婚約者の勇者が姉と浮気していたので、死んだことにして彼のすべてを奪うことにしました
結婚式の日、私は二つのことを知った。
一つ目。
私の婚約者は、何年も前から私の姉と関係を持っていた。
そして、二つ目は――
いい人間であろうとし続けたことこそが、私の人生で最大の過ちだったということ。
「殿下、そんなに動かれますと針が刺さってしまいますよ」
「それなら結婚式は中止ね」
クララが顔を上げた。
「もう、ご冗談はおやめください」
私は微笑んだ。
「どうして? このドレスとの戦いに関して言えば、私はもう英雄的な敗北を喫したと思うのだけれど」
わざとらしく胸に手を当てる。
「エレナ姫、恐るべき怪物――コルセットに敗れる。後世の歴史書には、そう記されるでしょうね」
クララは笑いをこらえようと唇を噛んだ。
「せめて銅像くらいは建ててもらいたいわ」
とうとうクララが吹き出した。
それにつられて、ほかの侍女たちも笑い始める。
壁のほとんどを覆う大きな鏡越しに、私はそんな彼女たちを眺めていた。
そして、ほんの少しだけ、この穏やかな時間を楽しんだ。
鏡の中にいる女性。
それが私。
エレナ・アルセリア・ド・ルメリア。
二十二歳。
ルメリア王国第一王女。
蜂蜜色の金髪は、緩やかな波を描きながら腰まで伸びている。
紫色の瞳と白い肌は祖母譲りだった。
左目の下には、小さなほくろがある。
宮廷画家たちは、なぜか私の肖像画を描くたびにそれを消したがった。
理由はいまだに分からない。
でも、私は気に入っていた。
王女として生まれた私の人生には、最初から決められているものがあまりにも多かったから。
この小さなほくろくらいは、誰かに決められたものではなく、ただ私だけのものであってほしかった。
純白のウェディングドレスには、胸元に繊細な金糸の刺繍が施され、袖にはレース、長いスカートには無数の小さな薔薇が飾られていた。
クララが一歩下がって私を眺める。
「本当にお美しいです」
私は鏡の中の自分を見つめた。
「まるでケーキみたいね」
「ものすごく高価なケーキです」
私は真顔でクララを見る。
「ありがとう。まさに聞きたかった言葉だわ」
また笑い声が広がった。
クララは私の頭に小さなティアラを載せ、髪を丁寧に整えていく。
私はもう一度、鏡の中の自分を見つめた。
あと四時間。
四時間後には、私は結婚する。
レオンハルト・ヴァレリオと。
魔王を討ち倒した男。
ルメリアの英雄。
私たちの婚約は、最初から政略的なものだった。
それでも――
私は彼を愛するようになっていた。
少なくとも。
あのときの私は、そう信じていた。
レオンハルトと初めて出会ったのは三年前。
彼が戦場から凱旋した日のことは、今でも鮮明に覚えている。
王都は花で埋め尽くされていた。
通りという通りを人々が埋め、家々の窓やバルコニーから花びらが舞い落ちる。
街中の鐘が鳴り響いていた。
そして白馬に乗ったレオンハルトが姿を現した瞬間、私は思った。
噂は大げさなのではなく、むしろ控えめだったのだ、と。
背が高く、肩幅も広い。
金色の髪。
鋭く澄んだ青い瞳。
右の眉の上には、小さな傷痕があった。
完璧ではなかった。
だからこそ――
私は余計に彼に惹かれたのかもしれない。
ただし、レオンハルトは一人で帰還したわけではない。
彼の後ろには五人の女性がいた。
《銀剣》のアストリッド・ヴァルガルド。
大魔導師セレーネ・アークトゥルス。
《暁の聖女》ミレイユ・ソレル。
森の弓使いレア・ヴァンダー。
そして――ヴェスパー。
魔王を裏切り、人間側についた魔族の女性。
王国を救ったのは、六人だった。
けれど酒場で吟遊詩人たちの歌を聞いていると、まるでレオンハルト一人ですべてを成し遂げたかのように聞こえた。
レオンハルト。
勝利者。
英雄。
ルメリアを救った男。
そして今では――
私の未来の夫。
「緊張してる?」
振り返った。
扉にもたれかかっていたのは、私の姉だった。
イザベラ。
私より三歳年上。
昔から、姉のほうが美しいと言われていた。
艶やかな漆黒の髪。
澄んだ青い瞳。
すらりとした身体。
そして、部屋に入ってきただけで周囲の会話を止めてしまうような、天性の気品。
「ええ」
私は素直に答えた。
「かなりね」
イザベラが笑う。
「まだ逃げられるわよ」
私も笑った。
「結婚式当日に国際問題を起こすつもり?」
「馬を用意してあげる」
「私、乗馬はそんなに得意じゃないの」
イザベラは少し考えるふりをした。
「じゃあ二頭用意する」
私は姉を見つめた。
「……馬が増えても問題は解決しないと思うわ」
イザベラが声を上げて笑った。
やがて彼女は私のそばまで歩いてくる。
少しの間、どちらも何も言わなかった。
そして――
姉は私を抱きしめた。
「エレナ」
その声は優しかった。
「幸せになってね」
私は目を閉じ、姉の肩に頬を寄せた。
「ええ」
小さく笑う。
「幸せよ」
イザベラが少しだけ身体を離した。
「彼を愛してる?」
意外な質問だった。
「……たぶん」
「たぶん?」
「だって、私たちの婚約って、最初から恋物語みたいな始まり方じゃなかったでしょう?」
イザベラは急に厳格な表情を作り、父の口調を真似た。
「『エレナ王女。国家の安定のため、この男との間に世継ぎをもうけなさい』」
思わず吹き出した。
「お父様はもう少し上品な言い方をしていたわよ」
「意味は同じでしょう?」
「まあね」
二人で笑った。
イザベラが私の頬にかかった髪をそっと耳にかける。
「レオンハルトはいい人よ」
「ええ」
彼女の指が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
私は気にも留めなかった。
「あなたを大切にしてくれるわ」
私は少し眉を寄せた。
「どうして自分に言い聞かせているみたいに聞こえるの?」
イザベラは視線をそらした。
「あなたが私の大切な妹だからよ」
私はもう一度、姉を抱きしめた。
「大好きよ、お姉様」
沈黙。
ほんのわずかな沈黙だった。
やがてイザベラの腕も、私の背中に回った。
「私もよ、エレナ」
長い間――
私はあの言葉が、姉が心から私に言ってくれた最後の言葉だったのだと思っていた。
「ブローチが……!」
クララの声が響いた。
彼女は小さな宝石箱を必死に探していた。
顔が青ざめている。
私は反射的に胸元へ手を伸ばした。
「お母様の?」
クララが頷く。
「見当たりません」
母が遺したブローチだった。
どうしても今日の式で身につけたかった。
「小図書室に置いてきたのかもしれないわ」
クララが立ち上がった。
「私が取ってまいります」
「いいわ。あなたは準備を続けて」
「ですが、殿下――」
「すぐ戻るから」
私は部屋を出た。
たったそれだけ。
廊下を歩く。
ブローチを取りに行く。
ほんの数分で終わるはずのことだった。
けれど――
その小さな選択が、私の人生を壊した。
西側の廊下にはほとんど人がいなかった。
誰もが結婚式の準備に追われていたからだ。
私は足早に小図書室へ向かった。
古い音楽室の前を通り過ぎようとした、そのとき。
笑い声が聞こえた。
足が止まった。
知っている声だった。
イザベラ。
扉へ近づく。
取っ手に手を伸ばした瞬間――
男の声が聞こえた。
「彼女のそばにいなくていいのか?」
レオンハルト。
指が止まった。
「だからこそ来たのよ」
イザベラが答える。
「すべてが始まってしまう前に、あなたに会いたかった」
「今日さえ終われば、少しは楽になる」
沈黙。
そして――
口づけの音。
胃の奥がひどく冷たくなった。
そんなはずはない。
私は扉をほんの少しだけ開いた。
そして――
見てしまった。
レオンハルトが姉に口づけしていた。
彼の腕はイザベラの腰に回り、
姉の腕は彼の首に絡んでいた。
けれど、本当に私を傷つけたのはキスではなかった。
二人の自然さだった。
戸惑いがない。
罪悪感もない。
初めて触れ合った二人には見えなかった。
恋人だった。
何度も抱きしめ、
何度も口づけを交わし、
互いの身体に触れることに慣れた恋人たち。
一歩後ずさった。
背中が壁にぶつかった。
息ができない。
頭の中が真っ白になった。
逃げたかった。
何も聞きたくなかった。
なのに――
イザベラの声が聞こえた。
「今夜、あの子と寝るの?」
胸を刃物で刺されたような痛みが走った。
レオンハルトがため息をつく。
「イザベラ……」
「答えて」
「彼女は俺の妻になる」
「まだ妻じゃないわ」
「あと数時間だ」
「答えになってない」
沈黙。
やがてレオンハルトが言った。
「世継ぎが必要だ」
目を閉じた。
「つまり義務として抱くのね」
「もうやめろ」
「エレナを愛してる?」
沈黙。
私は待った。
愚かだった。
姉と口づけしているところをこの目で見たというのに。
それでも待った。
たった一言。
「愛している」
そう言ってくれれば。
この三年間のすべてが嘘だったわけではないと、まだ信じられたのに。
レオンハルトは答えた。
「愛していない」
たった一言。
それだけだった。
声が漏れないよう、私は口を手で覆った。
「だったら、どうしてエレナなの?」
レオンハルトが小さく笑った。
「エレナだからだ」
「意味が分からないわ」
「王国中が彼女を愛している」
沈黙。
「俺は魔王を倒した。兵士にとっては英雄だ。民衆にとってもそうだろう。だが大貴族たちから見れば、俺はただの辺境の男爵家の息子だ」
「あなたの勝利は運じゃないわ」
「アルマン公爵にもそう説明してくれ」
足音がした。
そして彼は続けた。
「エレナと結婚すれば、すべてが変わる。商人たちは彼女を慕い、農民は彼女を信頼し、教会からの評判もいい。俺を嫌う貴族でさえ、《ルメリアの薔薇》の夫となった俺には簡単に手を出せなくなる」
寒かった。
突然、身体の芯から冷え始めた。
私との結婚。
私の名前。
私の笑顔。
私の人気。
すべてに価値があった。
ただし――
私が信じていたものとは、まったく別の価値が。
「私は?」
イザベラが尋ねた。
「ベル・フルールを買った」
「え?」
「湖のほとりにある屋敷だ」
「レオン……」
「君にやる。使用人は二十人。専用の馬車も馬も用意した。欲しい服も好きなだけ買えばいい」
姉の息遣いから喜びが伝わった。
「本当に?」
「ああ」
「これからも会える?」
「いつでも」
「エレナとの間に子供ができても?」
「むしろ、その後のほうが楽になる。後継者さえ確保できれば、政治的な圧力も減る」
少しの沈黙。
そしてイザベラが尋ねた。
「もしエレナに私たちのことが知られたら?」
レオンハルトは笑った。
「何もしないさ」
一瞬、心臓が止まったような気がした。
「あなたは妹を知らないわ」
「知っているから言ってるんだ」
その声は恐ろしいほど落ち着いていた。
「エレナはいつだって正しいことをする」
イザベラも小さく笑った。
「そうね。あの子は昔から、いい子すぎるもの」
「全部知ったとしても、自分の感情より王国を優先する。騒ぎを起こさない。王家の名誉を傷つけない。夫に愛人がいたくらいで国家の安定を危険にさらしたりもしない」
「私たちを憎むかもしれない」
「憎みたければ憎めばいい」
沈黙。
「彼女は王妃になるんだ。宮殿も、宝石も、使用人も、子供も手に入る。何一つ不自由しない」
イザベラが言った。
「愛してくれる夫以外はね」
レオンハルトがため息をついた。
「すべてを手に入れることなんてできないさ」
その瞬間。
私の中で――
何かが死んだ。
どうやって自分の部屋まで戻ったのか、よく覚えていない。
気づいたときには扉を閉めていた。
「殿下?」
クララが近づいてくる。
「ブローチは見つかりましたか?」
私は彼女を見た。
「一人にして」
「ですが……」
「お願い」
自分がどんな顔をしていたのかは分からない。
けれど、クララはそれ以上何も聞かなかった。
「……かしこまりました、殿下」
侍女たちが部屋から出ていく。
私は一人、鏡の前に立った。
完璧な王女。
完璧な花嫁。
完璧な未来の王妃。
ドレスに触れた。
「王妃になれる……」
薔薇の飾りを一つ引きちぎった。
「宮殿も……」
もう一つ。
「宝石も……」
もう一つ。
「使用人も……」
さらに一つ。
「子供も……」
鏡を見た。
そこには、白い花嫁衣装を着た女がいた。
国中から愛され、
何一つ不自由しないはずの女。
ただ――
夫から愛されない女。
「……ふざけないで」
拳を振り上げた。
鏡を殴った。
甲高い音とともに、鏡が砕け散った。
拳に鋭い痛みが走る。
血が指を伝った。
私はその場に崩れ落ちた。
「どうして……?」
答えはない。
「どうしてよ……」
涙が落ちた。
「どうしてなのよ!」
泣いた。
レオンハルトのために。
イザベラのために。
そして何より――
自分自身のために。
そのとき。
十四年間、忘れようとしていた記憶が蘇った。
私が自分の力に気づいたのは、八歳のときだった。
マリーという侍女がいた。
こっそりお菓子を盗んでいた私を見つけた人。
「殿下、それはいけません」
私は子供だった。
怒っていた。
恥ずかしかった。
そして――
嫌われるのが怖かった。
「あなたをがっかりさせたくない!」
泣きながら叫んだ。
「私のことを好きでいてほしいの!」
その瞬間。
私の瞳が光った。
マリーが膝をついた。
「お慕いしております」
最初、私は笑った。
「マリー?」
「自分の子供たちよりも、殿下を愛しております」
笑顔が消えた。
「……何を言っているの?」
「私にとって、殿下以上に大切な方はいません」
「やめて」
「殿下のためなら死ねます」
「やめて!」
「喜んで命を――」
「やめてって言ってるでしょう!」
魔法を完全に解くまで三日かかった。
正気に戻ったマリーの顔を、私は一生忘れない。
恐怖。
彼女は――
私を恐れていた。
その夜、私は三つの約束をした。
人の心に、必要以上に踏み込まない。
人の感情を変えない。
誰かに、私を愛することを強制しない。
十四年間。
私はその約束を一度も破らなかった。
血に濡れた自分の指を見つめる。
頭の中で、あの言葉が蘇った。
『エレナはいつだって正しいことをする』
笑いが漏れた。
「ふ……」
次の瞬間には、また涙がこぼれた。
「それで……」
笑いながら泣いた。
「それで私は、何を得たの……?」
その日。
私はまだ力を使わなかった。
代わりに――
エレナ王女を殺した。
川から私のヴェールが見つかった。
崖の縁には靴を残した。
そして、一通の手紙。
『許してください。
もう、できません』
遺体は見つからなかった。
当然だった。
捜索隊が私を探している間――
私は森の中から、その光景を見ていたのだから。
死んだことにすれば自由になれる。
そう思っていた。
けれど。
胸の中にあったのは、自由ではなかった。
空虚だった。
私は自分の葬儀にも行った。
人混みに紛れ、顔を隠して。
王都中が泣いていた。
子供たちが私の肖像画の前に薔薇を置いていた。
老婦人が涙を拭った。
「私たちの王女様……」
隣にいた男が俯く。
「あまりにも優しい方だった。この世界には優しすぎたんだ」
そして――
レオンハルトが現れた。
全身を黒い喪服で包んでいた。
目は赤く腫れていた。
「エレナは……」
声が震える。
なんて役者なの。
「私が知る中で、もっとも心優しい女性でした。彼女がこれほど苦しんでいたことに気づけなかった自分を、私は生涯許すことができないでしょう」
それを聞いて。
心の奥底に残っていた、どうしようもなく愚かな私が囁いた。
もしかしたら。
後悔しているのかもしれない。
私の死が何かを変えたのかもしれない。
ほんの少しだけでも――
私を愛していたのかもしれない。
その夜。
私はベル・フルールへ向かった。
そして――
二人が口づけしているところを見た。
また。
同じように。
私は暗闇の中から二人を眺めていた。
不思議と、涙は出なかった。
そこでようやく理解した。
私の死ですら――
あの二人にとっては、何も変えるほどのものではなかった。
「……分かったわ」
小さく呟いた。
私の紫色の瞳が淡く光り始める。
十四年間。
私はずっと、誰も傷つけないように生きてきた。
正しい王女でいようとした。
優しく。
忍耐強く。
思いやり深く。
自分よりも国を。
自分よりも家族を。
自分よりも他人を。
その結果――
彼らは私の優しさを、弱さだと思った。
何をしても反撃してこない女だと思った。
私はベル・フルールの灯りを見上げた。
そして微笑んだ。
「私を利用したかったのでしょう?」
指先に黒い光が灯る。
「だったら――」
初めて、自分の力を恐れなかった。
「今度は私が、あなたからすべてを奪うわ」
最初に思い浮かんだ名前は――
アストリッド・ヴァルガルド。
英雄レオンハルトの最初の仲間。
そして彼女は――
私が十四年間守り続けた誓いを破ってまで手に入れた、最初の人になる。
最初に私が奪うものは、命ではない。
もっと大切なもの。
人が人であるために必要なもの。
――自分で選ぶ自由だった。
アストリッド・ヴァルガルドが最初だった。
私が「死んで」から数か月後。
彼女は王都から遠く離れた森の近くで暮らしていた。
英雄一行が解散した後も、剣を捨てることはなかったらしい。
私が見つけたときも、一人で訓練を続けていた。
短く切られた金髪。
鋭い緑色の瞳。
鍛え抜かれた長身。
左肩には、魔王との戦いで負ったという古い傷痕。
彼女の剣が訓練用の人形を切り裂いた。
私は木にもたれながら言った。
「思っていたより遅いのね」
次の瞬間。
冷たい刃が私の喉元にあった。
アストリッドが睨みつけてくる。
「それに、あなたは喋りすぎる」
私は微笑んだ。
「なるほど。レオンハルトがあなたに惹かれた理由が分かったわ」
彼女の目つきが変わった。
刃がわずかに肌へ食い込む。
「誰だ、お前」
「あなたがレオンハルトを愛していたことを知っている人間よ」
「失せろ」
「そして――彼もそれを知っていた」
剣が振るわれた。
私は身体を反らして避ける。
「黙れ!」
「一度でも言われた?」
「何をだ!」
「『愛している』って」
もう一撃。
「黙れ!」
私は避けた。
「言われていないでしょう?」
アストリッドの動きが止まった。
私は彼女を見つめた。
「でも、拒絶もされなかった」
その手が震えた。
――あった。
心の亀裂。
レオンハルトが私にしたことと、アストリッドにしたことは違う。
私には愛のない結婚を与えようとした。
彼女には――
決して叶えるつもりのない希望を与え続けた。
それから何週間も、私は彼女のもとへ通った。
魔法は使わなかった。
まだ。
代わりに、証拠を持っていった。
軍事記録。
手紙。
証言。
戦争中にセレーネが立案した作戦が、レオンハルトの功績として記録された文書。
アストリッドが何十人もの兵士を救った戦いが、たった数行で済まされている報告書。
そのすぐ下には、レオンハルトの「英雄的指揮」について何ページも書かれていた。
私は嘘をつかなかった。
必要なかった。
真実だけで十分だった。
少しずつ。
彼女の中の何かが壊れていった。
そしてある日。
私は手を差し出した。
「私と来て」
アストリッドは私の手を見つめた。
「断る」
予想していなかった。
「これだけ知っても?」
「レオンハルトは私の仲間だった」
「あなたを利用したのよ」
「それでも!」
剣が地面に突き刺さった。
「これは私の決断だ!」
私は動けなくなった。
私の決断。
その言葉が胸に突き刺さった。
選択。
自由。
十四年間、私が守ろうとしてきたもの。
私は帰れる。
そうすべきだった。
このまま背を向ければいい。
そのとき――
頭の中で、あの声が聞こえた。
『エレナはいつだって正しいことをする』
私は唇を噛んだ。
「……そうね」
アストリッドが眉を寄せる。
「何?」
「あなたの言うとおりよ」
私は彼女へ近づいた。
「あなたの人生だもの」
微笑む。
けれど、自分でも分かるほど悲しい笑顔だった。
「だから……ごめんなさい」
「何を――」
彼女の額に触れた。
「その決断を、あなたから奪うことを」
「――ッ!」
アストリッドの目が大きく開いた。
「やめろ!」
私は彼女の心へ入った。
私の力は、何もないところから感情を生み出すものではない。
そこに存在する感情を見つける。
触れる。
強める。
歪める。
私は見つけた。
失望。
嫉妬。
怒り。
悔しさ。
レオンハルトへの憧れの下に隠されていた、無数の傷。
それらに触れた。
そして――
燃料を注いだ。
「エレナ!」
身体が震えた。
彼女は私の本当の名前を呼んだ。
「私の頭から出ていけ!」
憧れを失望へ。
失望を怒りへ。
怒りを憎しみへ。
「やめろ!」
アストリッドの金髪が、根元から赤く染まり始めた。
「お願い……!」
今度は私の声だった。
手が震える。
止められる。
今なら。
今ならまだ――
私は止めなかった。
緑色だった瞳が、深い紅へ変わった。
白銀の鎧が黒く染まる。
剣に赤いルーンが浮かび上がった。
白いマントも、夜のような黒へ変わった。
やがて――
アストリッドは膝をついた。
静寂。
私は荒い呼吸を繰り返していた。
「アストリッド……?」
彼女が顔を上げる。
紅い瞳が私を見た。
そして。
穏やかに微笑んだ。
「我が姫君」
私は後ずさった。
「……やめて」
アストリッドは不思議そうに首を傾げた。
「何か、いけないことをしましたか?」
私は走った。
木の陰まで行き――
吐いた。
「何を……」
震える腕で自分の身体を抱きしめる。
「私は、何をしたの……?」
夜が明けても。
アストリッドはそこにいた。
私のそばに。
裏切られてから初めて。
絶対に私を見捨てない人がいた。
そして――
それは心地よかった。
恐ろしいほどに。
セレーネ
セレーネ・アークトゥルスは、十分で私の正体を見破った。
「あなた、エレナでしょう」
紅茶をこぼしかけた。
「誰のことかしら」
「変装が甘いわ」
「……ずいぶんなご挨拶ね」
セレーネはアストリッドとはまったく違う女性だった。
細身で色白。
腰近くまで伸びた濃い青色の髪。
小さな眼鏡の奥には、淡い青色の瞳。
何もかも見透かしているような目だった。
「それに」
彼女はアストリッドを見る。
「この女が誰かを『我が姫君』なんて呼ぶわけがない」
アストリッドの手が剣へ伸びた。
「抜いたら燃やすわよ」
セレーネは平然と言った。
そして私を見た。
「何をしたの?」
「彼女の心の奥に、もともとなかったものを与えたわけではないわ」
「答えになってない」
「……彼女の感情を少し変えただけ」
「洗脳したのね」
胸が痛んだ。
私は手を差し出した。
「私と来て、セレーネ」
「嫌よ」
即答だった。
「レオンハルトは、あなたの作戦を自分の功績にした」
「知ってる」
私は瞬きをした。
「……知ってる?」
「ええ。ずっと前から」
「だったら、どうして――」
「レオンハルトが最低だからって」
本を閉じる。
「あなたのしていることが正しくなるわけじゃない」
何も言えなかった。
セレーネは立ち上がった。
「通報はしない」
扉へ向かう。
「でも、あなたにもついていかない」
昔の私なら。
彼女を行かせていただろう。
私は手を伸ばした。
「セレーネ」
彼女が振り返る。
遅かった。
魔法が届いた。
「――このっ!」
彼女の青い髪から色が消えていく。
白。
銀。
毛先だけが黒く染まった。
「私があなたを愛する必要なんてない!」
「分かってる」
「だったら放して!」
「できない」
「できるでしょう!」
胸を刺された。
正しかった。
できる。
ただ――
したくなかった。
彼女の瞳が紫色に染まる。
青いローブは黒と紫の衣装へ。
周囲に漂っていた青い魔力が、深い闇へ変わった。
すべてが終わった。
セレーネはゆっくり息を吐く。
私を見る。
そして微笑んだ。
「女王陛下」
私は吐かなかった。
そのことのほうが――
怖かった。
ミレイユ
ミレイユ・ソレルはもっとひどかった。
《暁の聖女》。
肩まで伸びた桃色の髪。
大きな金色の瞳。
小柄で、柔らかな雰囲気を持つ女性。
私を見るなり、彼女は言った。
「かわいそうなエレナ」
怒りが込み上げた。
「同情はいらないわ」
「あなたに言ったんじゃないの」
彼女はアストリッドを見た。
セレーネを見た。
「この二人がかわいそうだと言ったの」
拳を握った。
「何も知らないくせに」
「あなたが何をしたかは知ってる」
「レオンハルトは彼女たちを利用した!」
「あなたもよ」
沈黙。
「私は解放したの」
ミレイユは首を横に振った。
「違う」
私をまっすぐ見つめる。
「持ち主が変わっただけ」
殴られたほうがましだった。
「黙って」
「怖いのね」
「黙って」
「婚約者とお姉さんに裏切られた」
「黙って!」
「だから今度は――」
ミレイユの声は優しかった。
「誰にも自分を捨てられないようにしたいのね」
「黙れ!」
魔力が爆発した。
けれどミレイユは逃げなかった。
「まだ止まれるよ」
私の手が、彼女の顔の前で止まる。
ミレイユは震えていた。
怖いのだ。
それでも逃げない。
「エレナ」
優しい声だった。
「こんなことしなくていいの」
涙が溢れた。
「……するわ」
「しなくていい」
「するの」
「どうして?」
唾を飲み込んだ。
「だって……」
声が出ない。
「あなたに選ばせたら……」
涙が頬を伝う。
「私を置いていくかもしれないでしょう?」
ミレイユは悲しそうに微笑んだ。
「それを受け入れるのも、誰かを愛するってことだよ」
目を閉じた。
「だったら――」
彼女の額に触れる。
「もう、そんなふうに誰かを愛したくない」
ミレイユが叫んだ。
黄金の光が弱まる。
桃色の髪が黒く染まった。
金色の瞳が赤へ。
純白の聖衣が黒と深紅へ変わる。
頭上の光輪に亀裂が走った。
砕けた光が集まり――
黒い冠となった。
すべてが終わると。
ミレイユは跪いた。
「女王陛下」
一筋の涙が私の頬を流れた。
彼女が指で拭う。
「泣かないでください」
私は尋ねた。
「……私を憎んでる?」
ミレイユは微笑んだ。
「あなたを憎むなんて、できません」
私は彼女を抱きしめた。
そして初めて――
誰かの心を壊したあとで。
私は微笑んだ。
レア
レア・ヴァンダーには、もう嘘をつかなかった。
彼女の前に立って、最初から言った。
「あなたを変えるわ」
弓使いは片眉を上げた。
長い茶色の髪を一本の三つ編みにしている。
ヘーゼル色の瞳。
旅暮らしで日に焼けた肌。
「少なくとも正直になったのね」
「逃げてもいいわ」
レアは私の後ろを見る。
アストリッド。
セレーネ。
ミレイユ。
「逃げ切れる?」
「無理ね」
「なら芝居はやめましょう」
両腕を広げた。
「やってみなさい、お姫様」
私はやった。
灰色へ変わる髪。
深い金色へ染まる瞳。
瞳孔が獣のように鋭くなる。
緑色の服が黒革へ変わった。
弓が影に包まれ、巨大な黒い武器へ姿を変える。
レアが目を開いた。
「へえ」
自分の身体を眺める。
「面白いわね」
「気分は?」
彼女は笑った。
「獲物を探したくなる」
私も笑った。
「完璧ね」
そのあとになって気づいた。
罪悪感が――
なかった。
ヴェスパー
最後はヴェスパーだった。
私が姿を現した瞬間。
彼女は拍手した。
「やっと来た!」
「……何?」
黒髪。
赤い瞳。
小さな角。
細い尻尾。
ヴェスパーは満面の笑みだった。
「もう来ないかと思ってたわ」
「私が生きているって知ってたの?」
「ダーリン」
鼻先で笑う。
「支配系の魔法って、遠くからでも分かるのよ」
アストリッドが眉をひそめた。
ヴェスパーは彼女を指差す。
「ところで、その髪いいわね」
アストリッドが低く唸った。
ヴェスパーは私に視線を戻した。
「つまりあなた、レオンハルトの仲間を一人ずつ奪ってるのね」
「奪ってないわ」
四人が私を見た。
「……分かった」
ため息をつく。
「奪ってるわ」
ヴェスパーが大笑いした。
「今のあなた、前よりずっと好き」
「あなたを変える必要はないわ」
「知ってる」
彼女は手を差し出した。
「でも、変えてほしい」
私は初めて躊躇した。
「どうして?」
笑顔が消える。
ヴェスパーは髪を持ち上げた。
首筋に古い傷があった。
「戦争が終わったあと、レオンハルトに消えろって言われた」
「どうして?」
「魔族は英雄の肖像画には似合わないんですって」
沈黙。
ヴェスパーが私の手を取る。
「だから、お願い」
「ヴェスパー……」
「彼が歴史から消せない存在にして」
私は彼女を見つめた。
この人だけは――
選んでいる。
私は初めて、心から微笑んだ。
「喜んで」
闇が彼女を包んだ。
角が長く、美しく伸びる。
黒髪が銀色へ変わり、滝のように背中を流れた。
赤い瞳には縦長の瞳孔。
そして背中から――
巨大な黒い翼が広がった。
「わあ!」
ヴェスパーが後ろを振り返る。
翼をぱたぱたと動かした。
「ずっと大きな翼が欲しかったの!」
思わず笑った。
ヴェスパーも笑う。
レアも。
ミレイユも。
セレーネまで。
アストリッドさえ、小さく笑った。
ほんの数秒。
私たちは女王と従者ではなかった。
ただ――
六人の女が一緒に笑っていた。
そして私は、皮肉に気づいた。
レオンハルトは、優れた女性たちに囲まれた英雄になりたかった。
今。
彼女たちは全員――
私のそばにいた。
それから数か月をかけた。
レオンハルトをすぐに破滅させるつもりはなかった。
そんなのは簡単すぎる。
まず。
英雄を英雄でなくした。
セレーネが軍の記録を公開した。
彼女が立案した作戦が、どれほどレオンハルトの功績として扱われていたのかが明らかになった。
レアは当時の目撃者を探し出した。
アストリッドは元兵士たちに証言を求めた。
ミレイユは教会の記録を手に入れた。
ヴェスパーは、戦後レオンハルトが隠していた事実を掘り起こした。
ただし。
嘘はつかなかった。
レオンハルトが魔王討伐に貢献したことは事実だった。
命を懸けて戦ったことも。
それまで奪うつもりはなかった。
私が奪ったのは――
彼だけが英雄だったという嘘。
次は財産。
投資。
土地。
契約。
資産。
一つずつ。
合法的に。
丁寧に。
壊した。
ある日。
セレーネが書類を持ってきた。
「ベル・フルール、差し押さえになったわ」
飲んでいたワインを吹き出しかけた。
「イザベラの屋敷?」
「その屋敷」
ヴェスパーがグラスを掲げた。
「真実の愛に乾杯!」
全員がグラスを合わせた。
でも。
イザベラとレオンハルトの関係を壊すのに、財産は必要なかった。
一通の手紙で十分だった。
レオンハルト自身が書いたもの。
『後継者が確定次第、イザベラ嬢には身を引いてもらう必要がある。彼女の存在は政治的な危険となり得る』
それを――
姉が見つけるようにした。
あとは自然に崩れた。
「愛してるって言ったじゃない!」
私の協力者が、二人の口論を聞いていた。
「俺は君にすべてを与えた!」
「家をくれただけよ!」
「屋敷だぞ!」
「屋敷なんて欲しくなかった!」
「じゃあ何が欲しかったんだ!」
長い沈黙。
そして。
イザベラが答えた。
「あなたよ」
レオンハルトは――
答えなかった。
その夜。
姉はベル・フルールを去った。
報告を受けても。
私は笑わなかった。
嬉しくもなかった。
それが少し怖かった。
何度も想像した瞬間だった。
二人の関係が壊れたら。
胸がすっとすると思っていた。
でも。
何も感じなかった。
ただ――
一つだけ思った。
お姉様。
私たち。
二人とも、本当に馬鹿だったわね。
決着の日は、王国建国記念祭だった。
レオンハルトが王宮のバルコニーに立っていた。
かつて結婚するはずだった男とは思えなかった。
痩せていた。
目の下には濃い隈。
髪も乱れている。
「これは王国に対する陰謀だ!」
そのとき。
足音が響いた。
最初に現れたのはアストリッド。
黒い鎧。
紅い髪。
レオンハルトの顔から血の気が引いた。
「アストリッド……?」
その後ろからセレーネ。
「久しぶりね、レオン」
「セレーネ……」
ミレイユ。
レア。
ヴェスパー。
一人ずつ姿を現す。
レオンハルトは後ずさった。
「何が……お前たちに何が起きた?」
最後に。
私が歩み出た。
黒いドレス。
腰まで伸びた蜂蜜色の金髪。
そして――
黒い冠。
群衆の中にいた老婦人が籠を落とした。
「王女……?」
私はヴェールを外した。
誰かが叫んだ。
そして。
広場全体に声が広がった。
「エレナ!」
「エレナ王女!」
「生きていた!」
レオンハルトは幽霊でも見たような顔をしていた。
「死んだはずだ」
私は微笑んだ。
「死者にしては元気でしょう?」
「エレナ……」
「その名前を呼ばないで」
笑顔が消える。
「まだ呼ぶ権利があるみたいに」
彼の視線が、私の後ろに並ぶ女たちへ向かった。
「何をした?」
「新しい道を見せただけよ」
セレーネが笑った。
「ずいぶん都合のいい言い方ね」
私は横目で見る。
「セレーネ」
彼女は優雅に頭を下げた。
「失礼しました、女王陛下」
レオンハルトが青ざめた。
「洗脳したのか」
広場が静まり返った。
私は否定しなかった。
「ええ」
ざわめき。
レオンハルトが私を指差した。
「それで俺を怪物と呼ぶのか!」
私は静かに彼を見る。
「私は一度も、自分が英雄だなんて言っていないわ」
沈黙。
「そこがあなたとの違いよ」
一歩。
「あなたは、みんなに善人だと思われたかった」
もう一歩。
「私はもう――」
彼を見つめる。
「善人だと思われる必要なんてない」
「全部、浮気されたからか!」
足を止めた。
「まだ分からないのね」
指を一本立てる。
「あなたは私の人気が欲しかった」
もう一本。
「私の名前」
もう一本。
「私の地位」
さらに。
「私の身体に、あなたの世継ぎを産ませたかった」
近づく。
「肖像画の中で、あなたの隣に微笑む私が欲しかった」
さらに一歩。
「姉と寝ている間も、黙っていてくれる私が欲しかった」
手を下ろした。
「あなたが欲しかったのは妻じゃない」
目を合わせる。
「ウェディングドレスを着た王冠よ」
レオンハルトは答えなかった。
「でも、一つだけ間違えた」
「……何だ」
私は微笑んだ。
「優しい女は、弱い女だと思ったこと」
アストリッドが剣を抜く。
「女王陛下」
私を見る。
「終わらせますか?」
レオンハルトを見た。
かつて。
この男との子供を想像した。
一緒に歳を重ねることを。
一緒に国を治めることを。
今、目の前にいる男は――
英雄の銅像より、ずっと小さく見えた。
「いいえ」
アストリッドが剣を止める。
レオンハルトが目を見開いた。
「殺さないのか?」
「殺す?」
笑った。
「あなたを生かしておくために、私がどれだけ苦労したと思ってるの?」
彼の表情が変わる。
「まさか……」
「生きるのよ、レオンハルト」
「エレナ――」
「自分の銅像が撤去されるのを見なさい」
一歩後ずさる。
「歌の中で、あなたの代わりに彼女たちの名前が歌われるのを聞きなさい」
「やめろ」
「自分が住んでいた屋敷に、別の人間が暮らすのを見なさい」
「やめろ!」
「かつて誰もがあなたの名前を叫んだ道を歩きなさい」
彼の耳元へ顔を寄せる。
そして囁いた。
「いつか――誰一人、振り返らなくなるまで」
「やめろ!」
私は微笑んだ。
「それが聞きたかったの」
レオンハルトは爵位を失った。
財産も。
屋敷も。
軍での地位も。
いくつもの王令や記念碑から、彼だけを称える表現が消された。
ただし。
歴史そのものから彼を消すことはしなかった。
彼が魔王討伐に貢献した。
それは事実だから。
私は彼と同じ嘘つきにはなりたくなかった。
ただ。
これから歴史書には――
アストリッド。
セレーネ。
ミレイユ。
レア。
ヴェスパー。
彼女たち五人の名前も。
レオンハルトと同じ大きさで記される。
数か月後。
私は王宮のバルコニーからルメリアを眺めていた。
「それで?」
ヴェスパーが尋ねる。
「元英雄様はどうするの?」
「何もしない」
「つまらない」
ソファに寝転がっていたレアが片手を上げた。
「森に放り込んでみる?」
「駄目」
「冗談よ」
アストリッドはいつものように私のそば。
セレーネは本を読んでいた。
ミレイユは薔薇に水をやっている。
私は彼女を見た。
「ミレイユ」
「はい、女王陛下」
「こっちへ来て」
彼女はすぐにやって来た。
私は尋ねた。
「幸せ?」
微笑む。
「はい」
「それは――」
喉が乾いた。
「あなた自身が、幸せになりたいから?」
ミレイユの表情が少しだけ変わった。
「陛下が望まれることは、私の望みでもあります」
息が詰まった。
あの日。
彼女が言った言葉を思い出した。
『こんなことをしたら、明日の私は笑って幸せだと言うかもしれない』
私はアストリッドを見る。
セレーネ。
ミレイユ。
レア。
彼女たちは、もともと完全な人間だった。
望みがあった。
恐怖があった。
矛盾もあった。
嫌いなもの。
好きなもの。
選びたい未来。
私はそれらの一部を取り出して――
自分に都合のいい形へ並べ替えた。
「それ」
隣からヴェスパーの声。
「何?」
「罪悪感」
「罪悪感なんてない」
「そう」
「何も感じてないわ」
「もちろん」
腹が立った。
「あなたは自分で選んだでしょう!」
ヴェスパーの表情が静かになる。
「だから言えるのよ」
彼女はほかの四人を指した。
「この子たちは選んでない」
私は黙った。
「レオンハルトが扉を開けた」
ヴェスパーは続ける。
「でも、その扉を通ったのはあなた」
「……ええ」
「後悔してる?」
自分の手を見た。
十四年間。
誰も傷つけないように守り続けた手。
「してないわ」
ヴェスパーが片眉を上げた。
「そこが一番心配なのよ」
私は小さく笑った。
そして。
自分の王国を見渡した。
勝った。
私を利用しようとした男を倒した。
名前を取り戻した。
地位も。
未来も。
でも同時に――
私の中の何かを壊した。
もしかすると。
それこそが、レオンハルトが私から最後に奪ったものなのかもしれない。
私の優しさ。
それとも。
私が自分で捨てただけなのだろうか。
答えは分からない。
「女王陛下」
アストリッドが後ろに立っていた。
「これから、どうなさいますか?」
私は振り返る。
アストリッド。
セレーネ。
ミレイユ。
レア。
ヴェスパー。
かつての英雄の仲間たち。
今は――
私のそばにいる。
生まれたときから。
私はずっと、何になるべきかを教えられてきた。
娘。
王女。
王家の象徴。
妻。
母。
王妃。
でも。
誰も聞かなかった。
私が――
何になりたいのか。
バルコニーの端へ歩いた。
風が蜂蜜色の長い髪を揺らす。
紫色の瞳が淡く光った。
手を伸ばした。
掌の上に。
一輪の薔薇が現れる。
白い花びら。
それが――
ゆっくりと黒く染まっていく。
私はその薔薇を見つめた。
ずっと思っていた。
物語には二種類の人間しかいないのだと。
英雄。
そして。
英雄に倒される者。
でも、違った。
私は微笑んだ。
「英雄たちには、もう十分に物語があるわ」
黒い薔薇を握る。
顔を上げた。
そして――
笑った。
「ここからは」
風が黒い花びらを空へ運んでいく。
「悪役の物語を始めましょう」
終わり
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます!
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