廊下で青バナナばら撒いた
青バナナは、思ったより重かった。
熟れていない果実の重さは、未来の重さに似ている、と後からなら何とでも言えるけれど、そのときの僕は、ただ腕がだるいと思っていただけだった。
一学期最後の昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る少し前、僕は購買部の裏口に立っていた。段ボール箱の中には、行き場を失った青いバナナが三房。売れ残りでも、腐っているわけでもない。ただ、まだ早いという理由だけで、値札を貼られなかったものたちだ。
「今日はもう売れないから、処分なのよ」
購買のおばさんはそう言っていた。
捨てると言われると、なぜかもったいない気がして、僕は全部もらった。理由は単純、それだけだった。
僕は箱を抱えて歩きながら、先生の言葉を思い出していた。
「そろそろ決めなさい」
進路のことだった。
高校三年生の夏の今、僕は最近、そのことでずっと急かされている。
「やりたいことがない、は理由にならない。いや、漫画家になるってのはちょっとな」
「みんな大学に行くかちゃんとした仕事につくんだから」
「親御さんをあんま心配させんなよ」
正しいことを言われているのは分かっている。でも、それ以外でやりたいことを言われても分からないものは分からない。分からないまま答えを出せと言われるのが、正直しんどかった。
箱を抱えて廊下を歩く。
廊下は、いつも通り長かった。
白い蛍光灯、掲示物、誰かの習字、誰かの標語。どれもちゃんと意味があるはずなのに、目に入ると同時に通り過ぎていく。廊下という場所は、立ち止まることを許されていない。ふと足を止めても誰かの気配が自然と体を押してくる。
教室からは笑い声が聞こえる。部活の話、恋人の話、推薦の話。
僕だけ、話題がない気がした。
その時、突然、箱の底が僅かに抜けた。
正確には、抜けたような気がしただけだった。でも次の瞬間、床に落ちる鈍い音がして、青いバナナが一本、また一本と転がっていった。
僕は立ち尽くした。
拾うべきか、そのまま素通りしていくか。
だけど、そのどれでもない選択肢が、なぜか一番自然に思えた。
だから僕は、廊下に青バナナをばら撒いた。
箱を傾け、残りのバナナを廊下に放った。
青い弧を描いて転がる果実たち。
床に当たって、止まり、また少しだけ転がる。
特に何も考えていなかった。
ただ、何となく、まだ食べられない青いバナナを、教室でも社会でもない廊下に出してみたかった。まだ何者になるか決まっていない自分を、そのまま置いても許される場所だと思ったから。
だって、廊下はまだ決断しなくてもいい猶予の場所だから。
後ろから足音がして、誰かが立ち止まった。
「……何してんの?」
声をかけてきたのは、同じクラスの女子だった。
席が近いだけで、特別話すわけでもない。でも、ノートを忘れたときに一度だけ貸してくれたことがある。
「バナナ、青すぎて」
「あーうん。確かに。食べられないもんね」
彼女はしゃがんで一本拾った。
「でもさ、これ」
「うん」
「置いといたら、そのうち黄色になるよね」
「あー、まぁ」
彼女のその言葉が、その言い方が、やけに自然で、当たり前なことなのにやけに胸に残った。
チャイムが鳴った。
先生が廊下に出てきて、散らばったバナナを見た。
「誰だ、これ」
僕が何か言う前に、先生は続けた。
「踏むと危ないから、端に寄せとけ」
それだけだった。怒鳴られもしなかった。
彼女が手伝ってくれて、バナナを廊下の端に寄せた。
「ねえ」
「なに」
「進路のことで悩んでるんでしょ」
驚いて顔を見ると、彼女は少し照れたように目を逸らした。
「この前、先生に呼ばれてたから」
「あー見られてた?」
全部見透かされた気がして、笑ってしまった。
「まだ決められていない感じ?」
「それ、ダメかな」
「……ダメじゃないと思うよ」
彼女はそう言って、一本バナナを僕に渡した。
「これ、持って帰りな」
「なんで」
「家に置いといたら、ちゃんと黄色になるから」
「熟したら勝手に親が食べるかも」
「そうかな」
教室に戻って、机の横にバナナを置いた。
授業中も、時々それを見た。
その時間は何度目かの進路調査のプリントが配られ、やっぱりすぐには何も書けなかった。
でも、不思議と焦りはなかった。
まだ青い、というだけで、間違いじゃない気がした。
放課後、廊下を通ると、青バナナは一本も踏み潰されることなく残っていた。
帰り道、彼女が少し後ろを歩いていた。
「また購買に青バナナあったらさ」
「うん」
「一緒に持って帰ろ」
それだけの約束だった。
でも、今日はそれで十分だった。
家に帰って、バナナを机の上に置く。
まだ青い。
でも、待てばいい。
そう思えるようになったことが、今日の一番の収穫だった。




