残念でしたね。私がその“初恋令嬢”です。―婚約破棄された令嬢ですが、初恋の騎士様が離してくれません―
「フェリシア。君には悪いが、婚約破棄させてもらったよ……どうか許してほしい」
穏やかな声でそう言って瞼を伏せたのは、セシリオ・ハワード侯爵令息。私の婚約者だった人だ。
榛色の柔らかな髪と同じ、色素の薄い睫毛が彼の白い頬に影を落としている。
彼は近衛騎士として王城勤めをしていて、“エリート”だと持て囃されていたが、それを鼻にかけることもない穏やかな物腰の青年だった。
「それは……私が、このベネット伯爵家を出ることになったからでしょうか」
私は、そう静かに問いかけた。
視界を邪魔するように、長い赤茶色の前髪が微かに揺れる。
「それは、公の理由だ。……私は──あの日、泉で助けたフェリシアを忘れられないんだ」
彼は、夢を見るような遠い瞳でそう言った。
「君の名を呼ぶ度、美しい彼女を思い出して辛くなる。……彼女以外、もう考えられないんだ」
「セシリオ様……」
「彼女を愛してしまった……私にとって、きっとこれが初めての恋なんだ。どうか、わかってほしい」
彼は切なそうにそう言うと、緑色の瞳を伏せた。
(初めての、恋……)
その言葉だけが、私の胸の奥にじわりと広がっていくようだった。
◇
──エステラ王国、アラバスター辺境伯領。
もうすぐ、秋を迎える季節。
ベネット伯爵令嬢だった私は、今日から“フェリシア・アラバスター”と名乗ることになった。
馬車に揺られながら、窓の外を流れる木立に婚約者だった彼の瞳を思い出す。
あの緑色の瞳に真っ直ぐ見つめられたのは、皮肉にもあの日が最初で最後だった。
――それは、三ヶ月前。爽やかな風の吹く初夏の日。
ベネット伯爵領のフォーンスにある別荘に、婚約者だったセシリオ様を招待した日のことだった。
(綺麗な泉……水がとても澄んでいるのね)
別荘の隣には、美しい泉があった。
私がその泉に近づいた時、水面の上をふわりと漂う光が見えた気がした。
(今、何か光った気がしたわ……)
「あっ……!」
突然に背中を押された私は、泉へと転落した。
「エミーリア?! 助けて……!」
「お姉様……その残念なお顔も髪も、泉で洗えば、少しは綺麗になるかもしれなくてよ」
そう言って笑った妹は、弧を描いたヘーゼルの瞳で私を見下ろすと、歪んだ笑みを浮かべてくるりと背を向けた。金茶色の長い髪と、ピンク色のドレスの裾が遠ざかって行く。
(私は、泳げないのに……)
「誰か、助けて……!」
初夏とはいえ、避暑地の泉の水はとても冷たかった。もがきながら助けを呼ぶも、誰も現れない。
「誰か……」
もう、諦めかけた時だった。
「大丈夫ですか?!」
泉に飛び込んで引き上げてくれたのは、セシリオ様だった。
ずぶ濡れで咳き込む私の背を、彼は優しくさすってくれた。いつも挨拶だけの――距離の感じられた彼に優しくされたのは、このときが初めてだった。
私はこの時、ただ純粋に嬉しかった。
「セシリオ様、ありがとうございます」
「どうして、私の名前を……」
彼の見開かれた緑色の瞳を、私は見上げた。
「フェリシアですわ」
そう言った瞬間、彼の顔色が一瞬変わった。
(セシリオ様……?)
「……フェリシア嬢、と仰るのですね。名前まで、お美しい……」
「え……? セシリオ様、わたくしは貴方の婚約者のフェリシアですわ」
そう返すと、セシリオ様は吹き出した。
「まさか……私の婚約者のフェリシアは赤毛で、貴女とは似ても似つかない。……泉の精霊のように美しい貴女とは……」
(泉の精霊? 何を、言っているの……?)
今までは視線も合わなかったというのに、うっとりと見つめ褒めてくるセシリオ様に、私は困惑した。
「フェリ──あなた! 何をしているの?!」
振り返ると、そこには真っ青な顔のお母様が立ち尽くしていた。
「お母様?」
「お、お――おば様でしょう?! 早くこっちに来なさい!!」
「ベネット伯爵夫人。こちらのご令嬢も、フェリシア嬢だとお聞きしました。一体どちらの──」
「縁戚の娘ですわ! さぁ、フェリシア嬢、早くこちらへ……」
そうして引きずられるように別荘へ入ってから、お母様はひどく怒って取り乱していた。
「水で染料が落ちるなんて、どうなってるの……!? エミーリアが戻る前に、早くなさい!」
(染料が落ちたの……?!)
「一番に美しいのは、私のエミーリアじゃないといけないのよ!!」
気付けば、バスルームで赤茶色の染料が滲んだドレスをメイドたちに脱がされて、再び髪を染め直された。
しかし、洗浄剤でも中々落ちなかったはずの染料は、それ以降何故か水で濡れた程度でも落ちるようになってしまった。
そしてお父様から、「お前は、母方のアラバスター辺境伯家に行くことに決まった。これからは、アラバスターの姓を名乗るように」と言い渡され、セシリオ様から婚約破棄を告げられたのだ。
彼とは、元から親同士が決めただけの間柄だった。二年前、初めて会ったときから、彼は私を見ようともしなかった。交わした言葉はほとんどなく、挨拶程度だ。
嘆くのも馬鹿らしい。もう、すべて忘れよう――私は、窓の向こうに流れる景色を見つめながらそう思った。
景色を眺めていると、澄んだ湖が森の向こうに見えた。すぐに見えなくなったその水面は青く、とても美しかった。
ふと、フォーンスの別荘にある泉が浮かんだ――
(あの方は、今どちらにいらっしゃるのかしら……)
ベネット伯爵領にある、フォーンスの泉。そこはあの日、私が溺れかけ――そして、私に唯一微笑んだ彼が訪れたはずの場所でもあった。
私は、顔もはっきりとは覚えていない、名も知らぬ騎士のことを思い起こした。
半年前。寒さが和らいで、花が綻び始めた頃――
邸の庭園の石畳の向こうで、騎士たちが出立の準備をしていた。
フォーンスの泉に巣食った“怪竜の討伐”──そのために王都から派遣された彼らは、ベネット伯爵邸を訪れていた。
(挨拶を、すべきかしら……)
彼らが到着したとき、お母様から部屋にいるように言われていた私は、まだ彼らに挨拶をしていなかった。
けれど──
(挨拶をしても、嫌な顔をされるかもしれないわ……)
私は、『可憐な令嬢』と評判の妹と違って、『地味で陰気』だと囁かれ、どこに行っても歓迎されたことがなかった。特に男性は、妹へのそれとはあまりに違う態度を見せるのだ。
(やめておきましょう……)
そう思って、引き返そうと振り返ったときだった。
「あ……」
私は、思わず息を止めた。
白銀の甲冑姿の、とても背の高い騎士が、こちらに向かって歩いてくるのに気づいたのだ。
彼の手には、オリーブグリーンのリボンが握られている。
(髪が、ほどけたんだわ……)
私は、赤茶に染められた髪に触れた。
いつも後ろでひとつに編んでいた髪は、気づかぬ内にほどけてしまっていた。
「失礼。これは、ご令嬢のものでしょうか」
低く、硬い声だった。
「ええ……ありがとう、ございます」
私は、騎士の鋼鉄の手袋に包まれた手からリボンを受け取った。
兜をつけたその騎士の表情は、全く見えなかった。
(この方も、怪竜討伐に……)
魔物の──それも竜の討伐だ。無事でいられる保証など、どこにもない。
気づけば私は、胸の前でそっと手を組んでいた。
「……あの」
騎士がこちらを向く。
兜の隙間から、青い瞳が一瞬だけ覗いた気がした。
「ご武運を、お祈りしております。……どうか、ご無事で」
私はただ、それだけを口にした。
その時だった──
「直に出立する! 皆揃っているか確認を」
大きく響いた声。
私の背後へと視線を向けた彼は、兜を脱ぐと私に深く一礼した。そして、すぐに兜をつけて駆け足で去っていった。
私に、一瞬の微笑みだけを残して──
前髪でぼやけた視界の中で、それだけはなぜか、はっきりとわかった。
(あんなふうに男性に微笑まれたのは、初めてだわ……)
小さく高鳴る胸に、私はただ立ち尽くした。
背を向けた彼が、他の騎士たちと共に歩き出しても、私はその場から動けなかった。
(──どうか、ご無事で……)
瞼を閉じてそう強く願った瞬間、胸の奥が、ひどく温かくなったことを覚えている――
「お嬢様、到着致しました」
御者の声に、私は顔を上げた。
いつの間にか、アラバスター邸に向かっていた馬車は止まっていた。
(着いたのね……)
御者に開かれた扉から静かに降りると、草の香りが胸いっぱいに広がる。
「久しぶりだわ……」
この地で、私の新たな人生が始まる。
(いつか、私自身を見つめてくれる人と出会えたら、そのときは……)
──けれど、婚約破棄された令嬢を、一体誰が愛すると言うのだろうか。まともな縁談さえ、来ないかもしれないというのに……。
そう思ったところで、私は考えるのをやめた。願うことは、自由だからだ。
(私はもう、何に縛られることもない……夢を抱くのだって、自由だわ)
袖元についたリボンが、風に揺れる。
(あのとき──)
思わず、胸の奥に小さな記憶の欠片が浮かぶ。
あのとき、ほんの一瞬だけ目が合った、私に微笑んでくれた騎士──あの人のことを、私はきっと、忘れない。
(いつかまた、会えるかしら……)
今の私にとっては夢のような願いを胸に、私は澄んだ空を見上げた。
アラバスター領の澄んだ空気に深呼吸すると、私は静かに歩き出した。
◇
アラバスター邸で用意されていた私の部屋は、母が結婚前に使っていたという美しい部屋だった。
真新しい白いレースのカーテンに、白で統一された家具や調度品が私には眩く見えた。
「フェリシアお嬢様……本当に、ようございました」
鏡越しにそう声をかけてきたのは、母の乳母だったドロシー。私が幼い頃、“ばあや”と慕っていた優しい女性だ。
「馬車から降りられたお嬢様があまりにお変わりになっていて、ばあやは倒れるかと思いましたよ」
私は、鏡越しにドロシーに微笑みかけた。
赤毛に見えるよう染められていたぼさぼさの髪は、ドロシーによって丁寧に洗って櫛で梳かされ、プラチナブロンドに輝いている。
(久しぶりに、自分の顔を見たわ……)
幼い頃、妹のエミーリアを連れて邸にやって来たお母様から、伸ばして下ろすようにと言われ続けてきた長い前髪は左右で分けられた。
「お嬢様は、本当にお美しい……クラリッサ様によく似ておいでです」
「お祖母様に……?」
私が生まれてすぐに亡くなられたお祖母様のことは、肖像画でしか見たことがない。プラチナブロンドの髪に、宝石のような紫色の瞳が印象的な女性──
そして祖母は、治癒魔法が使えたのだと聞いていた。
「どんな方だったの?」
「穏やかで、お優しい方でしたよ。……よく、クラーラの森にお出かけになっていましたね」
「クラーラの森……」
鏡越しに、左右の髪が丁寧に編まれていくのを眺める。
ドロシーは、「森の名前は、先代の辺境伯様が名付けられたのですよ」と微笑んだ。
「そういえば……エリアナ様がまだお小さい頃に、クラーラの森で妖精を見たと仰られていましたね」
「まぁ、お母様が?」
「はい。クラリッサ様も、神秘的な方でしたから……もしかしたら、お二人とも何か見えられていたのかもしれませんね」とドロシーは楽しそうに笑った。
「さあ、できましたよお嬢様」
立ち上がると、ラベンダー色のモスリンのドレスがふわりと揺れた。
髪にも、同じ色のリボンが結ばれている。
(こんなに綺麗なドレス、本当に久しぶりだわ……)
すっきりした視界と、鏡に映る自分の装いに、私は気持ちが少し明るくなった。
「フェリシアお嬢様……どうかここで、ゆっくりとお過ごしくださいね」
そう言って穏やかに微笑んだドロシーに、「ありがとう、ばあや」と私も微笑み返した。
◇
アラバスター邸の応接間。
「フェリシア……よく来てくれたな」
私は、数年ぶりに会う伯父に深く一礼した。
「レオカディオ伯父様。……この度は、私のことを受け入れていただき、誠に感謝しております」
「これからは、このアラバスター家がお前の家だ。何もない土地だが、自由に過ごすと良い」
「伯父様、お世話になります」
「フェリシア、何か困ったことがあったら、いつでも言うんだぞ」
「ありがとうございます」
私はエクトル兄様に笑い返した。
母が亡くなってからはほとんど会うことのなかった伯父と従兄弟は、暖かな微笑みで迎えてくれた。
安堵の気持ちに包まれた私は、二人に一礼をすると部屋を後にした。
その後──
「父上、この手紙は──」
「処分する」
エクトルは、手にした手紙を開いた。
「──父上の仰っていた通り、無茶苦茶なことが書いてありますね……本当に伯爵夫人ですか」
「平民の生まれで、元は愛人だからな……期待するだけ無駄だろう」
レオカディオはそう吐き捨てると、エクトルから手紙を取った。
フェリシアの継母だったベネット伯爵夫人から送られた手紙には、長々とフェリシアに関することが書かれていた。要約すると、『フェリシアを表に出すな』という内容だった。
「フェリシアには伝えるな。――今後、ベネット伯爵家と関わることはないからな」
レオカディオはそう言うと、手紙を蝋燭の火に焚べた。
「それと、ハワード侯爵家もですよね」
エクトルが笑顔でそう言うと、レオカディオは薄く笑った。
◇
──クラーラの森。
昼下がりのこと。
祖父が名付けたという森に、私は来ていた。
もうすぐ秋だというのに、若葉色に覆われた森は、とても清々しい空気を纏っていた。
「フェリシアお嬢様、足元にお気を付けください」
「ありがとう、フラビオ」
「騎士の私に、そのような……。お嬢様をお守りすることが、自分の務めですから」
少し複雑そうな表情の彼に笑いかけると、私は足を進めた。
フラビオは、アラバスター辺境伯家に仕える騎士だ。外出したいと言った私に、レオカディオ伯父様がつけてくれた。
「まぁ、綺麗な湖だわ……!」
森の中心には、美しい湖が広がっていた。
その時だった。
湖の中心から小さな淡い光が浮かんだかと思うと、ふわりと舞うようにこちらへ向かってくる。
(こんな時期に蛍? まさか、妖精じゃないわよね……)
ふいに、ドロシーの話を思い出した。
「お嬢様、いかがなさいましたか」
「フラビオ、あそこに光が見えるでしょう?」
「……いえ、自分にはわかりかねますが」
(フラビオには、あれが見えないの……?)
昼間でも淡く光って見えるそれは、私の前まで来ると、急に向きを変えた。
「あれは……」
淡い光を辿ると、視線の先には人の姿があった。
湖の畔の木の根元に座っているのは、黒髪の若い男性だった。俯くようにして、木の幹に寄りかかっている。
「フェリシアお嬢様、素性のわからぬ男性に近づくなど……」
光が消え、一瞬だけ、黒い靄のようなものが彼を包んでいるように見えた。
(今の黒いものは、何かしら……)
「お嬢様、いけません……!」
フラビオの制止も聞かず、私はすぐにその男性に近付いた。
彼はぐったりとしていて、虚ろな青い瞳で湖の方向を見つめていた。
(具合が、悪いんだわ……)
「もし……大丈夫ですか? お加減がお悪いのでしょう?」
そう声を掛けると、彼はゆっくりと顔を上げた。焦点の合わない瞳がこちらを見つめようと向けられるも、視線は合わない。
沈黙しているその男性に、私は再び声を掛ける。
「もし、聞こえますか……?」
「……失礼……目が、ほとんど見えなくて……」
掠れた声で苦しそうに呟かれた言葉に、私は息を呑んだ。
(早く助けないと……!)
その男性を助けるために、私はすぐにフラビオを呼んだ。
「……お嬢様をお守りする騎士としては、褒められた行動ではありませんが」
そう言いながらも、フラビオはその男性を馬車まで運んでくれた。
「アラバスター邸へ急ぎましょう」
そうして、私たちはアラバスター邸まで彼を運んだ。
(……でも、この方、どこか見覚えがあるような……)
心の片隅で、記憶の糸を手繰ろうとする。焦点の合わない彼の青い瞳が、どこか懐かしい気配を残しているように思えた。
けれど、あの黒い靄は、一体何だったのだろうか──
私の胸の奥に、小さな不安が芽生えていた。
◇
アラバスター邸に戻った私たちは、森で助けた男性を寝かせるとすぐにお医者様を呼んだ。
けれど、彼の部屋から出てきたお医者様もフラビオも暗い表情で、お医者様は私たちに深く頭を下げると屋敷を後にした。
「フラビオ、お医者様は何と……」
「じきに、失明する可能性があると……体もかなり衰弱しているとのことです」
「そんな……」
黙り込んだ私の背中を、ドロシーがそっと撫でてくれた。
私は、静かにその部屋のドアを開けた。窓辺から柔らかな日差しが差し込む寝台では、名も知らぬ男性が力なく横たわっている。
「誰か……いるのですか……」
部屋に、低く穏やかな声が響いた。
「はい……」
それ以上、何と声をかけたら良いのか、私にはわからなかった。
「ご令嬢……助けて、くださったのですね……何と……感謝を、申し上げたら……」
彼はとても苦しそうで――けれど、「もう、話さないでください」などとは言えなかった。そして、お医者様から言われたことも、伝えられそうもない――
私は、ただ黙って彼の手を握った。
「ご令嬢……? いけません……手を、握るなど……」
彼はそう言ったが、その大きな手に力は感じられなかった。
「はしたない」と言われれば、そうなのだろう。それは私もよくわかっていた。
けれど、何故か無意識に手を握っていたのだ。
(せめて、この方が少しでも楽になれば……)
私がそう願ったその時だった。
握った手が淡く光ったかと思うと、すぐに光は消えた。
(目が、疲れているのかしら……ずっと前髪で隠れていたから――)
「ご令嬢、あなたは……」
彼が、ゆっくりと体を起こした。
唖然としていると、閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。
「もう、ほとんど見えなかったはずなのに……」
「見えるようになったのですか?!」
私がそう問いかけると、彼が淡く微笑んだ。
「まだ、ほとんどぼやけていますが……貴女が目の前にいるのが、わかります」
(この方、以前どこかで……?)
どこか見覚えのある微笑みに、私は記憶を辿ろうとした──
「ありがとうございます。……手を握っていただいたとき、とても、温かかった……きっと、私の目が良くなったのは、ご令嬢のおかげですね」
「そんな……私は何も──でも、本当に良かったです」
微笑んで頷いた彼の切れ長の青い瞳は、淡い光を微かに宿していた。
けれど、辿った記憶の中に彼を見つけることはできなかった。
◇
「……アラバスター?」
彼は、僅かに眉を寄せた。
「ええ、フェリシア・アラバスターと申します」
「そう、でしたか……。フェリシア嬢、助けていただき、心より感謝致します」
わずかに落胆した色を帯びた彼の声音に、私は小首を傾げた。
彼は、“アダルベルト・ヒルデブランド”と名乗った。
フラビオが「公爵家の……!?」と息を呑むと、彼は瞼を伏せて「実家が公爵家というだけです」と静かに答えた。
「ですが、あなたは王都騎士団の──」
「私はただの──一介の騎士です」
言葉を遮られたフラビオは、アダルベルト様の真っ直ぐな視線に黙り込んだ。
アダルベルト様は体調を崩し、休職中だという。
(アダルベルト様も、騎士なのね……)
甲冑姿の彼と、思い出しかけた元婚約者の姿を頭の中でかき消すと、私はアダルベルト様を見つめた。
(やっぱり、どこかでお見かけした気がするのだけど……)
けれど、私は何も思い出せなかった。
彼はとても背が高く、端正な顔立ちに美しい青い瞳をしている。ましてや、公爵家の令息だ。もし夜会などで見かけたとしたら、忘れるはずがなかった。
(もし同じ夜会に参加されていたとしたら、エミーリアが騒ぎ立てるはずだもの……)
「フェリシア嬢?」
「あ、失礼をいたしました……少し考えごとをしてしまって」
「あの……アダルベルト様は、どうしてクラーラの森に?」と問いかけると、彼はわずかに視線を落とした。
「クラーラの森の話を聞いて、私の病が治るのではと思い……」
アダルベルト様はそう言うと、目を伏せた。
「クラーラの森に、何かあるのですか?」
「家の者から、かつてクラーラの森の湧き水で病が治った者がいるという話を聞いたのです……昔話の――伝承のようなものでしょうが」
そんな話は初耳だった。
「そうだったのですね……」
昔は、湧き水はあったのだろうか――
湖の畔で弱り切っていた彼の姿を思い出し、申し訳ない気持ちになる。
「何の、病なのですか……?」
「原因は、全くわからないのです。……気付けば、少しずつ見えなくなってきて――春にフォーンスで討伐した怪竜の呪いだという者もいますが」
「フォーンスの、怪竜……」
ふいに、あの日、微笑んだ騎士のことを思い出す――
「……呪いだと言う者もいますが、それが真実かどうかは、私にも……。失礼、ご令嬢にお聞かせする話ではありませんでしたね」
瞳を伏せた彼に、私は何も言えなかった。
◇
(“フォーンスの怪竜”と仰っていたわ……アダルベルト様は、まさか、あのときの──そんな偶然が、あるはずないわよね……)
夢見がちな妄想だと、私は小さく笑った。
あの時、怪竜討伐のために騎士は大勢来ていた。きっと、彼はあの中にいたのだろう。
「アダルベルト様は、素敵な御方ですねぇ」
笑ってそう言ったドロシーに、私は微笑んだ。
アダルベルト様は、人によって態度を変えない人だった。
身分に関係なく、私や邸の者たちに礼節を持って接してくれた。それは、少しずつ視力が回復に向かい始めても変わらなかった。
そうして、アダルベルト様が滞在するようになって、ひと月程が経った――
彼の視力は少しずつ回復しているようだが、人の顔まではまだ判別できないようだ。ドロシーと若い侍女をよく間違えたりしていて、苦笑されている。
けれど、彼の表情は、いつも静かで穏やかだった。
気付けば、私はいつの間にか彼のことを特別な男性として想い始めていた――
「……フェリシア嬢」
私たちは、昼下がりにいつものように庭園の東屋で一緒に過ごしていた。
珍しく、表情を硬くしている彼を私は見つめた。
「アダルベルト様、どうなさいましたの?」
「その……」
「あまり私と一緒に過ごすのは、良くないのでは……」と口ごもった彼に、私は胸がじわりと痛んだ。
(こうしてお傍にいるのは、迷惑だったのかしら……)
肩を落として黙り込んだ私に、慌てた様子の彼が再び口を開いた。
「いえ、違うのです……私は、その――貴女が、困ることになるのではと」
「……婚約者の方が、よく思われないでしょうから」と小さく言った彼に、私は言葉をなくした。
「フェリシア嬢?」
「……アダルベルト様がご心配なさるようなことは、ひとつもありませんわ」
私はそう言うと、テーブルを立った。
「フェリシア嬢!!」
初めて聞いた彼の焦った声。
私は、彼の方を振り返ることができなかった。
◇
――私は、逃げるように庭園の端へ来ていた。わずかに落ちてきた日に、空は薄紅色に染まりかけている。
(仕方ないわ……この年頃の貴族令嬢なら、婚約者がいるのが当たり前だもの)
そう言い聞かせても、胸のざわめきや棘のように刺さった胸の痛みは消えなかった。
(私の過去を知ったら、どんなお顔をされるのかしら……)
ひんやりとした風が吹いて、淡い青色の花々を揺らす。
「……フェリシア嬢、探しました」
「アダルベルト様……」
まだあまり見えないはずの目で、ここまで探しに来てくれた彼の姿に胸の奥が締め付けられた。
彼の手には、青い花束が握られている。
“フェリシア”の花──この邸の温室の一角で育てられている、私と同じ名前の花だ。
(でも、どうして……)
「ドロシーさんにお聞きして、フェリシアの花を分けていただいたんです」
そう言って、少しだけ恥ずかしそうに彼は瞼を伏せた。
庭園を渡る風が、ふわりと甘く香る。
「フェリシア嬢、聞いていただきたいことがあります」
真っ直ぐな瞳で私を見つめた彼は、私の前に静かに跪いた。
「アダルベルト様?!」
「私は――この体のせいで、騎士の身分を返上することになるでしょう。……きっと、私の妻になる女性には、苦労をかけることになると思います……」
私は、ただ黙って彼の言葉を聞いた。
「そうわかっていても、私は貴女を諦めきれません。……初めて会ったあの日から──私の心は貴女に奪われたままだ。きっと、これからもずっと……」
「アダルベルト様……」
「今日を限りに、貴女から離れるべきだと思っていました。……でも、今の貴女には婚約者がいないと知って、想いを抑えられなくなりました」
(ドロシーから聞いたのね……でも、きっとこの瞳は──同情なんかじゃない……)
顔もはっきりとは見えていないだろうその瞳は、私を真っ直ぐに見つめている。
「フェリシア嬢。……どうか、私の妻に──私と、婚約していただけませんか」
「アダルベルト様……本当に……?」
「フェリシア嬢……私の愛する女性は、ずっと貴女だけだ」
私は、彼から差し出された、青い花束を受け取る。
「アダルベルト様……お受けいたします」
私がそう応えると、彼は嬉しそうに微笑んだ。その青い瞳は微かに潤んでいる。
「良かった……断られたらと、生きた心地がしなかった……」
深く息を吐いた彼を私が見つめると、彼は赤くなった顔を少しだけ逸らした。
(でも……アダルベルト様は、まだ私の顔もはっきりとは見えないのよね……)
元婚約者から、容姿で態度を変えられた私は、アダルベルト様に顔を見られるのが少しだけ怖かった。
でも、今は──彼に、私の本当の姿を見てほしいと思った。
それに、これから先、彼と一緒に綺麗な景色も見たい。
アダルベルト様の目も体も、元通りに──彼が以前よりも元気になれば良いのに……。
私は、ただ、強くそう思った。
「フェリシア嬢……?」
気付けば、私の体から光が溢れ出すように輝いていた。
アダルベルト様も、同じように淡い光に包まれている。
(黒い靄が……これは、呪いだったの?)
彼の体の周りに滲むように現れた黒い靄が、光に溶けて消えていくのが見えた。
フォーンスの“怪竜の呪い”が解けたのだろうか――
「この光は……フェリシア嬢が?」
「わかり、ません……」
私は小さく首を振った。
私は、ベネット家特有とされる“炎の魔力”を一切受け継がなかった上に、他の魔法も使うことができない。そのせいで、エミーリアからは“ベネット家の無能”と呼ばれていたのだ。
(これは、何の光なの……?)
私は淡く光る手のひらを見つめた。
淡い光が空気に溶けるように消えたその時だった。
「フェリシア嬢……!!」
「アダルベルト様?」
「見えるんだ……」
「え……?」
「貴女の顔が……はっきりと見えるように――」
(目が、治ったの……?!)
彼の青い瞳が、真っ直ぐに私を捉えている。
「なんてことだ……」
「フェリシア嬢……貴女が、こんなにも美しいご令嬢だったとは……」と呟いたアダルベルト様が、苦しげに眉を寄せた。
「アダルベルト様?」
「愛しいフェリシア嬢……貴女があまりに心配で、離れられなくなりそうだ」
そう言って、彼は私の左手を取ると口付けた。
その真っ直ぐな青い瞳に見つめられて、胸が高鳴った。
「赤毛の貴女も素敵でしたが――今の髪の色も、とても神秘的だ」
「えっ……?」
私は思わず呼吸を忘れそうになった。
「フォーンスの――怪竜討伐に行く前に、私の武運を祈ってくださったでしょう」
微笑んだ彼の言葉に、私は口元を覆った。
(まさか、あのときの――)
彼が、私の初恋の騎士様だったのだ――
「令嬢たちは皆、私の容姿や公爵家にしか関心を持たず……私は、女性を避けるように生きてきました」
静かに語られる言葉を、私は黙って聞いていた。
「あの日――甲冑姿の私を怖がらず、純粋な想いで私の無事を祈ってくださった貴女に……恋に落ちたのです」
(アダルベルト様……)
「クラーラの森の湖でも、素性も知れぬ私に手を差し伸べてくれた――その優しく澄んだ声で、私のために祈ってくれた令嬢だとわかりました」
私が見上げると、彼は少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
彼は、怪竜の討伐から戻ってすぐ、私に会いに来ようと考えていたそうだ。けれど、私に婚約者がいると知り、想いを封じようとしたと――
クラーラの森で言葉を交わしたときに、声だけで私だとわかったけれど、家名と髪色が違っていたことで戸惑っていたらしい。
そして今日、私が“元ベネット伯爵令嬢”で、婚約破棄されたと知り、もう想いを抑えきれなかったと彼は言った。
(私は、なんて幸運なのかしら……)
「アダルベルト様……実は、アダルベルト様は――わたくしの初恋の方なのです」
私がはにかんでそう告げると、わずかに目を見開いた彼は私を抱き締めた。
その温もりに、私の心は甘く締め付けられた。
「嬉しいです。フェリシア嬢……私は、世界で一番幸せな男だ」
「アダルベルト様、大袈裟ですわ」
私が小さく笑うと、彼は幸せそうに微笑んだ。
こうして、この涼やかな秋の日に、私の初恋であるアダルベルト様との婚約が決まった。
◇
そして、年が明けた。
回復し王都へ戻ったアダルベルト様と正式に婚約した私は、国王陛下の主催で開かれる年に一度の王宮での集いに参加していた。
煌びやかな光に満ちた大広間は、招待された貴族たちで溢れ返っていた。
「フェリシア嬢、申し訳ありません……」
「ここにいてください。何かあればすぐに飛んできますから」と言ったアダルベルト様は、会場の端へと行ってしまった。
第二王都守備隊の師団長として騎士団に復帰した彼は、何やら仕事の話がある様子だった。
貴族で溢れた会場で、急に一人になった私は心細く思いながらも、遠くにいるアダルベルト様を見つめていた。
その時だった――
「フェリシア嬢!!」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには元婚約者のハワード様が立っていた。
(どうして……)
近衛騎士である彼は、王族の護衛をしているはず。そのため、話す機会は訪れないだろうと私は高を括っていた。
『“彼女”を忘れられない』──彼がそう言っていたことを思い出して、ゾッとした私は思わず後ずさる。
「あの夏の日から、愛しい貴女のことをずっと探していたんです……やっと見つけ出せた」
立ち尽くす私をうっとりと見つめると、彼の視線が私の左手に落ちた。
「フェリシア嬢、どうして――これは、一体……?」
顔を強張らせた彼は、私の左手を取るときつく握った。
「フェリシア嬢、どうして薬指に指輪なんか──」
「何をしている」
いつの間にか現れたアダルベルト様が彼の手をひねり上げると、そのまま突き飛ばした。
床に転がった彼が小さな呻き声を上げる。
「失礼。大切な婚約者の手に触れられたもので……つい振り払う手に力が入ってしまいました」
彼がそう言って微笑むと、こちらを見つめていた貴族たちが慌てて視線を逸らした。
「アダルベルト様……」
「フェリシア嬢、許してください。戻るのが遅くなりました」
「フェリシア嬢、どうして……」と立ち上がるハワード様から私を庇うように、アダルベルト様が進み出た。
「私の大切な婚約者の名を、気安く呼ばないでいただけるだろうか」
「あなたは、第二師団の――でも、どうして……あなたの婚約者は、“アラバスター辺境伯家のフェリシア嬢”のはずです!」
ハワード様の大声に、集まってきていた貴族たちが静まり返る。
「その通りだ。私の婚約者は、“フェリシア・アラバスター辺境伯令嬢”だが、何か」
「えっ……だって、フェリシアは……」
アダルベルト様が、見たこともない鋭い眼差しをハワード様に向けた。
珍しく険しい表情を浮かべているアダルベルト様の腕にそっと触れると、私は彼の隣に寄り添うように立った。
(もう、どうしようもないわね……)
私は小さくため息を吐いてから一礼した。
「お久しぶりでございます、ハワード侯爵令息。……昨年の夏までベネット家におりました。今は、フェリシア・アラバスターですわ」
首を振ったハワード様が、「嘘だ……」と小さく呟いた。
「君は、赤毛だったはずだ。顔だって……何故、隠していたんだ──」
「母の言い付けで、髪を染め、前髪を下ろしていたのです」
私が淡々と告げると、彼は絶望の表情を浮かべた。
「そんな……何故、言ってくれなかったんだ!」
「何故、言う必要があるのですか」
「えっ?」
「“初恋の美しい令嬢”を忘れられないから――と婚約破棄なさったのは、ハワード侯爵令息でしょう?」
ハワード様の顔が青褪めた。
「ハワード侯爵令息が婚約破棄してくださったおかげで、こうして初恋のアダルベルト様と婚約することができましたの。心から感謝しておりますわ」
私がそう言って微笑むと、ハワード様は呆然と「嘘だ……信じられない」と呟いた。
「信じられなくて結構。今後一切、私のフェリシアに近づかないでいただきたい」
「……行きましょう、フェリシア嬢」とアダルベルト様は私の腰に手を回した。
いつもより近い距離に戸惑いながらも、私は彼に寄り添うように会場を後にした。
その後、近衛騎士でありながら職務を放棄し、婚約者のある令嬢に接触した罪に問われ、ハワード様が近衛騎士の任を解かれたことを知った。彼は、過酷な第三魔物討伐部隊の一隊員として辺境の砦に配属させられたそうだ。
妹のエミーリアは縁談をすべて断り、邸に籠もっているそうだ。なんでも、「公爵家以上じゃないと、わたくしには釣り合わない」と言って聞かないのだとか――
そして、アダルベルト様の体を癒した光の正体が、精霊の加護だったことが分かった。
実は、私の祖母は精霊師だったそうなのだ。祖母は、精霊の力を借りて、傷付いた人々を密かに癒していたそうだ。
私と彼が出会ったのは、もしかしたら祖母と精霊の導きのおかげなのかもしれない――私はそう思った。
そして、私たちは――
「アダルベルト様……」
「どうしましたか、フェリシア」
王都にあるヒルデブランド公爵邸で、私は彼の膝の上にいた。
見上げた彼は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべている。
「その……恥ずかしいですわ」
「二人きりなのに……?」
私が小さく頷くと、彼は目を細めて私の頬に口づけた。
「フェリシアがあまりに愛しくて、離したくないんです」
頬に触れた彼の大きな手。熱を帯びた愛しげな眼差しに、私は思わず彼の胸に顔を埋めた。
小さな笑い声が落ち、私は温かな腕に包まれる。
(アダルベルト様……)
私は、まだ慣れない――けれど、幸せな温もりに身を預けた。
以前は想像すらできなかった、甘い幸せがここにあった。
「フェリシア……愛しています」
「私も、アダルベルト様を愛しておりますわ」
顔を上げると、唇がそっと重ねられた。
彼の温もりと、暖かな幸せに包まれる――
私はもう、“地味で陰気な伯爵令嬢”でもなければ、“誰かの初恋の美しい令嬢”でもない。
彼が見つけてくれた、ありのままの私として――
これからも、彼と歩んでいく。
窓から差し込む柔らかな光が、まるで私たちを祝福するように包んでいた――
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