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 そのときは、アルトンにしてはやけに安っぽいことを云うと思って、すこし苦笑いしただけだったけれど、あとになってから、まっ白な灰のしたに隠れた炭火のように、じわじわと熱を放ち始めたのである。クロウザントの屋敷に戻って、硝子窓を曇らせる秋のつめたい雨をぼんやりと眺めていると、不意にアルトンの言葉が胸がつまって、ある種、新鮮な驚きを覚えたりした。まさか、アルトンに軽蔑されるようなことを、僕が選択するはずがない。それは自負している。ジュノ様を見捨てたりなんかすれば、僕は心の均衡を保つのが難しくなる。身の危険や鰐の脅威よりも、生きるよすがを失くすことのほうがよほど怖ろしかった。では、どうして? 僕は息苦しさのわけを見つけ出すために、秋色に染まった湖畔のくぬぎの林をひっそりと歩きながら、雑草が無雑作にはびこる庭のようになったこころを、数日がかりで手入れしなければならなかった。

 湖に朝夕おりる青い靄のなかに、アルトンやジュノ様のすがたが度々浮んでは消えた。ふたりの顔は揃ってすこし悲しげだった。やり取りした言葉が、ぐわんぐわんと残響をひいて僕の鼓膜の内側をめぐった。そうして、僕はとうとう「理由わけ」の影を踏んだ。挑発という行為のうしろ側には、普遍的な精神がある。それに気付いた途端、複雑に絡み合った糸が、するすると解けていったのである。ああ、もしかしたらふたりは、僕よりも僕のことを分かっているのかもしれない。僕の魂は、もとの世界に釘付けになったままだ。僕をコンプレックスの集合として考えた場合、ディテールはことごとくあっちに根を下ろしている。僕はこの世界に生きていない。この世界で代償の長い夢を見ているに過ぎないのだ。そうしてある日、目覚まし時計のベルがけたたましく鳴り、寝慣れたあのベッドのうえで眼を覚ます――それは、紘子のいなくなったブラックボックスのなかでやっていくために必要なだけの活力を、この壮大な夢のなかで補充し終えたときに、やってくるのかもしれない。僕は湖面にさかしまに映る、夕日を戴いた黒っぽい森を眺めて、こう自問せざるを得なかった。「さて、僕はいったいどこにいる?」

 けれども、中二病に罹患した哲学者気取りの異界人は、抽象の領域に棲んでばかりもいられなかった。僕は孤独な思索のときを離れたとたん、ずるがしこい男に豹変した。屋敷にミレーアというホビット族の若いメイドがいる。まんまると太った愛嬌のある少女だったが、事情に通じた小姓のあいだでは食い意地の少しばかり汚いことで知られていた。主筋にお出しする食事をときどきつまみ食いしてしまうのである。これは公になればごめんなさいなどでは済まず、その場で頚を刎ねられても文句の言えない所業である。だから僕たちは「洒落にならないから止せ」ときつく警告するだけで、上に報告するようなことは控えていた。また、かの女はジュノ様のお気に入りでもあった。ジュノ様は物欲しそうにしているミレーアを横目に、わざとひと皿ふた皿、手をつけずに残しておく。ミレーアはそれを厨房で平らげるのである。この食いしんぼうのメイドに、また悪い癖が出た。僕がそれに気づいたのは偶然だった。近郷の猟師の一団が屋敷に雉を献上してきたので、それを受け取って厨房に届けたときに、ちょうどミレーアが鴨肉をひときれ摘まんで口に放り込むのを見掛けたのである。僕はイラっと来るより先に、むしろ僥倖と思った。なにしろ、こっちの世界には毒見という概念がない。僕は見て見ぬふりをして、傍を通りすぎた。

 案の定、だった。それから七日目の夕餉のとき、ジュノ様の食事を運んでいたミレーアが、突然苦しみだして胃のなかのものを逆流させ、卒倒した。ただちに厨房が締め切られ、料理人たちは留め置かれた。いよいよ本格的な取調べが始まろうかという頃、新参のシェフのひとりがミレーアが当たったのとおなじ種類の毒を呷って自殺した。この男は半年前から街の盛り場に頻繁に出入りするようになったようで、ギャンブルで作った多額の借金があったこともすぐにわかった。けれどもそこから先の背後関係は掴むことができなかった。かれの妻と四歳の娘は公開処刑になった。

 事件から四日後の明け方、ミレーアは苦悶に苦悶を重ねたすえ、息を引き取った。最後までミレーアに付き添い、看病していたジュノ様は、とうとう感情を爆発させた。盗み食いをしていたミレーアに、ではなく、それを知りながら毒見に利用するつもりで黙っていた僕に、である。ジュノ様がそういうお方であることは最初から分かっていたけれど、ジュノ様だって、心の底では止むを得ないことだったと理解している筈である。ミレーアの悪癖を見過ごしたのが僕でなかったら、ジュノ様は怒りを飲み込んだに違いない。だから僕は暴風雨にジッと耐える樫の木にでもなっていれば良かったのだ。途中までは順調だった。肩をいからせて僕の私室へ乗り込んできたジュノ様に、胸倉をつかまれても、顔を寄せて怒鳴られても、僕は構わず、ひたすら視線を落として申し訳なさそうな顔つきをしていた。ところがジュノ様は、この日に限って激昂する一方で、終いには、

「どうして止めなかったんだ! おまえのせいで、ミレーアは不忠の使用人として汚名を残すことになったのだぞ! ミレーアの献身を、おまえはすべて否定したのだ! この先、幾箇月となく、ミレーアを侮辱する言葉が屋敷のそこかしこで囁かれるだろう……おまえは私にそれを耐えろというのか! おまえはひとの気持ちが分からない、残酷な男だ!」

 仰せの通りです、反省しております――その模範解答を、僕は言えなかった。「残酷な男だ」という極めつけに、自分ではどうすることもできないくらい反発を覚えたのだ。

「ジュノ様にはジュノ様の言い分がおありでしょうが、僕にも僕の言い分がある。僕にとっては、あなたの食事を掠め取ってしまうような盗人まがいの女のいのちや名誉より、あなたのほうが余程大切なのです。比べ物にならないくらい、あなたが大切なのです。どうしても気に入らないというなら、構いません。この場で僕を手討ちにすればいい。僕は逃げも隠れもしません」

「シュウは残酷なうえに卑怯だ!」と、ジュノ様は眼に涙をためて言った。「そうやってすぐに家来という立場に逃げこむ! 私がいつ、おまえに家来になってくれと頼んだ?」

 僕はその言葉を額面どおりに受け止め、あんまりだと思って涙が出てきた。

「僕はあなたにとって必要のない人間かもしれない。けれども僕はガイナス様にあなたのことを頼まれている。ジスティリウス様にも。僕は僕で、あなたの為になると信じることをやらせて頂きます。不満がおありなら僕を殺しなさい。いまさら人を殺めることを躊躇うジュノ様でもないでしょう。まして僕は奴隷に過ぎないのだから。……くだらない話はこの辺で御免蒙ります。さあ、お引取りを!」

「おまえは残酷で卑怯で、そのうえバカだ!」ジュノ様は僕をベッドに突き飛ばすと、「シュウみたいなバカと話すなんて、こっちからお断りだ!」と大声をあげ、僕の部屋を出ていき、物凄い音をたててドアを閉めた。けれども、まだ文句を言い足りなかったと見えて、再びドアを開くと、「バカ!」と怒鳴って、バタバタと走っていった。

 僕は、「とうに自覚しておりますので、そう何度も仰るには及びません!」と言い返してやった。

 ドアの木目を睨んだまま、僕はしばらく呆然とした。そうして、死の床で、ジュノ様とあの仔豚ちゃんがどんな会話を交わしたのだろうと思いを馳せるうち、後味が悪くて仕方なくなってきた。その日は気持ちがくさくさして、ずっと部屋にひきこもっていた。すると午後の三時くらいになって、アルトンの使い魔である鴉が突然、僕を訪ねてきた。

 窓辺にとまって羽を畳んだ鴉は、黒々とした目で僕を見つめて、

「あるじよりの言伝でございます」と、甲高いだみ声で言った。「『おおきな山女が五匹ばかり釣れた。これから炙って食べようと思う。よかったら君も一緒にどうだ』」

 お招きにあずかる、と鴉に答えて、さっそく屋敷を出た。湖に流れこむ小川をすこし遡った森のなかに、アルトンの庵はあった。かれはそこに、魔術の書籍やら怪しい道具やらをたくさん持ち込んで、修行や勉強をしながら、山男みたいな生活をしているのである。

 パリパリと落ち葉を踏んで、蔦のからむ塀を右手に、平屋を裏へまわっていくと、魚の焼ける香ばしい匂いがぷうんと漂ってきた。アルトンは焚き火のそばに小さな椅子を寄せて、串刺しにした山女から脂が滴り落ちるのを、見守っていたが、僕に気付くと顔をあげて、

「やあ」と言った。

 森には特有の匂いがある。生きた樹木のはだの匂い、朽木や腐葉土の湿った匂い、木の葉や草が呼吸するちょっと青臭い匂い――それらが木立を揺する秋の風にのって、僕を包み込む。

「やっぱりマイナスイオンだなあ」僕はそんなことを呟きながら、アルトンと焚き火を挟んで反対側の、手ごろな大きな石に腰をおろした。

「マイナスイオンとは、なんだ」

「ああ、僕らの世界の言葉だよ。ある種の癒し効果のことを、そんな風に呼んでいる」

 紅葉をあつめた梢のさきに、黄金色の太陽が輝いていた。頭上はさっぱりと澄みわたり、東のほうに、網をのせたみたいな鱗雲が散っている。ぼんやりと見上げているうち、首が痛くなってきた。凝ったところをさすっていると、大きな溜息が出た。

「シュウは正しいことをした。ジュノ様は機嫌を損ねたかもしれないが、気に病むことはないよ」

「ありがとう」

「ほうら、焼けた――」と、アルトンはみごとな焼き色のついた山女を火の傍から抜き取って、差し出した。僕はそれを受けとって、

「いちども、ミレーアを見舞わなかった」

「済んだことだ」

 アルトンは、ジュノ様の命を受けて、薬草から解毒剤を調合したり、ミレーアから毒を取り去るための魔法を掛けたりしていたから、ほとんどつきっきりだった。アルトンは、ジュノ様とミレーアがどんなやり取りをしたのか、承知している筈だった。

「なあ、教えてくれよ。二人はどんな様子だったんだ」

 アルトンは、山女をふうふうやりながら齧りついていたが、僕を瞬間的に上目遣いで見て、

「気にしなくていいんだよ」

「頼む、教えてくれ」

 アルトンは黙っていた。そうして山女の胴を骨ばかりにすると、頭をもぎって空に放り投げた。すると、庵の屋根から飛び出してきた黒いものが、サッとそれをさらっていった。――使い魔の鴉が大きなけやきの枝にとまっている。くちばしの間に、魚のあたまがあった。

「はじめのうち、ミレーアは頑なだった――」アルトンは、気が乗らないという風に、余所見をしながらのろのろと話し始めた。「盗み食いによってジュノ様を裏切ったことが発覚してしまい、ばつが悪かったこともあったろうし、毒の種類が特定されて助かる見込みの薄いことが分かり、絶望してもいただろう。なぜ自分がこんな目に、という心境だったんじゃないかな。要するに、不貞腐れていた。そこへきて、屋敷のひとたちの尋問は、厳しいものとならざるを得なかった。厨房に犯人がいるのかどうかを調べるために、どうしても、ミレーアが盗み食いをしたか、しなかったのか、その点をはっきりさせる必要があったからね。けれどもミレーアは、うっかり白状すれば処刑になると思ってか、寝台のうえで痙攣せんばかりに苦しみ悶えながら、だんまりを決め込んだ。ジュノ様はそんなミレーアを見かねて、尋問を中止させた。そうして、屋敷じゅうから軽蔑の目を向けられ、相応の報いだと嘲笑され、ひとりぼっちになって死の恐怖に怯えるミレーアを、つきっきりで看病された。手を握り、きっと良くなるから頑張れと、なんども励まされた。事件から三日後の晩、とうとうミレーアは号泣して、罪を洗いざらい白状した。けれどもジュノ様は、そんなことはもういいから、いまは身体を癒すことだけを考えろ、という意味のことを仰った。そうしてミレーアの唇からしたたり落ちる黒ずんだ血をみずから拭い、かの女が苦悶のあまり舌を噛むことのないよう、タオルをあごに挟ませたりなさった。が、明朝、ミレーアは力尽きてしまった。苦しみ抜いての、壮絶な死だったよ」

 けれど――とアルトンはとつぜん言葉を強くして、焔のむこうから僕を鋭く見つめ、

「もし君がミレーアのつまみ食いを咎めていたら、毒にあたって死んだのはジュノ様のほうだったかもしれない。いいかい、シュウ。これは神の采配なんだ。ミレーアは気付いていないかもしれないが、ジュノ様の身代わりになるために、悪い癖を再発させたんだ。ふたりは紛れもない主従だった。ミレーアは命をかけてあるじを守った。君が胸に残しておくべきは、そのことだけだ。あとはすべて忘れてしまうことだよ」

 思わず、喉を震わせて笑ってしまった。僕はなんにも分かっていない。ものごとの上っ面だけを見て、分かった気になっている大馬鹿者だ。紘子を持て余していた頃から、なにひとつ成長していないのだ。確かにアルトンの云うとおり、ミレーアを身代わりに仕向けなかったら、ジュノ様は死んでいたかもしれない。だいたい、毒殺されるかもしれないという根拠のない疑いをふりかざして、家中に波風を立てることなど許される筈がないのだから、他に手はなかったのだ。けれども僕はあらかじめ、ミレーアが苦しんで死んでいくかもしれないことを、ジュノ様を深く悲しませることになるかもしれないことを、しっかりと認識していなければいけなかった。そうでなかったら、あれは所詮、人でなしの振舞いだ。

「おい……」

 アルトンは、腫れ物でも見るような目つきになっていた。

「なーに、この生臭い環境にはちゃんと適応してみせるよ。それにしても、ラスカー様は困ったお方だな。調子に乗るのもほどほどにされたほうがいいと、分かっていただくにはどうすればいいだろう?」

「冷静になれ、シュウ。僕たちが熱くなってみたところで、ジュノ様の心労が増すだけだぞ」

「じゃあ、どうすれば……!」僕は立ち上がって、拳を固くした。けれども、すぐに肩から力が抜けていってしまった。「だよな、アルトンの言うとおりだ。ああ、もう……」

 僕は真っ赤に焼けた鉄のかたまりのような怒りを、アルトンに手伝ってもらいながら、なんとか嚥下した。こんな僕でも、小姓のうちではどうやら気の長いほうらしかった。陽が傾いて西の空があかるい桃色と藍色のグラデーションに染まる頃、屋敷に戻ってみると、気配が際立っていつもと違っていた。なんとなく緊迫している。ジュノ様の近習のひとりを捕まえて、事情を尋ねると、見習い騎士のゾッドが、ラスカー様の側近を務める騎士に、斬りかかったということだった。ゾッドは僕の同輩であり、よく知っていた。やけに濃い眉毛と、ずんぐりとした体つきのために、一見鈍重な印象を受けるが、案外腰の軽いところがあって、ジュノ様の肩に宿星が現われたときなどは、次期クロウザント候にするべく運動を起こそうと、率先して旗を振っていた。ジュノ様を後継問題のごたごたに関わらせたくない僕は、こいつと散々、議論を――いや、口汚い言い合いをやったものだ。口は僕のほうが少しばかり達者だったけれど、かれの一本気で情熱的なところは論敵ながら清々しいと感心していた。本来、気のいい男なのだ。ゾッドは僕を毛虫みたいに嫌っていたけれど、僕はこいつのことが嫌いじゃなかった。そのゾッドが、屋敷のなかで剣を抜く理由を、僕はたったひとつしか思い浮かべることができない。――きっと、相手がジュノ様を侮辱するようなことを言ったのである。ゾッドは、先を読んで聞こえないふりができるタイプの男ではなかった。やりきれなかった。

 ちょうどそのとき、回廊を大股に駆けてきた同僚のひとりが、息を弾ませながら、僕の腕を掴んだ。

「頼む、シュウも来てくれ。ゾッドたちが、ラスカー様の家来たちと睨みあっていて、いまにも乱闘になりそうなんだ」

「ハア? どこでだよ?」

「中庭だ。早く止めないと」

 僕は舌打ちをして、その同僚のあとを駆けた。とんでもないことになりそうで、憂鬱だった。というのも、戦地から戻ったガイナス様が危篤に陥られ、オールギュント様が分家してしまったいま、揉め事を一喝して仲裁できるようなひとがいなかった。もしかすると、ラスカー様の一派はそういう事情を見越して、くだらない挑発を仕掛けてきたのかもしれない。だとすれば厄介だった。意図は見え透いている。屋敷で狼藉を働いたジュノ様の小姓たちの罪を追及することを通して、その父や兄まで処罰しようとしているのだろう。ジュノ様の小姓の多くは、クロウザントの重臣の、次男坊や三男坊である。父や兄にあたる重臣の幾人かは、あの篭城戦で英雄的な活躍をしたジュノ様を後継に推したいと考えているようだった。そういえば――ゾッドの父親はジュノ様をつよく推している有力な重臣である。ラスカー様の一派は、ガイナス様とオールギュント様が健在であったあいだ、手出しできなかったのを、いよいよ満を持して動きはじめた、ということなのかもしれない。

 夕暮れどきの中庭には、鼻の奥につき刺さるようなアドレナリンのツンとした匂いが充満していた。誰もかれもが、怒号をあげ、いまにも剣を抜かんばかりの勢いだった。僕は同僚といっしょに身を挺して連中をなだめながら、両派の言い合いを聞いているうちに、事情がだいぶ飲み込めてきた。――ラスカー様の側近を務める騎士が、すれ違いざま、ゾッドに何やら囁いた。ゾッドは火がついたように顔を真っ赤にして、その言葉ジュノ様への侮辱と受け取るぞ、と掴みかかった。騎士は、にやにやするだけだった。それでゾッドは腰のものを抜いて有無を言わさず一太刀浴びせた。騎士は上腕の筋を断たれて、恐慌を起こし、侮辱したつもりはないと、ゾッドに泣きついた。それでゾッドは剣をおさめ、騎士は手当てのために運ばれていった。それからラスカー様の側近たちが騒ぎを聞きつけて集まってきた。ジュノ様の小姓たちも、ゾッドを援護するために集結した。そうして睨みあいが始まった。ゾッドは確かにジュノ様が侮辱されるのを耳にしたと訴える。むこうは、そんなことは言っていない筈だと主張する。――こういう主旨の押し問答であるようだ。

 総じて言えば、僕らの仲間――ジュノ様の配下のほうが、熱を帯びている雰囲気があった。というのも、誰もはっきりとは言わないだけで、毒を盛った新参の料理人の背後にだれがいたのかについて、一致した見解を持っていたからだ。ただ、証拠がないからうっかり口に出来なかった。けれども頭に血を昇らせたゾッドは、それをはっきりと言った。おまえたちの主君は妹の毒殺を試みるような卑劣漢だ、恥を知れと。ゾッドはばかな男である。この一言が取り返しのつかないもの、命取りになるものであることに、まったく頓着していない。黙れ、このおたんこなす、と僕は怒鳴った。けれどもゾッドは僕に冷やかな視線を返しただけだった。

 僕はヒートアップする男たちを懸命に押し戻しながら、頭を抱えこみたい気分だった。ゾッドがそこまで言ったからには、むこうも主君が侮辱された訳だから、もう引っ込みがつかない。ジュノ様を侮辱した相手を斬りつけたゾッドには一分が立ったけれど、ラスカー様に対する証拠のない告発は単なる暴言に過ぎず、ゾッドは正当性を失ってしまった。斬られても文句が言えないのは、いまやゾッドのほうだった。場が、一触即発という表現のもっとも端的に表現しうる状況に、いよいよなったとき、突如として雷鳴のような怒号が降ってきた。すると、男たちは一瞬にして、静まりかえった。ジュノ様である。ロング・スカートの裾をふわりとさせて回廊の手摺をかるく飛び越え、中庭へと降り立つと、揉みあう男たちの間に割って入った。そうして、

「貴様ら、ここをどこだと思っている! つけあがるのもいい加減にしろ!」

「しかし……」と、苦しそうに言上したのはゾッドである。「奴らが、奴らが喧嘩を売ってきたのです」

「黙れ」ジュノ様は一喝して、「貴様、兄上が私を毒殺しようとした、などと、よくも抜かしたな?」

「ジュノ様、そうに決まっております!」

「証拠でもあるのか」

「………!」

 ゾッドは一転、顔面蒼白になった。僕は見ていられず、じっと足下の芝生に視線を留めた。

「ないのだな。いや、あるはずがない」

 ゾッドの唾を飲む音が、聞こえてくるようだった。かれはなにも答えなかった。

「屋敷のなかで狼藉を働いたうえ、兄上を根拠もなく侮辱するとは、なんたることだ。よくも私の顔に泥を塗ってくれたな。……ゾッド、臣下としてけじめをつけよ」

 ジュノ様の靴音が、芝のうえを毅然と渡っていく。僕は、辺りを依然として覆う、重苦しい沈黙に耐え切れなくなり、顔をあげた。ちょうどそのとき、ゾッドが獣のように鋭く唸って、剣を抜き、柄を地につけた。そうして切先を喉元にあてると、固く目を閉じ、弾みをつけて上体を倒した。すると、刃が肉を裂く、なんともいえない壮絶な音が、男たちの固唾を飲んで見守るなかに拡散した。数秒ののち、ゾッドが自らつくった血だまりのなかに横倒れになると、ジュノ様はしゃがみ込んで、ブラウスが汚れるのも厭わず、かれの頭を抱きかかえた。僕の眼には、このときジュノ様の唇が、

(許せ……)と動いたように見えた。

 ゾッドの自決を目の当たりにして、頭を冷やされた男たちは、押し黙ったまま、三々五々と中庭を離れていった。気付けば、秋の虫たちが、粛々と鳴声を夜風に乗せている。

 ジュノ様はゾッドの瞼を下ろすと、スカートについた鮮血や芝をそのままにして立ちあがり、

「これから兄上に謝罪しなければ……」と、生気の抜けたような声で言った。「シュウ、供をしてくれないか」

「承知しました」

 ジュノ様は、ゆっくりと階段を踏んで回廊にあがり、部屋にいったん戻って血で汚れたブラウスとスカートを換えられ、それからラスカー様のいる本館を目指された。僕はそのすこしあとに続いた。いつもは昂然として歩くジュノ様が、このときばかりは、肩を落としていた。

 この晩、ラスカー様のもとには来客があった。ヒースリンクという中年の子爵である。戦争推進派の頭目とされるダイエル公の派閥に列なる、新興の貴族であった。もともとは北部で樵をしていたが、材木の先物取引で莫大な財を成し、ダイエル公の経済的な顧問を務めるうちに才覚を認められ、公の推薦を得て国王陛下から叙任を受けたのだという。こういう成金によくあることだが、出自の卑しさを蔽おうとするかのように、贅を凝らした貴金属や宝石の類いを、頚や腕にたくさんぶら下げていた。かれの度を越した肥満体を隠すのに、王都で仕立てさせたとひと目でわかる極上の生地のスーツは、少しも役に立っていなかった。このからだつきでは馬に乗ることすらできないだろう。伝聞では、領民は保護するためではなく搾取するために存在していると信じて疑わないような人柄らしい。言うなれば、ジュノ様が軽蔑する典型のような男だった。

 ジュノ様がラスカー様の応接の間に通されたとき、このヒースリンク子爵は脂で潤んだような眼で、ジュノ様をじろじろと見た。まるで、田舎から出てきた親父が街の娼婦を値踏みするような、下品な目付きだった。それでもジュノ様はこの成金に丁寧な歓迎の挨拶をされ、それからラスカー様にむかって、

「申し訳ありません。私の教育が行き届かないばかりに、臣下たちが兄上にとんでもない無礼を……」

 なにを水くさい、私とおまえは兄妹ではないか、と鷹揚に云うラスカー様は、たしかこの年、二十八歳だった。いったい誰に似られたのか、極端にしゃくれた顎の先がざっくりと二つに割れ、それに加え、額から奥まった三白眼と押しつぶしたような鷲鼻とのせいで、一度見たら決して忘れられないようなお顔のつくりになっていた。ハリウッドの海賊役にこれほど適したのはいないだろうというくらいだ。一方、身体つきはクロウザントに相応しく、がっしりとしていて敏捷そうだった。オペラ歌手のような純白のシャツを着、濃い目の体毛を気にせずボタンをみぞおちの辺りまではだけ、そうして胸ポケットから真紅のハンカチーフを提げるという、なかなか結構なユーモアのセンスをお持ちだった。――あの服装は冗談のつもりに決まっている。

「せっかくヒースリンク殿も居られることだし、どうだ、同席せんか」ラスカー様はそう言って、ジュノ様と肥満体を引き合わせた。ジュノ様は一瞬、迷惑そうな顔をしたけれど、

「では、お言葉に甘えて……」

 と、席に着かれた。

 僕はひそかに、生きた心地がしなかった。さすがに、このしゃくれ野郎――いや、兄君といえども、来客のまえでジュノ様を毒殺しようとは考えないだろうが、万が一、ということもある。僕は、メイドが紅茶のカップを運んできて、ポットから琥珀色のものを注ぎ終えると、えい、と意を決して、

「これはかたじけなく存じます! さっきからひどく咽喉が渇いていて、いやはや!」

 ジュノ様のまえから取り上げ、ごくごくと飲んだ。そうして、かたく目をつむった。

「おい、シュウ!」と、ジュノ様は僕をしかりつけた。「これは私に淹れてくれたものだぞ! ああ、兄上、ヒースリンク子爵、見苦しいところをお見せしてしまって……」

 大げさな笑い声を立てて、かまわんさ、と仰ったラスカー様の眼は、けれども、けっして笑っていなかった。僕がなぜこんな芝居をうったのか、瞬間的に理解したのだろう。

「おい、この粗忽者にも紅茶を馳走してやれい」

 ラスカー様が、メイドにそう言いつけたことで、僕の粗相を装った演技はなんとか落着した。僕は、ホッと胸を撫で下ろしたが、それも束の間、ラスカー様は雑談が一段落すると、急にこんなことを言い出した。

「ジュノ、私とおまえは兄妹の間柄である。この絆に楔を打ち込めるものは、どこにもおらん。だが、私の臣下たちと、おまえの臣下たちの間となると、そういう訳にもいかぬようだ。悲しいことだが、これはこれとして直視せねばならぬ。まして、いまは兄上が分家され、父上が今日、明日をも知れぬ容体であり、転じて王国を見渡せば、アザド帝国との戦局が、決して思わしいと言えないまま、推移している」

 つまり、このしゃくれは何が言いたい? 僕は警戒して目を細めた。ジュノ様も、なんとなく要領を得ない様子で、はあ、と仰っている。

「こういうときに、クロウザントが内紛を起こすなど、あってはならない。分かるな、ジュノ?」

「重々、承知しております」

「ところで、ジュノは幾つになった」

「十七です、兄上」

「そうか――」と、しゃくれはヒースリンクとさりげなく視線を交錯させて、唇の端にへんな笑みを浮べた。「適齢といってよい頃だな」

「つまり……」

「わからんか。そろそろ結婚を考えてもよかろうと言っているのだ。……そこでだが、こちらのヒースリンク子爵など、どうかね。ダイエル公の覚えもめでたい、有望な人物だよ」

 ジュノ様は、ほんの僅かの間だけ、けれど確かに、この世の終わりとでも云うような、悲しい顔をされた。そうして、ジュノ様がなにを考えているのか、僕は直観して、ぐっと拳を固くした。――結婚を承諾すれば、後継の候補から外れることになる。そうなれば、身のまわりから死人を出したりせずに済む。……

 僕は、いけないと思って、とにかく会話に割り込んだ。

「そのようなことは、即答いたしかねます。――そうですよね、ジュノ様。ですから、お話はいったん預からせていただいて……」

 ヒースリンクが、お預けを食った豚を連想させる、もの凄い眼で僕を睨んだ。美貌と高貴な血統を併せもつ令嬢をせっかくものにしつつあるのに、下賎の貴様ごときが邪魔してくれるな、とばかりに。

 その傍で、しゃくれ野郎ははっきりと不機嫌を顔に現わし、

「貴様には聞いておらん。だいたい、なんだおまえは。でしゃばるのもいい加減にしろ」

 ジュノ様は、僕をそっと見上げ、そうして穏やかに首を振った。(もういい……)という優しい声が聞こえてくるようだった。

 それからジュノ様は、小一時間ほどしゃくれ野郎たちと形ばかりの歓談をやって、場を辞された。僕はジュノ様について静まりかえった屋敷の回廊を歩きながら、なんと声をかけて励ませばいいのか、見当がつかなかった。お部屋の前まで見送って、おやすみなさいを申し上げたとき、ジュノ様は僕の手首をつかんで、

「すこし、話し相手をしてくれないか」と仰り、部屋に引き入れた。

 そうして、扉が僕のうしろでパタンと閉まった途端、ジュノ様はまるで子供の頃に戻られたかのように、抱きついてきた。

「シュウ、聞いてくれ……私はゾッドを憎らしく思ったことなど一度としてなかった……辛かったんだ……ほんとうに……」

 声も背中も、震えていた。

「承知しております。ゾッドはばかなヤツです。けれど、泣き言をいうような男でもありません。言いたい事を言えて、本望だったでしょう」

「もう、こんなのたくさんだ……シュウまで死んでしまったら、私はどうしたらいい……頼むから、あんなことはもう二度としないと誓ってくれ……」

 ジュノ様は、僕が紅茶を取りあげて飲み干したことを、仰っているのだろう。

「約束します。もう致しません。だから、どうか安心してください」

 家来としての方便である。僕は僕で、ジュノ様のためになると信じることをやり続ける。

 ジュノ様は、いまや判然と嗚咽されて、

「やっぱり嫌だ……あんな男と結婚なんかしたくない。私はずっと心に決めていたんだ。伴侶にするなら、優しくて、気高くて、家族みたいに気心の知れたひとがいいと。……たとえば、アルトンとか……」そのとき、僕の首にまわったジュノ様の腕が、きゅうにつよく僕を締めつけた。そうしてぴったりと合わさったかの女の頬は、涙と体温で熱くなっていた。「おまえとか、だ……」

「ジュノ様……」

「どこか、遠くへ行ってしまいたい。ジュノ・ヒュエル・ディ・クロウザントの名前を知る者がひとりもいない場所へ。――そうだ、シュウ。私をおまえの世界に連れて帰ってくれ。こんどは私がおまえのメイドを務める。掃除もするし、朝ごはんも作ってやる。なあ、私を家に置いてくれるだろう?」

「ジュノ様なら、そんなことをしなくても、きれいな服を着て颯爽と歩いたり、写真を撮られたりするだけで、じゅうぶんにやっていけるでしょう」

「さてはおまえ、私にメイドなんか務まる訳がないと思っているな?」

「まあ、それもあります」

 ジュノ様は僕から少し離れて、微笑みながら涙を拭った。

「ありがとう。少し落ち着いた」

「しかし、ジュノ様。真面目な話ですが、あんな男の妻になることはありません。いっそ、今宵のうちに屋敷をお出になっては……」

「それは出来ない。私が失踪すれば、誰かがその責を負わされることになる」

「しかし……!」

「頼む、やめてくれ。もういいんだ」そうしてジュノ様は、華奢な背中を僕にむけて、「おやすみ、シュウ」

 僕は、黙ってジュノ様の前から下がるしかなかった。けれども、幼少のころより、十年にわたってお仕えしてきたお方が、軽蔑してやまない男のもとに嫁いでいかなければならないというのは、ご本人はもちろんだが、僕にとっても耐えがたいことだった。夜更けになって、事情を聞きつけて僕の私室へ揃ってやってきたアルトンとベネッタに、ことの顛末を説明しながら、僕はみじめで仕方なかった。アルトンは天井を仰いで、「ああ……」と言ったきりだった。ベネッタは女性であるだけに、もっと敏感だった。ランタンのひかりに翠の瞳をきらきらさせて、「こんなことってない……」と、何度も呟いた。ベネッタにとって、ジュノ様は娘や孫のようなものなのだ。八十年ちかく生きていれば、かの女にも恋仲になった男の一人や二人いたに違いない。けれどもかの女は普通の女性ではなかった。密偵スカウトという過酷な生業を背負っていた。本人は話そうとしないが、小説的な逸話なら、いくらでもあったろう。ないと想像するほうがおかしい。それだけに、ベネッタには、自分が叶わなかったぶん、せめてジュノ様には――そんな思いがあったんじゃないかと、僕はなんとなく推測している。

 ベネッタは、ランタンの火影から逃れるように、白く愛らしい顔をすこし俯かせ、「大丈夫、あたしは平気だから」と云った。そうして僕は、かの女が、とくに相手に拒絶さえされなければ、ひとの心を読み取ることができる、という事実を思い起こした。

 それから僕たちは善後策を話し合ったが、所詮、自分たちにできることには限りがある、これからも精一杯ジュノ様を支えていこう、という以上の結論にはならなかった。帰り際、アルトンはスッと僕の肩に手を伸ばして、

「これ、貰っていってもいいかな」

 ランタンを持ち上げ、目を細めてみると、それはジュノ様の髪の毛だった。多分、抱き合ったときに付いたものだろう。僕はアルトンをひどく裏切ってしまったような気がして、口をまごつかせた。

 けれどもアルトンのほうは、どうして僕の肩にジュノ様の髪がついているのか少しも訝る様子もなく、

「僕が頼んだとおり、ジュノ様を慰めてくれたんだな」と、むしろ嬉しそうだった。「ありがとう、シュウ」

 僕はアルトンのお蔭で、やましく思うことなんかなかったのだと、すこしばかりの慰めを胸の裡に置くことができたのだった。そうして、アルトンとの友情が一生続くよう願いながら、ベッドに這入った。

 生憎、結婚の話は、僕たちを嘲笑うかのように、とんとん拍子で進んでいった。これは、当事者たちの思惑を考えれば当然の成行きだったのかもしれない。ラスカー様はクロウザント家を相続するうえで強力なライバルを脱落させることができるのみならず、ヒースリンク子爵と血縁関係になることで、ダイエル公の派閥における地歩を固められる。ジュノ様も、一刻もはやく結婚を成立させることで、自身を後継に推そうとする内外の声を沈静化させ、クロウザント家のなかに漂う不穏な空気を一掃し、家来や使用人たちを無用のいざこざから距てることができる。そして、ヒースリンクの頭のなかは言うまでもなく、血筋への劣等感をようやく払拭できるという暗い喜びと、新婚生活の甘ったるい妄想で充満していることだろう。こうして利害を一致させた三者は、根強い反対の声から逃げ切ろうとするかのように、拙速のスケジュールを組んでいったのである。

 仲人を買って出たダイエル公の周旋により、結婚式は王宮ちかくの大聖堂で執り行われることと決まった。花嫁行列が王都を目指してクロウザントの屋敷を発ったのは、冬枯れの梢が薄曇りの空を掴もうとするかのようにそのほっそりとした指先をおおきく拡げる、めずらしく風のない朝のことだった。

 行列は、この上なくゆったりと進んだ。これは、結婚にまつわる取り決めのなかで、ジュノ様が唯一譲らなかった我侭だった。ジュノ様にとって、ヒースリンク子爵との結婚は、人生を棄てるに等しい意味をもつのである。余命を宣告されたひとがささやかな贅沢を楽しむように、ジュノ様もこの作為の長旅を堪能されるつもりなのだ。そう考えると、僕は大空にむかって叫びたくなった。ジュノ様は贅を凝らした馬車にひとり乗っておられる。そこから、冬の山野を眺めて、さまざまなことに思いを馳せているのだろう。僕はそのすこし先を、馬に跨って進んでいた。近郷の領民たちが、道端に出てきて、思い思いに祝辞を投げかけると、ジュノ様は嬉しそうに手を振って返された。僕だって、領民に悪気があってのことではないと分かっている。いるけれど、――このバカ愚民どもが。と、内心で悪態をつかずにはいられなかった。もちろん言うまでもなく、この文句は重言だ。語学的な見地からすれば、直したほうがいい。けれどもほんとうにそう思ったのだから、僕としてはそのまま記すほかにない。

 このやり場のない苛立ちは、従者たちが密かに共有するものだったから、あるじであるジュノ様がいかにも幸せな結婚を控えているという風に振る舞うまわりで、僕たちはこれから絶望的な戦場に向かうのだとでもいうような、殺伐とした気配を醸し出していた。農民たちから見たら、さぞ奇妙な一行だったろう。おめでたい行列なのに、どうしてクロウザントの家中の方々はあんなに肩をいからせているのだろうと訝ったに違いない。道端の領民は、だいたいのところ、そういう顔つきをしていた。あるいは、ぬかりなくお姫様の護衛に精を出して、ご苦労なことだとでも考えたかもしれない。けれども、僕たち自身はあまり保安上の懸念をもっていなかった。街道沿いの諸侯の領地はむろんのこと、王国の直轄領においても治安はそれなりに保たれていたし、ジュノ様がクロウザント家の後継問題から距離をとったことで、しゃくれ一派から狙われる心配もないはずだった。だから僕たちのいくらか不健全な活力ははけ口をもたず空転しがちだった。せいぜい、魔物が馬車のいく手に現われようものなら、血祭りにあげてやる、と意気込むくらいである。――こうしたことをもっと簡潔に言うと、僕たちは要するに、始終気が立っていた。だから、旅芸人ふうの若い男が行列に近づいてきたとき、前方をゆく同僚たちは、有無を言わさずかれを地にねじ伏せて、縄でぐるぐるに縛ってしまった。その男が、直接ジュノ様にお目通りしたい、それが叶わないならば随員のシュウ殿に、と言いだした。報告を受けた僕は念のため、花嫁行列から外れ、街道沿いのビストロに小さな部屋を借り、その男を尋問することにした。ちょっとおかしいだけのヤツなのかもしれないし、放り出しても構わなかったのだが、ジュノ様のことはともかく僕の名前まで知っているというのが妙で、なんとなく、ただならぬものを感じたのである。

 ジャグリングの道具を奪われ、両腕をうしろに縛られたこの男は、部屋に入った僕を見るなり、

「お人払いを……」と云った。その言い方で、僕はこの男を軽々に扱ってはいけないと直観した。この世界にも訛りというものがあるのだけれど、かれは旅芸人らしい市井の俗っぽい訛りをしていなかった。むしろ、宮仕えのひとや貴族に多い、正確な発音の、都会的な抑揚をつける喋り方だったのだ。僕はかれの求めるとおり、歩卒たちに外してもらい、縄を解いてあげた。

 すると、男は堰を切ったように喋り始めた。

「私はオールギュント様に仕える者でございます。本来ならばあるじの書状を携えて参上すべきところを、そうすることが叶いませんでした。万が一、私が敵に捕まったときのことを、あるじは恐れたのです。従って、私がこれからお伝えすることの真偽についてのご判断は、シュウ殿に全面的に委ねるほかありません」

 さて、ややこしいことになった――けれども僕はその思いが顔に出ないよう注意して、椅子に腰をおろした。とにかく狭い部屋で、かれと僕の膝頭はいまにも摩りあいそうだった。

「とりあえず、伺いましょう」

「よくお聞き下さい。――ジュノ様はすみやかに馬車を降り、従者に混じって、馬で行かれたほうがよい。かわりに影武者を立てて馬車に乗せられるとよいでしょう。それが難しいようであれば、せめて、道を変えねばなりません」

 かれが示唆しているところは明確だった。僕だってバカじゃない。けれども、そのさらに裏の可能性を考えると、すぐに飛びついてジュノ様に取り次ぐ、という訳にもいかなかった。その可能性とはすなわち、こいつこそジュノ様の暗殺を目論む連中のまわしものではないかということである。こいつの尻尾を掴むか、でなければ信頼できるという確証を得なければならない。それも至急に。かるく頭痛がしてきた。

「しかし、よく僕の名前をご存知でしたね」

「わが君――オールギュント様は、シュウ殿のことを高く評価されていました。お歳のわりに冷静で分別があり、献身的で、そのうえ勇敢であると。シュウ殿が傍にいる限り、ジュノ様は安心だとも仰っていましたよ」

 これは甘言というヤツだ。僕は胡乱の眼つきでこの男を見た。――男は意外にも、落ち着き払っていた。

「オールギュント様は、またこうも仰っておりました。『シュウ殿は必ずおまえと会ってくれるだろうが、決して話を鵜呑みにすまい。だからこう言って説得するのだ。――ジュノをあの樵あがりの豚に嫁がせたくないのなら、これが最後のチャンスである。意味がおわかりかな。よく考えてみなさい、ジュノのあの個性で豚のもとに嫁いだりしたら、一生を尋常ならざる苦悶のうちに過さねばならぬ。ジュノは、自分で思っているほど従順でも我慢強くもないのだ。それはシュウ殿もよく承知しているはず。さて、あなたはジュノを地獄のような目に遇わせたいかな』――とまあ、このような次第でございます」

 この言葉は僕の胸を容赦なく抉った。そうして、恐らくこの論を構築したひとの思惑どおり、僕は「意味がおわかりかな」の思わせぶりな一節に釘付けにされた。

「要するに、オールギュント様はなにを仰りたいのですか」

「ジュノ様が自らを死んだと見せかけて姿を晦したら……いかがでしょうな? つまり、敵の暗殺の試みを、逆手に取るのです。もし、シュウ殿がそういうお考えになって下さったなら、我々は全面的に協力させて頂きますが……」

「しかし……どうしてラスカー様が今更」

 ここまで言って、僕は失言に気付いてゾッとなった。なんでラスカーの名前が出てくるんだと、この男に意地悪をされたら、しどろもどろになってしまったかもしれない。けれども男は、構わないという風に首を振って、

「なぜラスカー様が、後継問題から離れられたジュノ様を暗殺しようとするのか、ということですが……恐らく、考えが変わったのでしょうな。自分が暗殺に手を染めたように、ジュノ様のほうも卑怯な手段に訴えるのではないか、そうなったらどうする、とね。昔から、下衆は他人も自分とおなじような下衆であると考えたがるものです」

 僕は採光の窓をうめる、冬の厚い雲を見上げて、当座の考えを整理すると、

「……お話は、預からせて頂いても構いませんか」

 用心深く言って、会談を切り上げた。そうしてビストロを出て、バーに繋いでおいた馬に跨ったが、心のうちでは、あの男が信頼できるかどうかについて、はっきりと、心の針をひとつの答えに傾かせていた。もしあの男が僕たちを騙そうとしているなら、いきなり「自分の身分を証拠立てるものがない」などとは言わない筈である。道を変更すべきと意見したが、具体的にどこどこへ変えろ、ということは口にしなかったし、変更したら自分に知らせろとも求めなかった。だが、証拠がないのには変わりがない。僕はかれが真実を言っているという前提に基づいた行動をとる訳にはいかなかった。

 行列はだいぶ先まで行ってしまったようだった。僕は鞭をいれて、耳が裂けるような寒風のなかを駆けたが、やがて風のなかに、つんとする焦臭い匂いが、ほんの微かにだけれど、混じっているのに気付いた。風上で野焼きでもやっているのかと、たいして気に留めずに馬を走らせているうち、パアンと、爆竹の破裂するような音が、たて続けに聞こえてきた。街道のすぐ右手には見通しのわるい雑木林があって、その背は急斜面の山肌になっていた。そのむこう側から聞こえてきたように感じられた。ちょうど街道のカーブする先である。厭な予感がして、鞭をなんども激しくいれて先を急ぐと、次には馬の嘶きや人々の騒然とした声が、はっきりと聞こえてきた。――行列はパニックに陥っていた。

 騎馬の従者たちは馬車を囲むように密集し、みずからを盾としている。そうして歩卒が剣を抜いて次々と雑木林に雪崩れ込んでいく。僕の鼻腔には、いまやはっきりと黒色火薬の焼ける匂いが流れこんでいた。馬車に近づくにつれ、硝子窓が無惨に撃ち破られて、車体にも無数の穴が穿たれているのに気付いた。雑木林と反対側の扉はだらしなくぶらぶらとしていて、馬を下りて駆け寄ると、従者たちに囲まれて頭を低くしているジュノ様のすがたが見えた。

「ご無事ですか!?」

「ああ……怪我ひとつない」ジュノ様は安堵したというよりは、釈然としない様子で、胸部や腹部に無数にあいたドレスの小さな穴を見おろした。「確かに、弾が突き抜けたように思ったのだが……」

 その穴の縁ははっきりと黒っぽく焦げていて、もしこれが銃弾によるものだとすれば、ジュノ様が平然としているのはたしかに奇妙だった。

「とにかく、よかった――」僕は立ち上がりながら、さっきの旅芸人風の男のことを思いだしていた。あの男はやはり真実を話していた。そうして、周囲に次々と視線を飛ばした。鉄砲をつかって暗殺を企てた連中は、とうに逃亡してしまったようだ。聞こえてくるのは、歩卒たちの威勢のいい掛声ばかりだった。とりあえず一段落したか、さて、さっきの男と繋ぎをつけて、じっくり相談しなければならない、などと考えているうちに、行列の先のほうから、鋭い声があがった。どうも、ベネッタのものである。普段の少女然とした声が、硝子を引っ掻いたような酷いさまになっていた。いそいで馬に跨ると、そのうしろに、ジュノ様が飛乗り、

「シュウ、はやく出せ」

 腕が腹にしっかり回るのを確かめて、僕は馬を駆った。

 人だかりを見つけて、馬から降り、ジュノ様といっしょにひとをかき分けて真ん中を目指した。そうして、ベネッタに抱きかかえられて、唇を真っ蒼にしたアルトンを見出したのである。かれのローブは鮮血をたっぷり吸って、絞ればドボドボと滴り落ちそうなほどだった。そのとき雲の切れ目からさす弱々しい冬の陽光が、アルトンの首から下がったガラス質のものにちろりと反射して、光沢を放った。

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