六
夢の残滓がかげろうのように揺らいでいる。僕はオフならではの惰眠をむさぼって昼過ぎに目を覚まし、洗顔しながら、それらの片鱗をひろいあつめ、一つのまとまった形に復元しようとしていた。というのも、夢枕にアルトンが立ったことが、嬉しくて仕方がなかったのだ。かれには話したいことがたくさんあった。けれども、傍にいるという擬似的な感覚だけでも構わなかった。僕は根気強く、宿の廊下に溢れた陽のひかりに埋もれてゆきつつある夢の風景を、掘り起こしつづけた。そうして、親友の声を、突如として耳に甦らせ、ハッとなった。
(いつまでとぼけているつもりなんだ……)
かれが僕に言わんとしているところを、あまり直視したくなかった。だから、発掘作業を途中で放りだし、からになった胃に入れるものを求めて、食堂へ降りていった。
ジュノ様は、窓辺の陽だまりのなかに本を広げていた。ハイネックのセーターと黒のフレアスカートは、昨日のままである。たぶん、あれから寝ていないのだろう。僕に気付くなり、物憂げに顔をあげ、ひかりを絡みつけて輝く長いブロンドをかきあげると、
「昨夜はすまなかった。あんなことを言うべきじゃなかった。許して欲しい」
「とんでもありません。僕のほうこそ心配をお掛けしてしまい……」
「きっと、素敵な女性なのだろうな――」ジュノ様は膝のうえで小説を閉じ、指のさきを見つめながら、「連れてきて、私に紹介してくれないか。気が向いたらで構わないから」
僕はアルトンの声が甦るような思いだった。その声は僕を鞭のように打ち据え、混乱させた。そうして、当たり障りのない嘘で、穏やかにおさめる尋常の冷静さを、僕から奪っていった。僕は、ジュノ様のために、真実を赤裸々に語らなければならないと思った。
昨日関係したのは、名も知らぬ女で、出逢ってすぐに別れたと打ち明けた。ジュノ様は聞き終えると、退屈そうに微笑した。
「男とはそういう生き物らしいな。シュウも男だったということか」それから、伸びをして、「すこし休むよ」と、部屋にあがっていかれた。
入れ違いに降りてきたベネッタは、かんかんに怒っていた。かの女は「ひどい寝癖!」と言って僕の頭を小突くと、あどけなさの残る目できつく睨み、
「ジュノ様、泣いていたからね」冷やかに通告し、用事があるからじゃあね、と宿を出ていった。それから暖炉のうえにイパルネモアニが姿を現わし、「バーカ」と追い討ちをかまして、すぐに消えた。昼食を運んできてくれた宿の娘さんにも、「最低ですね」と攻められた。僕は呆然とするしかなかった。そうして、とにかくいまできることをやろうと思った。食事が済むなり、ふたつ隣の画家に絵筆を借りて、部屋に戻ると、ノートに「禁酒!」と大書し、それをピンでもってクローゼットに貼り付けた。絵筆をよく洗い、返して戻ってくると、またイパルネモアニに「ばかじゃないの?」と言われた。言われても仕方のないことなので、あまり腹は立たなかった。
部屋ですこし書き物をしてから、外出の身支度をはじめた。街の中心的な運河にかかる大きな橋の傍に、穀物や債券の取引所があって、そこへ行くと商人の読み棄てた新聞をただで手に入れることができる。ゴミを漁るみたいな真似はしたくなかったけれど、この世界の新聞は、毎日買って読むにはすこしばかり高価だった。僕はここ一箇月ほど、時間のある日はかならずそこへ行って新聞をひろうようにしていた。というのも、クロウザント家をとりまく状況が少しずつ動きはじめていたからだ。それがここ二三日で、急転直下ともいうべき激変を起こし、一日たりとも情報を欠かすことのできない状態になっていたのである。ところで、島の情報は一週間ほど遅れている。王都やクロウザント領から最寄の港街までは、電話をつかって即時届くが、そこから船で運ばれることになるからだ。天候が不良だと、情報の遅れは十日になったり十五日になったりするが、幸い、この島の春は乾季といかないまでも雨が少ない。一週間に二日くらいの誤差を見ておけば、まず間違いなかった。
ガイナス様が天に召されたという報せが紙面の一角を占めたのは、三週間前だった。情報の遅れを加味すると、実際に亡くなられたのは、およそ一箇月前だ。次期クロウザント候はラスカー様でほぼ決まりと目されていたが、葬儀の翌日、宰相府から「詮議の儀あり」ということで相続にストップがかかった。これを受けて、ラスカー様が恃みとするダイエル公は、国王に直接働きかけ、宰相府の頭越しに、相続を認める勅令を出させたのである。しかし宰相府のほうではこの勅令を、法律に照らして無効だと主張した。貴族の相続は宰相府が一括して監督すると定めた法律に署名をしたのは先王で、御父上の取り決めに逆らうとはいかに陛下とていかがなものか、という名分を立て、国王を諌める形をとったのである。けれども事態は収まらず、それどころか、王都を揺るがす権力闘争にまで発展する気配を見せていた。ところで、オールギュント様は、宰相府の法務官を務めている。あのお方が、ラスカー様の相続に横槍を入れた張本人なのかどうかは知らないが、ともかく、クロウザント領は王国政府の預かりになったまま、相続問題の解決の目処はいっこうに立っていなかった。
それが、三日前のことである――ラスカー様が、オールギュント様に招かれて王都の私邸を訪ねたおり、部屋に乱入してきた者たちによって殺害された。直後、オールギュント様は、ラスカー様がガイナス様の食事に長期にわたって毒を盛っていたことを証拠づける品々をもって王国裁判所に出頭し、敵討ちの正当であることを訴えた。これは即日、受理された。面目を失うかたちになったダイエル公は、翌日手勢を率い、宰相府と裁判所を取り囲んで、オールギュント様と裁判長の身柄を引き渡すよう強談したが、かえって諸侯の軍勢に逆包囲され、王都の四分の一を焼きはらう激しい市街戦のすえに大敗を喫し、討ち取られてしまった。いずれこの世界の教科書に載るに違いない、たいへんな政変である。
いや、もっと大きな意義のある……歴史が変わるかもしれない……そんな感慨さえあった。何故なら、宰相府は戦争の継続にどちらかというと反対で、殺されたダイエル公は推進派の頭目のような存在だった。だからこの政変は、平和な時代への第一歩となるかもしれないものだった。
僕は取引所のむかいのオープン・カフェに席を占めると、まえの人が置いていったと思われる日刊紙を取り上げた。日付はたしかに今日のものである。僕は貪るように紙面をめくった。帝国との停戦交渉の行方にも興味があったけれど、結実するのはまだ先のことだろう。さしあたって、僕がなんとしても目にしたかったのは、オールギュント様のクロウザント候継承の見出しだった。――が、それがない。かわりに目にしたのは、三男のビルダット様がラスカーの陰謀に加担した嫌疑をかけられ、当局に身柄を拘束されたという小さな記事だった。記者の解説によると、宰相府がビルダット様の拘留を決定したのは、前線の視察に訪れたオールギュント様とビルダット様が後継問題について極秘裏に話し合った翌日のことらしい。経緯はともかく、こうなったからには、消去法でオールギュント様が次期クロウザント候になると確定したようなものなのに、まだそういう報道がない。僕はいやな予感に駆られて、新聞を放り出すと、来た道を急いで戻りはじめた。
実は――クロウザント領において、ジュノ様が生存しているという噂がめぐっていた。家中では、義経を贔屓にするひとがモンゴルへ渡ってチンギス・ハーンになったと根拠もなく主張するのに似た調子で、ジュノ様の生存が頑なに信じられていたのである。一方、オールギュント様は依然として家中の騎士たちからあまり好かれていない。つまり、オールギュント様は、ジュノ様の生存を信じるひとたちの反対が根強くて、クロウザント家を継承したくともできないのかもしれない。いま、オールギュント様にとって一番の邪魔者は誰か。言うまでもなかった。
宿に戻ると、部屋にジュノ様がいない。女将さんに、行き先を知っているかと尋ねると、ジュノ様はすでに、オールギュント様の使者から内々の招きを受けて、用事から戻ったベネッタを供に、アルカングを目指して発ったという。アルカングにガテュード伯家の公館があることを、僕は聞き知っていた。たぶんそこに呼び出されたのだ。恐らくは、後継問題を話し合うという名目で――。僕は宿を飛び出し、駅にかけこんだ。
ホームから列車に飛乗って、山伝いに白砂の海岸線を眺め、しばらくするとイタリアの古都を連想させる、真っ白い建物の列なる大きな街が見えてきた。駅員にガテュード伯家の領事館の場所を聞き、僕はその大きな屋敷を、埠頭の裏手の閑静な通りに見出した。そうして人影の途切れたのを見計らい、白漆喰の塀を飛び越えると、蔦に脚をかけて二階のバルコニーへあがり、そこから屋根へ飛び移って、屋根裏の小窓から中へ侵入した。……
息を殺し、足音を忍ばせて歩いていると、火薬特有の匂いが、どこからともなく漂ってきた。それで僕は疑惑を確信に変えた。そう遠くない場所から、和やかな話し声が聞こえる。恐らくはジュノ様とベネッタ、それからオールギュント様の……
僕は足下の板をすこしずらして、その隙間に右眼を近づけた。したは書斎のようなところらしい。黒檀のよく磨かれた机があって、書類受けがあって、本立てがあった。応接のソファに、ジュノ様が座り、その後ろにベネッタが立って控えていた。ベネッタは僕に気付くと、(どうしたの?)という顔をした。かの女は心を読める。僕は僕の考えていることを、そのまま伝えた。
(でも、待って)と、ベネッタは思考を送ってきた。(オールギュント様からは、そういう気配を感じないわ)
(相手が考えを隠そうとしているなら、ベネッタはそれを読み取ることができないんだろ?)
(そうだけど……もしそうなら、かわりに、やましい感情が伝わってくる筈。でも、オールギュント様はいつもどおりよ。あたしがあのひとから感じ取れるのは、漠然とした憂鬱と、粘りつくような疲労感だけ……)
僕は額に浮いた汗をぬぐって、
(とにかく、ベネッタは、オールギュント様にジュノ様を害する意思がないと確信が持てる? もしそうなら、僕はこのまま引き返すよ)
ベネッタは困惑したように、すこし俯いた。かの女も、いまが微妙な時期であることは分かっているのだ。
机のうしろにオールギュント様がいる。兄妹のなかではいちばんジュノ様に顔立ちが似ていた。長めのブロンドのしたには端整でやや苦み走った顔がある。男にしては幾分華奢な首と肩のラインを持っていたから、背広姿は上品な感じがして、高級な家具調度のなかによく映えていた。かれのブルーの瞳には独特の深みがあって、なんとなく眠そうな、深い湖を連想させる静けさを湛えている。万年筆を弄ぶ仕草も、妹にむかって談笑する様子も、厭味なくらいゆったりしている。かれはジュノ様に飲み物を勧めると、椅子から立ち上がって酒類の棚に近づいてきた。――僕は機を逃さず、絨毯のうえに飛び下り、踊りかかった。
「君は?」
オールギュント様が問うより先に、僕はダガーをかれの首につきつけて、手首を後ろにねじあげていた。
「お静かに。無闇に声をお挙げになると、死んでいただくことになります」
しかし、かれは平然としたものだった。僕を見て穏やかに笑い、
「ああ、シュウ君だったね。ジュノが世話になっている。父上が君のことをよく褒めていたよ。会えてうれしい。――ところで、これはなんの真似かな?」
「とぼけないで頂きたい――」僕は耳元で低く囁いた。「天井裏を歩いているとき、火薬の匂いがしました。あなたはジュノ様を消すつもりだったのでしょう」
ジュノ様が顔色を変えて、「あっ、兄上?」と声をあげると、オールギュント様は愉快そうに笑い出した。
「まったく、油断のならない男だね。……確かに私は、ジュノが相続への意欲を一言でも口にしたら、殺害するつもりでいた。けれど、ジュノは仄めかしもしなかった。だから、その考えはもうないよ。私も、ホッとしていたところだ」
僕は、冷酷と温情をひとつの文脈に揃えたかれの言い草に、一層深い薄情を感じとって、どうしようもないくらい腹が立った。
「まるでマフィアだな」
かれは何も言わず、ただ遠くのものを見つめるような目つきをした。
「あんたの言ったことを裏返すと、つまり、こうだ。この先、ジュノ様があんたの邪魔になるようなら、ためらわずに消すと――」
「そんなことにはならないと信じている。私は、ジュノの性格を理解しているつもりだ」
かれの言葉は、僕の見解を否定しているようで、その実、まったくしていない。僕は空恐ろしかった。
「あんたはラスカーがガイナス様に毒を盛っていたのを知っていながら黙殺した。ヤツの魔の手がジュノ様に迫ったときもだ。そうしてジュノ様を後継者争いのレースから追いやっておいて、満を持してラスカーを殺害した。――そうなんだろ?」
「だいたい、君の考えているとおりだ」
「ビルダット様が連行されたそうだが、それもあんたの差金か。どうせ、でっちあげなんだろうけど」
かれは初めて眉間に皺をよせ、苦しげに目を閉じた。「――貴族は民衆とは違う。愚かであることはそれ自体、罪なのだ」
「あんた、そうまでしてクロウザント候になりたかったのかよ」
「そうだ」
僕は眩暈がするくらい呆れた。こんな奴に翻弄されてきたジュノ様が可哀想だった。ラスカーにせよ、この男にせよ、ひとのこころというものがないのだろうか。
「ふざけるのもいい加減にしろよ……」こいつの首をひと思いに掻き切ってやろうか――けれどもその衝動は、ジュノ様の弱々しい抗議の声を浴び、あやういところで僕の制御できる範囲に落ち着いた。
「兄上には、きっとお考えがあったんだ。だからシュウ、もういい。やめてくれ」
「ジュノ様、けれど」
僕は言葉を途切れさせた。書斎の扉がとつぜん物凄い音をたてて倒れたからだ。――三十がらみの黒いソフト帽の男が、マスケット銃を構えている。その銃口は、ジュノ様の背にピタリと当てられていた。
「なっ!」
ジュノ様が振り返ろうとするのを、男は一喝して阻んだ。そうして、灰色の瞳で僕を睨み、
「おい、そこの餓鬼、よく聞け。オールギュントにダガーの刃を少しでも触れさせたら、おまえの女主人の心臓に風穴があくぞ……」
「いいんだ、ロア」と、オールギュント様は言った。「ジュノには相続の野心がないとはっきりした。もう銃を向けたりしないでくれ」
「そうはいかない。これはあんたの為だけじゃないんだ」ロアと呼ばれた男は答えて、「おい兄ちゃん。おまえ、王都の現実を知っているか? 重税で生計の立たなくなった浮浪者が辻に溢れかえり、農奴はしょっちゅう反乱を起こしている。戦場で夫や子をなくした寡婦が、賊どもに身包みを剥がれてなすすべもなく川辺に座り込んでいる。――すべて戦争のせいだよ。誰かが、終わらせなきゃならない。だのに、王国の面子だの武を尊ぶ家柄だの抜かして、いつまでも戦争を続けたがっている貴族がいる。その最右翼が、クロウザント家なんだよ。なんでオールギュントに人望がないか知ってるか? それはオールギュントがまっとうな人間だからだ、戦争にはっきりと反対しているからだ。戦争をしたがっている貴族や騎士が大好きなのは、武神の宿星を持つこのお嬢さんだ。分かるか? この女は、存在自体が民衆に対する罪――そこまでは言いやしないがな、戦争を止めるために四苦八苦してきたオールギュントを、悪の親玉みたいに言うのはお門違いだぞ」
「……ンだと?」
「シュウ、この男の言っていることは正しいんだ」と、ジュノ様はいまにも泣き出しそうな顔で言った。「父上が最後まで、後継者をお決めにならなかった理由を、私は知っている。父上は戦争継続の困難を昔からわかっておられた。けれど、クロウザントの当主である以上、戦争に反対することはできなかった。だから、はっきりと反対を口にされるオールギュント兄上を、後継にしたかった。けれども、それでは家が治まらない。内紛を起こす可能性さえあった。起こせば、王国に領地没収の口実を提供することになる。財政の厳しい王国政府は、クロウザントを容赦なく取り潰すに違いない。そんなことになったら、代々、クロウザントのために命懸けで戦ってきた、何千という家臣が路頭に迷ってしまう。父上は、それだけは認められなかった。だからといって私なんかを後継にしたら、クロウザントはどこまでも戦争推進に突っ走っていくことになる。私はただの世間知らずだ。私には、クロウザントの軌道を変える力量なんかない。ただ暴風雨に翻弄される船のように、クロウザント家を、王国を、間違った方向へ引きずっていくしかないだろう。父上は、病床で衰弱していきながら、後継を兄上とも私とも決めることができず、一瞬たりとも心の休まることがなかったに違いない」ついに、ジュノ様は嗚咽をはじめた。「けれど、父上の心はやはり、戦争の終結にあったと思う。兄上は父上の遺志を継ぎ、戦争の阻止とクロウザントの温存のために、精一杯、できることをされているだけなのだ。だからシュウ、どうか兄上を放してくれ。私のせいで苦しんでいる兄上を、これ以上責めたりしないでくれ」
僕は唇を噛んだ。すると、ベネッタが思考を伝えてきた。(あたし、これだけは自信をもって言える。いまこの場所に、悪人はひとりもいないわ……)それが駄目押しになった。僕はゆっくりとダガーを降ろした。途端に、嶮しかったロアの目つきが和らいだ。そうして銃口が無雑作に下をむき、かれの不良少年を思わせる癇の強そうな口元が、午後の陽光のなかにあって素朴な陰をつくっていた。
帰りの汽車のなかで、ジュノ様は窓辺にもたれながら、
「兄上のことは、ずっと好きだった……」と言って、それから恥かしそうに俯いた。「へんな意味ではない。――子供の頃、私は剣をもって誰にも打ち勝つことができなかった。口惜しくて、身体じゅうが焼け焦げそうになるくらい情けなくて、毎晩のように泣き喚きながら枕に顔を埋めたものだ。そんななかで、兄上だけが私に負けてくれた。私は兄上の手加減に腹を立てるどころではなかった。自分はどうしようもなく弱い人間だと、うちひしがれていたのだから。そうして挫折の底知れない闇に落ちていきそうな気分だった。兄上は、そんな私の幼い苦しみを察したのか、勝負ごとに手加減などをすれば家中の者たちからひとに阿る情けない若様だと思われるのを承知したうえで、私に勝ちを譲ってくれた。ほんとうに嬉しかったよ。勝ったことより、兄上の優しさと励ましが嬉しかった。しっかり前を見て、がんばろうと思えた……」
すこし持ち上げた車窓から、颯々と風が流れこんでくる。ジュノ様の長い金髪がその風にもちあがって、膨らんだり、棚引いたり、細い首にまきついたりした。
僕は別れ際にオールギュント様が耳打ちするようにかけてくれた言葉を思い出していた。
(ジュノの我侭に耐えかねたら、私のもとに来なさい。君のような人材が欲しいのだ。けれど、耐えられるのなら、どうだろう、ひとつあれを貰ってくれないかね?)
僕はぎょっとして伯爵を見た。かれは冗談とも本気ともつかない顔をしていた。
そういう人柄のお方が、戦争を終結させるため、クロウザントを守るためとはいえ、冷徹な処断の数々を重ねてきたのだと思うと、やっぱり空恐ろしかった。オールギュント様のことがというよりも、ひとの強い意志が生い茂る茨のなかに敷きうる道の壮絶さを思って怖かった。必要とあれば、そんな道を、僕も辿らなければならないのである。それを今日、知ってしまった。憂鬱だった。
それから二週間ほど経つと、新聞の紙面に、オールギュント様のクロウザント候継承の見出しが載った。ガテュードの領主を兼任することも決定し、王国貴族のなかでも指折りの実力者になったのである。そして、新クロウザント候は、継承に反対してきた重臣たちに仮借がなかった。二三日のうちに嵐のような粛清を敢行し、それから侯爵家の制度改革を押し進め、暴れ狂う竜のような家中を、みるみる大人しくさせてしまった。確かに、こんな荒業はオールギュント様のほかにできる者などいないだろう。僕はなんともいえない複雑な思いで、その記事を読んだ。
ところで、オールギュント様の屋敷にいた、ロアなる男のことである。僕はその名をたびたびギルドの職員や大手の依頼人から聞くものだから、
「そんなに凄いやつなのか?」と、ギルドのマスターに尋ねてみたことがある。すると、
「なんだいあんた、ロア・ディオールを知らないのかい? あんたじゃなかったら、こいつモグリだなと決めつけてたところだ」と、笑われてしまった。
マスターの話によると、かれはグレーの瞳とその凄まじい戦いぶりから「灰色の悪魔」の異名をとる伝説的な傭兵だったそうで、カネ次第でアザドにもフィオールにも節操なく味方し、各地でやりたい放題に暴れまわっていたが、どういう心境の変化か、とつぜん足を洗い、フリーの記者に転向した。報道人としてのかれを有名にしたのは、両軍の野戦病院の惨状を生々しく伝えた一連の特集記事だった。写真いりの精緻なルポは大陸に衝撃を与え、これを契機に、アザド軍とフィオール軍のあいだに、たがいの野戦病院は決して攻撃しないという人道的な条約が交わされることになった。僕はかれの報道人としての側面に興味を持ったが、この街の冒険者たちには、「灰色の悪魔」の二つ名のほうが強く意識されていたようで、ごろつきどもはかれの名を口にするとき、柄にもなく怯えたような目をするのが常だった。「戦場で、あいつの率いる鉄砲部隊に散々追い回されたことがある!」と、四十格好のとあるベテランの戦士が、呻くように言った。「まさに悪魔だった。あいつは殺した敵兵を串刺しにして、森のなかに突き立てておくんだ。それがあいつの潜んでいる目印だった。俺たちは腐りかけのあれを見たり、硝煙の匂いを嗅いだりするたんびに、全身の血が凍りつくような恐怖を覚えたもんだ……」
その「灰色の悪魔」が短剣使いのシュウ――つまり僕のこと――を捜している、と、ある日、ギルドへ使いにやってきた年増の酒場女から聞かされた。まわりに居た冒険者たちは、(おまえ、終わったな……)的な目で僕のことを遠巻きに見ていたが、僕はむしろ、あの男に再会できるかもしれないと思って心が弾んだ。僕は、逢いたいのなら図書館に来ればいいと女に言伝した。すると翌日、元傭兵の報道マンがほんとうに図書館にやってきた。
あのときのソフト帽は被っておらず、かわりにプラチナ・ブロンドをリーゼントっぽく固めていた。黒のワイシャツに、チノパンをつけている。靴は丈夫そうな編み上げのものだ。ベルトから年季もののレイピアを提げていたけれど、さすがに銃は持ち歩いていないようだ。野生的できびきびとした歩きかたをするかれは、学者や魔法使、文士ふうの利用者たちのなかにあって、はっきりと浮いていた。
かれは僕に断りもせず、テーブルのむかいにどっかと腰を降ろして、けれどもなにをするということもなく、ただ僕のすこしうしろ辺りを見つめていた。硬そうな不精ひげが、ひきしまった頬や口のまわりに散っている。間近に見ると、目元はあんがい親しみやすい感じがした。少なくとも、「灰色の悪魔」という綽名から連想したくなるような殺伐さはない。
かれはいきなり「――こりゃあ、たまげたな」と言った。
「お会いするのは二度目ですね」
「あんたが伯爵の――いまはクロウザント候だが、あいつの屋敷にいた短剣使いだというのは分かっていたよ。だが、魔術師とは知らなかった。あんた、すげえのと契約してるな。あの女……たぶん、どこかの偉い神様だぞ」
「え、あれが。冗談でしょう」僕は椅子のうえで身をよじり、本棚のほうを見やった。イパルネモアニが足場に寝そべって欠伸をしている。そうして退屈した猫みたいに僕らを横目に見ると、仰向けになって気持ちよさそうに伸びをした。「けれど、かの女が見えるんですか?」だとすれば、ロア・ディオールには魔法の心得があるということになる。
「あんたみたいな本格派じゃないから、ぼんやりとしか見えないがな。――俺も、いちおう、精霊と契約を交わしている。といっても、小さなやつだ」かれは血管の浮いたたくましい手を、テーブルのうえに乗せた。火焔をまとわりつかせた小さな蜥蜴が、手の甲を這っている。そいつは僕を見上げてちょろっと舌を出すと、指の股をすべっててのひらのほうへ隠れた。「俺は長いこと傭兵をしていたんだが、雨が降ると仕事にならなくてずっと困っていた。火打石や火縄がしけちまうんだ。だから、思いきって長期の休暇をとり、アザド帝国の魔術大学院で集中講義を受け、火蜥蜴の召喚になんとかこぎつけたのさ。俺はこいつのお蔭で、どんな状況でも銃をぶっ放せるようになった」
「あなたも宿星を?」
「ロアで構わない」
「じゃあ、僕もシュウで」
ロア・ディオールは火蜥蜴を消して右手をさしだした。僕がその手を握ると、かれはよろしくと言った。
「いや、魔術師の宿星はもっていない。小さいとはいえ精霊を召喚するのは、はっきり言って苦行だったよ。よくできたもんだと、大学院の偉い先生にも驚かれた。――俺にはこいつが必要だと、運命が認めてくれたのかもしれないな」
「ロアも運命論者?」
「なんだ、あんたは運命を信じていないのか」ロアは懐疑的な言いかたに反発するのでも、僕を諭そうとするのでもなく、ただ驚いたような顔つきをした。「……ま、なかには運命という概念を無気力や怠惰の口実にするヤツもいるからな、幾分マシなほうだ。それより、尋ねたいことがある。こいつを見てくれ」
かれがポケットから取り出したのは、人相書きだった。ティアラを戴いた妙齢の女性である。僕は手にとって、ふつうに可愛いなあと思って眺めていたが、目尻のしたのほくろに焦点があった瞬間、なぜロアがこの人相書きをわざわざ僕に見せたのかを、明瞭に理解した。この女――いつかの、泥酔して一夜を共にした女に違いない。
「この女があんたと一緒にいるのを見たって奴がいるんだよ。なんつうか……ひとの情事に首を突っ込むようなこたあ好きじゃないんだけどな」かれはばつが悪そうに襟足のあたりを掻いて、「とにかく、この女について知っていることを教えてくれないか」
「確かに、一緒に過したことがある。けれど、僕はこれでもかってくらい酔っ払ってたから……。なんとなく不思議な感じのする人だった。ていうか、この女は本来どういうひと?」
「いや、まあ……」ロアを言葉を濁して、「とにかく、些細な事でも構わない、思い出したら連絡をくれないか。ギルドのマスターに伝言を頼んでくれ」
「待って」
僕は立ち上がろうとするロアを、呼び止めた。「なにかとても価値のあることに関わっているんだろ? よかったら事情を教えてくれないか」
「なに、大したことじゃない。カネのためのつまらん仕事さ」
「嘘だね」
「……どうしてそう思う」
「ロア・ディオールがカネのことを第一に考える男だとしたら、オールギュント様は歯牙にもかけなかったと思う。あなたが傭兵をやめる理由もなかったはず。――もしかして、オールギュント様のために動いている?」
ロアは両手をひろげて、あの特徴的な、不良少年っぽい微笑を浮かべた。
「いいだろう」と、椅子の背をまたいで腰を降ろし、「驚くなかれ、人相書きの女はアザド帝国の皇女だ。それが半年前、この島に外遊に来たおりに、失踪した。まずいことに、この皇女さまは、ファルダイル公国の大公家への輿入れが決まっていたんだ――これには、ちょっと複雑な背景があってな。公国はもともとフィオール王国の属国だったが、地図のうえではアザド帝国の版図に囲まれ、ほとんど飛び地のようになってしまっている。公国は帝国の不断の侵略に晒され、国境線を維持するのにも難儀するようになり、とうとうフィオールからアザドに乗り換えることを決定したんだ。アザド帝国の皇帝はこれを歓迎して、ファルダイル大公に皇女を嫁がせることを約束した。その皇女がこの島で失踪した。帝国は、皇女が、フィオール王国の工作員に拉致されたと思っている。というのも、王国には、ファルダイル大公がアザド帝国へ寝返ってしまうのを断じて容認できない事情がある。容認すれば、数多の属国が雪崩をうって帝国へ走るかもしれないからだ。けれど、実際はちがう。王国は皇女の失踪に関与していない」
「要するに、アザドの皇女の失踪が、王国にとって外交上の懸案になっているということ?」
そのとおりだとロアは頷いた。「オールギュントはいま、宰相府の代表として、帝国との停戦交渉に全力で取り組んでいる。けれど、帝国にしてみれば、皇女を拉致して知らぬ顔を決め込んでいると疑う王国と、交渉をすすめる気にはとてもじゃないがなれない。だいいち、この件で皇帝はかんかんになっている。だからオールギュントとしては、皇女をなんとしても探し出し、身柄を確保して、帝国に送還したい。せめて王国がこの件にタッチしていないことを証明してみせなきゃならない。最悪でも、帝国と王国のあいだに不信感が募り、停戦の機運が流れてしまうような事態に至ることだけは、絶対に避けたいと考えている」
僕は髪をがさがさと掻きまわして、それからイパルネモアニを振り返った。「――なあ、おまえさ、ずっと最初から最後まで見ていたんだろ。なにか憶えてない?」
「しらなーい」と、かの女は欠伸まじりに答えて、「そう言えば、あの子、宿の女中さんと知り合いだったみたいよ。行って、聞いてみたら?」
「宿? どこのだ」ロアが色めき立つ。
「場所は分かってる。行こう」
裏口からそっと出てきた若い女中は、仕事中なんですがと、迷惑そうな様子だった。人相書きを見せても、知らないし、知っていたとしても客のことをあなたたちにベラベラ喋るのは憚りがあると言った。けれどもロアが金貨を一枚握らせると、かの女はてのひらを返したようになった。
「あのひとは六番街の安アパートで共同生活をしている踊り子ですよ。たまに懇ろになった男のかたを連れて泊まりに来られるんです。でも、いつも支払いはかの女でしたねえ。台所事情はそう楽じゃないはずなんですが」
それから僕たちは、女中から聞いたアパートを訪ねた。ドアを叩くと、ルームシェアしているという娼婦が出てきて僕たちを怯えたように見上げ、「アーリアのことは知りません……」と、蚊の鳴くような声で言った。どうも胡散臭く思われているらしく、娼婦はいまにも扉をぴしゃっと閉めたい様子だったので、出直すことにした。その日、分かったのは、皇女さまの通り名が「アーリア」だということだけだった。
翌日再訪すると、娼婦はだいぶ柔らかくなっていた。最初に無理して聞きだそうとしなかったのが、かの女を安心させたらしい。「実は……わたしも心配していたんです……数日前から帰ってこなくて……そろそろ家賃の支払いもあるし……」そうして、かの女は膝に抱いた白猫をなでながら、皇女が使っていたと思われる鏡台のほうを、ぼんやりと眺めた。そこには安物のアクセサリーと衣装、化粧品なんかが幾つか置いてあった。
「最近、アーリアさんに変わったところはありませんでしたかね?」とロアが尋ねると、娼婦は首をかしげ、
「変わっているのは、普段からでしたから。なんだかとても突拍子のない冗談を言うのよ。わたしは実はアザド帝国のお姫様で、恋人に無理を言って魂を失わせてしまった悪い女なの、とか」
僕はロアと顔を見合わせた。「その話、もうちょっと詳しく聞かせて貰えませんか」と促すと、かの女はだいたい次のようなことを話したのである。……
皇女は宮廷の奥ふかく、女の園に住んでいたが、ある日、中庭を隔てた回廊に、正装して颯爽とあるく若い騎士を見かけ、ひと目惚れをした。時とともに想いはつのり、切ない胸のうちをどうしようもできなくなると、一念発起して侍女をつかわし、その騎士に気持ちを伝えたが、待てど暮せど返事が来ない。身分を超えたこの恋愛は、皇女にとってただの道楽だったが、若い騎士にとっては自分はおろか一族まで破滅させかねない、深刻な罪だった。そんなことは知らない皇女は無視されればされるほど恋の焔を燃え上がらせ、――あなたが恋しくて恋しくて気が狂ってしまいそう。とか、――この想いが届かないのなら、わたしはいっそ、井戸に身を投げて死んでしまいたい。とか、なりふり構わず愛の言葉を送り続けた。ついに、若い騎士から返事がきた。ふたりは変装し、宮殿の片隅で逢瀬をたのしんだ。夢のような日々が過ぎたが、やがて皇女は馴れてきた。僅かな時間の密会では満足できなくなり、とうとう夜中に女の園へ忍んでくるよう、求めるようになった。これにはさすがの騎士も難色を示した。けれども皇女は騎士に深く愛されていることを知っていて、すこし拗ねてみせればかれを思い通りにできると分かっていたから、――私への愛は贋物なのですか、貴方は臆病な方ですね。と挑発するようなことを書き送った。騎士は、愛するひとに臆病とまで言われた以上、奮起せざるを得ない。そうして、警備兵に捕まってしまった。
皇帝はこの不埒な侵入者を、即刻処刑しようとした。その速断のなかには、罪状を曖昧なままにして、騎士とその家族の名誉を守ろうという配慮もあった。けれども皇女が泣き喚き、――父上、もしあの方を処刑されるというのなら、私は舌を噛み切って死にます。とまで言ったので、皇帝はこの不幸な騎士を許さざるを得なくなった。かわりに、騎士は奥御殿への侵入を目論んだ性犯罪未遂者の汚名を頭から被って生きなければならなくなった。それからというもの、騎士は皇女と密会しても、死んだような顔をするばかりだった。騎士は名誉を重んじる、高潔な青年だったのである。
やがてこの青年は戦場へ行き、所属する部隊が苦境に陥ったおり、邪術におのれを売り渡し、自らアンデッドとなることで多くの戦友を救った。そうして名誉を挽回したが、かわりに魂を喪失し、ふらふらと世界を流離うようになった。この騎士の抜け殻は旅の果てにヘクザイム島へ流れつき、ごろつきの用心棒などをするようになった。
不幸な青年の名を、ハーディドという。それは皇女が僕の腕のなかで、僕に呼びかけた名でもあった。
後日談がある。ハーディドの抜け殻は、ごろつきに乞われるまま、新参の冒険者を襲ったのだが、手酷い反撃にあい、背中をざっくりと裂かれてしまった。皇女は、この冒険者に復讐をしようと心に誓い、長いあいだ捜しまわっていた。そうして、祭りの夜にとうとうかれを見つけた。けれども、皇女はかれに報復することができなかった。なぜなら、その男から自分とおなじ匂いを――愛するひとを取り返しのつかないほど傷つけてしまったひとが必ず漂わせることになる、孤独の匂いを――感じ取ったからだ。……
僕はもう皇女を他人とは思っていなかった。それどころか、罪の意識と、幾重にも絡み合った運命とを共有する、古くからの友人のように感じた。そうして、そのことが思い過ごしではない証を、鏡台の引き出しのなかに見出した。それは蝋印用の金の指輪で、リングの裏側に、ハーディドの名と家名が彫られていた。指輪の、四つの頭をもった獅子の意匠は、あの晩、僕を襲った魔物じみた男の剣を飾っていたのと同一である。
「アーリアが『おはなし』を終えると、わたしはいつもかの女に言ったわ」と、娼婦は微笑む。「あなたは踊り子より戯曲の作家にむいているかもしれないって。するとかの女は、あら信じてくれないのねっておどけるのよ」
ロアは抽斗に手をつっこみ、手当たり次第にものを検めながら、
「なあ、あんた、どう思う? 皇女さまはこの街でなにをしようとしていたんだろうな」
「決まってる。ハーディドの魂を身体に戻そうとしていたんだ。イーヴル市には、魔法関係の書籍をたくさん蔵していることで有名な図書館がある。そして、それらを研究する魔法使たちも沢山いる。よからぬ邪術師の噂も、枚挙に暇がない。――ほうら」
僕は屑籠から拾いあげ、瞥見したばかりの紙の切れ端を、ロアに差し出した。
かれは手にとって、それを見つめる。「――『紫の雲』だと? なにかの暗号か」
「いや、邪術師の通称だと思う。邪術師たちは、敵にほんとうの名を知られると呪いを掛けられてしまうと信じていて、実名をなかなか明かさないかわりに、そんな風の通り名をよく使う」と、僕は魔法の研究で得た知識の一端を示し、「皇女さまは、そいつの元へ行って、ハーディドのことを相談したんじゃないかな。だって、まっとうな法術師たちは『いちど離れた魂を肉体に戻そうとするのは冒涜だ』とか言って、この手の相談を決して受けつけないだろうから」
「なるほど。で、あんたはこの街の邪術師連中のことに詳しいのか?」
いや残念ながら、と僕は首を振った。「――明日、ギルドのマスターにでも訊いてみる。もっとも、冒険者の名簿よりは、犯罪者のリストにあたったほうが早いかもしれないけれど」
「だったら、俺のほうはダンジョン管理局に問い合わせてみよう。紫の雲……だな」
明け方、寝台のうえで忽然として目を覚ましたとき、僕の胸裏にはれいの猜疑心が渦巻いていた。群青に埋もれた部屋のなかでカーテンだけがほのかに白い。すこし寄せてみると、そとは濃霧が垂れ込めていて、それが微風に流れ、僕は部屋ごと大海の上にいるような錯覚を起こした。――淋しげな街燈や、むかいの建物の硝子窓をなんとなく眺めているうちに、ふと、ありとあらゆることが莫迦らしくなってきた。この世界は所詮、僕の病的な妄想にすぎないかもしれないのだ。しかもそのルーツは判然としている。暗い霧はまるで、街に僕の憂鬱が流れ出したかのようだった。
朝食まで時間があったけれど、書き物の続きも、魔法の研究も手につかない。ただ、意味もなく、もてあました刻の一秒々々を掌に載せ、それを呆然と眺めるようにして過した。胸がつまりそうだった。そうして、この世界に連れ去られるすこしまえによく見舞われた、あの幻覚や幻聴が始まった。自分で妄想であると分かるだけ、まだまともなのかもしれない……
「紘子はいつ、自殺の決意を固めたのか――」と、幻聴の声が言った。「いや、いちどたりとも固めはしなかった。紘子は墜落の瞬間まで、自分が死ぬとは思っていなかった。あらゆる物語のヒロインがそうであるように、もっとも暗い夜の終焉に、かけがえのない誰か、運命のひとが自分を助けにきてくれると空想していた。馬鹿げた考えだと知りながら、縋らざるを得なかった。そんなことがあるものかと? おまえは、この十四歳の哀れな少女が極限まで追い込まれていたことに留意しなければならぬ。紘子は、幼馴染に微笑みかけることさえ許されないほど自分は汚れてしまったと落胆していた。望まぬ男の子供を孕んでもいた。けれども、この忌まわしい事実は是非とも秘密にして置かなければならなかった。義父を守るためではなく、母親にショックを与えないためだ。実は――母親はすべてを知っていたが、直視する勇気がなかった。紘子はこの母親の脆弱で依存的な精神からくるおぞましい機微を察知し、母親が本質的に自分の味方になりえないことを知って孤独にうちひしがれていた。いいかね、人間とは弱いものだ。そして誰かに頼ろうにも、あめがしたに少女の味方は、ひとりもいなかった。紘子はヴェランダから暗い駐車場を見おろして、こう妄信した――きっと、自分は死なない、だって神様がそこまで意地悪な筈はない。地面にぶつかって身体が砕けてしまう直前に、運命のひとが飛来して自分を抱き上げてくれるだろう。自分を待っているのは激痛と死ではない、甘い抱擁と優しい慰め、永遠にして絶対の愛。――いいかね、紘子は絶望に終止符を打つところの死を望んで、手摺を越えたのではない。むしろ、生きんがため、あるいは悲しみを持て余して己れの運命と神を試みるためだ。そして、見事に裏切られた」
「もう聞きたくない。やめろ」
「全身の骨が砕けるような衝撃とともに、紘子は自分が取り返しのつかないことをしたと気付いた。そのとおり、もう手遅れだった。――おまえの世界の宗教は、こう述べているはずだ。自殺はあらゆる罪のなかでも最大のもので、この罪を犯した者は永遠の責め苦に苛まれるだろうと。むろんこれは寓話に過ぎないが、しかし、根も葉もないことではない。ひとは環境にではなく、己れ自身によって縛られる。たとえば、おまえがこの世界にしっかりと繋がれているように。ところで紘子はいまどこにいるだろう? いいかね、かの女に錯乱をもたらした挙句、飛び降りへと駆り立てた煩悶の暴風雨の、その中心点にいる。いまだに後悔し、激痛に喘ぎ、もう死んでいるのに死の恐怖に怯えつづけ、そうして世界を怨んでいる。――手を差し伸べてくれなかったおまえを怨んでいる」
「うるせぇ! 妄想の声ごときが、調子にのんなよ。ンでそんなことがおまえに分かるんだよ」
その声が、朗々と嗤った。
「何故といって、予が神だからだ」
「ハア?」
「ハプカトゥリポス。忘れ去られた古の神だ」
「その神様が、僕になんの用だ。まさか、ひとの古傷に塩を擦り込みたくて出てきたのか。あんた、いい趣味してるな」
「そうではない。――予の僕になれとまでは言わぬ。予の道はさだめの道であり、おまえはそれを知るだけでよい。だが、紘子を永遠の苦しみから救い出したければ、おまえは予の言葉を全霊をもって受け止めなければならぬ」
ハプカトゥリポス――自称神様の声がこころの鼓膜を揺するたび、僕は絶叫したくなる衝動を押し殺さなきゃならなかった。この日、ダンジョンで僕のまえに現われた魔物たちは哀れだった。普段の僕はただ怪我をしないこと、効率よく敵を駆逐することしか考えなかったけれど、今日ばかりはおよそ考えうる限り最も残忍で破壊的なやりかたを選んで殲滅することを試みた。戦意をすでに喪失したコボルトの群れを執拗においつめて、殺人鬼のようにやつらの体躯に次々と刃をうちこんだ。護衛をしていたクライアントには、どちらが魔物だか分からないと怯えられた。ジュノ様はいつもどおり、ほどほどにしておけと淡々とした調子で云うだけだったが、ベネッタはときおり痛ましいものでも見るような目で僕を見た。
クライアントを鉱物採取のキャンプへ無事送り届けた帰り道、ベネッタはとうとう僕に心配の気持を伝えてきた。
「どうもしないよ――」僕は嘘をついて、透かし彫りのような遺跡の壁から差し込む陽光に、目を細くした。「そうだ。ベネッタはいにしえの神々のことに詳しい?」
「専門の研究者とかに較べたら、ぜんぜん。でも、滅んだ森の民に崇められていた神々のことなら少しは……」
「ハプカトゥリポスというんだ。図書館で調べたいけれど、どの民に崇められていたのかとか、どの言語でどう表記すればいいのかとか、見当もつかなくて」
あの神様は現代の大陸において単一の言語といっていいオプス語を使っていたけれど、だから大陸の主要な民族の神であるとは断定できなかった。高位の神は相手にあわせて自在に言語を使い分けるという。
ベネッタは苔のむした石材の滑り具合を確かめるようにブーツの踵を下ろして、ふと首をかしげ、
「語感からすると、けっこう古そうね。そうだとしたら、調べるのは難しいと思う。非オプス語系で、魔法の特に盛んだった民族はハトルト族とラティーン族があるけれど、両方とも二千年以上も昔に滅んでしまっているから。そういう民族の言葉は、文字と幾つかの単語とその意味が解読されているだけで、読み方はほとんど失われてしまっているの」
「ふうん……」僕はベネッタの手を引いて、それから倒壊した神殿のだいぶ先をゆくジュノ様のうしろ姿を眺めた。スポットライトのように零れてくる光のしたで、プレートメイルがうつくしく輝いている。相変わらず、悪路をものともしない健脚ぶりだが、遠出が嬉しくて先を急ぎたがる子供のように見えなくもない。ジュノ様は僕たちを振り返って、はやく来いとばかりに腕を振り、それから横たわる石柱をひと足に越えた。
「ありがとう」ベネッタは、少女らしさの抜けない声で言った。「けれど、ハプカ……その神がどうかしたの?」
「いや、ちょっと。というか、神と言っていいのかな。すごく感じの悪い奴だった」
「もしかすると、邪神かもね」
「ジャシン?」
聞き返すと、ベネッタは頷いて、
「あたしたちは、神というものについて二種類の概念をもっているの。天地を創造し、四季の運行からひとの生き死にまで、すべてを担っている凡神論的な神と、それから人々に個人的なご利益や導き、インスピレーションを授けたりする多神教的な神とね。後のほうは例えば、愛の神とか戦いの神、牧畜や農業の神、それから狩り、芸術、魔法の神とかがあって、それぞれ役割があるの。邪神っていうのは、こういう沢山いる神々のなかのいち種類よ。――魔術師さんには無用の説明だった?」
「いや、僕が調べているのは実用に関係することばかりで、神学まではなかなか手が回らないんだ。よかったら続けて」
「それでね、こういう神々は個別の神話体系と民族に属しているの。そして、その民族と文明が、戦争や疫病、魔物の侵略なんかで滅んでしまうと、神々はひとびとの信仰心や崇拝から切り離されて、根を失ってしまう。大陸には、こういう『いにしえの神々』がたくさんいる。だから、太古の時代に文明が栄えていた地方にはきまって、歴史的な役割を終えた神々を慰撫するための祭りがあるわけ。この街にもあったでしょ、つい先日――」
その日付は、僕の遊蕩をもってかの女に印象付けられているらしく、ベネッタはすこし眼元を険しくした。僕としては、そっちのほうに話が逸れてはたまらないので、「うん、あったね。それで?」と先を促した。
ベネッタは猫みたいに尻尾をひらひらさせながら、
「けれども、祭りの儀式によって鎮められ、大人しく自然に還っていく神々ばかりじゃないの。なかには人々の不健全な欲望と負の感情をあつめて畸形的に変化していく神もある……つまりね、そういう神さまって、よくない祈りみたいなものばかり集めちゃって、歪んできちゃうわけ。そのなれの果てがいわゆる邪神よ。そういう神が近づいてきたら、気をつけたほうがいいわ。触らぬ神に祟りなし、って云うし」
「ふーん……」
ハプカトゥリポスなる神格が、はたして邪神として位置づけられるものであったとして、どうして僕の元に現われたりしたのだろう? 僕は自覚している以上に、紘子を甦らせたいという、自然の摂理に逆らった妄念を募らせていて、それがあの神格を呼び寄せたということなのだろうか。それ以前に、だ、感じが悪いというだけで、ハプカトゥリポスを邪神とする充分な根拠になるだろうか。かれはただ、紘子の真実を知りたいという僕の想いに応えただけかもしれない。冷静に受け止めることのできない僕のほうこそ、歪んでいる、ということはないか。……
そんなことを黙々と考えながら、僕は遺跡群の門を抜けた。そうしてジュノ様に従って冒険者ギルドの事務員に依頼を無事終えた旨を報告し、ついでにマスターに邪術師・紫の雲のことを尋ねてみようと目を合わせたら、かれに先手を取られてしまった。
「おう、あんたら丁度いいときに戻ってきた」と、マスターは腰を浮かせて云うのである。「近くの酒場で喧嘩があってな。ちょっと一方的な状況になってるみたいだから、あんたら、行って止めてやってくれないか?」
ジュノ様は面倒ごとを避けるために出自を偽り、没落貴族の娘を称していて、ギルドのおっさん連中のあいだでは、やたら腕の立つ、若いのにしっかりした別嬪さん、という感じで通っている。それで親しみを込めて町娘のようにちゃん付けで呼ばれているのだが、ジュノ様のほうはあまり頓着せず、けれども迎合する訳でもなく、女騎士然とした個性を通している。
ジュノ様は喧嘩と聞いて、右のまぶたをピクッとさせた。
「ほう……それは捨て置けないな……」
「マスター、人選を間違えてるよ」と、僕はあきれて言った。ジュノ様はその気になればいくらだってごろつきの喧嘩くらい収拾するが、基本は煽って自分も参加したいタイプの人なのである。
「おい、どういう意味だ?」ジュノ様は、なにかを含んだように微笑し、「とにかく行くぞ。来い」
喧嘩は、ギルドから二つばかり北の区画にある、とくに柄の好くない連中があつまる酒場で起ったらしい。近くまで行ってみると、通りを挟んだ雑貨店の辺りまで人だかりが出来ていて、くだんの酒場を遠巻きにしていた。酒場の外観はひどい有様だった。略奪でも受けたかのように板壁が破れ、硝子窓はほとんど砕けている。そこから仄暗い店内を覗き込むと、カウンターや床のうえに、ぐったり伸びた身体が散乱し、折り重なっていた。ただ、喧嘩そのものは一段落したようで、物音はほとんどしない。近づいていくと、硝煙の特徴的な匂いがぷうんと漂ってきた。――ジュノ様の横顔が、いつになく引き締まっていた。
半壊した木製のドアを引き倒して、なかへ這入ると、中二階の手摺は外れているわ、テーブルは真っ二つに割れているわ、カウンターの奥の酒瓶は大半が砕けているわで、まるで古い西部劇でも見ているかのようだった。僕たちは日当たりの悪い店内の、埃っぽい薄闇のなかを、奥のほうにむかってゆっくりと歩いた。
そのうち唐突に、
「いやァ、参ったぜ――」という、緊張感の欠落した男の声が聞こえた。
目を凝らすと、カウンターの傍で、長身痩躯の男が、椅子にぐったりと座っていた。脇に銃剣のついたマスケットを立て掛け、ぼろぼろに破れたワイシャツから締まった肌をむき出しにしていた。
かれのすこし歪んだ唇の端から、一条の血が垂れている。
「もしかして、ロア?」と、僕が尋ねると、かれは、
「言っとくが、俺はこれでも平和主義を標榜してるつもりなんだ。ただ売られた喧嘩くらいは買ってもいいと思ってる。なあ、分かってくれるだろ」
「確か、あなたは……」と、ジュノ様が目を細くする。「兄上の屋敷に居られた方だな?」
「その節はご無礼を」ロアは立ち上がって、恭しく辞儀をした。「フリーの記者をやっているディオールと云う者です。――ところで、ご令嬢はこの街で冒険者登録をされているとか」
ジュノ様は、訝しげに首をかしげた。
ロアは椅子の背から革のジャケットをとりあげ、袖を通しながら、
「お噂はかねがね耳にしていますよ。どうです、ひとつ俺に雇われてくれませんかね。実は今しがた、面倒な仕事が入っちまいましてね……」
「あなたは記者ということだが、取材の護衛か」
「そんなところです」
ジュノ様は腕を組んでしばらくロアを冷然と眺めていたが、
「生憎、多忙の身でな。――ただし、あなたの話が興味深ければ、明日以降の予定をキャンセルしてもいい」
ロアは曰くのありそうな微笑を浮べた。
「では、早速ご説明したい。これからご足労願えますかね」