風に乗ってきたもの
――この館から出てはいけない。
エミリオは、物心ついた時からずっと傍にいる少年エルクに、そう言いつけられてきた。それがどうしてなのか聞くと、外には世にも恐ろしい魔物が蔓延っていて、人間を食べてしまうのだとか。エミリオはそんなのに食べられたくなかったし、特にこれといってお屋敷を出たいという願望もあるでもなかったので、忠実にエルクの言いつけを守っていた。外に出ることはあるが、お屋敷内の庭の花壇を手入れする程度で、お屋敷の門から外へは一度も出たことがない。自分の部屋の窓から外を眺めることはあっても、その外をもっと間近で見たいという願いは現れなかった。
「エミリオ」
部屋に、エルクが入ってきた。十三四年経っても、エルクの容姿は変わらない。エミリオが赤子の時、エルクは自分を引き取ってくれたらしい。まだ年若な少年なのに、ずっとエミリオに尽くしている。その献身は見事なもので、エミリオの育て親という範囲をゆうに超えている。エミリオの着る服から髪をくしけずること、眠れないとだだをこねたら、ずっと付き添ってくれる。エミリオは、エルクに申し訳がなかった。そのことを遠回しに話すと、「好きでやっていることですから」と微笑まれた。
「エルクは、自分のことに熱中してもいいんじゃないかな」
「してますとも。庭の花壇に植えてある薬草を栽培するとか、街に出て不足のものを買いに出かけたりとかね」
「外は魔物でいっぱいなんでしょ? 怖くない?」
「僕は自衛の手段をある程度持っていますから」
「じゃあ、僕も自分のことは自分でやれるようになれば、少しはエルクの負担も減らしてあげられるかな」
「別に負担だと思っていませんよ。エミリオはそのままでも構いません。……さあ、僕は外へ出なければなりませんから、留守番を頼みますね」
エルクはエミリオの部屋を出て行った。昼下がりになると、こうしてティータイムがてら他愛もなく雑談をする。たまに勉強を見てもらうこともある。庭の薬草採取を手伝わせてもらうこともある。夜は食事をして、湯を浴びて、少し話して眠る。エミリオの毎日は驚くほど変化がない。それを、エミリオ本人が疑問に思うこともない。
この屋敷を中心としたある範囲には、誰も人が入ってこない。エルクが魔除けとして結界を張っているためである。この魔除けは人間にも効果があるようで、エミリオがたまに窓から屋敷の門を眺めることがあるが、一度として自分とエルク以外の者を見かけることはなかった。ここは、外と完全に近い形で切り離された、また別の世界なのだ。外の世界とは違う。この世界にいるのは、エミリオとエルクだけ。エミリオは、かつて自分を拾ってくれた小さな兄弟のことを忘れている。
そろそろ日の落ちる頃、本を読むのも飽きて、窓からお屋敷の門の方を見下ろす。退屈になると、無意識に、こうして門を眺めるようになった。エミリオ本人は、危険を冒してまで門の向こうへ行こうとは思っていない。それなのに、どうして門の方を眺めるのか分からない。
もしかしたら、誰かが迷い込んで来てくれることを望んでいるのだろうか。だけど、外の人間はみな恐ろしい者だと聞いている。エルクのいうことなら素直に信じるエミリオは、エルクに言われた恐ろしい外の人の存在を疑わない。
なのに、どうして来訪者を求めるのか、エミリオには分からない。
(書斎に、何かいい本ないかな)
別の本を求めんと、エミリオは部屋を後にしようとする。
ところが、エミリオが窓に背を向けようとする直前、屋敷の庭に強い風が吹いた。
「わっ!」
風は開かれた窓から部屋へと入り、エミリオの部屋を荒らす。結構重いのに、本が机からばさっと大きな音を立てて落ちる。せっかくまとめていた衣類もめちゃくちゃだ。
窓から身を乗り出す。こんな強くて大きな風、今までになかった。エルクの魔除けは、風に効かないようだった。
庭の花壇に植えられれた薬草たちは、風に揺られ、それでもなお立っている。当然のことながら、風が吹いたくらいで何の変化もない。変化したのは、無残にも荒れたエミリオの部屋だけだ。ため息をつき、エミリオは部屋を片づけようと向き直ろうとした。
「あれ?」
この声は、自分ではない。自分の声は、これほど低くはない。エルクも違う。エルクの声も、高い。
では、この低い声はだれのもの?
おそるおそる後ろを振り向いてみると、エルクではない、長身の人間がベッドに土足で立っていた。
ラプンツェル2話めです。ずっと家にいるだけで何もない毎日は、ある意味幸せですね。私も家に引きこもって好き放題本を読んでアニメを観たい(笑)