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 平易で、さらさらと読める文章ではないかもしれませんが、それ相応に「噛み応え」が備わるよう頑張ってみました。楽しんで頂ければ幸いです。

 この物語をどこから起こしたらいいのか、少し戸惑っている。今にいたるまで、いくつもの信じられないような出来事に見舞われたけれど、それらの、そもそもの発端というのが良くわからないのだ。あれから十数年経ってしまって、記憶がすこしあやふやになってしまった所為もあると思う。けれども、丘のうえから麓の街を見下ろすように、全体図とか文脈とかいうものは、却って分かりやすくなったかもしれない。歳月という高台から眺めた僕の記憶のなかに、ひとつ際立って輪郭をもっているのは、中二の夏休みまえ、授業中にまわってきた紙切れだった。それには、こんなことが書かれていた。

「ダメ山、シカトね」

 それで元々なにかと生きるのが嫌になっていたのが、いよいよもう駄目だというくらい嫌になってしまった。ダメ山が友達だったからではない。むしろ僕はダメ山が嫌いだった。限度というものを知らないヤツで、ひとをからかい始めるととにかくしつこい。いつかクラスじゅうからのけ者にされるだろう、くらい思っていた。それから、紙をまわしてきたヤツが気に入らなかったのでもない。それどころか、クラスでも仲の良いほうだった。次は我が身かもしれないという不安は若干あったけれど、それよりやりきれなかったのは、このありふれたイジメの構図に、自分が完璧なまでに組み込まれていると気付いたことだ。僕は僕であるということが、たったひとつのよすがだったのに、いつのまにか、日常と世の中を黙々とまわすだけの没個性な歯車のひとつになりかかっていた。

 ただでさえ、僕の日常はブラックボックスのなかで機械的に回転しているようだった。設計図のなかの歯車なら、まだいい。機械にはちゃんと目的があるものだし、運動を追っていけば自分が結局なにを動かすことになるのか判然とする。けれども僕にはそれが分からなかった。回っている。分かっているのはそれだけだ。早朝起きてテニス部の朝練に行く。ぬるい息を吐きながら延々と校庭を走って、やじろべえみたいにラケットを振って、クタクタになって授業を迎える。黒板に書かれたことを、睡魔と悪戦苦闘しながら、ただルーズリーフに写す。考えてみたら、写したものを読んだことは一度だってなかった。それから放課後また部活をやって、家に帰ってごはんを食べて風呂に入ると、もう八時を過ぎている。部屋にひきとり、勉強するふりをして一、二時間テレビゲームをやって、気付くともう目覚ましが鳴っている。土日といっても、学校が塾に置き変わるだけだ。

 なぜこんな毎日を送っているのか、僕にはちっとも分からない。こんな毎日を送った挙句、どこへ辿りつくことになるのかも知らない。ただ、ひとつだけ分かった事がある。それは、僕たちがワニのうじゃうじゃいる上に渡された三十センチくらいの狭い板のうえを歩いていて、踏み外すと一巻の終わりらしいということ。これはもう理屈じゃなかった。歩かされているのは子供ばかりじゃない。大人にも大人の板があって、彼らなりにその上でビクビクしている。多分、誰もが分かっていたけれど、うまく言葉にできなかったり、あたりまえすぎることだったりして、誰も言わなかったのだろう。親や先生のいう勉強しろとは、踏み外すなという交通標語だ。部活の強制参加も、同じようなものかもしれない。そうして僕たちは視界を鎖されたまま回転する。ひとつひとつの歯車は孤立しているようでその実、群生している。互いに連動しているようだが、それが意義のある連動なのかどうか、僕は知らない。

 この構造を考えると、まるで世界が徒党を組んで、僕にむかって

「おまえは機械なんだ――」と洗脳したがっているようだ。

 こんな風に立ち止まって自分を振り返ると、息苦しくて仕方なくなる。あまりに惨めな自分の実情に唖然とするからなのか、それとも機械ではないということを自分に示すために必要な闘争がゾッとするくらい凄まじいものになると直感的に分かるからなのか――要するに、立ち止まるのが嫌なのだ。立ち止まれば、板から落ちる。すぐ下で、ワニが顎をひらいて待っている。仕方なく、板のうえをゾンビのように歩く。教室に飛び交う言葉は、ほとんどすべて、ゾンビの信号だ。親の説教も、テレビやラジオの言葉も、(おまえは機械なんだ……)というメッセージの、別な言い方のように感じる。こういうのに疑いをさしはさみ、はっきりと口に出して問うことは、十四歳の子供にとってとても難しい。言いくるめられないためには、声を張上げないといけない。すると、クラスメートからは頭のおかしいヤツと思われ、先生からは反抗的だと言われ、ラジオには中二病と決めつけられ、親には学校でなにかあったのかというような言い方をされる。勝ち目がない。だから、黙っているより他になかった。

 けれども、まったく答えを諦めた訳じゃない。きっと僕みたいに考え、この構図を穴が開くほど見つめ、ついに自分なりの答を導き出したひとたちが、かならずいるに違いないと思って、そういうひとを本の世界のなかに探した。そうして、もしかしたら知っているかもしれないと思われる人々にあたった。それは文豪と呼ばれる人たちであったり、哲学者と呼ばれる人たちであったり――けれども、疲労困憊して部屋にひきとった僕にとって、古典の叙述は子守唄より悪質なものだった。あるいは、湖底の岩にきざみつけられた碑文のようで、僕は息をとめて潜っていって、ようやく一言二言の断片を拾いあげ、また胸いっぱいに空気を蓄えて潜っていく。――三行も読むと億劫でたまらなくなってしまう。切実だった。

 眠くなるだけなら構わないが、ほんのわずかな自分の時間が、この知的の挑戦によって無駄に潰れてしまうことが、悲しくなるほど惜しかった。というのも、僕はゲームが溜息の出るくらい好きだった。ゲームのなかの世界の住人になりたいとさえ思っていた。モンスターと戦ってこつこつと力を蓄え、やがて英雄的な行為をするというドラマを愛していた。可愛らしいキャラクターと恋をしてみたいと熱烈に願っていた。それらは結局のところ、人生の単純化であったけれども、この「単純」という要素が、僕を惹きつけてやまなかった。余計な心配を離れて、ドラマに専念できる。ゲームが子供を馬鹿にするとか、なんの足しにもならないとか言われようとも、ここには、人生の理想のスタイルがあるような気がした。そうして僕はゲームの世界に、郷愁に似た感覚を抱いていた。憧れじゃなく、いつか帰っていくべき場所のように凄烈に考えていた。ブラックボックスのなかの毎日は、ゲームをする一二時間のためにあったと言っていいと思う。僕はきまって部屋を真っ暗にして、テレビの画面のほかをすべて闇に埋めてしまう。ヘッドホンをあてて、お気に入りの音楽をガンガンに流し、浮世の物音が一切耳に這入ってこないようにする。そうして、荒野の魔物をひたすら討ち続ける。街に戻り、遠出をする準備を済ませて、さあいよいよ明日だと胸を弾ませながらベッドにあがる、あの喜びだけが、僕の生きている証だったように思う。もしかしたら、あの一二時間こそが僕の現実世界であって、残りは抽象的な悪夢だったのかもしれない。僕はいつもアップアップしていたけれど、コントローラーを握っているときだけは、呼吸と鼓動が落ち着くのだった。

 そういうことがあってか、あの決定的な紙切れが授業中にまわってきてから、僕はたびたび幻覚に見舞われるようになった。土煙のむこうに見え隠れする尖塔のあつまりとか、清流のなかに佇立する神々しい石像とか、シースルーの衣装をまとった踊り子とか、木の幹のような腕をむきだしにした毛むくじゃらのグラディエーターとか――そういう映像が、一人きりでいるときにフッと僕の視界に割り込んでくる。あまりに生々しくて幻想的なそれらは、僕を不安にするよりむしろ愉快な気持にさせた。それはたぶん、僕が心というものを、ストレスにみるみる磨耗して壊れてしまいがちな精密機械というよりも、再生や浄化のちからを備えた大自然に似たものと考えていたからだと思う。僕は幻覚という現象を、心が毀れかかっている兆しではなく、自然治癒の働きによるものだと信じていた。だから僕は、人間関係に支障を来たさない範囲において、幻覚を積極的に楽しんだ。美しい風景を讃えたり、心のなかで視野に現われたひとにものを尋ねたり、寸劇のような断片をノートに書き留めたりした。そうして僕はブラックボックスのなかに充溢する幻影に酔い、望んで埋没していこうとした。僕はこうして孤独に適応していったのだ。

 外に沈黙をまもり、内に孤独を楽しむ僕は、案の定、まわりから「異様なヤツ」のラベルを頂戴することになった。かれらと僕のあいだには、微妙な空気が流れていた。それは嫌悪とか侮蔑とはすこし違う。もしそうだとしたら、僕は中学校にいられなかっただろうから。言葉にするのは難しいけれど、敢えてその空気を表現するのなら、「畏れ」だったと思う。切腹をするひと、飛び下りるひと、首を吊るひとへの理解が及ばないことからくる一種の恐怖と似ている。僕はみんなのまえでとくべつ何をするということもなかったけれど、彼らが僕を、ワニをこわがらない人だと本能的に嗅ぎ分けていることは認識していた。

 ぼうっとしている人間には、ちょっとした違和感としてしか感じ取れないような、ある種の緊張をはらんだ関係が、僕とまわりの間に出来上がっていた。これは僕にとって保護膜だったけれど、かれらにとってはせまい板の上の小ぢんまりした均衡に無礼な一撃をあびせるものでもあった。不安定な苛立ちや羨望みたいなものを、僕は度々感じたけれど、それはワニから自由になった僕にとって、すでに免疫のできたインフルエンザのようなものに過ぎなかった。僕はあくまで飄逸としていた。

 この独特の立ち位置をクラスのなかに見出した僕は、背中から荷を降ろしたようにせいせいしていた。少しばかりバランスに気をつけておけば、僕は孤立からくる危険を回避しながら、クラスの煩わしい人間関係からも自由でいられた。快適にクラスの海を遊泳し、そうして久し振りに勝ち誇ったような気分になった。あるいは、すこし図に乗りすぎたかもしれない。クラスに対してではなく、自分に対して、だ。というのも、一連の失敗から、ふわふわした個人的で幻想的な日々を台無しにしてしまったのだから。僕はあの頃、心の怪我の深刻さをまったく知らなかった。

 クラスに紘子という幼馴染がいた。小学校にあがるまえは一緒にお風呂に入ったりもしたけれど小学校高学年あたりから少しずつ疎遠になり、中学に上がるころにはすれ違っても喋らなくなってしまった。たしか小四のとき、紘子のお父さんが他界して、半年後に母親が再婚した。紘子はそれから急に垢抜けた。髪の色をあかるくし、みじかいスカートを好んで穿くようになった。ネイルに凝りだし、小学校に薄化粧をして来ることさえたびたびだった。紘子はがんばって大人になろうとしていた。それが、思春期に差し掛かるすこしまえの僕の目には異様に映った。身内と思っていたのが、まるで他所の人になってしまった。むこうもむこうで、同年代の男子を小ばかにするようになった。二三コうえの、中学の不良にしか興味がない様子で、年がら年じゅう、誰々さんがカッコいいだの、彼女にしてほしいだの、おなじような格好の友達を相手に騒いでいた。発情期の雌猿みたいなかの女に、僕はどう接していいか分からなかった。そのなかには、目の前で大人びていくかの女への劣等感みたいなものもあった。かの女はクラスのなかでも飛びぬけて奇麗だった。

 中学にあがるとすぐ、女の子にとっては辛い噂が流れはじめた。露骨に言えば、「ヤリマン」という評判である。そんなのは噂に過ぎなかったが――と断定できないのが僕としても辛い。夜、家を抜け出して不良の先輩の家に行き、明方になって帰ってくるというのが常なのだから、弁護士よりは検察のほうが有利な状況だった。けれどもかの女は評判に対してあくまで飄逸としていた。無頓着であった。ただ、その姿勢は、僕を自由にしてくれた飄逸さとはすこし違っていたようだった。かの女はどんどん荒んでいった。まるで躁状態になって授業中に騒ぎまわり、学校を抜け出しては先生たちを振り回した。鞄や机はカラフルなマジックの落書きで埋めつくされた。紘子の目はいつも潤んで充血していて、可憐だった顔はますます山猿じみてきた。僕はブラックボックスのなかでメリーゴーランドのように回転しながら、そんなかの女の様子をぼんやりと遠く眺めた。

 そうして僕の胸に湧起る、甘ったるいような咽せかえるような感情を、僕はうまく受け止めることができなかった。その感情が僕をどこへ連れて行こうとしているのか、まるで分からなかった。危なっかしくて、身を委ねることはできない。まして、感情は激しい熱を帯びていたから、僕みたいなすこしくらいの飄逸で得意になっているような子供はあっというまに飲まれてしまうだろうと思った。感情への恐れはそのまま、紘子に転嫁された。僕はかの女に話しかけられても、そっけない返事をするのが精一杯だった。幼馴染なのに、そうするしかできない自分を、僕はもっと恥じて良かった。――部活の帰り、体育館の傍を歩いていると、ふと紘子に声をかけられた。ふりかえると、水道の傍の階段に腰をかけた紘子が、夕日のなかで妖しく微笑んでいた。あのときの、おぞましい顔は未だに忘れない。愁いを帯びた眼、薄くひらいた唇のあいだから気だるげに覗く白い歯、細い首にくすぐったそうに落ちかかる髪――極めつけには、無防備な制服のスカートのあいだから、桃色の下着がすこし見えていた。ぜんぶ、紘子はわざとやっているんだと、僕は直観した。そうして、どうしようもないくらい嫌悪感を抱いた。それは決して紘子そのものに向けられたものではなかったけれど、穂先の鋭いその感情は僕の顔をはっきりと歪めてしまった。すると、紘子の表情が凍りついた。なにか用、と僕は尋ねた。紘子は膝を合わせて、なんでもない、と答えた。僕はかの女から顔を背けると、ラケットをぶら提げて夕日の赤いひかりのなかを黙々と歩いた。怖くてうしろは振り返れなかった。

 僕はこんな具合で、紘子との適切な距離を模索していたけれど、孤独なブラックボックスの車輪の軸には少しずつ砂利が混じったり、油を欠いたりするようになった。ゲームのなかの女性キャラに、紘子と似たところを見つけて嬉しくなったすぐあとに、僕の大切な世界へ土足であがりこんでくるかの女に激しい苛立ちを覚えたりした。僕は生々しい紘子に関わっていこうという衝動と、あくまで郷愁の気だるい憧れのなかに留まろうという想いに引き裂かれそうになった。いまさらワニたちを甦らせて、板を敷いて、そのうえを歩いたりなんかしたくない。けれども紘子の笑みのむこう、桃色の下着のなか、瑞々しい嬌声の裏には、いちいちワニがいる。かの女の陰にはとびきり大きなワニがいる。かの女は僕にとって、まるごと厄介事だった。僕はただ風のように生きたいだけだった。意図はどうあれ、それを阻もうとする紘子を、いつからか憎むようになっていた。だから、夏祭りに行こうという紘子の誘いも、言下に断わるつもりだった。けれども、紘子が僕の目をじっと見て、

「分かった。シュウは私のことが怖いんでしょ?」

 分かり易い挑発だと思った。けれども、それは有効だった。紘子の指摘はまったく正しくて、そのことを僕は認めたくなかった。僕は恐れていたとおり、いとも簡単に紘子の思い通りになった。夕暮れ、待ち合わせた神社の境内にやってきたかの女は、黒にちかい紺の地に、あかるい色彩の花をあしらった浴衣を着て、帯にあさがおの団扇を差し、――すっぴんだった。ネイルも外していたし、髪も、小学生の頃はいつもそうしていたように耳のうえで二つ結びにしていた。それで僕はすぐに紘子と分からなかった。かの女には、いつになくむかしの面影があって、なぜか僕に、ゲームと幻想のなかでしか味わった事のない、郷愁に似たあの感情を催させた。僕は歯を食いしばって言おうとして、――似合ってるじゃん。のひとことを結局飲み込んだ。言っていたら、運命は変わっていたかもしれない。あるいは、変わらなかったかもしれない。けれども、もしあの時に戻れるのなら、僕は唇や歯茎に釘をうちこんででも、その言葉を伝えるだろう。この夕べを思い出して、僕は幾度ほぞを噛んだか分からない。紘子は僕にバナナチョコを買ってくれとせがんだが、――なんでおまえにおごらなきゃなんないんだよ。と、子供らしいことを言って、それさえもしなかった。

 僕は、さっさと帰ろうぜ的な空気を出して、黙りこくって、少し離れて歩いた。ほんとうを云うと、紘子が付き合っていると噂の、イッコうえの先輩が怖かった。見付かったら、紘子は庇ってくれるかもしれないけれど、たぶん一二発は殴られることになるだろう。夏祭りにヤンキーが来ない訳がない。それで僕はずっときょろきょろと提灯のしたの人ごみを見回して、金髪がないかとビクビクしていたのだ。紘子はそんな僕を察したのか、

「だーいじょうぶだって。私、先輩に相手にされてないもん……」と、淋しそうに言った。先輩というのは、紘子が毎晩のように押しかけていた人のことらしい。相手にしてない下級生の女の子を泊めるという意味がよく分からなかったけれど、僕はとにかくホッとした。そうして、紘子に僕はどう考えたって釣り合ってないと思って、暗澹とした。

「無理に誘ってごめんね」沈黙に耐えかねたように、紘子が言った。「そんなにブスっとしてるんだったらさ、いっそ、私のこと殴ったら?」

 僕は、紘子が意味の分からないことを言ったりしたりするのを当然のように思っていたから、はあ? とだけ答えた。紘子は帯のしたのほうを指さして、

「ここ。思いっきりやって」

 僕は訳が分からず、そのうち馬鹿にされているような気がしてだんだんイライラしてきた。それで、

「あんまりおちょくってると、本当に殴るよ?」と、グーを振りまわす仕草をした。――紘子はふざけて反してくるのかなと思ったら、目をかたく閉じて避けようともしなかった。

「女のおなかを殴れとか、頭おかしいんじゃないの?」と言って、僕がポケットに手を突っ込むと、紘子は拍子抜けした顔をした。

 祭りの通りをざっと歩いてしまうと、僕は紘子に、

「じゃあここで」と言った。

「ええ。もう帰っちゃうの?」

 僕は横をむいた。早く帰ってゲームがしたかった。

「シュウって変わっちゃったよね。ヤな奴……」

「変わったって、紘子ほどじゃないでしょ」

 最後に交わしたのは、変わらない明日がまた来るんだと極めてかかった、くだらない言葉だった。その晩、紘子は遺書を残してマンションのベランダから飛び降りてしまった。すぐに病院に運ばれたけれど、意識は戻らないまま、明方ちかくになって息を引き取った。僕は紘子が駐車場の地面に叩きつけられて苦しんでいた頃、真っ暗な部屋のなかで黙々とゲームをしていた。

 僕は紘子の死について、ドラマ的に語ることはなにひとつなかった。僕の内側と外側に起ったことは、あまりに散文的だった。僕はなにより、遺書の日付を知りたいと思った。紘子が追いつめられた経緯や理由は二の次だった。なぜなら、日付が夏祭り以前のものであったら、僕は責任を逃れられる。そうして、紘子をほんとうに可哀想だと思って涙が出てきた。自殺を選ばなければならないほど追い込まれたからではない。死のうと決めた日に、よりによって僕のような人間と夏祭りに一緒に行ってしまったことが、ひどく切なく感じられた。

 遺書のなかには、僕についての言及もあったらしい。けれども、そのことを教えてくれたのは、紘子のお母さんでも義理の父でもなく、紺の背広を着た若い刑事だった。かれはとつぜん自宅に僕を訪ねて、月並みのお悔やみを並べたあと、遺書の話に触れ、

「――ただ紘子さんの遺書はしばらく警察で預かることになりそうなんだ。だから、君のことに触れた部分を書き写してきた。読んでみるといいよ」

 一枚のA4紙を置いていった。ひらくと、紘子は僕の冷淡を見透かしたように、死のうと決めたのは数日前で、シュウを誘ったのはただの気まぐれだから気にしないように――という追伸を残していた。それから二日ばかり後になって、紘子の義理の父が警察に連れていかれた。母親はひと月ほどしてマンションを引き払い、どこかへ行ってしまった。葬式は出さずじまいだった。僕は紘子の不可解な言葉と、遺書と警察にまつわる事柄から一つの仮説を立てた。それが事実でなかったら、僕は死者をこの上なく侮辱したことになるが、もし事実であったら、――僕は生きる価値のない冷酷漢ということになってしまいそうだった(小学校の卒業文集に先生がこんな言葉を寄せてくれた、「人は優しくなければ生きていく資格がない」……)。けれども僕はほかにどうしようもなくて、相かわらず飄逸を気取り、クラスの噂話に耳を閉ざし、家に帰ると、溺れかけたひとが流木にすがるようにしてゲームに没頭した。

 季節がめぐって、僕の街に初雪が降った。わたをまぶしたような街路樹を傘のしたから見上げていて、ふと紘子のことを思いだした。小四の三学期、バレンタインデーも雪だった。その日の帰り、僕は紘子から手作りのチョコレートを貰った。割と本気の手紙がそえてあって、もし私の気持を受け止めてくれるのなら、ホワイトデーに返事を聞かせて、とあった。僕は悩んだ挙句、小遣いをはたいて結構なホワイトチョコを買った。それをランドセルに入れて、いちにちじゅうそわそわして放課後を迎えた。けれども、渡すことができなかった。男子たちの、チョコをやりとりするクラスメートを冷やかす様は常軌を逸していた。自分も見付かろうものなら格好の獲物にされるのは目に見えていた。それで、不自然に放課後に残る紘子を尻目に、さっさと帰路についた。むろん、後日紘子から不義理をひどく詰られた。あまりにしつこいので、そのうちバナナチョコでも買ってやると答えてやった。その記憶が、寒風に流されて斜めに降り落ちる雪を見ていて、パッと甦った。僕は学校へ行くのをやめ、近所の駄菓子屋をまわってバナナチョコを三本買うと、電車に乗って紘子のおばあちゃんの家を訪ねた。紘子は、亡くなったお父さんの実家の墓に埋葬されていた。僕は紘子に誘われておばあちゃんの家に一泊させてもらったことがあって、おばあちゃんのほうも、僕を覚えていてくれた。仏壇に線香をあげて、お茶をご馳走になって、それから菩提寺の場所を教えてもらった。行ってみると、雪を被った御影の墓石が、石畳のつきあたりで淋しそうにしていた。僕はチョコバナナを供えて、墓石のまえに額をこすりつけた。そうして、しんしんと降り込めるなか、指がかじかんで動かなくなるまで号泣した。なにが飄逸だと思った。なにが幻想ファンタジーだと思った。

 僕はひどく混乱して、いろいろなことが胸のなかを去来したけれど、それを俯瞰して見ることができなかった。紘子の無邪気な笑顔や、すこしずつ狂騒的になっていく様子を次々と思いだして、まるで描写の残酷すぎる戦争映画を見ているようにぼうっとした。僕の経験や価値観を数珠のように束ねている紐――飄逸というスタイルが、ぶっつりと千切れてしまったせいで、すべてがばらばらになって僕の傍で猛威を振るっていた。

 けれども、茫然自失というのとはすこし違っていた。ある部分では、僕は目が覚めたような気分だった。僕はなにも分かっていなかった。世界と関わり、開拓していく意義を見出せず、斜に構えていた僕の傍には、どうしても一刻も早く大人にならなければならなかった紘子がいた。その構図に初めて気がついて、僕はふわふわと過してきた日々の穴を埋めなければいけない気が、どうしてもした。そうしなければ紘子を失ったことが無駄になると思った。この気持ちが贖罪のためなのか、自分探しという表題の浮ついた成長欲なのかは分からなかったけれど、まとまりを欠くものであったことは確かだ。僕は錯乱して、悲しみをもてあまして、ふぶき始めた銀鼠色の空のした、お寺の鬱蒼とした裏山の獣道を登りはじめた。

 こんなときにはありふれた感情――どうとでもなれ、という意識が無かったとは思わない。そして、神様というやつは願い事なんか滅多に聞いてくれないくせに、この種の小さな呟きは決して聞き漏らさなかったりする。少なくとも、僕は運命というものを偶然の集合とは考えていなかったし、これから見舞われる出来事を経てからはいっそうその思いが強くなった。――僕は『異世界』へと連れ去られたのである。

 山中でみごとに道に迷った僕は、白く蔽われた叢林のなかを、幽霊のように歩いた。氷点下の風が抜けるたびに耳はちぎれるように痛み、足先からは感覚がなくなりかけていた。意識が朦朧としてきて、赤い星のようなものがしきりにちらついていた。樅や杉はみんなクリスマス・ツリーに見えた。僕はひとつの結末を予感し、それならそれで構わないとばかりに、木の根元にどっかと腰を降ろした。そうして、酷寒のなか、柔らかく身体を包み込む疲労感に弱ってきた意識を明け渡した。

 うつらうつらしていると、肩を硬いもので強く突かれた。僕は、ああ、救助のひとでも来たのかなと、ぼんやりと目をあけた。視界にいたのは、ちょっと妙なひとたちだった。ずんぐりした頑丈そうな身体に熊の毛皮みたいなのをまとい、鉈を手にしていた。顔つきは、明らかに日本人ではない。テレビで見た、モンゴルとかイヌイットの人たちに似ていた。そうして彼らは日本語とは異なる言葉を使った。その言葉で僕にどうこう云うのだけれど、僕は相かわらず疲れていて、その異様さを異様だと受け止めるほどの活力にも事欠いていた。それで、「うるせーよ、バカ……」と、投げやりに呟いた。すると彼らは了解して腹を立てた訳でもないだろうが、いきなり僕に麻の袋のようなものを被せ、紐のようなものをかけた。そうして担がれ、動いていく気配がしばらく続いた。ときおり、太い声でみじかい言葉が交わされる。僕はなんとなく、連れ去られるということは、彼らになにかメリットがあるからで、即、殺されたりはしないだろう、などと暢気にたかをくくって、揺れに誘われるままに浅い眠りと覚醒をくりかえした。だいぶ時間が経って、麻の袋を外されたとき、僕はおなじ年頃の男女に混じって、牢屋のようなところにいた。彼らもやっぱり、日本語とは異なる言葉をつかっていた。ただ、かれらの容貌が面白かった。顔立ちはどれも白人っぽかったけれど、猫のような耳を持っていたり、インディアンのような刺青が頸から頬まで入っていたり、なかにはスターウォーズに出てきたような毛むくじゃらの人(人?)もいた。かれらは概ね、意気消沈していて、牢屋の壁にもたれたり、頭を抱えて唸ったり、おなじ言葉を延々呟きながら涙を流していた。それはたぶん親や大切なひとの名前なのだろう。

 小窓のむこうが明るくなると、鉄格子のまえに色々なひとがやってきた。黒い詰襟の服を着て、黒くて丸い帽子を被った中年の男性が現われて、僕の傍にいた金髪の少女を指さしながら、ずんぐりイヌイットになにか話しかけると、イヌイットは扉の鍵をあけて少女を手招きした。しばらく問答があり、それから少女は首輪をかけられて、中年の男に引かれていった。それで僕はピンときた。ここは奴隷売買の現場であるらしい。ゾッとなって、石敷きの床にこびりついた泥を指ですくい、頬に塗りたくったりしたけれど、あとで知ったのだが、その必要はなかったようだ。僕は科学の進んだ『異世界』から連れてこられ、しかも(この世界から見たら)高度な教育を受けた『文明人』であり、男娼としてよりはそちらのほうに値打ちがあったらしい。

 けれどもあのときの僕はそんなこと知らないから、心中穏やかではなかった。ずんぐりの一人が、食事を運んでくるとき、僕の泥を塗りたくった顔を見てニヤニヤしやがったけれど、僕はそれを冗談の文脈のなかに置くことができず、ただ戦々恐々とした。

 僕に買い手がついたのは、それから二日後のことだった。買い手はサーカスの団長のような髭を生やしたかくしゃくたる老人で、鉄格子のむこうから灰色の瞳で僕をしばらく見つめたあと、やたら腰を低くしたずんぐり男に、毅然たる調子で言葉をかけた。ほかにも従者のようなひとを二人連れていたから、きっと偉いひとなのだろう。それから僕は入浴を強制され、赤毛の小奇麗なおばさんにされるがままになって髪や衣服を整えて、四頭の馬がひく大きな馬車に乗せられた。正面には団長髭が坐っていて、ステッキに顎を乗せた格好で、白いものの混じった長い眉を上げ下げしながら、じろじろと僕を見ていた。ときおり、むこうの言葉で話しかけるのだけど、僕はむろん分からないから、その都度どうもという顔をしてやり過ごした。団長はときおり、優しそうに笑った。奴隷に落ちた身の上では、それがやけに有難く感じられた。

 連れていかれた先は、もの凄い豪邸だった。動物園の鉄柵のような頑丈な門を抜けて、玄関につくまで、馬車は延々と進まなければならないほど、敷地は広い。見るからに貴族の庭園という風で、何人もの庭師が植え込みの剪定に従事していた。湖の畔にトラックのようなところがあって、馬に跨った逞しい男たちが、先に布の玉をつけた練習用の槍をもって、雄たけびをあげながら打ち合いをしていた。あれはきっと、本当の意味でのナイトというやつに違いない。僕はテンションが上がってきてしまい、窓に顔をはりつけるような勢いで、馬上の男たちに見入った。そうして、この世界に魔法使がいますようにと切に願った。でないと、異世界へやってきた甲斐がない。見つけたらきっと弟子にしてもらおうと、僕は勝手に決め込んでいた。――あの頃、僕は十四歳だった。

 実を云うと、日頃から(連れて行かれるならこんな異世界がいい……)という希望があって、ここはかなりいいところまで来ていた。街並は中世ヨーロッパ風で、見た感じ封建社会っぽいし、人間以外にも知的で社会性のありそうな種族がいる(あの動物っぽい耳や体毛はまさかアクセサリーではないだろう)。アーサー王の伝説や十字軍を髣髴とさせる騎士たちもちゃんといそうだし、あとは魔法さえあったら言う事がない――奴隷という我が身を忘れて、そんな風に心を弾ませながら、団長髭に続いて屋敷へ入っていって、僕はがっかりしてしまった。奇麗な草花の描かれた白磁の壷のそばに、どうみても電話としか思えないようなものがあったのだ。ダイヤル式で、聴くところと話すところが分かれている、木製のいかにもレトロな作りだったけれど、電話があるということはそれ相応の科学水準を持った世界であるはずで、馬上槍やツーハンデッドソードの時代は過去のものとなっているかもしれない。予想したとおり、僕は廊下に飾られた斧やメイスなどの骨っぽい武器のなかに、先込め式の銃を見つけた。ああ、これで確定である。馬上で「我こそは……」などと名乗りを挙げているあいだにズドンとやられてしまう時代だ。来年あたりには産業革命が始まって、街のほうは薄汚い色の煙で常時蔽われることになるかもしれない。

 少ししょんぼりしながら、けれども映画のセットのような武器の数々を夢中で眺めているうち、異様な剥製に目がとまった。黒っぽい蜥蜴のような皮でできた、大きな二つの翼である。こうもりとは明らかにサイズが違う。その剥製には台座があって、真鍮だか銅だかのプレートが嵌めてあった。翼はなにかの記念品なのだろう。芸術品にしては少し野暮ったい感じがする。それにしても、この世界にはモンスターというやつがいるのかもしれない。モンスターとの戦いに明け暮れる冒険者がいるのかもしれない。僕は、団長のあとを歩きながら、この世界の言葉が喋れないことを初めてもどかしく感じた。

 もどかしいどころか、脅威に思ってしかるべきだ。身寄りのない世界へ飛ばされて、言葉も喋れないのでは、この先、結構な苦労をすることだろう。――などと、夢が醒めてしまうようなことを考えるうち、僕は使用人の控室のようなところへ通された。そこで団長さんと一緒にしばらく待っていると、猫のような耳を生やした、まっ白な髪の女の子が這入ってきた。見たところ、僕とそれほど歳は違わないようだった。暢気で無邪気そうな感じがするのは、すこし眼が離れているからだろう。草食動物のような印象がある。けれども鼻筋はとおり、薄めの唇は形がよく、端的に言うならばかなり可愛らしい。髪は長い頸の中ごろまでで切りそろえ、手足は仔鹿のようにすらっとしている。皮のミニスカートにジャケットを着て、ベルトには短剣のようなものを提げている。

 かの女は僕の前にたつと、緑の瞳でジッと僕をみつめた。僕はつい癖で、目を逸らした。すると、

(あたしを見て……)

 という思考が、僕の意識のなかに割り込んできた。僕は驚いて椅子から腰をあげた。

(あたしはあなたの心に直接語りかけることができるの。あなたの思考も読みとれる。驚かせてごめんなさい。ここには、あなたの世界の言葉を喋れるひとがいないの。だから、あたしがこうして通訳の代わりをすることになったわけ)

「なにこれ……すっげえ……魔法とか?」

 僕が声に出して尋ねると、かの女は少し笑って、

(そう、一種の魔法。エルフの血をひく人は生まれつきこれくらいはできるの)

 むろん、かの女がエルフという名詞を使ったのではない。後にかの女の父系の種族のことを僕が調べて、エルフという言葉を当てはめたのである。森に棲む、魔法と薬草学に造詣の深い種族で、肌は白く、体つきは多くが痩せ型で長身である。詩や音楽の才能に恵まれたひとが多いらしい。けれども、猫のような耳が生えている訳ではない。かの女は人狼族ワーウルフの血が四分の一、入っていて、その影響であるらしかった。かの女は口を閉じているから分からなかったが、じつはかなり鋭い犬歯を持っていて、それもやっぱり血のためだった。純血でなかったかの女はそのことで色々と苦労をしたようであるが、その辺りの事情はのちになって聞かされた。――それから注釈になるが、「人」はすなわち「人間」を意味するのが一般だけど、これ以降は、知的で社会性のある種族をひっくるめて「ひと」と呼び、生物学上の人間は「人間族ヒューマン」と呼んで区別することにしたい。種族名を始めとするこの世界固有の諸々の言葉についても、今般のエルフとおなじ具合に、僕が調べたことに基づいて、地球上で似た言葉があれば、架空のもの実際のものによらずそれを当てはめていくつもりだ。適当なものがないときには、造語をしたいと考えている。

(あたしはベネッタ。よろしくね。あなたの名前は?)と、少女は思考を伝えてきた。

「あなたは魔女ウィッチ? だったら、教えてください。どうしたら魔法が使えるようになるんですか? 僕は魔法使いになりたい!」

 ベネッタは、苦笑いを浮かべて、団長になにか喋った。すると団長は口髭を震わせて笑いをかみ殺すような気配を見せた。僕は恥かしいことを言ってしまったのだなと思って、すこし恐縮した。

(わたしは魔女じゃないわ。それに、あなたの世界のことは分からないけれど、ここでは、素質と天命はひとつなの。才能があるということは、神様からそれ相応の義務を課せられていることを意味するのよ。そして、才能が豊かであればあるほど、運命は嶮しくなる。だから定めというものの怖さを識る賢明なひとは、才能を欲しがったりしない。あなたが魔法使ウィザードになるとしたら、相応の災難を背負うときよ。悪いことは言わない、諦めたほうがいいわ)

「でも、ベネッタさんは魔法が使えるんでしょう。やっぱり、相応の天命ってやつを負ってるんですか」

 かの女はどちらともつかない様子で(そうね)と伝えてきた。(ところで、まだあなたの名前を聞いてないわ)

「ああ、ごめんなさい――」と、僕は慌てて言った。「シュウです」

 苗字は名乗らなかった。奴隷に姓というのもヘンだと思ったし、家族の一員だという意識はずっとまえから薄れていて、省けるものなら省きたいとさえ考えていた。ベネッタはすこし妙な顔をしたけれど、無理に聞こうとはしなかった。

 それからかの女には様々なことを教えてもらった。僕が奴隷として上級であるという事情もそうだし、奴隷商人が法術師ウォーロックの助けを借りて異世界まで出張り、自殺をしようとしているひと、遭難して助かる見込みのないひとなどを攫ってくることがあるのだという話も聞いた。確かに僕は、あのまま雪山にいれば凍死してしまったかもしれない。団長さんは僕が自殺をしようとしていたものと考えているらしく、気分はどうだ、精神的に落ち着いたかと、ベネッタを通してしきりに尋ねてきた。僕は、まったく問題ない、雪山をうろついていたのは、少しムシャクシャしていたからだと答えた。それでも団長さんは心配が消えなかったと見えて、数日はゆっくりしていると良いと言ってくれた。このお爺さんは屋敷の主であるクロウザント候に仕える祐筆のひとりで、じつは士爵ナイトの爵位をもつお偉いさんということだった。名前はローガル・ジスティリウスといい、家中のひとからは卿の敬称つきで呼ばれている。

 ジスティリウス卿は、――シュウは見たところまだ子供であるし、故郷が恋しくなることもあるだろうが、いったん死を望んでこの世界に連れて来られたからには、大いなるもの(神と同義らしい)の許しを得ない限り、元の世界へは戻れない。いくら法術師ウォーロックに世界を超越する魔方陣を描かせても、もとの世界には繋がらないはずである。ここに来ることになったのも、縁である。かくなるうえはクロウザント家の僕として励むように。――というようなことを、眉や髭をそびやかせながらおごそかに話した。のちに僕は、案の定と言えばいいのか、身を焦がすようなホームシックに度々駆られるのだけれど、このときはブラックボックスの世界とおさらばできてせいせいしていたから、帰還の手がかりになることを適当に聞き流してしまった。あとで分かったことだが、法術師ウォーロックによる世界を超越するための魔方陣は、魔法として相当に完成度の低いもので、どこへ繋がるのか分かったものではないそうだ。詳しい理屈は分からないが、時間軸のなかで分岐して独自の発展を遂げた無数の世界が重なり合っていて、そのひとつが僕のいた世界であり、またこの世界であるらしい。なかには人の棲めない危険な世界もあって、魔方陣を抜けたとたんに灼熱のマグマや毒性のガスにやられて死んでしまうこともあるという。僕がいたような進んだ文明をもった世界へ至るのは極めて希なんだそうだ。僕を攫いに来たあのイヌイットたち――これも後になって知った事だが、かれらはドワーフ族と人間族のあいの子で、ほかのハーフの例にもれず、両方の種族から激しい差別を受けているのだという――は、実際のところ、いのちがけであったのだ。ところが、首尾よく、理想的な世界へ抜けることができて、そのうえ活きのいい遭難者を見つけ出し、今頃連中は酒場を貸しきりにして豪勢にやっているのではないかという、ジスティリウス卿の話だった。

 それから二人は、奴隷といっても卑屈になることはないのだと、口をそろえて僕を慰めた。戦乱続きのこの大陸では毎年のように大量の捕虜や避難民が奴隷に身を落としていて、いまでは街の四人に一人が奴隷という有様だった。ベネッタも身分上は奴隷であるという。それでふと疑問に思って、

「もしかして、あなたもよその世界から連れてこられたんですか」と尋ねてみた。するとベネッタはさらさらと純白の髪を揺すって首を振り、

(あなたはほんとうに希な例なのよ。――あたしはこの世界で生まれた混血種で、小さい頃に母親から棄てられ、斥候スカウトの里で育てられたの。けれども戦争で里が焼かれて、あたしは王国軍の捕虜になった。それからクロウザント候に買われて、令嬢にお仕えすることになった。だから――、シュウとは同輩になるわね)

 卿がベネッタに喋りかける。それを、ベネッタは同時通訳の要領で僕に伝えてきた。

(令嬢――ジュノ・ヒュエル・ディ・クロウザント様が、これからあなたの主になる。大変活発でお優しい方だから……)そのときベネッタは少し思考を途切れさせて、曰くありげに微笑み、(誠心誠意お仕えするのよ)

「ちょっと、いま何で笑ったんですか」

(ジュノ様はすこしユニークな方なの。そういう意味)またジスティリウス卿が話しかける。ベネッタは耳を傾けて、(これから謁見するから、ご挨拶なさいって。そそうのないように――、って卿の言葉を一応伝えるけれど、萎縮することはないわ。気さくなお人柄だから)

 それから僕はふたりの先導に従って、中庭をつらぬく渡り廊下を歩いた。午前の瑞々しい陽ざしが手入れの行きとどいた広葉樹の枝に砕けて、木陰が宝石のようにきらきらしていた。――こんな風の光景は日本の地方都市にもあったけれど、なにかが際立って違っていた。それは彩りや光の具合、樹木の種類とかではなくて、もっと本質的なものだ。いったいなんだろうと、考えを巡らせていると、ベネッタが僕を振り返った。

(シュウは幾つなの?)

「十四歳です」と答えると、

(ちょうど、子供の終わりが始まる頃ね)と、妙に他人事のようなことをベネッタが云うので、

「あなたは?」と訊いてみた。「僕とそう違わないでしょう」

 ベネッタは弾けるように笑って、

(ありがとう。でも、あたしはもう七十年も生きてる。人間で言えば、おばあちゃんなのよ)

「本当ですか」

 僕は皺ひとつない、それどころか少女のようにしか見えないベネッタを、しげしげと見つめた。

(エルフ族も、人狼族も、長命の種族なの。その血が混じったから、あたしは特に長命らしいわ。それからたぶん、あなたも長命のはずよ。というか、歳を取らないと思う。あなたの魂はあくまであなたの世界に所属しているから、ここで過した時間はあなたの魂を侵食しない。だからずっと十四歳の身体のままよ)

 僕は耳を傾けて聴いたつもりだったけれど、よく理解できなかった。ついていけない、と云ったほうが適切かもしれない。それで、僕のほかにこの世界に連れてこられた人も年を取らないのかと訊いたら、ベネッタはそうだと答えた。僕は、だったらそうなんだろうと思うばかりで、その意味するところを現実味をもって考えることが相かわらずできなかった。僕のように、他所から連れてこられた人は、「異界人」というらしい。その響きに、なんとなく悪い気がしなかった。自分が特別なんだと言われているようだったからかもしれない。

 そんなことを考えながら、ベネッタのスカートからちょろっと伸びている、アメリカン・ショートヘアのような尻尾のゆらゆら揺れるのを見つめているうち、回廊のすこし先で、きゃっきゃっという女の子の楽しげな声があがった。ふと顔をあげると、かぼちゃのような下着に、絹の肌着を着た、五六歳くらいの女の子が、ぱたぱたと廊下の角から角へと駆けていった。それから、スカートの裾をすこしつまんだメイドさんが、なにか困ったように言葉をかけながら、あとに続いた。はしゃぐ声が遠くなり、また近くなって、今度は逆方向に女の子が駆けていき、それをメイドさんが追いかけていった。

 女の子は、奇麗な金髪を、耳のうえで二つ結びにしていて、瞳は目の覚めるようなブルーだったけれども、その横顔が驚くほど小さい頃の紘子に似ていた。その子がとつぜん、角を折れ、僕にむかって物凄い勢いで走ってきたので、唖然としてしまった。傍では、ベネッタとジスティリウス卿が片膝をついて恭しくしたので、きっとこの子がジュノというお嬢様なのだろうと思った。僕はベネッタに、膝をつくよう促されたけれど、女の子のきらきらとした瞳に心を奪われて、ただ莫迦みたいに突っ立っていることしかできなかった。

 女の子が僕に微笑みかけ、それから一言二言、喋った。語尾があがっていたから、疑問形なんだろうと考えた。それをベネッタが通訳してくれた、

(あたしと友達になってくれる?)

 僕は思わず号泣しそうになった。それは紘子が引っ越してきて、僕に初めてかけてくれた言葉とおなじだったからだ。そうして、僕は神様の意図がはっきりと分かったような気がした。この世界へ連れてきてくれてありがとうと、僕は神様に言葉をかけた。この子を主と仰ぐのなら、奴隷の身分さえ望むところだ。

 第一章を読んでくださいましてありがとうございました。いかがでしたでしょうか? これから異世界の物語が幕を開けます。最後までお付き合い頂ければ幸いです。

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