1-4 役を演じぬ王子と毒
池のほとりで、誰かの足音が止まった。
「……何だ?この色は」
深い金の髪を揺らし、池に駆け寄る姿があった。
彼は、この庭の主。
ラドミア王国第一王子アルヴィン。
彼以外には入ることのできないこの庭での散歩の途中、池の異変を見て足を止めたのだ。
琥珀色の瞳が、濁った水面を見てわずかに歪む。
水は赤紫に濁り、魚が腹を上にして浮かんでいた。
そして池の淵には――
黒髪の青年が、水から這い出ようとした姿勢のまま倒れている。
肩が微かに上下しているのを見て、アルヴィンは呟いた。
「……生きている……?」
その時、庭の入口から警備兵の声が響く。
「殿下! 魔術師の塔に侵入者が――まだ城の敷地内にいる可能性があります!
危険ですので、屋内へ!」
アルヴィンは短く返した。
「わかった。報告ご苦労」
兵たちが去っても、王子の視線は青年から離れなかった。
濡れた黒髪が額にはりつき、わずかに息をしているだけで、動く気配はない。
目の前のこの青年と、今しがたの報告が無関係だとは思えなかった。
アルヴィンは池の縁まで歩み寄る。
距離、姿勢、呼吸。
一瞬で測る。
――仮に敵だとしても、この距離なら止められる。
そう判断した上で、静かに声をかけた。
「おい。動けるか?……なぜここにいる」
その声に反応して、青年がゆっくりと顔を上げた。
「……ミオリが……にげて、って……」
その名を聞いた瞬間、アルヴィンの表情が変わった。
(やはり……塔から来たと見て間違いはない)
周囲に聞こえぬよう、声を落とす。
「君は……いったい、何だ?」
青年は答えられなかった。
自分が何者かなど、まだ考えたこともない。
ただ――
「……ミオリを……外へ……」
その一点だけが、彼の中で確かだった。
青年はアルヴィンを見つめる。
この人は、腕を伸ばさない。
武器も構えない。
声は低く、急かさない。
(……ミオリが「いやだ」と思う人に、この人は……いなかった、はず)
理由は分からない。
けれど、その声の低さも、間の取り方も――
どこか“知っている”気がした。
アルヴィンは青年に向き直る。
「……君が敵か味方かは、今は問わない。
だが、塔から逃げてきたのなら――戻せば殺される。
あるいは、それに等しい扱いを受けるだろう」
青年の瞳が、かすかに揺れた。
アルヴィンは一歩近づき、静かに言う。
「私はお前を害さない。……ついて来るか?」
澄んだ黒い瞳が、琥珀色の瞳をじっと見つめ返す。
短い沈黙ののち、青年は迷いなく頷いた。
それが、彼にとって初めての“選択”だった。
遠くで、塔の鐘がまだ鳴り続けている。
毒に染まった池の水が、夕陽を鈍く返して揺れていた。
アルヴィンはその光景をひとつ確かに見届け、背を向ける。
「来い。このままでは目立つ。まずは隠れる場所が必要だ。
……お前、名前はあるのか?」
「な、まえ……?」
青年は考える。
名前という概念は知っている。
だが、それが自分に与えられた記憶はない。
それは、名として与えられたものではなかった。
けれど――
ミオリが発した言葉ならば、それだけで意味を持つ。
――……きれい……ヤドク。
「……ヤ……ドク……?」
「ヤドク、だな。歩けるか?」
ヤドクは静かに頷き、王子の背を追った。
こうして――
毒を抱えた影と、この国の王子は出会った。
この瞬間から、物語は確かに始まってしまった。




