2-25 ガラスの靴を踏み砕く音(後編)
同じ頃、王城の硝子張りの回廊には、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
温室へ続くその回廊は、壁の上半分が硝子で作られている。
外の庭は淡い金色に沈み、花壇に植えられた白い花が風に揺れるたび、光だけが薄くこぼれていた。
リゼリアはその光の中で微笑んでいた。
「殿下、ラーナ殿。ご足労をお掛けしましたわ。夕方のこの回廊はとても綺麗なので、ラーナ殿に見ていただきたくて」
傍らには、白い箱を持った侍女が控えている。
箱の中には、柔らかな室内履きが収められていた。
病弱な客人の足に負担が少ないよう、底は軽く、布はしなやかで、甲の部分には小さな硝子細工の留め具が縫い込まれている。
光を受けた留め具は透明な花のように輝き、歩くたびに控えめな音を立てるよう作られていた。
「ラーナ殿に似合うと思いまして用意いたしましたわ」
リゼリアは穏やかに言った。
「先日の贈り物は、かえってお気を遣わせてしまったかもしれませんわ。
無理に使っていただきたいわけではないの。ただ、少しでも楽に過ごしていただければと思っただけです」
言葉には、どこにも棘がない。
アルヴィンは、ヤドクの半歩前に立ったまま、その箱を見ていた。
断る理由はある。
けれど、断れる理由はない。
病弱な客人を気遣う婚約者が用意した、歩きやすい靴と短い回廊の散策。
リゼリアは、いつも逃げ道を美しく塞いでくる。
ヤドクは黒い外套を羽織り、手袋をつけていた。
“ラーナ”として目を伏せているが、その黒い瞳は足元の靴ではなく、リゼリアの背後に置かれた花籠へ向いていた。
芳華の国から入ったという白い花が、飾りとしてそこに添えられている。
生花ではなく、少し乾かした花を香りづけに使っているのだろう。
温室の甘さとも、リゼリアの香油とも違う匂いが、硝子の回廊の中で薄く揺れていた。
ヤドクの喉が、ほんのわずかに動く。
白い花の匂いに触れると、城の外で差し出された手や、キャラバンの灯り、夜に近づいてきた気配が、ばらばらの記憶のまま少しずつ浮かび上がる。
思い出すと胸の奥がざわつく。
ヤドクは手袋の指先を握った。
毒はまだ出ていないし、出してはいけない。
ここにはリゼリアがいて、アルヴィンがいて、ベリオンもいる。
回廊の少し先、柱の影に立つ灰白のローブが見えた。
研究室の副室長ベリオンは、偶然通りかかった者のようにそこにいた。
けれど、その視線は偶然ではない。
ヤドクの足元、手袋の指先、アルヴィンとの距離、リゼリアの箱。
すべてを静かに記録している。
「ベリオンには、布と薬草の件で少し相談しましたの」
リゼリアが微笑む。
「病に詳しい方の意見を聞くのは、悪いことではないでしょう?」
「気遣いはありがたく受け取る」
アルヴィンの声は穏やかだった。
「ただ、ラーナは疲れやすい。長くは歩かせられない」
「もちろんですわ。ほんの数歩だけで構いませんの」
リゼリアは、ヤドクへ視線を向ける。
「ラーナ殿。お嫌でなければ、試していただけるかしら」
ヤドクはすぐには答えなかった。
ラーナなら、礼を言う。
病弱な客人なら、差し出された善意に感謝し、アルヴィンの顔色を窺いながら、静かに従う。
そう教えられている。
ヤドクはアルヴィンを見た。
アルヴィンは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷いた。
無理はしなくていい。
けれど、ここで拒めば不自然になる。
その両方が、目の動きだけで伝わってくる。
「お気遣い、感謝いたします」
ヤドクはラーナの言葉でそう言った。
声は乱れていなかった。
侍女が膝をつき、箱から室内履きを取り出す。
柔らかな灰色の布に、透明な硝子の留め具がついている。
足元へ近づいたそれを見た瞬間、ヤドクの胸の奥が小さく沈んだ。
自分のためのものではない。
ラーナのためのものだ。
王城の中で美しく歩くための、軽くて壊れやすい靴。
ヤドクは足を引きそうになったが、途中で止めた。
逃げるな。
今はまだ、ここで壊すな。
そう思って、呼吸を整える。
侍女が靴を履かせ、硝子の留め具を留めた。
冷たい感触が足元に走る。
同時に、遠くで何かが薄く揺れた。
音ではない。
匂いでもない。
胸の奥にある、ミオリへ繋がる細い糸のようなものが、指先で弾かれたように震えた。
ヤドクは顔を上げた。
硝子の向こう、夕暮れの庭の先に塔が見える。
白く細く、空へ刺さるように立っている。
塔の魔力灯が、一度だけ揺れたような気がした。
本当に見えたのか、ただ胸の奥でそう感じただけなのかは分からない。
けれど、ミオリの気配が一瞬だけ遠くなった。
薄くなり、削られたように感じた。
ヤドクの手袋の下で、毒紋が熱を持つ。
「ラーナ殿?」
リゼリアの声が柔らかく響く。
「お加減が悪いのかしら」
ヤドクは返事をしようとした。
大丈夫です、問題ありません、アルヴィン殿下がよくしてくださいますので。
いくつも教えられた言葉が口の手前まで来たのに、そのどれも喉を通らなかった。
ミオリ。
その名だけが、胸の奥から上がってくる。
アルヴィンが半歩近づく。
「ラーナ」
低い声だった。
ヤドクはその声で、かろうじて目を伏せた。
「……はい」
返事はできた。
けれど、遅かった。
ベリオンの瞳が細くなる。
リゼリアの微笑みが、ほんのわずかに止まる。
「少しだけ歩いてみてくださる?」
リゼリアは何事もなかったように言った。
「合わなければ、すぐに別のものを用意させますわ」
ヤドクは一歩を踏み出した。
硝子の留め具が、夕暮れの光を受けてきらりと光る。
その瞬間、白い花の匂いが強くなった気がした。
城の外で差し出された花も、演舞の灯りの中の銀の髪も、夜に近づいてきた気配も、塔の向こうで薄れていくミオリも、すべてが足元で重なった。
ヤドクの足が、わずかに乱れる。
靴の硝子細工が床の端に触れ、薄い音を立てた。
次の瞬間、透明な留め具が砕けた。
大きな音ではなかった。
けれど、硝子張りの回廊にはよく響いた。
細い破片が白い床に散り、夕暮れの光を受けて小さく光る。
侍女が息を呑む。
リゼリアは動かなかった。
ベリオンは、視線だけを足元へ落とした。
ヤドクは砕けた硝子を見ていなかった。
塔を見ていた。
口が、勝手に名前を呼びそうになる。
「ラーナ」
アルヴィンの声が、鋭く重なった。
ヤドクははっとして息を止める。
それ以上、名は出なかった。
けれど、完全には消えなかった。
硝子の音の中に、途中で切られた名の欠片が混じってしまった。
アルヴィンはすぐにヤドクの前へ出た。
「すまない。疲れが出たようだ」
声は落ち着いていた。
「今日はここまでにする。リゼリア、気遣いには感謝する」
「まあ、こちらこそ申し訳ありませんわ」
リゼリアはすぐに心配そうな顔を作り、砕けた硝子の留め具へ視線を落とした。
「ラーナ殿のお身体に合うよう軽いものを選ばせたつもりでしたのに、こちらの仕立てが甘かったのかもしれません。驚かせてしまいましたわね」
その声には、どこにも焦りがなかった。
壊れたのは靴の方であり、ラーナが何かを乱したのではない。
そう場に示すための、完璧な謝罪だった。
「すぐに別のものを用意させますわ。今度は硝子細工を使わない、もっと柔らかなものにいたしましょう」
リゼリアが軽く目を向けると、侍女はすぐに膝をつき、床に散った硝子片を集め始めた。
別の侍女がヤドクの足元に控え、壊れた室内履きを静かに脱がせる。
アルヴィンはその動きを見ていたが、止める理由を見つけられなかった。
リゼリアは謝罪している。
怪我がないかを確認し、壊れた靴を回収し、新しいものを用意すると言っている。
そこには、拒むための棘がなかった。
「ラーナ殿、お顔の色がよくありませんもの。どうぞ、お戻りになって」
その声は優しかった。
けれど、翡翠の瞳はヤドクの足元ではなく、先ほど彼が見ていた塔の方へ一度だけ向いた。
ベリオンは何も言わず、集められていく硝子片を見ていた。
透明な欠片は夕暮れの光を受けて、ただの飾りのように白く光っている。
だが、そのひとつに、ごく薄い違和感が残っていた。
魔力と呼ぶには弱い。
毒と呼ぶには、まだ形がない。
それでも、触れたものの表面をわずかに腐らせる前の、湿った影のような気配がある。
ベリオンは静かに目を細めた。
「リゼリア様」
「何かしら」
「よろしければ、壊れた原因を確認させてください。今回は試し履きでしたが、歩いている最中に壊れれば、ラーナ殿が怪我をなさる可能性もあります」
リゼリアは一瞬だけベリオンを見た。
その目が何を拾ったのかを、彼女はすぐに察したようだった。
「そうね。お願いするわ」
侍女が集めた硝子片と壊れた室内履きを差し出す。
リゼリアはそれを自分の手には取らず、白い布に包ませてからベリオンへ渡した。
「ええ。すぐに確認します」
ベリオンは穏やかに答え、布に包まれた靴を受け取った。
その表情は少しも変わらない。
ただ、袖の内側に隠した小さな記録板へ触れる指先だけが、ほんのわずかに動いた。
塔側の魔力反応、ラーナの周辺に滲んだ魔力の揺らぎ、硝子が砕ける直前の呼吸の乱れ、発しかけられた言葉。
そして、破片に残ったごく微かな毒の気配。
記録できるものは、形になる。
ベリオンの表情は少しも変わらなかった。
アルヴィンはヤドクの肩へ手を添えた。
「戻るぞ」
ヤドクは頷こうとして、少し遅れる。
「……はい。アルヴィン殿下」
今度は、ラーナの返事だった。
けれど、その声はもう、先ほどまでと同じ形には収まっていなかった。
回廊を離れる時、ヤドクは一度だけ振り返った。
白い床の上には、もう硝子の欠片は残っていない。
リゼリアが用意した靴も、ベリオンの手の中へ渡っていた。
壊れたものは、何事もなかったように回収されていた。
塔では、装置の出力が落とされていた。
ミオリは椅子に座ったまま、ぼんやりと目を開けている。
意識は戻っている。
けれど、その瞳にはまだ薄い白さが残っていた。
アステルは彼女の手首から金属の輪を外す。
その手つきは丁寧すぎるほど丁寧だった。
「今日は終わりだ」
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
研究員たちが記録をまとめる中、アステルはまだ少し震えているミオリの指先を見つめた。
ほんの少し手を伸ばせば触れられる距離だった。
けれど、その手に触れることはできなかった。
王都の外れでは、芳華の国のキャラバンが夜の支度を始めていた。
天幕の影が濃くなり、香油の瓶には布がかけられていく。
ヴァルグは荷台の上から、城の方を見た。
風が変わった気がした。
はっきりと何かを掴んだわけではない。
けれど、白い花の匂いの奥に、黒い毒の気配が一瞬だけ濃くなったように感じた。
ヴァルグは笑わなかった。
ただ、夜の風を吸い込み、静かに目を細めた。
二人がアルヴィンの離れへ戻る頃には、空はすでに薄暗くなっていた。
壊れた靴は回廊で脱がされ、リゼリアの侍女によって回収されていた。
今、ヤドクの足元には元の黒い靴が戻されている。
それでも、硝子が砕けた感触はまだ足裏に残っていた。
ヤドクは椅子に座り、その足元を見ている。
アルヴィンは向かいに立ったまま、しばらく何も言わなかった。
責める言葉はない。
慰める言葉も、すぐには出てこない。
ヤドクは手袋の指先を握る。
「失敗した」
小さな声だった。
アルヴィンは目を伏せる。
「そんなことはないさ」
「名前を言いそうになった」
「止められた」
「アルが止めてくれた」
ヤドクは顔を上げる。
黒い瞳に、まだ塔の白い影が残っていた。
「ミオリが、呼んでいる気がして」
アルヴィンは答えられなかった。
その感覚が正しいのかどうか、彼には分からない。
けれど、今日塔で何かがあった可能性は、否定できなかった。
管理局の動きも、アステルの沈黙も、ベリオンの観測も、リゼリアの干渉も、芳華の国の花の匂いも、すべてが小さな音を立てて同じ場所に集まり始めている。
「ラーナでは、いられなかった」
ヤドクはぽつりと言った。
アルヴィンは静かに息を吐く。
「ずっといられるとは、私も思っていない」
ヤドクは驚いたように瞬きをした。
アルヴィンは窓の外へ視線を向けた。
塔の窓に、白い魔力灯が灯っている。
「だが、今はまだ必要だ。お前を守るためにも、ミオリに近づくためにも」
ヤドクは黙って聞いていた。
ラーナという名前は、王城の中を歩くための靴だった。
美しく、軽く、壊れやすいその靴を履けば、人の目を避け、アルヴィンの隣に立つことができる。
けれど、その靴では走れない。
ミオリのところへ向かう道が、綺麗なままであるはずがない。
割れた硝子の音は、もう消えていた。
それでも、ヤドクの耳にはまだ残っている。
ラーナという名前で歩くための靴が、どこかで砕けた音だった。
そして同じ音が、塔の方からも聞こえた気がした。
第2章はここで終わりです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!




