって島に移り住むようになったのが始まりなんですがね、その頃にはすでに先住民はこの遺跡群を残して滅んでしまっていたそうでしてね。先住民たちがどうして滅んだのかはいまもって分かっておらんそうです。疫病とか、戦争とか、魔物のせいとか色々言われておりますが、まあいずれもが影響したんでしょうなあ。ともかく、海賊たちが移住してくるそのはるか昔、島の内陸部には七つの部族が住んでおって、互いにしょっちゅう争っていたそうで、壁画や石碑の一部を解読したところでは、それぞれの部族が崇拝する精霊や神々までひっぱり出しての、それはもう壮絶な戦いだったようですな。――この地下遺跡はそうした部族のうちのひとつの、居住区と城塞を兼ねたものだったらしいですねえ。王族の墓地がもうすこし先にあるんですがね、王族が死ぬと、埋葬のおりに召使や兵士たちを一緒に生き埋めにするそうで、そうして生き埋めになった者たちが、アンデッドの魔物となって、いつまでも王墓を守護する、という寸法になっとるんですわ」

 僕は顔をしかめた。死んだ者がアンデッドになったからには、ただ生き埋めにされたのではなく、恐らく、そのうえで邪術的なことを施されたのだろう。死んだ者たちはそうして怨念を腐敗してゆく身体に縛りつけられたまま、この辺りを彷徨うことを宿命づけられたのである。部族の王が、そこまでして墓を守らなければならないほど脅かされていたのか、それとも召使や兵士を日用品のようにしか思っていない残酷な男だったのか、それは分からないが、人々がこのダンジョンで生活していた時代、この島は決して幸福なところではなかっただろうということだけは、なんとなく察せられた。

 しばらく往くと、頑丈そうな石垣につきあたり、そこから少し右手に、錆びついた鉄柵が斜めに立てかかっていた。誰かが門を力任せにこじ開けたのだろう、梃子につかったと思われる鉄の棒が、錠のすぐ傍に差し込まれていた。ドワーフはそれらにむかってランタンのひかりを翳し、

「この先が、王族の共同墓地ですな」と言った。

 僕は柵を寄せて、腐臭の漂う闇のなかに足を踏み入れた。途端に、異様な戦慄が背中を駆け上がった。それがアンデッドの魔物に特有の気配であることを、僕は経験から知っていた。二本の短剣の柄にそれぞれやわらかく指をかけ、自分の息づかいがほんの僅かの物音を蔽ってしまうことのないよう、呼吸の速度を極限まで落とした。

 ずっと後ろのほうで、土を踏む微かな音がした。たぶんベネッタたちだろう。それに引き換え、闇に蔽われた前方は、物音ひとつしない。風もやんでしまったようで、厭な匂いのこもったひんやりとした空気が、あたりに淀んでいた。

 足音を忍ばせてゆっくりと前進するうち、ランタンの火影の届くなかに、腐りかけの腕が突如として現われた。土のうえにだらしなく伸びて、枯れた花弁のように指を広げている。指先は腐肉がそげ落ちて灰色の骨がむきだしになっていて、それが時折、ヒクヒクと動く。僕は振り返って、(居ます……)と、合図を送った。ジュノ様は頷いて、背負ったツーハンデッド・ソードをすらりと抜き、ガチャリと金属音を鳴らして構えた。僕は物音にこだわらないジュノ様に憎まれ口を叩きたくなって、もういちどジュノ様を見やると、かの女は不敵に微笑んで、

「今更物音を案じても仕方あるまい」

 僕はその言葉の意味をとっさに掴みかねて、辺りを見回した。すると、リンパ液と腐肉にまみれた腕や頭部、上半身が数え切れないほど土の下からもぞもぞと起き上がってくるところで、そのむこうでは赤黒くて滑らかなぎょくのようなもの――恐らく、アンデッドの眼球――が、闇のなかに無数に散らばって、僕たちを広く半円に囲んでいた。

「あの、引き返したほうがいいと思いますけど……」我ながら情けない声で、ジュノ様に訴えたが、当然聞く耳を持ってくれるはずもなく、

「死にぞこないどもが……私がまとめて引導を渡してくれる!」

 ジュノ様は、僕にドワーフの旦那を守るよう言いつけると、単身、魔物の群れのなかに斬り込んでいった。ソードのうつろな光沢が颯となって一文字を引くと、胴や頚を寸断されたアンデッドがぼとぼとと土のうえに腐肉と骨を落とした。蝙蝠の鳴くような悲鳴が魔物たちから湧きあがり、腐肉の人垣はじりじりと後退していく。それをジュノ様は追いたてて、樵が鉈で枝を払うように、ざくざくと魔物の四肢を切り散らかしていく。背後から轟音があがった。するとジュノ様の側面にまわりこもうとしていた巨躯の魔物が、ガクンと顎を垂れ、水っぽい音と一緒に、喉のうしろから腐肉を散らせた。これはロアの狙撃によるものだろう。死してなおしぶとく蠢くアンデッドと戦う上でのセオリーどおり、神経のあつまる延髄を狙ったのである。それから銃声は断続的に鳴り響くようになった。

 僕としても、悠長にジュノ様の舞いのような戦いぶりを見ているだけという訳にはいかなかった。鎧を着込んだ、六本の腕をもつ骸骨が、眼前に迫り、それぞれ握った剣や棍棒をほとんど無秩序に打ち出してきた。僕はギリギリの間合いをもって凶器をかわし、敵の手首にひたすら的を絞り、一本だけ離れたところに腕が伸びるのを待って、短剣で確実に関節を断ち切っていった。そうして三本の右の手首と武器とをことごとく失った骸骨の戦士は、左手の棍棒を振り回したときにその重さにもっていかれる格好になって、喉元が無防備になった。僕は見逃さず短剣を薙いだ。ブチンと、弾力のあるものの裂ける感触が手につたわり、骸骨は軸を失った操り人形のようになってバラバラと崩れた。地面に転げた兜のひさしのしたで、しゃれこうべが顎をガクガクと言わせている。僕はそれをサッカーボールのように蹴飛ばした。しゃれこうべは放物線をなぞり、巌のような腐肉の塊にごつんと当った。そいつはのっそりと僕を振りかえり、咆哮をあげると、大きな戦斧をふりあげた。……が、斧はうちおろされることなく、巨躯とともに仰向けに倒れた。なぜなら、闇のなかを飛来した三本の矢が、そいつの頚に次々と突き立っていたのである。僕は闇のむこうにいるはずのベネッタを振り返って、ありがとう、と呟いた。


 ……ランタンに油が二度継ぎ足され、硝煙の匂いが腐肉の悪臭を駆逐する頃になると、尽きることのなかったアンデッドの増援がようやく落ち着いてきた。ドワーフの奥さんが転倒したときに腕をすりむいた他、僕らに怪我人はひとりも出なかったが、かわりに矢弾の残量が乏しくなってきた。そこでロアの、「この際、突破しましょう」の提案により、僕らは一丸となって魔物の群れに突っ込み、血路をこじあけた。そうして懸命に走り、まえを遮るものはジュノ様が一刀のもとに両断し、追いすがるものはイパルネモアニの錯乱を催す魔法によって足止めをかけ、なんとか夕暮れのオレンジのひかりが遺跡の外壁の切れ目から筋をひいて流れこむあたりまで辿り付いた。ここまで来ると、アンデッドのほうも太陽のもとに身体を晒すのは本意ではないと見えて、足を鈍くさせた。出口の扉には鉄製の大きな錠前が掛かっていたが、ドワーフの旦那さんがやすりを器用につかって鎖を断ち切ってくれたお蔭で、僕たちはようやく黄昏の空のしたへ出ることができた。黒々とした森の木々をたわませて吹く風が、腐臭のこびりついた悪戦の心象を洗浄してくれるようで、僕はそのために却って疲れがどっと湧いてくる感じがした。多分、みんなもおなじ気持だったろう。いつも勝ち気なジュノ様でさえ、木蔭にぺしゃっと座り込み、「……帰りは別の路をつかわないか?」と、ロアに真剣に提案するほどだった。ロアは疲れたように微笑むだけでそれには答えず、「とにかく、手ごろな場所を見つけて野営の準備にかかりましょう。さあ、ご令嬢、俺のでよければ腕をお貸ししますよ」と、パーティーで淑女に対するように手を差し伸べた。

 僕たちは丘の斜面に、巨人の肩のように張りだした岩の陰になるころを見つけ、そこに天幕を張った。このあたりは翼竜やクァール(豹に似た魔物)の出没する地帯で、空にも地表にも気を配る必要があって、炊き出しはしないことになった。幸い、夜間に僕たちが襲われることはなかったけれど、東の空が白み始めるころになって、二匹の紅い翼竜が山々の黒い影のなかから現われて、森の上空を悠々と旋回しはじめた。そのときに見張りに立っていたのは僕で、ぞっとしながらロアたちを起こし、警戒を呼びかけたのを覚えている。ロアの見立てによると、二匹の竜はつがいらしく、獲物を探しているというよりは、上空で戯れている様子だということだった。それでも僕たちは念のため、岩陰でじっと息をひそめていたが、やがて竜のつがいが西のほうへ飛び去ると、ほっとするのも程々に、乾し肉で空腹をごまかして、日が高くならないうちにテントを片づけ、北の山脈を目指して闇然とした森林に這入っていった。

 昼を過ぎる頃から天気が急変した。糠雨から始まった雨はみるみる粒を大きくし、風は寒々として、木の根と傾斜の悪路をゆく僕たちの、体力を遠慮なく奪っていった。吐く息はうっすらと白く染まり、葉を洗って落ちる冷たい雨のなかに拡散していく。けれどもロアは雨宿りも休憩も口にしなかった。かれは嶮しい目でときおり湿った地図と方位磁針を睨み、遅れがちになるドワーフの夫婦を強く励ました。そうして二日目の日が暮れた。僕たちは濁って水かさを増した河川を見おろす崖のうえに粗末な山小屋を見つけ、毛布に包まって一晩を過した。

 翌朝、僕たちはドワーフの夫婦を山小屋に残して、当座の食料と武装、それから縄と松明だけをもち、北に列なる山脈のなかでも一際厳然として高く聳えるエルヴァ山を目指した。ロアが人さらいの盗賊シーフたちから聞き出したところでは、エルヴァの中腹に古代の先住民の地下神殿があって、そのなかに『紫の雲』は居を構えているということだった。皇女はアンデッドと化した恋人のハーディドを連れて、そこを尋ねているに違いない。

 森が尽きて、もじゃもじゃと蹲るような低木が散らばるあたりを過ぎ、荒涼とした赤褐色の傾斜を歩くうち、あたりは濃霧と雲海が目まぐるしく入れかわりはじめた。午前の穏やかな陽光と、冷たい霧を集散する強風とがひとつの壮大な見晴らしのうちに共存して、それが僕の慣れ親しんできた自然とはすこし違っているように思え、幻想的だった。僕はこの風景を書き物にどう記述しようかと、胸裏で推敲しているうち、霧のなかからぬっと現れた巨大な円柱に鼻面をぶつけそうになって、息を飲んだ。

 硯につかうような、黒い石材の柱で、幾何学的な模様が隙間なく彫られている。触れてみると、氷のように冷たかった。

「……ここなの?」と、ベネッタが霧のむこうで尋ねている。紙ずれの音がして、それからロアの声が、

「ああ、多分な」と答えた。

 霧が流れて、二人の姿が浮かびあがった。そのむこうに、僕のまえにあるのとおなじ円柱が立っている。そうして二本の柱の間に坑道が穿たれていることにはじめて気がついた。覗いてみると、内壁は木材で装飾がされ、天井にかけてアーチ状に石材が組まれていた。崩落している箇所は見あたらず、石敷きの地面にも石のかけらひとつ落ちていない。――暗がりのなかに、女のうしろ姿がある。波うつ黒髪を華奢な背中に垂らし、ぽつねんと立っている。眼の慣れないうちは分からなかったが、どうも、むこうがわが透けているようだ。近づいていって、初めてイパルネモアニだと分かった。

 かの女は、呆然として奥のほうを眺めている。

「どうかしたか?」

 イパルネモアニは、はっとした様子で僕を振り返った。そうして僕は、いつもは人を食ったような恍惚の表情をしているかの女の、素でいるところを初めて見たような気がした。かの女はどことなく淋しげに微笑んで、首を振り、それから忽然と消えた。

 坑道は長く続かず、そのうち広間のようなところへ出た。左右に丁寧なつくりの大きな階段があって、十数段おきに、篝火が焚かれていた。燃料らしきものがないのに燃え盛っているあたり、魔法の力によるものなのだろう。階段のあいだには、得体の知れない石像が並んでいた。近づくにつれて、それが天然の岩から切り出されたようになっていると分かった。天井からしたたり落ちる水滴の筋にそって、苔とも鍾乳石ともつかない汚らしいものがこびりついている。よく観察すると、すべてが少女の像である。階段を上りながら、それらを少々不気味に思って眺めていると、

「生贄にされた子たちよ――」と、イパルネモアニが言った。かの女はいつのまにか、僕の傍を歩いていた。「エウハールの民は、処女の生き血を捧げることで、神々の加護を得られると信じていたの。バカげてる。やっていることは邪術とおんなじ……見て」

 イパルネモアニは、腕輪をたくさん付けた腕をじゃらっと鳴らして、ひとつの像に触れた。すると像が――落涙した。

「まさか、この像は……」

 イパルネモアニは頷いて、「魂を宿しているの。ここに縛り付けられている。輪廻転生のプロセスから切り離されたまま、ね。ああ、こんなところからはやく解放されて、生まれ変わって、恋をしたり、お洒落をしたり、微笑んだり、泣いたりすればいいのに」

「どうすれば、助けてやれるの? そうだ、像を砕けば……」

 精霊は激しく首を振った。「そんなことしないで。そんなことをしたら、かの女たちの魂は永遠に失われてしまう。――この子たちは、両親や司祭に諭されて、望んで生贄になったの。みんなを守るためにはこうするほかなかったと信じているの。この子たちは、エウハールの民が滅んだあとも、頑なにこうしている。皮肉なことだけど――この子たちが家族や郷土を棄てて、自分自身のための明日を求める勇気を、そう、勇気を持たない限り、誰もどうすることもできないの」

 イパルネモアニは、涙さえ浮かべて石像の頬や肩を撫でている。

「しかし、意外だな。おまえにそんな一面があったなんて」

「べつに意外でもなんでもないよ。あたしは子供を守ることのできなかった母親と一緒なの。この子たちは、生贄になるときが近づくと、あたしに毎晩のように語りかけた。……集落のため、家族のために、私は生贄になります、どうか見守っていてくださいって。あたしはこの子たちひとりひとりの、陽ざしの美しい午後に泉の傍で花と戯れたり、森の木洩れ日のなかで歌を歌ったり、そんな姿を覚えている。みんな、やっぱり年頃で、素敵な男の子に恋をしていて、お父さんとお母さんときょうだいたちが大好きで、森が大好きで、――本当は死にたくなんかないって、胸のなかで悲鳴をあげてることを、あたしはちゃんと知っていた」

「そうか。それは、辛かったろうな」

 僕は漠然と、ロアが初めてイパルネモアニを見たときに言ったことを思い出していた。――あの女……たぶん、どこかの偉い神様だぞ。

「なあ、まさか、おまえって……」

「そうだよ」と、半裸の美しい精霊は涙をぬぐって微笑んだ。「あたしはエウハールの女神のひとり。シュウは書写家の誤植のせいで面倒くさいのと契約を交すハメに陥ってしまったと思っているだろうけど、その書写家に筆を誤らせたのは、やっぱり『運命』なのかもしれない。あたしはね、あんたを見てときどきそう思うの。わかるでしょ? この子たちは、あんたにとって他人事じゃない。あんたの抱えている諸々のことがあたしにとって他人事じゃないのとおなじようにね。あたしたちは、似たもの同士なの」

 かの女は――女神は、怯えたような表情の像を抱擁し、それから未練を断ち切るようにして離れ、階段のさきを毅然たる双眸で見上げた。

「行こう。あたしたちがここに来ることになったのは、きっと偶然なんかじゃない。とても大切な『運命』が、あたしたちを待ちうけているような気がするの」

「待ってくれ、運命ってなんだよ……」

 イパルネモアニは驚いたように僕を振り返って、

「あんたまさか、この世界に連れてこられたことを、いまだに偶然だと思ってるわけ? ほんっと、シュウよねえ」

「あのさ、僕の名前をバカの隠語みたいに使わないでくれない?」

「だってしょうがないじゃん、バカなんだから」かの女は身もふたもない断定を僕にくだして、さっさと付いてこいとばかりに、親指を振った。その仕草の俗っぽさは、僕が女神というものについて持っている既成概念を壊すに充分だった。


 鴨居のように張り出た岩肌を、ランタンの光がすべっていく。足下には谷のような溝を埋めてしまうほどの岩石が散らばるかわりに、溝の絶壁には大きな穴が抉れていた。ロアはランタンを僕に持たせてしばらく地図を眺め、それから「あの穴は地図に描かれてないな……」と、首をひねった。

 脇からのぞきこんだベネッタが、「最近になって崩れたのかしら」と尋ねると、

「多分な。位置的には、吸血鬼ヴァンパイアの巣窟と繋がってしまったのかもしれない。ちょうど、この山の側面にやつらの洞窟があるんだ」

 吸血鬼とは蝙蝠を大きくしたような魔物である。名前のとおり、ひとや動物を襲って血を啜るけれど、一匹一匹はそれほど恐ろしいものではない。矢の一本、銃弾ひとつで事足りるだろう。けれども、群れとなると話はちがってくる。こっちの手数は限られているのだから、一度に何十匹という吸血鬼を相手にすることはできない。

 吸血鬼は夜行性であるから、日の高いうちは巣窟に集まって休んでいる。その、密集したところを、うっかり刺激してしまえば、僕たちは全滅するより他になくなるだろう。

「あたし、見てくるわ」ベネッタは荷物から取り出した小ぶりの松明にランタンの火を移すと、身軽に岩のあいだを降りていった。

「おい、気をつけろよ」と、ロアは喉をしぼって声をかけた。谷を埋める岩のうえで小さくなったベネッタは、振り返って頷いた。

 ベネッタが戻ってくるまで、休憩を取ることになった。ロアが、ランタンをちょうど卓のようになっている岩の上へ動かしたとき、光の具合で、暗がりの中から忽然と木製のドアが姿を現わした。ツーハンデッド・ソードを杖のようにして岩壁にもたれていたジュノ様が、目を細くして近づいていき、ドアのノブを握ったけれども、鍵が掛かっているようだった。ジュノ様は無雑作に、ソードの柄を叩きつけて、ノブを壊した。そうして振り返り、

「灯かりをもってきてくれないか?」

 ロアは僕と顔を見合わせ、それからランタンを取って立ち上がった。僕たちはジュノ様に続いて、ドアのむこうへ這入っていった。

 白漆喰の、奇麗な壁に囲まれた、大きな部屋だった。床の幾箇所かに毛織物の敷物があって、真ん中あたりに青の顔料で大きな魔方陣が描かれていた。右手の壁には木目のうつくしい本棚があって、蔵書がぎっしりと背表紙を並べていた。僕が見た限りでは、ほとんどが魔法関係のものらしかった。

 部屋のつきあたりには、質素なテーブルと椅子があった。テーブルには十数枚くらいの金貨が積まれたままになっている。その金貨が文鎮のようになって、一枚の紙を押さえつけていた。僕は手にとってそれをランタンの光に翳してみた。――内容は、イーヴルの街の邪術師が、『紫の雲』に宛てて書いた紹介状であるらしい。持ち込んだのは多分皇女だ。僕は、かの女が向かい側の椅子にすわって、ハーディドの再生を部屋の主に依頼しているところを、自ずと思い描いた。

「ここが、紫の雲のアジトか……」と、ロアが魔方陣の中心に立って部屋を見渡しながら言う。

「そうらしいな」ジュノ様は暖炉に残ったぬくもりを確かめるようにして手をかざし、「すぐに追うか? そう遠くには行ってないはずだ」

 やや間があって、

「いや、」とロアは首を振った。「奥の状況が分かるまでは、動かないほうがいいでしょう」

 そのうち、ベネッタが戻ってきた。

「ロアが推測したとおり、吸血鬼の巣窟と繋がっちゃったみたいね」と、かの女は敷物のうえに座り込んで、「吸血鬼はこの地下神殿の深くまで這入りこんでるみたい。いまのところは、これ以上進まないほうがいいと思うわ」

 ロアは小刻みに舌打ちをして、

「仕方ない。日が沈めば、奴らは洞窟から出て行くだろうから、それまで待ちましょう。今のうちに、仮眠でも取っておいてください」

 言いながら、ドアの右手にある暗がりのほうへロアは歩いていき、おっ、と声をあげた。

「こっちは調理場のようです。ハムに鶏卵、じゃがいも、パスタ、それにチーズ……なんでも揃ってる。みなさん、腹の具合はどうですか。俺が、なにか作りましょうかね」

「あたし、手伝う」と、ベネッタは立ち上がって、尻尾をゆらゆらさせながら走っていった。

 ジュノ様は欠伸をして、

「すこし休む。シュウ、切りのいいところで起こしてくれ」と、敷物のうえに横になった。それから頸をしきりに動かして、「……なあ、その辺に枕代わりになりそうなものはないか?」

 僕は本棚を眺めて、「分厚い本なら沢山ありますが」

 ジュノ様は硬いのはいやだという。僕たちがもってきた荷物を枕にするのも、用の邪魔になるといけないからと断った。僕はすこし思案して、ジュノ様の枕元にすわり、

「仕方ない。僕の膝で我慢してください」

 するとジュノ様はぱっちりと目を見開いて、「つっ、つまらない冗談を言うな!」それから隠れるようにして敷物に包まってしまった。

 僕はすこしショックだった。昔は――ジュノ様が八つか九つになるまでは、よくしてあげたものである。そのことを言おうと思ったけれど、ジュノ様がお休みになるのを妨げてはいけないから、そっと立ち上がった。

 そうしてジュノ様から離れた僕の目は、ごく自然に部屋の中央の魔方陣におちた。そこには精霊との意思疎通をうまく図れるように、それから不慮の事故や好ましくない諸力を寄せ付けたりしないように、数多の神々の、あるいは高位の精霊の名が、お守りの意味で記してある。そのいくつかを、僕は知っていたけれど、大半が、聞いたこともないものだった。『紫の雲』というひとは、邪術師だけあって、正統の魔法書にはない神格や術式にも精通しているものと見える。本棚に窮屈そうにならんでいる魔法書の背表紙の多くも、僕が図書館で見かけたことのないものばかりだった。きっと、禁じられた技法が満載してあるのだろう。僕は興味を催して、本棚に近づいた。そうして一冊の赤い本を取り出したとき、一緒に引っ張られて鍵つきの冊子が棚から零れ落ちた。拾いあげてみると、それは『紫の雲』の過去の日誌であるらしかった。備え付けの鍵は掛かっていない。

 厚い皮の表紙をめくって、僕の目に飛び込んできたのは、信じられない文字、信じられない言葉だった。


  君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな


 それは正真正銘の日本語で横書きにされた、和歌だった。国語の教科書だか資料集だかで見た記憶がある。たしか、百人一首。なぜ、『紫の雲』が日本の古い短歌を? 考えられることは一つしかなかった。僕はジュノ様が寝ていることをすっかり失念し、厨房にむかって、

「あのさ、ロア。聞きたいんだけど」と、大声で尋ねた。

「うん、なんだ」と、ロアは沸騰する水音に混じって、彼にしてはのんびりと返事をした。

「『紫の雲』っていうのは、異界人?」

「そうらしいな。そういや、シュウも異界人だったな。なにか、気になることでも?」

 いいや……と、僕は曖昧に答えた。ちょうどそのとき、ジュノ様が寝返りをうって、うつくしい金色の髪のなかに、陶器の絵のような端麗の顔が覗いた。眠そうな、不機嫌な瞳がランタンのひかりを映している。僕が(すみません……)と唇だけを動かして詫びると、ジュノ様はのそりとむこうを向いてしまった。

 僕は日記のページを繰った。そうして、錠を下ろしていない理由がすぐに分かった。すべて、日本語で書かれている。これでは開いたところで誰にも読むことができないだろう。――おなじく日本からやってきた僕を除いては。僕はしゃがみこんで、日記を読み耽った。

 旧仮名遣いの口語体だが、縦書きでも右横書きでもなく、現代風の左横書きであり、著者の過した時代がうまく掴めなかった。蘭学が入ってきた江戸時代から左横書きはあったと聞いたことがあるような気がする一方で、一九四〇年代に右横書きを廃して左横書きで統一するという文部省の取り決めがあったとかいう話も聞いた覚えがある。その間、明治から昭和初期にかけて、横書きがどれだけ一般的だったのかについては皆目見当もつかない。僕はもやもやしながら読み進めた。『紫の雲』は日本名を総次郎といい、西洋文学の研究者をしていて、十九世紀のイギリスやフランスの魔術結社の文献などを収集する趣味があったらしい。そうして星幽界なる一種の異世界との交渉をもとめて、いろいろと精神修練のようなことを積んでいたようだ。ところがある日、幼い娘が結核にかかり、みるみるうちに医者に見離されるほどの重篤に陥ってしまった。それで総次郎というひとは異世界に一縷の望みを抱き、危険を承知で自己を投射(註解。このくだりはよく理解できなかった。とにかく、なるべく意味を損なわないよう要約してみる)するための魔術的な儀式をやって、予期していた以上の成果を得、こっちの世界へやってきたらしい。そうして、娘を救うため、最初は医学を研究した。ところが、「運命」なる概念の他に対する優越性を知って、娘の身体から結核菌を払うよりは、「運命」を変えねばならないと考えるようになり、邪術に手を染めていったようだ。とにかく、そう書いてある。

 なんとなくオカルトっぽい匂いがすることを除けば、それなりにシンプルで分かりやすい文章だった。それが、巻末に近づくにつれて、どんどん錯綜としてきた。話が突然飛んだり、意味不明の詩のようなものが挟まったり、僕には造語としか思えないようなものが散見されるようになった。僕は読解を半分あきらめて、流し読みの要領で文面を追っていたが、やがてひとつのカタカナの単語にぶつかって、どきりとした。

 ――ハプカツリポス。

 それはどうやら、かれが半年をかけて苦心のすえに召喚したいにしえの神の名称のようで、僕にむかって自殺する紘子の内面に言及した、あの不気味な神が名乗ったところと恐らくおなじもの――ツはトゥと発音するものと看做して間違いないだろう――だった。僕の背筋に震えが走った。

 総次郎は、このいにしえの神ハプカトゥリポスと対話した内容を、要約して日記に残していた。かれはハプカトゥリポスから数々の失われた古代の魔法を教わっていたようで、そのなかに、幽体のみを特定の異世界へ飛ばすというものがあって、かれはそれをたびたび実践して日本に幽体を飛ばし、娘の様子を見てきたりしているようだった。幽体とは、ようするに生霊みたいなものらしい。その姿は、とくに敏感なひとにしか見えないようで、コミュニケーションも限られ、行ったところでなにができるというほどのものではないという。そこまで読んで、僕はがっかりしてしまった。その術式を使えば、自殺する直前の紘子に会い、あの悲劇を止めることができるかもしれないと、知らず知らずのうちに期待を持ってしまっていたからだ。けれども一方で、紘子に自殺を回避させることが、僕の「運命」かもしれない、という考えは依然として僕のなかに居座り続けていた。そのために、神様が僕をここに連れてきたのかもしれない、やってみる価値はある――そんな風に考えると、厳粛な気持になったが、僕の四肢は裏腹に焦燥したようになって忙しく動き出した。本棚の段のあいだにある抽斗をあけたり、魔法書を片っ端からめくったりして、幽体だけを異世界に移動させる術式というものを、血眼になって検索するうち、僕は『紫の雲』が著したと思われる、真新しい緑の魔法書を探しあてた。目次に、目当ての魔法の術式があるのを見て、胸が高鳴った。急いでページを繰ってみると、簡単な瞑想法と呪文が載っている。僕はそのページを千切り、内容を頭に叩き込むと、さっそく敷物のうえに横たわった。

 眠りに落ちるように、ふっと意識が遠のいたのは、それからすぐのことだった。

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