三
鏡に映る僕のすがたは少しも変わらない。時間の侵食をうけない僕の身体はいつまでも十四歳のままだ。けれども僕のまわりでは時間の流れがありとあらゆるものを変化させていた。のどかで古ぼけた絵画的な風景のなか、素朴で柔和な調和を保っていた僕たちの世界は、少しずつワニの放つなまぐさい匂いを漂わせはじめていた。こうなると僕は逃げ出したくてたまらなくなる。胸を焦がすような郷愁にいたたまれなくなる。元いた世界が必ずしも良かった訳ではなかったけれど、それでも素敵なものに満ちあふれていた。千変万化の旋律を乗せたビートの強い音楽、人間の奔放な想像力から産み落とされたアニメーション、美しくて現代的な街、それから舌のうえで蕩けてしまうアイスクリーム、日本的な透明感のうちに寿がれる正月、世界じゅうのあらゆる戦争を止めてしまいそうなほどに優しい高揚感を連れてきてくれるクリスマス、夏の夜空いっぱいに弾ける花火――これらはすべて、こっちの世界にいては絶対に味わうことのできないものだった。絶対……僕はこの言葉の重みを郷愁によって教えられた。思い知らされた。
強すぎる愁いはひとを無感動にする。あるいは、強いられたせいではなく、手を伸ばしても届かないものを意識から追い払うために、心のどこかで望んでそうなるのかもしれない。こういうとき、感受性は痛みしかもたらさないから、ひとはまわりのことに鈍感にならざるを得ない。あれから僕はだれともあまり話をせず、屋敷に古くから棲みついている亡霊のようになって過した。ベネッタはただ一人の話しをする相手だったけれど、かの女でさえ僕を呼び止めて、
「シュウから生命の輝きを感じない」と、憐れむように言った。それから少し目を細め、僕をじっと見て、「大人になりたくないのね。いつまでも少年でいたいのね。……シュウにはふるさとが必要なのに。かわいそう」
「中身はもう立派な大人のはずなんだけどなあ。情けないよ」
「法術の考えかたを、シュウは知ってる? 『神が間違いを犯すはずがない』という言葉、聞いたことあるよね。魔術師は法術師をばかにするとき、よくこの言葉を引く。けれども法術師たちはすこしも腹を立てたりしない。だって、ほんとうのことだと思っているから」
「ベネッタは?」
かの女はそれには応えず、
「あたし、運命が動きだす気配をなんとなく感じているの。あたしたちは辛い事かもしれないけれど、でもきっと理由と目的があってのことよ、『神が間違いを犯さない』としたら……」
だとしたら、紘子が飛び下りをしたのも、そんな紘子になにひとつしてやれなかったのも、ジュノ様の肩に忌々しい痣が出来てしまったのも、僕が屋敷のなかに居場所をなくしてしまったのも、すべて、間違いではなかったというのだろうか。ベネッタは僕を慰めるつもりで言ったのかもしれないけれど、僕の気分は重くなるばかりだった。
僕の顔色を見てか、ベネッタは、
「ごめんなさい、忘れて? ――実は、ジュノ様に頼まれてシュウを呼びに来たの。シュウはまわりの出来事に耳を塞ぐようにして過していたから、知らないかもしれないけれど……ううん、話はジュノ様に直接訊いて。部屋でお待ちよ」
「ありがとう、すぐ行くよ」僕はとりあえず応えた。
ベネッタの口ぶりからすると、なにか深刻な問題でも持ち上がった様子だったけれど、僕は、そうなんだ、としか思わなかった。憶測や想像をめぐらせる以前に、興味を持つことができなかった。ただ、運命に求められるものを黙って差し出そうという決心を、胸の奥でそっと確かめただけだった。
ノックをすると、構わない入ってこいということだったので、ドアを押し開いた。するとレースのカーテンが一斉に大きくたわんで、湿気を含んだ涼風が、傍をぬけていった。――外は晩夏の冷たい雨がふりしきっていた。
ジュノ様は麻のキャミにペティコートというラフな姿で、荷造りの手をとめて僕を振りかえり、
「こんな格好で済まないな」と云い、それからクシュンと可愛らしいくしゃみをした。なにか羽織ればいいのに構わず、「アル・ディ・クオールへ行くことになった。明日、発つ。シュウも随員に加わってくれないか」
僕はジュノ様の華奢な肩にはり付いている藍色の宿星になんとなく目をとめたまま、「分かりました」と答えた。そうして、アル・ディ・クオールの地名を素通りさせてしまったことに気付き、うんざりしてきた。
仮にこの世界にアンケートという概念があったとして、騎士や兵士の妻や母親たちに、「夫、もしくは息子にいちばん赴任して欲しくない場所はどこですか」の答えを集めてみたら、アル・ディ・クオールは断然の一位になるだろう。兵士が激化した戦況を見て、陣中から家族あてに遺書を書いて送ることはよくあるが、アル・ディ・クオールへの赴任が決まった兵士はそれを出征まえにやる。それぐらいの激戦区だ。この地域に展開しているフィオール王国軍第七軍団から第十一軍団の指揮を、半年前から執っておられるのが、ガイナス様だった。たしか、次男のラスカー様と三男のビルダット様も、幕僚として参加していらっしゃる。
まさかお兄様たちになにかあって、その代りにジュノ様が呼ばれたということだろうか。だとするとジュノ様は軍籍に入ることになる。
「そう渋い顔をするな」と、ジュノ様は苦笑いを浮かべ、「父上の体調がすぐれないというので、見舞いに行くだけだ。軍に関わったりはしない」
「えっ、ガイナス様が」
初耳だった。
「ひと月ほどまえ、陣中で倒れられたのだが、威光のある父上のことだから、影響を懸念した軍の意向で伏せられていたんだ。知らなかったのはシュウだけじゃないさ」
ジュノ様はそう言ってフォローしてくれたけれど、傍に仕える者としてはあるまじき疎漏と言わなければならなかった。僕はなんとなく疲れてしまい、視線を落とした。
「なに、大したことはない。ただ、父上が病床で、私に会いたいというようなことを漏らされたそうでな。それを兄上が手紙で報せてくださったんだ」
僕は、平然と荷造りを続けるジュノ様を、申し訳ない気持で見つめていた。すこし前までだったら、ジュノ様はガイナス様のことが心配でたまらず、ずっとそわそわされていたに違いない。そうして僕たちが前向きなことを話して聞かせたり、慰めたりする。ところがいまは、ジュノ様のほうが落ち着いていて、それのみか僕に気を使ってくれている。時間は確実に流れていた。
アル・ディ・クオールへは、汽車のあいだに半日蒸気船をつかって、正味三日ばかりの旅だった。戦地の見学の意味も込めて、主だった小姓や側近はすべて随行することになったから、ちょっとした団体旅行のような感じになった。僕は相変わらず気まずいままのアルトンと、それでも一緒の車室に過して、現地へ到着した。ガイナス様を見舞うのは翌日からということになり、その日はちかくの城塞に宿泊することになった。
城塞と訊いて、僕は近代風の、たとえば司馬遼太郎が描いたような旅順ふうの要塞を想像していた。電話や汽車、蒸気船をすでに発明しているこの世界の科学レベルを考えたら、それぐらいは進んでいるだろうと思われたのである。けれど、僕の眼前にそびえていたのは、なんとなく四つんばいになった巨人を連想させる、西洋風のずんぐりしたお城だった。あまりパッとしない。三階建てくらいの高さの、ボロボロになった城壁に囲まれ、幾つもの銃眼が等間隔に穿たれていた。城門をくぐってすぐのところに、車輪のついた大砲が並べられていたけれど、僕は似たようなのを、会津の資料館で見たように思った。とにかく、城塞の装備を一見して、頼りない気がしたのを覚えている。城内で、火縄を肩にかけた軽装の鉄砲部隊とすれちがったりしたけれど、総体では、鉄砲より弓やボウガンのほうをずっと多く見掛けた。案内に立ってくれた武官さんに尋ねてみたところでは、戦場の主役は依然ランスやハルベルトを携えた重装騎兵――つまり騎士で、火縄銃も大砲も、まだまだ脇役に過ぎないということだった。自身も騎士であるこの武官さんの願望も多少はあるだろうが、城の装備を見るかぎり、それなりに事実の裏づけがあるように感じられた。
その一方で、この世界独自の戦力もあった。それは「魔物」である。ここで魔物について説明しない訳にはいかないが、といって、学問的に論じるのはたいへん難しい。というのも、この世界の専門家たちでさえ、魔物というものをほとんど分かっていない。せいぜい、魔物の種の大雑把な分類と、その習性についての経験則を蓄えているくらいである。端的に言えば、(神話や伝承のうえではなく、科学的に)なぜ魔物がこの世界に存在しているのか、動物やひととの明確な違いはなにか、これらがいったいなにを目指しているのか、そもそもなにものであるのか、という問いにまったく答えられないでいる。だから、僕としても通念上の説明を並べてまにあわせるより他にない。ともかく、魔物はひとでも動物でもない姿をしている。ほかの生き物のすべてに極めて攻撃的である。知的水準はあまりたかくない。けれども希に狡猾な種類もある。海にも山にも、荒野にもいる。ただ、人里にはあまりいない。世が荒れると魔物が増える。泰平の時代には魔物の脅威が減じると言われている(けれどここ一千年ほど、大陸が平和であったためしはない。だから確かめようがないはずである)。ともあれ、この世界の軍隊は、魔物という得体の知れない攻撃的な生命体に、軍団の一翼を担わせるのである。もちろん、大人しく担わされるような魔物ではないから、魔法のちからを使ってコントロールすることになる。これをやるのが魔術師であり、禁忌の魔法体系である邪術を専門に扱うひとたち――邪術師である。もっともアルトンなどは魔物を忌み嫌っているから、術式は知っていても、よほどのことがなければ操ろうなどとは考えないだろう。アルトンに言わせると、「魔物を使役するなんていうのは、道理をわきまえない愚か者のやることだ」ということだった。かれの信念では、魔物はひとの精神の不均衡から生まれたもので、そのちからを使うということは、ひとのゆがんだ部分を肯定することに他ならないらしい。ただ、これに反する見解を持っている魔法の大家もいるようだから、僕には実際のところ、よく分からない。いずれにしても、魔物を操るというのはあまり品のよい、褒められた行為ではない、というのがこの世界の一般認識のようである。魔物を扱うのに秀でているのは魔術よりむしろ邪術であったが、この邪術というのは、法術師たちから異端とされた術式や、魔術師たちから心の均衡を著しく損なう可能性があって危険だと指摘された術式、あるいは未開の民があつかう粗野な術式など、渾沌と情念に力の基礎を置く危険な術を寄せあつめたもので、とうぜん魔法界のなかでその地位はたいへん低い、というかまともなものとして扱われていない。邪術師という言葉は、詐欺師や犯罪者とほとんどおなじ意味で使われている。それくらいだから、王国やアザド帝国によってたびたび邪術を禁じるお触れが出されたけれど、邪術は軍事力としてたしかに有用であったから、戦乱の歴史のなかでなし崩しになってしまった。また、未熟な者でも比較的おおきな力を扱えるため、民衆に根強い人気があった。年頃の女たちは夕闇にまぎれてこっそり邪術師の館を訪ね、惚れ薬を買い求める。商人は商売かたぎへ呪いをかけてくれと頼みにいく。けれども所詮は「邪」なる術であるから、相談者は望みが叶うかわりに幸せをひとつ持っていかれてしまうというようなことになりがちだった。とにかく、魔物をコントロールするのに長けた邪術とは、そういうものであるらしい。
額に邪術の呪符を貼られて大人しくなっている魔物が、城塞の地下にいると訊いて、僕は許可を貰って見にいくことにした。なにしろ、こっちの世界に来て、生きた魔物を見るのは初めてだった。部分の剥製ならある。クロウザントの屋敷に連れてこられたときに見たのがそうで、あれはガーゴイルの羽根であった。討ち取ったのは四代前のクロウザント候で、たいへんに狩りのお好きな方だったらしい。領内に魔物が出たと聞きつけては勇んで退治に行く。その御方の、水戸黄門さながらの勧善懲悪の逸話が、領内にはたくさん残っていた。けれども時代がくだってガイナス様の治世になると、クロウザントが代々魔物の掃討に力を入れてきたこともあって、領内にはほとんど出没することがなく、ごく希に被害があっても、退治は近郷の騎士たちの務めだった。それで僕はいちども魔物を目にする機会がなかったのである。
僕は気分転換に動物園でも散策しているような感覚で、案内の兵卒さんに続いて石の階段を降りてゆき、かがり火の火影の奥へ目を凝らした。子供の腕ほどもある頑丈な鉄格子のむこうに、謎めいた記号を散りばめた白い呪符がちらついている。近づいていくと、まるで古木の根を編んでつくったような巨躯が、ぼうっと闇から浮かび上がった。隆々とした筋肉が、苔の生した薄汚い肌のしたで、硬そうにしこっている。兵卒さんは松明を掲げて光がよく届くようにしながら、
「これが、トロルであります」と言った。
へえ、これがそうですか、などと答えながら、鉄格子の際まで近づいていき、この魔物を見上げたところで、僕は予期しないものを目に入れ、背筋に悪寒を走らせた。トロルがまどろむように閉じていた一つ眼をいきなり見開いて、僕を見おろしたのである。アッと声が漏れそうになった。
その眼が、凄まじかった。入念に研磨された大理石のように光沢する大きな眼球のまんなかに、鮮やかな緑と黄で構成された瞳がある。瞳孔の部分は濁ったような暗灰色である。血管が網のように巡っていて、赤黒い粘膜と棘のような睫がそれを縁取っている。かたちはまだしも、色がなんともグロテスクだった。けれどもほんとうにおぞましいのは、瞳が僕に感じさせる、トロルの「存在」のほうだった。目は口ほどに物を言う、という諺がある。ひとの眼には、いやひとに限らず生き物の眼には、所有者の精神や魂の様相を映し出さずにはおかないようなところがある。飼い犬の目には順良で勇敢な、そしていくらか卑屈な性質が表れているし、猫の目には総じて無邪気で我侭な感じが滲み出ている。ひとの眼に至ってはいわずもがな、である。けれどもどうしてそんな風に感じるのか、説明するのが難しい。おなじ理由で、僕はトロルの瞳から感じ取った得体の知れない不気味なものを、うまく言い表すことができない。ただ、尋常でないのが分かる。こいつらとは未来を共有できないとはっきり分かる。その深刻さが、危機感が、じりじりと胸にせまってくる。僕はこの瞳に激しい怒りを覚えた。それは、たとえばどこかの若い母親が子供を虐待死させたとか、僕と同い年くらいの子がイジメを苦にして自殺したとか、そういうやりきれないニュースに接したときに僕のうちに湧く悲しい怒りである。それから、恐怖を催した。僕の大切なものをコイツが壊そうとしていると云うような直観からくる、胸のつまる恐怖を、である。
慄然として立ちすくんでいると、背後から声をかけられた。
「これでわかったろう? 魔物とは絶対の悪なんだ。ひとのあつまりであるアザド帝国とは根本的にちがう。敵国を打倒するために魔物の力を借りるなどというのは、本末転倒の極みだよ。狂気の沙汰だ」
振り返ると、いつのまにか、アルトンが嶮しい目つきでトロルを見上げていた。
「ああ……そうかもしれないね」
「アル・ディ・クオールには魔物が多い。なぜか知っているかい?」
僕は首をふった。アルトンは黒いフードつきのローブのせいで、闇に溶け込もうとしているように見えた。端整な横顔だけが、ぼうっと白く浮んでいる。松明のひかりの加減で、左耳のルビーのピアスがときおり強い輝きを放った。
「この辺りはまだいい。前線からいくらか離れているからね。けれども、すこし行けば阿鼻叫喚の地獄絵図が拡がっている。魔物どもは、兵士や被災民の、絶望の叫びに引き寄せられるんだよ。アル・ディ・クオールの平原を駆ける風は、一千年にわたって積もり積もった、ひとびとの負の思念の、厭な匂いがする。こんなに悲しい風はない。――戦争を続けていれば、いまにとんでもないことになる」
「分かるのか」
「夏の夕方にひんやりとした風が吹き、遠雷がうなれば、かならず激しいのが来るものだ。それとおなじ、自然のことだよ」
「………」
「ジュノ様の命令で前線の様子を見に行っていたベネッタが、さっき戻ってきた。雲行きが怪しいらしい。数日ここに逗留することになるかもしれない。少なくとも、明日、ガイナス様を見舞うのは難しそうな情勢だ。それを知らせようと思ってね」
アルトンはゆっくりと鉄格子の際まで歩いてくると、端然とトロルを睨みつけた。すると、巨木の幹を思わせるトロルの太い頸が、はっきりと竦んだ。アルトンの面貌には、不思議な威厳があった。まるで前世のアルトンの精神が灼熱のマグマになって、かれの青年然とした表層を割って現われたかのようだった。
「君と和解したい」と、アルトンは魔物を見上げたまま、言った。「けれども、それにはどうしても譲れない条件がある。君は僕のたいせつな感情を『ただ自分を押し付けたいだけじゃないのか』と決めつけてくれたね。謝ってくれとは言わない。けれど、撤回してほしい。なぜなら、そんなことは無理だって、僕は痛いほど分かっているから」そうして、まっすぐに僕を見た。
僕が視線を外し、「……撤回する。すまなかった」と答えると、
「これですべては水に流れた。もう過去のものだ」快活な声で、アルトンは宣言した。「さあ、戻ろう。こんな邪悪なものは、ひと目見れば充分だろう?」
並んで石の階段を上る途中、アルトンは不意に、
「もし、僕に万が一のことがあったら、ジュノ様のことを頼んでもいいかな」
僕は黙っていた。言葉の裏を探りあうような会話を、アルトンとはしたくなかったからだ。するとかれは微笑して、
「つまらないことを言った。忘れてくれ。――ところでシュウは、むこうの世界でどんな風に過していたのか、ほとんど話してくれないな。見聞録のようなことは教えてくれても、君自身のことは少しも語らない」
「おとぎ噺のような世界で、悪夢のような日々を過していた――それ以上に云うべきことがないからだよ」
「ほんとうは帰りたいんじゃないのか」
「まさか。懐かしく思うことはあっても、あんなところは御免だ」
「こっちとはなにが違う?」
僕は少し考えて、
「むこうには獰猛なワニがいる。こっちにもいるが、それとは比べ物にならないくらいすごい」
「鰐……あの鰐か」
僕はアルトンを見た。
「分かっているさ、比喩だろう。鰐は貪欲で凶暴な生き物だが――なるほど、なんとなく察しがついた。世知辛い世界らしいな。けれど、シュウはそういうところを苦にしないタイプかと思っていた」
「失敬な。僕は繊細な男なんだ」
「ならば、そういうことにしておこうか」
深刻なことを、明日の天気のことみたいにさらさらと話す――友達とはこうでなければと思う。僕とアルトンはあらゆる点で似ていなかったけれど、この価値観だけは共有していた。そして、僕とかれが友達であるには、それで充分だった。ジュノ様のことも、ホームシックのことも、戦争のことも、なにひとつ好転した訳ではないけれど、僕は不思議と心が軽くなっていた。
ところで、城塞をとりまく軍事的な状況は、はたしてアルトンが僕に話したとおりになった。翌日に計画されていた見舞いは、戦況が思わしくなく危険だという理由で延期になり、翌々日になっても、その次の日になっても、出発の許可が降りなかった。そうして城塞の空気は日毎に殺伐としていった。到着した日には冗談を交わして笑いあう歩哨や、カードで遊ぶ兵士のすがたをよく見かけたものだが、彼らはすこしずつ押し黙りがちになり、そのうちうっかりへらへらして城塞のなかを歩こうものならひんしゅくを買ってしまいそうな雰囲気になってきた。異変は、僕たちがここに来て四日目の晩に起こった。物見の塔の、警戒を呼びかける鐘が、深夜になって突如としてかき鳴らされた。宛がわれた部屋の、寝台のうえで毛布をはねのけた僕は、おなじように身を起こしたアルトンと顔を見合わせた。そうして、そろって城壁に駆け上がって、愕然とした。天の川のように松明を輝かせた黒い人海が、いちめんに拡がっている。杉林を挟んで緩やかな丘陵になっている右手のほうには無数の軍旗が風に揺れていた。軍旗の多くにはアザド帝国の紋章――赤いグリフォンが描かれていて、それが篝火の熱っぽいひかりを下から受けて、夜の濃い藍色のなかにぼうっと浮んでいる様は、なんとも恐ろしげだった。あの旗のもとに集っている万単位のひとたちは、僕たちを本気で殺害しようとしている――この素朴な戦争の実相を、アザドの軍旗が明確に象徴していたからだ。僕はゾッとした。多分、城塞にいるほとんどの兵士もおなじ想いだったろう。
それからの守備兵たちの昏迷ぶりといったら、僕にとっても他人ごとではないのに、哀れというより仕方のないものだった。まず、物見の兵はなにをしていたのだという話になった。夜陰に紛れて手際よく大軍を展開し、水も漏らさぬ包囲網を敷いたアザド軍こそ褒められるべきだったが、そんなことは一顧もされず、城塞が苦境に陥ったのはすべて物見の怠慢のせいだという論調が蔓延し、守備隊の上層部は物見の責任者を公開処刑せざるを得なくなった。それと前後して、噂の類いが飛び交いはじめた。内部に裏切り者があって井戸に毒が投げ込まれたようだとか、前線に展開している王国軍の主力が大敗し総大将のガイナス様は討ち取られてしまった、援軍がないのはそのためだとか、帝国軍は食料の備蓄がすくなく捕虜を受け入れる余地がないから我々を皆殺しにするだろうとかいうようなことが、まるで自分で自分を意気消沈させたいとばかりに、あらゆる天幕のしたで執拗に囁かれた。要するに、われらが王国軍は、敵の本格的な城攻めが始まるまえから、すでに敗北しつつあったのである。
敵の使役するトロルたちが、数体がかりで巨大な倒木を抱え、城壁の傷みの目立つところにむかって遮二無二つっこんでくるようになると、城塞のなかはほとんど恐慌状態になった。そうして逆上した一部の騎士たちが、打って出て血路をひらくと気炎を上げはじめ、これを押し留めようとする上層部と、同士討ちになる寸前まで緊張が高まった。野戦を主張する騎士の主だった者が拘束され、地下牢に繋がれたことで、事態はいったん落ち着いたかに見えたが、翌日、仲間の騎士たちが彼らをひそかに牢から連れだして、勝手に城門を開き、突撃を敢行してしまうという、最悪の事態になった。かれら百名ばかりの騎士たちが、内側から締め切られた城門のすぐ外で、次々と敵の弓矢や弾丸にうち抜かれ、また魔物のふりまわす棍棒に頭蓋を砕かれていく様は、僕たちも城壁のうえから息を飲んで眺めていた。城門のあたりでは、すぐに救援を出せという派と、うっかり城門を開いて敵に雪崩れ込まれたらたいへんだという派が押し合って、いまにも乱闘になりそうだった。ジュノ様は貴婦人然とした絹の赤地のドレス姿で、それらの戦闘やいざこざを見守っていたが、城壁のそとの最後の一兵が血祭りに上げられると、とつぜんロングスカートを裾から引き千切ってスリットを入れ、階段を駆け降りはじめた。
僕は慌てて追いすがり、「あの、どちらへ」と、尋ねた。
「……このままでは落城する」
ジュノ様は、もう見ていられないとばかりに低く呟いた。蒼い瞳がなにか熱いものを滾らせたように爛々としていて、あでやかな金髪や美貌と、ミステリアスな好対照を成していた。
突撃隊、全滅――その凶報が暗雲のように城塞を蔽い、悄然と立ち尽くす兵卒たちのなかを、ジュノ様はずんずんと歩いていき、中庭を突っ切り、大広間の階段をあがり、軍議の間の扉を蹴倒すような勢いで開いた。
守備隊の主将は、白銀の鎧をまとった禿頭の老人である。かれは苦りきった顔を地図からあげて、
「クロウザントのご令嬢か。ここは軍議の席ですぞ。退屈かもしれませんが、かくのごとくの事情ですから、我慢していただかないと……」
居並ぶ諸将のひとりから、失笑が漏れ、それが波紋のように拡がった。けれどもジュノ様は構わず、黒のレースの手袋と羽根のついた帽子を地図に叩きつけ、
「そんなものを睨んでいて、事態が打開できるとでも思っているのか!」と一喝された。僕は驚いて、押し留めようとしたけれど、ジュノ様が僕を鋭く睨んで、「構うな!」と言うから、動きが取れなくなった。
「ご令嬢、いくさのことは専門である我々にお任せくだされ。あまり我侭を言われると、父上がお困りになるのでは?」
そう茶化すような言葉を挟んだのは、主将の右手にいる、鎖帷子の男である。三十くらいだろうか。額がひろく、猜疑心の滲み出たような厭な眼つきをしている。
ジュノ様はつかつかと歩いていって、ついに鎖帷子の胸ぐらを掴みあげ、
「物見の責任者の首を刎ねさせたのは貴様か。野戦を主張する騎士たちを犯罪者でもあるかのように牢に繋いだのは貴様か」
男は、ジュノ様の思いのほかの膂力にギョっとしたような顔をしている。ジュノ様は男をつきとばすと、一座を睥睨した。
「流言飛語を取締らず、勇敢な者、落ち度のない者たちを処罰する……貴様らはいったいなにを考えている。この城塞を敵に明け渡したいのか」
「し、しかしですな……」
主将の老人が顔を歪める。が、続く言葉はない。ジュノ様に睨まれて恐怖を催したためか、指摘があまりに正しかったからなのか、――あるいはその両方だろう。
ジュノ様が力任せにテーブルをバァンとやると、居並ぶ立派な鎧の男たちが、まるで雷に怯える仔犬のようにブルッとなるのが分かった。
「この城塞が陥落すれば、アル・ディ・クオールに展開している王国軍は総崩れになる。もはや、貴様らの無能ぶりを看過できる状況ではない。守備隊の指揮は私が執る。いいな!」
「ま、待たれよ」
「いかにクロウザントの令嬢とはいえ、出すぎでありましょう」
歴々が相次いで異論を立てるが、論鋒は鈍いと言わざるを得なかった。かれらの面貌には一様に、季節はずれの汗が滲んでいた。ジュノ様はそれに畳み掛けるようにして、いきなりドレスの襟を千切って肩を露出させた。――そこにはジュノ様自身が忌み嫌っている、武神の宿星があった。
「……私を誰だと思っている」と、ジュノ様はぞっとするほど低い声で言った。「国難を幾度となく救ってきた英雄たちのしるしを受け継ぐ者だぞ」
ここに至って、歴々はぐうの音も出なくなった。こうして指揮権を強奪したジュノ様は、余勢を駆って城のバルコニーへと出ていき、
「聴け、おまえたち!」と、怒鳴られた。すると、依然、そのあたりで愕然としたままの騎士や兵卒たちが、腐る寸前の魚の、濁ったような眼を一様にあげた。
「ジュノ・ヒュエル・ディ・クロウザントである。たったいま、この城塞の指揮権を、守備隊長から譲り受けた。だが、残念ながらもう手遅れだ。おまえたちには二つの道しか残されていない。赤いグリフォンに立ちむかって死ぬか、立ちむかわずに死ぬかである。そこで私はおまえたちに命じる。前のめりに散る覚悟のあるものは、私に続いて死ね。突撃を敢行する。王国騎士の誇りをまだ胸に宿しているなら、ただちに準備にかかれ!」
そのとき、中庭につめかけていた騎士のひとりが、声をはりあげた。
「クロウザントのご令嬢といえば、武神の宿星をもつお方ではないか! ものども、吾々は助かるかもしれんぞ!」
これを皮切りに、地鳴りのような鬨が起こった。それを見おろすジュノ様の額にはなぜか青筋が立った。
「甘ったれるな!」
ジュノ様が叫ぶと、せっかくの鬨は水を浴びせられたように萎縮してしまった。
「危機にあって団結することもできず、陣中にありながら、井戸端につどう街の内儀のようにあることないことべちゃくちゃと喋って得意になっているようなおまえたちを、いったいどこの神が、加護してくれるというのか! 目を覚ませ、愚か者ども! 自らの運命は自らの手で切り開け!」
ジュノ様は言うだけ言うと、心持ちしょんぼりしてしまった守備兵たちを捨て置いてなかへ戻り、それから部屋にひきとって戦支度を始められた。
僕はジュノ様の腕にガントレットを被せながら、
「勝算は?」と、訊いてみた。ジュノ様は少し下唇を噛んでから、
「わからない……」と仰った。「ただ、アザド軍の本隊は、前線で王国軍の大軍と対峙している。別働隊を割いてこの城塞を十重二十重に包囲する兵力的な余裕などない筈なんだ」
「つまり、あの大軍は見せかけだと?」
ジュノ様はなんとも答えず、採光の窓から差しこむ午後の靄めいたひかりに目を細くされた。プレート・メイルの着用が概ね終わると、動きの具合を確かめながら、
「あわよく勝ったとしても、茨の道になる」と、溜息まじりに言って、肩のあたりをコツコツと叩き、「こいつを晒して大見得を切ってしまったからな。……巻き込んですまない、シュウ」
「戦いのまえに縁起でもない。やめてください。だいいちジュノ様らしくない。僕はあなたの性格が嫌いじゃないんです」
嶮しかったジュノ様の横顔が、ふっと柔らかくなった。「そうか――、それは光栄だ」
腰にロングソードを引っ掛け、部屋を出る寸前になって、ジュノ様は思い出したように立ち止まり、
「嫌いじゃないのは、性格だけか?」
「えっ……」
「私はここ数年、猫をかぶっていた。けれど、実を言うと、そんなにつらくはなかったんだ。奇麗に着飾る理由を見つけられたから。――これが最後になるかもしれない。だから、聞かせてほしい」
そう言ってジュノ様は、まっすぐに僕を見た。
「私が女性らしく身を飾るのは、滑稽だったか?」
「まさか。すごくお似合いでしたよ」
僕は、躊躇わずにはっきりと言った。溜飲のさがる思いだった。そんな風に感じる理由はすぐに気付いた。僕はあの日、浴衣姿の紘子に、似合っているよと伝えることができなかった。
「じゃあ、どうして笑ったりした」ジュノ様はとつぜん、僕に詰め寄った。「忘れたとは言わせないぞ。ほら、私がパーティーに出るようになった頃のことだ。暇人どもに囲まれて、必死に女性らしく振舞おうと頑張っているのに、ふと振り返ったら、シュウは腹を抱えていた。なんという奴だと思ったぞ」
「覚えていらしたのですか」
ジュノ様は真っ赤になって、「あたりまえだ」と云った。「悔しくて仕方なかった」
「それは、まあ、その、自由で無神経な、どうしようもない家来をもってしまったと思って、諦めていただくよりほかに……」
「そのふざけた申し開きは、どの口が云うんだ。この口か」
ジュノ様は僕の上唇をいきなりむんずと摘まんで、ぐいぐいとやった。僕が、ほんと千切れるからやめてくださいとへんな声で答えた、ちょうどそのとき、小姓のひとりが、随員すべての武装が完了したと、扉ごしに伝えてきた。ジュノ様はそれに「わかった」と答えて、
「シュウ、絶対に死ぬなよ」と、澄み切った目をした。
「ジュノ様こそ……」
答えると、ジュノ様のガントレットが伸びてきて、僕の黒髪をふわりと撫でた。
そうして僕たちは数秒のあいだ、見つめあった。あのときのジュノ様の、真に貴族的な目を、僕は生涯忘れることができないだろう。僕はもとの世界にいた頃、世界史の授業を受けながら、貴族なんていう血統だけに根拠を置くような存在が、よく民衆のうえに君臨していられたものだな、よほど昔のひとは従順だったのだろうか、なんてことを思わずにはいられなかったのだが、ジュノ様の瞳には、その疑問を粉砕してしまうような、はっきりとしたひとつの解答があった。いわゆる「ノブレスオブリージュ」――それをどこまでも背負っていこうという覚悟である。ジュノ様の念頭には、死から逃れたいという衝動がない。王国のこと、城塞のこと、貴族や騎士の誇りのこと、そして僕たち従者のことで頭がいっぱいで、自分の生き死にのことに思考を煩わせる余力がないのだ。この高潔でけなげで、父性的な力強さに満ちた蒼い瞳に、僕は強い畏怖を覚えた。この瞳とおなじものは、現代日本のどこを捜しても絶対に見つけることができないだろう。
突撃は、日が沈むのを待って行われることに決まった。というのも、アルトンが、そうするべきだとジュノ様に進言したからだ。アルトン曰く、――恐らく、敵は城内の慌しい様子を見て、総攻撃が近いと踏む筈である。もし仮に、城外に展開しているアザド軍の多くが、森や林に旗を立てただけの見掛け倒しだとしたら、我々の攻撃に対応するため、城門のまえに兵力を集中させなければならず、夜になるときまって煌々と焚かれる篝火を点してまわる手間をとれなくなる筈である。灯が点らなければ、この時点で、我々は敵の計略を見抜くことができる。敵が兵を集中させず、各方面に分散させたまま篝火や松明を点すのであれば、城門前は手薄のままの筈だから、我々はこれを紙でも裂くように突破してやればいい。最悪、敵の重厚な包囲がすべて実体を持つものであった場合、適度に戦火を交えて、兵の意気があがったところで撤収し、篭城を続けたほうがいい。アザド軍が城攻めに大量の兵を割いているからには、前線は手薄にならざるを得ない。そのうち王国軍本隊から、援軍があるだろう。いずれにしても突撃と撤退を容易にするため、自分はこれから祭壇を築き、あたりに濃い霧がおりるよう、天に祈る。術が効果を発揮するまで、どうしても日没まで懸かってしまうから、それまで待って欲しい――。ジュノ様は、すぐにでも突撃して暴れたい様子だったけれど、僕とベネッタがアルトンに賛成すると、わかった、と仰られた。
アルトンの魔法の力を僕たちは知っている。だから、夕暮れから少しずつ風が濁りはじめ、頭上が藍色に覆われる頃には数歩さきもろくに見えないほどの濃霧が降りても、驚きはしなかった。城の広場に焚かれた篝火が、まるでフィラメントのお化けのようになって、昏い霧のなかに丸くて鈍い光を投げかけている。地表に魔方陣をなぞっただけの祭壇にひざまづき、指を組んで天を仰ぐアルトンは、後光を背負った城塞の守護聖人のように見えた。
城壁のうえから外を眺めていた物見の兵が、
「今宵は三方の篝火がまったく灯っていません」と、城のなかにむかって怒鳴った。「灯っているのは城門の前だけです!」
馬上のジュノ様が、なんともいえない凄みの篭った笑みを浮かべて、
「この戦い、もらったぞ……」と、呟かれるのを、僕は聞き漏らさなかった。
城門が開かれ、突撃の号令が下された。
まわりから天を揺さぶるような鬨が起こり、騎馬の奔流が始まった。僕も乗り遅れてはならないとばかりに、鐙で馬の腹を叩き、槍を抱える脇をぐっと締めた。空堀に渡された橋を過ぎ、漠然とした怖さをかみ殺して目一杯、馬を加速させる。そのうち、爆竹のような音が、夕闇と霧に蔽われたむこうから響いてきた。そうして初めて、僕は心底ゾッとなった。戦いの現実に、とうとう接したような気がした。あの禍々しい火薬の音は、マスケット銃から発せられたものだ。アザドの鉄砲部隊が火蓋を切るのは、自分たちを射殺するためである。僕はたしかに銃口のまえにいる――すると、ならんで馬を駆っていた、同僚のひとりが、弾かれたように胸を反らせた。そうして虚空を見つめる眼の、瞳孔がひらく瞬間を、僕は見届けてしまった。かれの頸からは、一筋の血が迸っていた。僕は名前を叫んだ。かれは返事をせず、馬から崩れ落ち、地面のうえに二三回転すると、ピクリとも動かなくなった。
恐怖を押し殺そうと、絶叫したとき、風を切るヒュンという音が、僕の耳を掠めた。流れ矢だと直ぐに分かった。霧がさえぎるすこし先で、誰かが呻き声をあげている。胃が縮み上がり、喉からせり出してきそうだった。痛いくらいに心臓が激しく鳴っている。僕はたてがみに鼻をつけ、狂ったように叫び続けるしかなかった。ヒュンヒュンという音は雨のようで、止む気配がない。僕は幽霊屋敷に放り込まれた子供のように目をかたく閉じ、それが大人の腕であるかのように、馬の首に顔を押し付けた。蹄が数歩、特有のリズムを刻んだあと、馬が突如としてバランスを崩した。落馬の怖さから反射的に瞼をあけると、ひとりの敵兵と眼があった。黒髪の、肌の浅黒い男だった。弓を構えている。その先は、僕にむかっていた。槍で突かなければ、コイツの放った矢が、僕や仲間たちを傷つけるかもしれない。けれども、怯えたような瞳を見てしまったのがいけなかった。僕は槍の穂先を持ち上げることができないまま、傍を通り過ぎようとした。しかし、むこうは甘くなかった。僕の脇腹に衝撃が走った。それから、生暖かいものが皮膚をつたった。そこを見おろすと、スケイル・メイルの鉄片を破って、矢が突き立っていた。
――死ぬ。
僕は泣きたいような気持になった。なにもかも終わりだと思った。そうして、さっきの敵兵に激しい憎しみを覚えた。こんど眼前に現われたのは、マスケットの銃口に棒を突っ込み、火薬を詰めようとしている兵士だった。僕は怒りに任せて思いっきり槍を叩きつけた。槍は突くものであって叩くものではないということさえ失念していた。それからソイツがどうなったか知らない。すぐに霧に飲まれてしまった。気付くと、脇腹がじんじんと疼き出していた。突き立った矢が馬のうごきに合わせて揺れている。それが憎らしくて堪らなかったけれど、抜くと出血が酷くなると聞いていたから、そのままにした。けれども、ごっちゃに渦を巻いて爆発的に膨張していく複合的な感情は、僕をすっぽり飲み込んでしまいそうなところまで来ていた。僕は訳が分からなくなって、とうとう理性をそいつに明け渡した。そうして、濃霧と闇と戦場特有のざわめきのなか、滅茶苦茶に馬を奔らせ、がむしゃらに槍をふりまわした。生きて帰れるなんて少しも思っていなかった。
どれくらい、狂ったように戦い続けただろう。敵の騎士とも槍を交えた。錆びた斧を構え、猪とそっくりの顔をした魔物(後に聞いたところでは、コボルトという低級の魔物だったらしい)をザックリと貫いたりもした。時間の感覚が完全に崩壊して、ふと我に返ったとき、いつの間にか霧は消え、そらにはガラスを砕いたような無数の星がまたたいていた。辺りには割れんばかりの歓声がある。お味方、大勝利――誰かが、そう絶叫している。僕はこれで安心して死ねると思って、脇腹を見た。そうして涙がどっと溢れ、奥歯は磨り減りそうなほどガチガチ鳴り始めた。城門のなかへ引き返すと、法衣を着た衛生兵がすぐに寄ってきてくれて、僕のチェイン・メイルをめくり、それからホッとしたような表情を浮かべた。鏃が半分ほど、肉に食い込んでいるだけで、丁寧に消毒をしておけばまず命に関わるようなことにはならない、という診断をくだし、初陣なら、頭に血がのぼって怪我の程度を冷静に把握できなかったりするのはごく普通のことだよと言って、慰めてくれた。僕は抉れたところを凝視し、それから感極まって、福音をもたらしてくれたこの愛すべき衛生兵を抱きしめた。けれども服が汚れるからやめてくれと抗議されてしまい、慌てて離れたのだった。
城内の広場には、歓喜の鬨が渦を巻いていた。そのまん中をめざして、僕は兵士たちをかき分けかき分け、歩いていった。ジュノ様に怪我はなかったろうか――止血の済んだばかりの脇腹を押さえて、ようやく篝火の傍へ来たとき、僕は予期しなかった光景にぶつかって息を飲んだ。
僕はジュノ様を幼少から知っている。金髪を二つ結びにした、異様なほど落ち着きのない小さな女の子のすがたは、いつでも瞼のうらに浮かべることができる。僕にとってのジュノ様は、少なからずこのイメージを引きずっている。どんなに精神的に成熟されても、貴婦人然とした美貌のひとに成長されても、それは変わらない。だから、いまのジュノ様のありさまを目の当たりにするのは、とても辛かった。――バケツに汲んだ赤いペンキを頭から被ったみたいに、ジュノ様は返り血で真っ赤だった。サフランで色づけしたババロアのような、あるいは屍体から這い出てきた回虫のような、得体の知れないものまであちこちにこびりついている。眼は興奮で悪魔みたいになっていた。ジュノ様は戦勝の鬨のまっただなかで、雄叫びをあげている。右手に、ピンク色の謎めいた液体がしたたる兜首を提げて。
白銀に輝いていたプレート・メイルは、いまや鮮血の光沢に覆われ、痛ましいくらいに金具のあちこちに傷がついていた。地面につき立てたロング・ソードは、刃毀れでぼろぼろになっている。それらは、ジュノ様が、あの恐ろしい戦場で、どんな風に戦ったのかを、はっきりと物語っていた。――ジュノ様は「英雄」という名の、殺戮の悪魔になったのだ。
こっちの世界につれてこられたばかりの頃、ベネッタが僕にこんなことを言った。――あなたの魂はあくまであなたの世界に所属している。その言葉の意味を、僕ははじめて理解できたような気がした。僕はやっぱり、現代の日本で生まれ育った人間だ。ひとを殺すということに、胸が凍りつくような禁忌を感じるのだ。戦争とか、生存のためとか、関係なく、とにかく本気でひとを殺そうと槍を振るった僕自身を、そして生首を掴んでいるジュノ様を、ひたすらおぞましく思った。
身体じゅうをつかって喜びをあらわにする男たちも、応援しているプレミア・リーグのチームの選手が得点を挙げて騒いでいるのと、一緒にはできなかった。これは殺人鬼たちのカーニバルだ。僕はいったい何処にいるのだろう――そんな風に思うととても心細かった。
ジュノ様が、僕に気付いたようだった。
「ああ、シュウ。無事のようで、よかった」かの女はまるで、冗談ではすまない悪戯を咎められた子供みたいに俯いた。
「ジュノ様も」
ジュノ様は上目づかいで僕を見て、
「分かって欲しい。私はこうするより他に……」
「なにも仰らないでください」僕はさえぎり、真心を込めて言った。「ジュノ様は城塞の兵士たちを窮地から救った。王国軍の危機を救った。わかっています。ただ、今は少し疲れていて、笑うことができないのです。それだけです」
ジュノ様は余計につらそうな顔をされた。僕は自分の言葉を選ぶセンスのなさを静かに、けれども深く呪った。
「すっかり、汚れてしまった」ジュノ様は腕を拡げて、無理にという風に微笑んだ。「ああ、気持が悪くて仕方がない。身繕いをしなければ」
そうして側近のひとりに兜首を預けると、夕立のなかを往こうとするひとのように少し前屈みになって人混みに紛れていった。
歴々から雑兵にいたるまでが、血塗れのうつくしい人に喝采を浴びせる。僕はこのひとたちに、瞬間的な殺意を覚えたけれども、それは刹那を経て本来あるべき姿――内攻する憂鬱に変わった。
勝ち戦を寿ぐ私的な祝宴が、城内のあちこちで始まった。どんちゃん騒ぎは明け方近くまで続いたようだった。僕はといえば、アルトンに逢うのが怖くて、部屋には戻らす、井戸の傍に馬小屋のあきを見繕い、飼葉のうえで眠った。翌日になって、出発の許可が下り、ジュノ様と僕たちは数台の馬車に分乗して、小高い丘のうえの寺院を目指すことになった。
ガイナス様は寺院の離れで治療を受けているということだったが、敵の密偵を警戒してのことだろう、寺院の警備は厳重をきわめ、蟻一匹見逃しはしないとばかりに、歩哨がいかめしい顔つきでひっきりなしに行き来していた。ジュノ様がガイナス様を見舞われるあいだ、僕たち随員は寺院の庭園で待つことになった。透きとおった冷たい水をたっぷり湛えた噴水を中心に、まるで型に押したように丁寧に刈り込まれた植え込みが放射状に広がり、そのなかを初秋の陽ざしにきらきらする芝生と塵ひとつ落ちてない舗道が縦横に抜ける、いかにも趣味人の好みそうな蕭然とした庭園である。僕はなかでも淋しいところを選んで散策をした。アルトンに捕まるまえに、僕自身のことを整理しなければならなかった。そんな自分を卑怯だと思ったけれど、アルトンに咎められて俯くしかない自分を想像すると、たまらなかった。
恐れていることが我が身にふりかかった――とは旧約聖書にある言葉らしいが、木蔭をふらふらと歩いているうち、僕はとうとう若き魔法使に鉢合わせてしまった。
「言いたいことは分かってる」と、僕はむりやり先手を取った。「ちゃんと適応するさ。この戦乱の世界にも、武門の誉れ高いクロウザント家にも。でも、どうしたって時間がかかるんだよ。こっちに来て十年経ったと言ったって、戦いの現実に接したのはあれが初めてだったんだ。理屈とか意欲の問題じゃないんだ、教育と習慣の問題なんだ。だから、時間をくれ。な? 僕たち、友達だろう?」
「勘違いするな」アルトンは案の定、憤然としていた。「僕は君を咎めに来たんじゃない。平和な世界からやってきた君にとって、夕べの戦いがどれだけ辛いものだったか、僕だって分かっているさ。違う。むしろ、頼みがあって来たんだ。――ジュノ様を慰めてあげて欲しい。ジュノ様のこころを軽くできるのは、君だけなのだから」
「アルトン……」
かれは濃緑の生垣の厚ぼったい葉を指先でもてあそびながら、
「ガイナス様は、もう長くない。そして、ジュノ様はあの戦いで『英雄』になられてしまった。――それらの意味するところは、君にも分かるだろう?」
「待ってくれ。ガイナス様のご容体は、そんなに悪いのか」
アルトンは辺りに鋭く視線を投げかけて、それから僕の耳元に口を寄せた。
「知っているか。ジュノ様に、ガイナス様の見舞いを勧めたのは、次男のラスカー様だ。そのラスカー様は、いま、病床に臥すガイナス様の名代を務めている。とうぜん、その資格で軍議に参加されている。ところで、城塞に援軍が来なかったのは何故だと思う?」
「ラスカー様が反対した、とでも言うのか。……まさか」
アルトンはいっそう眼元を険しくして、
「長兄のオールギュント様が、近いうちに、血統の途絶えたガテュード伯家を再興するという名目で分家される。この、ガテュード家の再興を宮廷で工作していたのが、ラスカー様と懇意にしているダイエル公と言われている。王都の社交界では公然の秘密らしい」
僕は下唇をすこし噛んだ。アルトンの話を額面どおりに受け取るならば、ラスカー様は次期クロウザント候の地位を、露骨に狙っている、ということになる。
「シュウ、分かるだろう? ラスカー様にとって、ジュノ様は目障りな存在なんだ。これから、なにかと難しくなるかもしれない。だから――」
アルトンは、曖昧さを決して許さないような目で僕をみつめ、
「覚悟だけはしておいてくれ。もし、それができないようなら、早々にクロウザントを離れたほうがいい。むろん、そういう決断をするのなら、僕は君を軽蔑するけれどね」