森の向こうの魔女
その兄弟は、赤子を大切そうに抱えていた。どこの子か分からない。紛争に巻き込まれたあの村から逃げてくる時、道ばたに捨てられていたのを、弟のユウヤが拾った。兄のソールはそれをとがめるでもなく、ただ守る者が増えて、いっそう兄としての責任感を自覚した。ふたりの兄弟の故郷、グリニッジ村は、紛争に巻き込まれて人が住めるような場所ではなくなってしまった。今まで、診療所を経営している優しい父母と一緒に、質素ながらも幸福な生活を過ごしていたふたりにとって、この戦火はあまりに重くのしかかる運命だった。それでも、父母が命をかけて守ってくれた命を無駄にはするまいと、村を出て森林をさまよい歩いた。その際、ソールは夜盗に襲われ足を怪我した。兄の威厳にかけて、弟の前では決して弱音を吐かなかった。
「ユウヤ、ぼーず、もうすぐ森を抜けるぞ。あとちょっとの辛抱だ」
ソールは二人を励ました。泣きそうになるのをこらえ、赤子を抱く力を強くする。右肩には、兄の左手がずしんと置かれている。両手ふさがりの状態だが、ユウヤは自分の肩を兄の杖代わりにした。兄の励ましに、強く頷く。
重い体を引きずりながら、小さな兄弟と赤子はどうにか森を脱け出すことに成功した。さんざん迷いながら、野獣や魔物を追い払いながら、小さな子供が小さな知恵を働かせて、やっと、迷路を抜け出した。
「ああ、ソール。月だよ!」
ユウヤは感激して、月を指さした。満月は、辺りを強く照らしている。
「ほんとだ。キレイだな」
「ソール、大丈夫? 足、痛む?」
へいきへいき、と笑ってみせるつもりが、ソールはその場に崩れ落ちた。兄の、虚勢とも言える威厳は、ここで脆く崩れた。
「ソール!」
ユウヤは赤子を緑茂る草の上にそっと寝かせ、ソールの足を診る。血がどす黒く染まっていて、ふくらはぎを覆っている。ソールは傷の痛みに耐えながら、傷口を乱暴に手で押さえつけた。
「痛いの!?」
「ああ、ちょっと……こらユウヤ、ぼーずを置いちゃだめだろ」
「わかってるよ! けど、ソール、はやく手当てしないと……」
「そうだな」
ユウヤは森を抜けたすぐそこに、丁度よく建てられていた小屋に、ソールを運び込んだ。赤子も小屋へ運ぶ。
ふたりの持ち物は、何もない。あるとすれば、途中で拾った赤子だけだ。医者として働く父母を診ていたからだろうか、ユウヤはソールの傷が決して軽くないと見切っていた。しかし、それを治療するための設備や道具は、ない。
「ソール、赤ちゃん見てて。俺、薬草探してくる!」
「あ、こら!」
ユウヤはソールの制止も聞かず、小屋を飛び出した。森に入らぬよう、小屋の周りを注意深く探っている。傷を癒せそうなものは、近くにはない。思い切って遠くを探す。
小屋の裏口方面に、まっすぐと伸びる道があった。その一本道は、木々が作ってくれたのだろうか、それらがアーチ状になってトンネルのような姿をしていた。そのトンネルをくぐり抜けると、もう一軒、家があった。
それは、ソール達を置いてきた小屋とは比べものにならないほど豪華で壮大だった。その大屋敷に住む人に薬を分けてもらおうとしたが、ユウヤは父母に聞かされた話を思い出して、思わず足を止めた。
『森を抜けるとね、そのもっと向こうに木のトンネルがあるの。そのトンネルの向こうにはね、魔女が住んでいる大屋敷があるんですって』
母の怪談話に通じる話に、確かな恐怖を覚えた。
大屋敷の窓から、ほんのりとオレンジ色の灯りが漏れている。庭園には数え切れない植物が植えられていて、美しく咲いている花が今は不気味だった。
多分、ここには魔女が住んでいる。母は魔女が住んでいるとだけ話して、魔女がどういう者なのかは教えなかった。
ソレが何なのか得体が知れないという類の恐怖は、多くの恐怖心に勝る。ユウヤは、足がすくんで動けなくなるのを感じた。魔女は実は慈悲深くて、正直に兄を助けて欲しいと言ったら案外助けてくれるかも知れない。でも、その逆だったら? 自分は悪魔を召喚するための生け贄にされてしまうかも知れない。
怖がっている暇はない。ソールの一大事なのだ。ソールを助けるためなら、魔女にだって立ち向かってやる。
「ごっ……ごめん下さい」
思い切って、扉を叩く。こんな小さな声ではきっと届かない。もう一度、さっきより大きな声で助けを求めた。
「ごめん下さい! た、助けて。兄さんが大けがして、大変なんだ! 本当に魔女なら、助けて!!」
声は次第に狂気を帯び、がむしゃらに扉を小さな手で叩く。
「助けて! ソールが死んじゃう!!」
静かに、扉が開かれた。
応対した者は、少なくともユウヤの想像していた『魔女』ではなかった。焦げ茶の色をした髪は所々はねていて、田舎者のような服で身を包んだ、まだ十代半ばの少年だった。少年は泣きそうになっているユウヤを見下ろして、事態をそれとなく把握した。
「どちら様ですか」
「え、えっと……森を抜けたずっと向こうの村の」
「ああ、なるほど。で、怪我がどうのと叫んでいましたが?」
魔女とはほど遠そうな少年に確かに安堵し、ユウヤはすがりつく。
「あっちの小屋に、足を怪我した俺の兄さんがいるんだ。助けて欲しいんだ」
「そうですか。では、案内してもらえますか。薬草、持って行きますので」
少年は案外好意的だった。しかも、怪我を手当てする技術も持っている。これで、ソールは助かる。ユウヤは夢中で、少年を小屋へと導いた。小屋には、赤子を大切に抱えている兄がいた。
「ソール!」
「ユウヤ、無事だったのか」
ソールは足の痛みを無視して、弟の生還を心から喜んだ。
「お取り込み中失礼」
感動の再会を遮り、少年はソールの足を診た。血は止まっているが、固まった血がどす黒く変色している。
「少しだけしみますよ」
薬粉をまぶすと、ソールはぎゅっと目を閉じた。しみると言うから身構えたが、言われるほどしみるものでもなかった。少年は首に巻いていたバンダナで、患部を覆う。
「これで大丈夫でしょう」
弟は、その場に座り込んだ。兄の身の危険はもう去ったことに安心して、力が抜けてしまった。
少年は、兄弟にはもう興味がなく、兄が抱いている赤子に興味を抱いていた。
「君、その子は?」
「へ? あ、村に捨てられてたのを拾ったんだ」
「その子の名前は?」
「村を出て来る時に、エミリオって名付けた」
「名字は?」
「村の名前からとって、グリニッジにしようって、ユウヤと二人で」
「なるほど」
少年はしゃがみ込んで、ソールと目線を会わせる。
「君、その赤子を僕によこして下さい」
「な、なんで?」
「僕はタダでは動きません。何かしらの代金がないと」
ユウヤは、自分の考えの甘さを呪った。あの、噂の大屋敷に住んでいたのが少年だったからといって、その人が魔女ではない保証はどこにもないのだ。よく考えたら、男も『魔女』と呼ばれるのだ。
「ま、待って。俺をどうしてもいいから、二人は見逃して」
「だめです。僕はこの赤子をもらい受けます」
少年は、ユウヤとソールにいくら懇願されても、折れることはなかった。諦めた兄弟は、せめて大切に育てて欲しいと頼んだ。魔女の少年は、「もちろんです」と、快諾した。
「さて、赤子を譲り受けた礼と言ってはなんですが、お二方、ちょっと目を閉じて頂けませんか?」
兄弟は素直に従った。視界が暗くなっただけで、何が変わるというわけでもなかった。それは、少年が「もういいですよ」と目を開けさせた後も同じだった。
「村に戻って見るといいでしょう」
そう言い残して、魔女の少年は小屋を後にした。はっとしたユウヤは、慌てて視界から消えた少年を追いかけたが、もうどこにもいなかった。
ラプンツェルのような、狭い建物に閉じ込められた者のお話を書きたくなってしまってできた産物。籠の中の鳥って何だか幻想的でロマンあふれるテーマですね。