二
――そんな風に意気込んで始まった僕の新しい生活は、けれども大した事件に見舞われることもなく、実にのんびりとしたものだった。ジュノ様はみんなに愛されていて、僕が気を配らなければならないようなことはなにもなかったし、僕はベネッタの助けもあってこっちの言葉に少しずつ慣れてくると、お決まりのホームシックを燎原の火さながらの好奇心でなんとか蓋することができた。僕は新しい世界を見渡して、ひとに尋ねたいことに事欠かず、屋敷のなかで人を捕まえては、質問攻めにした。メイドさんも下男さんも、苦笑いをしながら親切に答えてくれた。そうして僕もかれらの質問に答えた。パソコンやインターネット、テレビの話はとくに受けが良かった。サッカーの話をすると屋敷の見習い騎士たちが盛り上がってしまい、さっそく練兵場にふたつのネットを張って、布を詰めた皮製のボールを蹴って遊ぶようになった。僕もときどき混じって遊んだ。けれども彼らにはオフサイドの概念をいくら説明しても分かって貰えなくて、スコアはいつも派手である。
クロウザント家における僕の役柄は、ジュノ様の小姓である。姫様に小姓とは妙に聞こえるかもしれないが、こっちの世界は男尊女卑の考えがそれほど強くなくて、女性の家長や騎士も少なくなかった。それでジュノ様は相続権のない、ゆくゆくは政略結婚に供されると定められた姫ではなく、ことの成行きによってはクロウザント家を相続することもありうる、立派な世継ぎ候補のひとりなのだった。けれども、うえに三人の若様がいたから、ジュノ様がそれらを差し置いて、ということは考えづらかった。だから、ジュノ様のまわりは、貴族の家にありそうな、相続に絡む嫌なごたごたの匂いなど微塵もせず、ホームドラマのようにほのぼのとしていた。
午前はジュノ様と一緒に、エルフの家庭教師さんから学問の手ほどきを受ける。数学や理科は、違うのは形式だけで、僕のいた世界と本質はまるで同じだったから、要領さえ掴んでしまえばすこしも苦労はなかった。それどころか、多分僕のほうが、家庭教師さんよりデキると思う。けれども空気を読んで黙っておいた。その分退屈でもあったのだが、読み書きや歴史の講義のほうはすごく面白かった。ここでクロウザント家の所属する大陸二大国のひとつフィオール王国の歴史について長々と話して聞かせたい誘惑に駆られてしまうくらいだ。さすがに歴史の教科書のように洗練されてはいないが、血湧き肉躍るエピソードが盛りだくさんで、神話と歴史が未分の時代の話なんかはまるでヒロイック・ファンタジーの世界だった。けれどもジュノ様には退屈のようで、先生が背をむけている隙に、僕の頬をぺたぺたやったり、足音を忍ばせて部屋から抜け出そうとするので困った。実際のところ、ジュノ様とは鬼ごっこをかなりやった。ジュノ様を転ばせてはいけないと、手加減をして追いかけるのだけれど、そうするといつまでも捕まえられず、ついにはメイドさんだの使用人さんだのを巻き込んだ大騒動に発展していく。ときには見失って僕ら小姓は蒼くなる。夜の帳がおりてきてもまだ見付からない。いよいよ、総動員で松明をかかげて敷地を捜しまわろうという話になったとき、厨房の食物庫に、木箱の陰ですやすやと眠っているジュノ様を見つけだして、ああこれで首が繋がったと、僕らは胸を撫で下ろしたものだった。
ジュノ様の小姓は総勢二十人ほどである。そのほとんどがクロウザント家の有力な家来の次男坊三男坊で、かりにジュノ様がクロウザント家を継ぐことになればそのまま側近や重臣となるべき人たちである。けれどもさっき話したような事情であるから、そうなる望みは薄く、かれらは将来有望とはとても言いがたい状況にあった。その諦めから来るのんびりした朗らかさが、僕ら小姓たちのあいだにいつもあった。このとき小姓たちのジュノ様に捧げる忠誠心は掛け値のない素朴なもので、ジュノ様はこういう空気のうちにあって天真爛漫ぶりの留まるところを知らなかった。
他には、ジュノ様を専門的な知識や技能によって支えるべく宛がわれた者もいる。僕はこうした部類で、進んだ社会制度や科学技術の知識をクロウザント家のために生かすことを期待されていた。僕はときおり戦地より帰還されるご当主ガイナス・ウォード・ディ・クロウザント侯爵から食事に呼ばれて、血のしたたるような肉厚のステーキをナイフでギコギコやりながら、日本の憲法や法律、選挙制度について尋ねられるままに話をした。ガイナス様は総髪の明治人のような感じで、痩せて小柄だったけれど、背筋はピンと伸び、細目のおくの瞳の眼光はするどく、日焼けした鎖骨や頸のあたりにはおっかないくらいの精悍さが漂っていた。けれども僕のことを家従や下男としてではなく、まるで客人とかジュノ様の友達というように扱ってくれたので、僕はこのひとが好きだった。普通選挙や議院内閣制の話をすると、ガイナス様は、よくそれで世が安定するものだととても感心されていた。思い通りにいかぬ者が武力に訴えたりしないのかと訊くので、そういう話は余り聞きませんと答えたら、お手前の世界の民はよほど品格があるようだ、と仰った。僕は苦笑して、それほどでもありません、と言っておいた。
クロウザント侯は、ジュノ様が五十を過ぎてから出来た子ということもあって、その可愛がりようは大変なものだった。若君たちには笑みひとつ見せない厳格な父親だったけれど、ジュノ様には請われれば馬にさえなった。きゃっきゃとはしゃぐ小さな娘を背に乗せて、ヒヒンヒヒンと愉快そうにいななくガイナス号――この絵はなかなかシュールで、僕たち小姓はこういうとき、笑えばいいのか、ジュノ様をたしなめればいいのか、それとも一緒になって囃せばいいのか、とても悩ましかった。娘を溺愛するこのお父さんは、戦場では鬼神と呼ばれて恐れられる不敗の武将でもあった。若いころは気に入らない家僕を一刀両断にしたこともあるそうだ。それが歳を経るにつれて少しずつ穏やかになられ、愛妾であったジュノ様の母親が遠征中に病をえて他界されてからは、屋敷で声を荒げるのをまったく拝見しなくなった、という家中のひとの話だった。
それにしても――、僕は仲のいいこの親子を見ていると、紘子のことを思い出してしまい辛かった。紘子がジュノ様だったらよかったのにと、埒もないことを考えずにはいられなかった。僕はジュノ様の無邪気な様子を見ているとたまらなく幸せだったが、それと同じくらい胸にこたえるものがあった。ジュノ様はそんな僕を見上げては、いつものように微笑む。僕もぎこちないなりに精一杯微笑む。そんなことがあって、ある日、敷地の森で乗馬を楽しんだあと、川のほとりの岩場に座って雑談していると、ジュノ様が唐突に、
「シュウは笑うのが下手……」ということを言ったから、僕はどきりとした。僕にしか見えないジュノ様の影のことを、ジュノ様には知られたくなかったのである。
こういう野駆けのとき、ジュノ様のお供をする面子はたいてい決まっていた。護衛と侍女の役割を兼ねたベネッタ、それから僕。もうひとりは、アルトン・クーリエという名の少年魔術師である。――そう、この世界には僕が想像して胸をときめかせていたような、正真正銘の魔法使がいたのだ! むろん彼のことを放っておく僕ではない。是が非でも友達になろうとつとめ、煩がられたりしないかなとどきどきしながら、機を見つけては憧憬まるだしで話しかけた。そうするとかれは、こげ茶の奇麗な髪をめんどうくさそうに掻きあげて、瞳をわざとよそに向けるけれど、案外丁寧に相手をしてくれた。かれは善良なる照れ屋なのである。
歳はジュノ様より二つ上というだけだったけれど、物腰や言動は僕なんかよりずっと大人びていた。それもそのはずで、かれは高名な魔術師だった前世の記憶を受け継いでいて、身体も精神も子供でありながら、年老いた魂を持っていた。かれの云うところによると、前世のアルトン・クーリエはジュノ様の祖父――つまりさきのクロウザント候からたいへんな恩義を受けていて、自分が他界したらすぐに転生してクロウザント家のために働くという約束を交わしたそうである。そういう訳で、アルトンは現クロウザント候であるガイナス様の父親の友人にあたり、家中では別格の扱いだった。ガイナス様でさえ、叔父に対するように丁寧な敬語を使われる。そんなアルトンに僕は、
「魔法で火を起こせるって、マジ?」とか、「川を逆流させることができるって聞いたけど、どうせ嘘なんだろ。本当だというなら見せてくれよう」とか、恐れを知らぬことを言って困らせた。老いた魔術師が相手なら鼻で笑われて終わりだろうけれど、アルトンの精神はまだまだ歳相応である。それで、かれは可愛いくらいにむすっとして、
「いいとも、よーく見てるがいい」
と、薄く目を閉じて呪文を呟く。するとだ、ほんとうにかれの周りに鬼火のようなものがちらつき始めたり、川に起った津波が物凄い勢いで遡っていったりする。僕は莫迦みたいに口をあんぐりと開けて、奇蹟の光景に見入ったのである。もちろんかれには、
「弟子にして! お願い!」と頼んでみたけれど、アルトンはすこし気の毒そうに首を振って、
「魔術の素質は生まれもってのものなんだ。これを見て」襟足のあたりの髪をもちあげてうなじを露出させた。そこには、龍のかたちをした刺青のような痣があった。「……宿星といって、神からある種の義務と、それをこなすための何らかの才能を与えられた印なんだ。宿星にはいろいろな種類があるけれど、こういう魔術師の宿星をもたないひとが、魔術の訓練を積んでも、上達はなかなか望めない」
そう聞いて僕はがっくりしてしまったけれど、魔法への興味はなかなかつきなかった。アルトンによると、この世界には大まかにいって二つの魔法体系があるということだった。ひとつはアルトンらのつかう魔術であり、もうひとつはハーフドワーフたちが僕の世界へ来るときに頼った法術である。ふたつの違いについて、この世界にはこんな言葉がある――「魔術師は神を知ることによって、法術師は神を信じることによって」つまり、魔術師は神秘への理知を、法術師は神秘への信仰を、それぞれ力の源泉にしている。魔術は学者の業であり、法術は聖職者の業である、と言い換えてもいい。
それぞれの体系の信奉者は、もう一方の体系を不完全であるとし、ときには冒涜であるとさえ言って批難したけれど、アルトンの話を聞くかぎり、両方とも一長一短であるようだった。自然を正確に操ることにかけては、法術は魔術に及ぶものではなかったし、ひとを癒すことに関しては、法術のほうがずっと有効であるようだ。魔術は理知を旨とする性質から、あまり品のよくない、露骨に言えば邪悪な人間の道具になってしまうことがあったし、法術は信仰を求められることから敬虔で善良なひとでないと扱えないかわりに、「神が間違いを犯す筈がない」という固い信念に基づいているため、術式に少々投げやりなところがあって、思い通りに魔法が機能しないことも多々ある。くぐってみないと何処へ辿りつくか分からないという、異界へ渡るための魔方陣なんか、そのいい例かもしれない。
このような専門的なことを、訊けばいくらでも答えてくれるアルトンだけど、一面ではやっぱり歳相応のところがあって、とくにジュノ様と遊んでいるときなどは仲のいい兄妹のようだった。僕以上に遠慮会釈のない、天真爛漫を絵に描いたようなジュノ様と、はにかみ屋の本性を皮肉っぽいポーズでカヴァーしているアルトンのやり取りには、なかなか微笑ましいものがある。ジュノ様は樫の木にへばりついた油蝉を摘まんできて、アルトンのフードのなかにこっそり放り込む。それが急にギリギリと鳴きだすと、アルトンは顔の上半分に漫画的な縦線のいっぱい入ったような、なんともいえないどんよりした表情をする。それからかれはヒステリックにフードをひっくりかえし、落ちた蝉を幹にもどしてやり、けらけらと笑い転げるジュノ様にむかって、
「こんなことをして、いったいなにが面白いんですか!」
と、虐めっ子に耐えかねた虐められっ子のようなことを言う。けれども道の悪いところを散策するとき、ジュノ様の手を引くのは決まってアルトンだったし、川遊びをしていて深みにはまりかけたジュノ様を、魔法で流れを堰きとめるまでして助け出したのもアルトンだった。きっとジュノ様には、この二つ年上の魔法使いがとても頼もしく思えたに違いない。ジュノ様の悪戯は愛情表現のひとつだったけれど、アルトンはなぜかそれに気づかず、自分は嫌われているのだろうかと、すごく戸惑っている様子だった。僕は傍で見ていて面白かったので、アルトンには悪いけれど黙っていた。
ジュノ様と僕らが、いくら敷地のなかとはいえ、こうして頻繁に遠くまで出歩くことができたのは、ひとつにはクロウザント家の骨っぽい家風のお蔭だった。当主であるガイナス様が優れた武将であることには少し触れたけれど、ガイナス様のみならず、歴代の当主には軍事的な才能に恵まれた方が多かったという。とくに王国の黎明期にまで遡ると、クロウザントの姓は優れた戦士の代名詞でもあったくらいで、竜の首を落したりセイレーンを射落としたりキマイラのはらわたを引きずり出したりとやりたい放題の、スサノオやジークフリードやギルガメッシュにも引けを取らないようなトリック・スターが、一族に相次いで現われたそうだ。そんな神話じみた話も手伝って、クロウザントは武神の寵愛を受けた家系、王国きっての武威を誇る一門、などと言われていた。それくらいだから、武を尊ぶに篤い。いかに幼少のお姫様といえども、元気よく野駆けをしてまわるくらい、全然構わなかったのである。むしろ、(僕の目には少々非科学的に映ったのだけれど)ここでは、クロウザントの血統に落馬して死んでしまうほど武運のない者などいるはずがないと考えられていた。そして実際、ジュノ様は馬をあやつるに巧みだった。こっちにきて馬と親しむようになった僕なんかより上手いのは勿論のこと、乗馬するようになって五十年にもなるベネッタさえ及ばなかった。ジュノ様の愛馬は、実際、あるじの二本の脚よりもよほど脚らしかった。
好きこそものの上手なれ、の言葉どおり、ジュノ様は乗馬をこよなく愛されたけれども、それ以上にうちこまれたことがひとつだけある。それは剣術だった。ジュノ様は可愛らしい人形や刺繍道具にはまったく興味を示さなかったが、ガイナス様にプレゼントされた子供用のレイピアは四六時中離さず、ベッドのなかにまで持ち込んで抱き枕のようにしていた。そうして、家庭教師のまえで落ち着いていることのまったくできないジュノ様が、剣術の教師の言いつけだけはとてもよく守った。素振りや型をいったん始めると、手のひらが血豆だらけになり、腕がぱんぱんになるまでやり込んだ。五つも十も年上の見習い騎士と立会いをして、負けると泣きじゃくって口惜しがり、勝つまでやめようとしなかった。むろん力量差があるし、相手もクロウザント家の騎士をめざす少年であるから真剣勝負へのこだわりがあり、主君の娘だからといって手加減したりはしない。打ち合いは延々つづく。日が落ちても稽古は終わらない。ジュノ様が疲れはててぶっ倒れ、その場で眠ってしまうまで続くのである。こんなときのジュノ様の姿といったら、痛ましいというほかになかった。身体じゅう痣だらけになって、涙と汗で顔いちめんべどべとにして、女の子なのに額や頬にまで擦り傷をつくり、死んだように砂のうえに横たわる。それを、松明のひかりが優しく照らす。そうして朝、目覚めて第一声が、「ちくしょー、今日こそメッタメタにしてやる!」なのである。けれどもその日もやっぱりメッタメタにされて泣きじゃくる。これでは上達しない筈がない。
主君がこれだけ打ち込んでいる訳だから、僕としても剣の稽古を適当にやって済ませる訳にはいかなかった。不思議なことに、練習用のレイピアはラケットなんかよりほよど重かったけれど、部活の素振に較べたら歴然として身が入った。無理矢理やらされるのと、傍でちいさな女の子のカンフー映画さながらに一生懸命やっている姿に感銘を受けながらやるのとでは、まるでモチベーションが違った。僕は口ではしきりに「もうー駄目、勘弁してください」と言ったけれど、内心では必死にジュノ様についていこうとした。しょっちゅう訓練場の砂のうえに胃のなかのものをぶちまけ、腕は生傷がたえず、ときにはみぞおちに突きを食らって本気で死ぬかと思ったけれど、ある日、部屋の姿見でふとじぶんの上体を見たら、胸板や力瘤がすこし出来ていて、そのときだけはああ、頑張ってよかったかもとニンマリした。でもその日の稽古が始まるとやっぱり、もうヤダと愚痴らずにはいられなかったが。お蔭で僕も、剣にかけては家中の騎士たちに引けをとらないだけの腕を身につけることができた。ただ、ジュノ様にはどうしても敵わなかった。とくにジュノ様が十三歳を過ぎてからは、エペの切先を身体に当てることはおろか、掠らせることさえできなくなった。剣術の先生は、「ジュノ様には稟性がある」という言い方をしていたが、僕もまったくそう思う。小姓の贔屓目ではない。ジュノ様はこっちが斬撃や突撃をくりだす先から、待構えたように身をかわしてしまう。それは木綿の薄い布が微風にあおられてひらりとする様によく似ていた。そうして次の瞬間にはもう、ジュノ様は僕の死角にもぐりこんで、容赦のない一撃を叩き込んでくる。あたかも、僕が次の瞬間どっちを向くのか、どっちに身体をもっていくのかを前もって知っていたとでもいうように。僕はこの謎がなかなかとけず、ジュノ様にはやりたい放題やられたけれど、そのうち、もしかしたらジュノ様は、僕の微妙な体重移動や溜めを刹那に察知して、それでいち早く見切りをするのではないかという風に思い至って、僕は苦心のすえに独特の剣術を編み出した。前兆を殺して、瞬間的に攻撃をくりだすのである。溜めのないところからいきなり剣を突き出すのである。これは有効だった。ジュノ様は明らかに戸惑った。それから僕はなんとかジュノ様に一方的にやられずに済むようになった。その頃になると、ジュノ様の相手が出来る者は僕を含めて数えるほどしかなく、それで僕はしょっちゅうジュノ様と打ち合うことになった。必要は発明の母、とはよく言ったもので、僕はジュノ様の猛威に対抗するため、守備的な剣術を身につけていった。通常、右手には攻撃用のレイピアやグラディウス、左手には受け流すためのパリイング・ダガーやマインゴーシュ、ソードブレイカーなどを持つのだけれど、僕は両手に守備むきの短い武具を持った。そうして、ジュノ様の猛攻を凌ぐのに徹した。そうしなかったら今頃は死んでいたかもしれない。というのも、ジュノ様は成長して背丈が伸びるにつれ、守備用の短剣を持たず、むしろ両手であつかうクレイモアやエストック、ツーハンデッドソードを愛好するようになった。これらの重量のある物騒なものが、一閃して飛んでくる怖さといったらない。練習用だから刃がないとか、そういうレベルの問題ではないのである。なんとかこの先生きていけそうだというあたりまで守備のスタイルを仕上げていったが、その頃から、ジュノ様はときどき癇癪を起こされるようになった。
「ちょっとシュウ、なんで手を抜いたりするの!」というのである。僕には無論そんなつもりはない。ジュノ様の言い分によると、僕がその気になれば、ジュノ様の渾身の攻撃を受け流したときに出来た隙につけいって、勝負を決めることが出来たはずで、そうしないのは「手抜きじゃん。主君たるあたしを侮辱するつもり?」ということになるらしい。僕がどれだけ手を痺れさせているか、ちっとも分かっていないのである。普段のジュノ様は、僕に主君風を吹かせることなど滅多になかったが、剣のこととなると話は別で、よく言えば潔癖、端的に言うとまるで暴君だった。
ジュノ様はジャイアンみたいなメンタリティそのままに大きくなられてしまった。屈託なく成長されるのは良いことかもしれないが、こんな風にお育ちになってしまったことについて、小さい頃から傍にお仕えしてきた自分としては、はなはだ遺憾とするところである。――こんな調子の憎まれ口をジュノ様に叩いては、剣の稽古で殺されそうになる日々を過した。けれども、いまになって思えば、あの頃は、ジュノ様にとって最後の幸福な少女時代だったのかもしれない。
ひとつには、ジュノ様自身の美貌が災いした。ブロンドの豊かな髪や、貴婦人然とした肌の白さ、それから長い睫をそなえた端整な目元と、愛らしい桃色の唇を見るにつけ、僕はハリウッド女優や宝塚を連想してしまう。そのうえ背丈もある。百七十五ある僕に届かんばかりで、ピンヒールなどを履かれると、僕などよりよほど高くなってしまう。性格は少々あれであるけれど、ドレスを着て黙然と椅子に座っていれば、誰だって騙されてしまう。この容姿端麗ぶりは、王国貴族の社交界からの熱い視線をがっつり集めずにおかなかった。ジュノ様のもとには、ありとあらゆる名目のパーティーの招待状が、野分に運ばれる木の葉のように次々と舞い込んできた。むろんジュノ様には扇子を口元にあててオホホホとやるような趣味など微塵もなかったから、僕らに丁重な断りの返事を代筆させて澄ましていたけれど、ごく偶にガイナス様の付き合いの絡みでどうしても断れないことがあって、そのときはやむなくコルセットを巻いて鬘をかぶり、嫌々出かけていく。たまにしかテレビに出ない芸能人にある種の高級感が出る、みたいなことが、ジュノ様にも起った。ジュノ様のテーブルのまわりにはいつでも凄まじい人だかりができて、ジュノ様は紳士淑女にいちいち丁寧なオホホホをやりながら、よほどイラつくのだろう、しょっちゅう青筋を立てておられた。僕も従者として傍に控えて様子を見ていたが、まいど、我が主ながら苦笑を禁じえなかった――いや、いたわしくてならなかった。
帰りの馬車のなかでジュノ様は、鬘やコルセットをぶん投げて、下着だけの格好になり、
「もー我慢できない! ダメ! 死ぬ!」と大騒ぎである。それを、僕とベネッタがいっしょうけんめい慰め、宥めるのである。けれども僕らに言われるようなことは、ジュノ様だって百も承知である。小姓とは嫌な役目である。
王国貴族のパーティーは華美を極めていたが、一方、フィオール王国は一千年のむかしからの宿敵・アザド帝国と交える戦火がいよいよ激しさを増して、深刻なことになっていた。戦費が慢性的に財政を圧迫するせいで、毎年のように税金が高くなっている。王都のほうでは重税にあえぐ農奴がときおり反乱を起こし、不作と重なって物価はいちじるしく騰貴し、戦時国債にはまったくと言っていいほど買い手がつかなくなり、戦争の継続そのものが困難になっていた。前線の具合も酷いありさまで、戦地病院の惨状を耳に挟んだ日には食事が進まなくなった。それでも戦局そのものが優勢であればまだ救いはあるかもしれないがそうでもないようで、ガイナス様は滅多にお帰りにならなくなったし、ご帰還になったときも、揺り椅子でパイプをふかしながら、難しいお顔をなさるばかりだった。ガイナス様は戦争を続けることの困難と無意味をむろん分かっておられる。けれども王国きっての武の名門であるクロウザント家の当主が、そういうことを口にする訳にはいかなかった。言えば、王国軍の士気に深刻な悪影響を与えかねない。だからガイナス様は、屋敷を一歩出れば豪放に振舞った。そうして屋敷の書斎にひきとってひとり悶々とされるのである。僕はそんなガイナス様にたびたび呼ばれて、フランス革命やロシア革命のことを話した。僕の世界史で学んだ知識が、ガイナス様の心労を軽くする訳がないと分かっていただけに、僕は呼ばれるたびに頭を抱えてしまった。
ジュノ様が社交界をお嫌いになるのは、ひとつには戦争のこともあったのである。口に出してはっきりとそうは言わなかったけれど、十年ちかくも一緒にいるのだからそれくらいわかる。前線には王国のために死に物狂いで戦っている、ノブレス・オブ・リージュを地で行くような貴族や騎士がたくさんいるのに、素知らぬ顔をして毎晩のように高級なシャンパンやワインをあけて優雅にやっている連中が、虫唾の走るほど嫌だったのである。ジュノ様は、泥まみれになって訓練をするクロウザントの兵士たちや、土くれで衣服をまっくろにした領地の農民たちに、貴族のバカ息子がよくやるような冷然と見下す態度を取られたことは一度としてなかった。ジュノ様はジャイアンのようなところのある人だったけれど、そういう意味では、決して冷たい人でも愚かな人でもなかった。
遠くに悲惨な戦争を眺め、身近に華美な社交界に煩わされるジュノ様の右肩に、この頃、『武神の宿星』といわれるクロウザント家特有の宿星が、突如として現われた。宿星は、神より才能と運命を背負わされた証だとされるが、はたして才能を縦横に振るって運命と激しく戦う人生が幸福なのか、それとも平穏無事が幸せなのか、僕には分からない。ただ、ジュノ様の宿星には、それとは別の、非常に政治的な意味があった。『武神の宿星』は血統的なものだったけれど、父であるガイナス様にも、四人の兄君にもないものだった。そうして、王国の黎明期に活躍したトリック・スターたちはみんな持っていた。クロウザント家の歴史のなかで、この宿星を持ったひとは必ず英雄的なことを成してきた。その宿星がジュノ様の肩に現われたと知って、小姓たちは欣喜雀躍した。ジュノ様の宿星を誇りとし、自分たちの将来がひらける兆しと考えたのである。ただ僕とアルトンとベネッタだけが、暗澹としてそっと互いの顔を見た。三人のなかで一番先に知ったのは、ジュノ様の身のまわりのことをお世話するベネッタだったが、かの女は侍女たちに口止めをしてまわり、隠蔽しようとしたほど、この事実を好ましからざるものと受け止めていた。
「まずいことになった……」と、アルトンは僕に呟いた。このとき、アルトンは十八歳で、子供っぽいはにかみ屋の部分はすっかり影をひそめ、知的な感じのする広い額と、どこか老成したような物腰が印象的な、青年魔術師に成長していた。
僕はアルトンを一瞥しただけで返事をする気にもなれず、黒髪をがさがさと掻いた。実際のところ、いつまでも続くと思っていた夏休みが突如として終わってしまったような憂鬱に陥っていた。ベネッタは、宿星のことが公になってしまったことに責任を感じているようで、唇を噛んだまま、ずっと俯いていた。僕は、
「ベネッタのせいじゃないよ」とフォローしたけれど、かの女は小さく首を振っただけだった。
『武神の宿星』がご兄弟でいちばん上のオールギュント様に現われたのなら、これはクロウザントにとってまったくの慶事である。戦争ではなく魔物によって世がみだれた時代であったなら、僕たちはジュノ様と共に天命を粛然と受け止めたことだろう。けれども、いま、こういう事態になったことを、僕たちはただの災難としか思えなかった。第一に、家中がキナ臭くなる。この世界に長幼の序というものは当然あったけれど、貴族の家にあって、兄弟のうちで最もすぐれた子が、長兄をさしおいて後継に指名されることは珍しくなかった。いまのところ、ガイナス様のあとはオールギュント様がお継ぎになるという家中の暗黙の了解だったが、『武神の宿星』がジュノ様の肩に現われたことは、神から英雄であるというお墨付きを貰ったに等しく、ジュノ様こそ後継に相応しいという声が内外から起こることは、当然予想できた。僕たちを除くジュノ様の小姓や側近たちが沸き立ったのはそのためなのである。むろん、オールギュント様の側から見たら、これは面白くない。早晩、彼我のあいだに憎悪の火花が散りだすことは避けがい状況になったと考えるしかなかった。
また、『武神の宿星』がクロウザント家の末娘に現われたという事実の意味するところを、フィオール王国ぜんたいから曲解される心配もあった。いま、フィオール王国は長引くアザド帝国との戦争に、疲弊しきっていて、停戦を求める声が日に日につよくなっている。こういうときに宿星を持った姫がクロウザントに現われたことは、神が、王国に英雄を遣わすから決して屈してはならない、と言っているように、どうしても聞こえてしまう。少なくとも、戦争を継続したがっている人たちは必ずジュノ様の声望を利用しようとするだろう。ましてジュノ様の美貌は王宮に知れ渡っている。『救国の聖女』に仕立て上げるにはもってこいだ。
ことの深刻さは、ジュノ様自身がいちばんよく理解されていた。そしてこのリスクから自分自身とクロウザントを守るためにジュノ様が取られた方策は、傍にお仕えする僕らにとって、見守るしかないけれどもそれ自体がとても辛いものだった。
ジュノ様は自分を殺し、別人になろうとしたのである。
剣術の稽古を一切やめられ、かわりに刺繍や裁縫を始められた。野駆けに適したパンツスタイルではなく、いかにも大貴族の令嬢というような、フリルのたくさんついたブラウスや丈の長いスカートを選ばれるようになった。ポニーや三つ編みにすることの多かった金髪は、ストレートやアップになった。面倒くさいと称して一切なさらなかった化粧に凝るようになられた。それらを愚痴っぽくされるのではない。粛々と、まるで生まれたときからそういう女性であったかのように、ごく自然になさるのである。僕たちはジュノ様を知っている。それだけに、傍で見ていて息苦しくて仕方なかった。ときおり労わるつもりで言葉をかけるが、ジュノ様は微笑されるだけだった。そうして僕はハッとなる。一生懸命、ジュノ様が演じておられるのに、誰かに見られたら疑いをさしはさまれかねないようなことを僕が言ってはいけないと。ジュノ様は口調まで変わってしまった。明朗快活と云うべき声のはりは失われ、じゃじゃ馬を地で行くような言葉遣いは陰をひそめ、穏やかに貴族然とお話しになる。そうして、ひとから勇敢で元気だと思われることをよしとしていたジュノ様が、女性らしくない評判の一切を嫌うようになられた。幼少の頃はたいへん元気であられたのにと、叔父や叔母、従姉妹に回想されるたびに、はっきりと憂鬱な顔をされるようになった。血の気の多い小姓たちを遠ざけ、侍女に囲まれて過すようになった。『武神の宿星』のことに触れられようものなら、三日三晩部屋に篭られ、食事さえお取にならなかった。すべて、
「あの女々しい姫君にはクロウザントを宰領するどころか、一軍を率いることすらできまい」という世の評判を確立するためだった。
ジュノ様が意思を明確にされた以上、その方向で精一杯支えるのが自分の務めだと思っている。それで僕は小姓のなかでジュノ様を後継とするよう運動しようという声が上がれば、
「おまえ、バカじゃねえのか」くらいの調子で論戦を仕掛け、その声を無理矢理にでも押しつぶした。とうぜん僕は小姓のうちで嫌われ者になった。斬りあいの寸前までいくような喧嘩などしょっちゅうだった。囲まれ、袋にされそうになったこともあった。けれども僕はいっこうに構わなかった。運動を起こそうとしている奴となら刺し違えてもいいと思っていたし、斬られたなら、斬った奴は罪を問われる訳だから、刺し違えるのと変わらないし――それくらい腹をくくっていた。けれども、正直なところ、辛かった。小姓はみんな幼馴染のようなものだったし、あいつらが出世欲より先ず、ジュノ様のためによかれと思って、「後継に」と言っているのはちゃんと分かっていたからだ。けれどもあいつらのほうは僕の動機を疑った。オールギュント様の息がかかっているんじゃないかと。この陰口は少しばかり口惜しかったけれど、飲み込むより他にどうしようもなかった。
事実無根であることは言うまでもないが、ただ、オールギュント様にはそんな噂を招くようなところが、確かにあった。無骨な家柄のクロウザント家にあって、あまりクロウザントらしくない人だった。オールギュント様は幼少のころのジュノ様にときおり剣の稽古をつけてくださったが、露骨に手加減をなさり、ときにはわざと負けて、「ジュノは強いな。まるで男の子のようだ」という風の阿諛を平然と仰った。こういうやり方はクロウザントでは好まれなかったが、オールギュント様は頓着しなかった。武より文に秀でた方で、若くして宰相府の要職を歴任する一方、軍における実績は皆無といってよかった。アザド帝国との戦争については、継続反対の意思をはっきりと表明されている。父であるクロウザント候が軍の中心を担っているにも関わらず、である。そんな具合だから、貴族の友人や与党は多かったが、家中の騎士たちからはあまり人望がなかった。年配の騎士のなかには、オールギュント様を指し、あれはクロウザントの当主の器ではない、小役人の器だと言って、露骨に嫌うひともあった。
けれども結局のところ、だれが後継になるかはガイナス様の胸三寸である。家中のひとたちが運動をしたところで、家を乱すことにしかならない。幸い、そのあたりはオールギュント様も認識されているようで、波風を立てるようなことは自重されている様子だった。それで、ジュノ様の宿星の問題はひとまず落ち着いていったのである。
小姓のうちでも後継の話をする者がほとんどいなくなり、胸をなでおろしてふと気付いてみたら、僕は友達をほとんど失くしていた。バロウメ、あんなことくらいで毀れる友情なら始めからなかったんだと開き直ってみても、やっぱり淋しいものは淋しかった。もう友達を失うのはこりごりだったのに、今度はやむをえない事情のためではなく、僕自身の心の狭さのせいで、たったひとりの親友とのあいだに、深い亀裂をいれてしまった。――アルトンが、話があるという。僕は厩でジュノ様の愛馬の世話をしながら、アルトンが話し始めるのを辛抱強く待ったけれど、いつまでも黙っているからついじれったくなって、
「なんだよ、話があるんじゃなかったのかよ」と、突っついてみた。
アルトンは曖昧な返事をしただけで、ぼんやりと夕日を眺めていた。
世話が一段落して屋敷に戻る途中、アルトンは唐突に、
「ずっと、ジュノ様のことが好きだった」
僕は立ち止まって、まじまじとアルトンの苦しそうな顔を見た。そうして、こころの奥から沸々と湧いてきた醜い感情が、胸をドス黒く覆っていくのを感じた。
「は? なんだそれ」
「………」
「で、どうしたいンだよ」
「ジュノ様に、気持を伝えようと思う。……わかってる、こんなこと許されないってことくらい。でも、区切りをつけたいんだ」
「暢気なヤツだな、呆れたよ――」僕は道端に唾棄した。「僕が小姓たちの運動熱を冷まそうと必死になってるあいだ、アルトンはジュノ様とのロマンチックな妄想に耽ってたのか。へえ、そんな奴とは思わなかった」
「……怒ってるのか?」
「怒っちゃいないよ。ただ、アルトンに興味がなくなっただけだ」
アルトンは鋭く顔をゆがめて、視線を落とした。
「ジュノ様がどれだけ難しい立場にいるか、分かっているんだよな。ジュノ様が、自分を偽って生きていかなきゃならなくなったことも、分かってるんだよな。それでもコクりたいんだよな」
「力になりたいと思っている。支えになりたいと思ってる」
「どうだか。自分を押し付けたいだけじゃないのか」
「シュウ……」
「好きにしろよ。じゃあな」
僕は並んで歩くのも嫌だとばかりに、アルトンの元から走り去った。訳が分からなくなるくらい、アルトンが憎らしかった。裏切られたと思った。けれども、どうしてそんな風に感じるのか、僕はすこしも自分に説明することができなかった。ただ胸がムカムカして、あんな奴の顔なんか二度と見たくないと思った。部屋に戻って、壁を殴った。枕を蹴った。この世界へ来て十年が経ち、僕の精神はもう立派な大人であるはずなのに、反抗期の中学生のようにムシャクシャして仕方がなかった。
今になって思えば、アルトンはあまりに僕に近すぎたのだ。だから、自己嫌悪の巻き添えを食ってしまった。僕は紘子に恋愛感情を抱いてしまったがために、紘子を支えてあげることが出来なくなってしまった。それどころか、僕の浅はかな恋心は、紘子を傷付ける足しにしかならなかった。僕は恋に気を取られて、紘子を愛していたことをすっかり忘れてしまっていた。そうしてふわふわと感情を弄っているうちに、タイムリミットがやってきた。アルトンへの激しい怒りは、過去の僕への「はやく目を覚ませ」の呼びかけが歪んで現われたものだった。
この世界における僕の平穏は、ジュノ様を紘子に見立てて贖罪の献身を重ね、そうして捏造した自己満足のうえに成り立っている、砂上の楼閣に過ぎなかった。いままでは土台を揺さぶるものがなかったから建っていたに過ぎない。けれど、所詮はアルトンの一言くらいでぐらつき、倒壊しかかってしまうような、脆い楼閣なのである。
僕はこの日から塞ぎこんだ。多分、アルトンも塞ぎこんだだろうと思う。恋愛なんていうのはロクなものじゃない。ひとを不幸にしかしない。僕とアルトンはほとんど言葉を交わさなくなり、そうして数日が過ぎた。いつものように馬の世話を終えて戻ってくると、メイドさんが僕を呼びとめ、
「ジュノ様が、訓練場で御待ちです」
「訓練場?」
僕は要領を得ず、首をかしげた。ジュノ様は肩に例のものが現われてから、一度として訓練場に踏み入ったことがない。
「はい。久しぶりに剣の稽古をしたいので、相手をするように、とのことでした」
いいのかな、と思いはしたが、メイドさんにわかりましたと答えて、すぐに支度にかかった。
僕はジュノ様が軽く汗を流されるつもりなのだろうと思ったから、練習用のエペを持っていったが、ジュノ様が訓練場のまん中にツーハンデッドソードをつき立て、ガードに寄りかかっているのを見て、思わず、
「よろしいのですか?」と、尋ねてしまった。あれだけ重みのある剣を持ち出す以上は激しい打ち合いにならざるを得ず、だれかに見られでもしたら、好ましくない噂が立ちかねなかった。
「構わない」と、ジュノ様は言った。「血へどを吐いてぶっ倒れるまでやりたい気分なんだ」
ドーム型の屋根にはめ込まれた硝子の天窓から、夕方に差しかかろうとする時刻の、暖かみのある光が斜に流れこんで、ジュノ様の長い金髪と、鏡面のような剣のエッジ部分を煌かせていた。剣闘士のサンダルでかためた脚を肩幅にひろげ、裾をつめた皮のスカートは膝からだいぶ高いところでピンと張っている。紐で寄せたチュニックの胸もとは、すこし窮屈そうだった。陽光の加減で、表情はよく分からなかったけれど、声には、怒りに似たような張りがあった。僕はその声をとても懐かしく思いながら、壁に掛かったダガーをふたつ取り上げて、一方を逆手に握った。
「手加減したら承知しないぞ」ジュノ様は右手一本にツーハンデッドソードを提げて、言った。引き締まっているとはいえ、女性の細い腕である。その腕に肉厚の剣がぶら下がっている様子には、非現実的な感じが否めなかった。けれども舐めてかかれば酷いことになるのは、経験上よく分かっていたから、僕はすこし腰を落として重い斬撃に備えた。受け止めることは容易いが、弾き飛ばされないようにするのは至難の業だった。
幅のある銀の輝きが、無数のひかりの柱のなかを躍動する。刃をつけていない練習用の武器だから、甲高い金属音が響くのみで火花は散らない。ジュノ様はがむしゃらに打ち込んでくるが、その太刀筋には若干の鈍りが見られた。無理もない。ここ一年、ジュノ様は令嬢らしく過し、剣はおろか乗馬にさえ遠ざかっていた。僕はすこし淋しく感じるだけだったが、ジュノ様には相当なショックだったようで、思い通りに動かないツーハンデッドソードをいきなり壁に叩きつけ、臓腑を絞るようなものすごい唸り声をあげた。
僕はそっと近づいていって、息を飲んだ。ジュノ様は目に涙をためていた。
「ジュノ様……」
「泣いてなんかいない!」ジュノ様は僕から顔をそむけ、腕でぐっと涙を拭った。「手加減するなと言った筈だ。構わない、私を打ちのめせ」
それからジュノ様はひとつ軽いクレイモアに武器を変え、まるで自分を痛めつけようとしているかのような凄まじい勢いで攻撃をくりだしてきた。無論、こうなると僕に一片の余裕もない。逆手にしたダガーの背に右腕を添え、足を砂に食い込ませて攻撃を受け止める。集中力を極限まで高めて稲妻のような突きを受け流し、一瞬の隙を見逃さずにジュノ様から間合いを外す。飛び散った砂がまぶたを掠めても断じて目を閉じない。閉じてジュノ様の太刀筋を見失えば腕をへし折られかねなかった。体重の移動が激しくて、呼吸さえ満足にできない状況が続いた。――そのうち、ジュノ様のほうが肩で息をするようになってきた。比例して、クレイモアの描くラインは少しずつ鋭利さを欠いていった。なんとか峠を越えたようだ。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、二本のダガーに挟みこんだエッジのむこうから、ジュノ様が突然、
「私は、やっぱり女なのか?」と、僕をまっすぐに見て訊いてきたのであやうく押し込まれそうになった。
「お尋ねの意味がよく……」
「アルトンに、気持を打ち明けられた。私はアルトンのことが好きだ。けれど、……ああ、うまく言えない。混乱している。なにも考えたくなくて、剣の稽古をしようと思った。でも、やっぱりアルトンのことばかり考えてしまう」
「ジュノ様……」
「なあ、シュウ。ひとつ訊かせてくれ」ジュノ様は、剣を合わせるときには絶対にしてはいけないことをした。僕から顔を背けたのである。激しい運動のせいで、首筋から鎖骨にかけてが淡い桃色に染まっていた。「シュウは、アルトンから、私に気持を打ち明けるつもりだと聞かされたとき、強く反発したそうだな。……どうして?」
「それは、……」
自分自身にも説明できないのに、ジュノ様に説明できるはずがなかった。今度は僕がうつむく番だった。
「それだけじゃない。シュウのことはずっと不思議に思っていた。多くの異界人は、とくにシュウのように民主制の確立した世界から連れて来られた者は、なかなか主従関係になじめないというじゃないか。なのに、シュウはまるで代々クロウザントに仕えている騎士であるかのように、私に献身してくれる。なあ、シュウ、無理をしているんじゃないのか?」
「僕になにかご不満でも? だったら、はっきりとそう仰ってください。改善します」
「そうじゃない。シュウに不満なんかあるものか。ただ――ときどき不安になるんだ。シュウは私のことを幼少から知っている。けれど私は、シュウがむこうの世界にいたときの事を、すこしも知らない。なあ、むこうに帰りたくなったりしないのか? むこうの世界に、大切なひとがいるんじゃないのか?」
僕は俯いたまま、顔をあげられなかった。そうして、胸のうちには紘子のことが浮んだ。
「すまない――」ジュノ様は稽古の手をとめて、「こんな話をするつもりじゃなかった。どうかしているな、私は。忘れてくれ。今日は付き合ってくれて、ありがとう」
クレイモアを壁の架に戻すと、ジュノ様は走って訓練場を出て行った。そのあいだ、僕はずっと、夕日を受けて黄金色に輝く砂を見つめていた。