2-15 幕が下りた後
夜明け前の空気は、まだ冷えていた。
アルヴィンの離れは静まり返っている。
灯りは最小限に抑えられ、テーブルに置かれた蝋燭が淡く揺れているだけだった。
「アル!」
扉が開かれたと同時に弾かれたように立ち上がるヤドク。
アルヴィンが部屋を離れて夜遅くに戻るのはいつものこと。
それなのにその目には不安や動揺といった色が浮かんでいた。
さらによく見れば、彼の服の首元は裂け、髪は少し乱れている。
それだけでアルヴィンに、何かがあったことは十分すぎるほど伝わってきた。
外はまだ暗く、鳥の声もない。
騒ぎが起きた形跡はなく、足音も、慌ただしい気配も残っていない。
アルヴィンはその事実を、まず静かに受け止めていた。
護衛も、医師も呼ばれていない。
つまりこれは、事件や騒ぎとして扱われていない。
「……まず、座れ」
アルヴィンは声を低く抑えたまま、椅子を勧めた。
命令ではなく、指示でもない。
ただ、立たせたままにしておく理由がなかった。
ヤドクは一瞬ためらい、それから静かに腰を下ろす。
その動きは落ち着いているが、完全ではない。
どこかがまだ混乱の中に取り残されているようだった。
つい先日、ヤドクが独断でミオリのいる塔へ向かったときと似ている。
だが、どこか決定的に違っていた。
「何か、あったんだな」
「うん」
返事は即座だった。
だが声は少しだけ乾いている。
アルヴィンは、それ以上促さなかった。
急がせる必要はない。
この手の話は、急かすほど歪む。
ヤドクは一度、息を整えてから口を開いた。
「……庭に、知らない人が、いて」
たどたどしい語り口。
これはヤドクが冷静ではない時にまだ抜けない癖だ。
「突然、声をかけられて……剣を向けられて、それで……」
アルヴィンは黙って聞いている。
途中で遮らない、視線も逸らさない。
「ここは、アルの離れだから」
そこで、ヤドクは言葉を切った。
そして続きを迷うように口にする。
「そいつは、アルを狙って来たのかもしれない。
だから、心配した」
アルヴィンは、その意見を否定しなかった。
同時に、肯定もしなかった。
「そうか、怪我は?」
「ないけど、少し剣を向けられて、毒を使ってしまったけど、逃げられた」
その言葉に、アルヴィンはわずかに眉を動かす。
彼にとっての毒は身を守る鎧であり、敵を倒す剣だ。
それも制御に不安のある危険な諸刃の剣。
「私を守るために戦ってくれたのか、怖かっただろう?」
問いは、思っていたよりも柔らかく出た。
ヤドクは少し考え、それから首を横に振る。
「……怖い、というより……」
言葉を探している。
アルヴィンは待つ。
「守らなきゃ、って」
それは、英雄的な言葉ではなかった。
誇示でも、自慢でもない。
むしろ、戸惑いに近い。
「そうか」
ただ、それだけを返す。
「お前が無事でよかった」
それ以上は言わない。
「危険だった」も「よくやった」も 「守ってくれてありがとう」も。
それらはすべて、ヤドクを何かの役割に押し込めてしまう言葉だからだ。
アルヴィンは椅子に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
(私が狙われた?)
内心で問いを立てる。
だが、答えはすぐに出た。
――否。
自分には、狙われる理由がない。
王子ではあるが、今や王族は象徴に近い存在だ。
実権は魔術師たちに移りつつある。
そして彼らは、外聞を気にする。
夜陰に紛れて排除するほど、自分は“邪魔”ではない。
(では、何故?)
その問いの先に、ヤドクの姿が浮かぶ。
だが、アルヴィンはそれを口にしない。
この場で言葉にすべきではないと、直感していた。
「しばらくは、夜に一人で庭に出るのは控えたほうがいいな。
私も、お前も」
言い方は、提案に近い。
「わかった」
ヤドクは頷いた。
従順だが、縛られてはいない。
その距離感を、アルヴィンは崩さない。
やがて、外がわずかに白み始めた。
朝が来る。
「最近何故か夜になると何かがある」
アルヴィンはあくびを噛み潰すような声を出す。
「朝食の給仕が来るまで眠るぞ」
「うん」
短いやり取り。
それだけで、日常は戻ってくる。
だが完全ではない。
ヤドクの視線は、時折庭の方へ流れる。
言葉にはならない違和感が、まだ胸に残っているのだろう。
アルヴィンはそれに気づきながら、何も言わなかった。
離れの外、誰にも気づかれない位置で、わずかな気配が動いた。
それを、アルヴィンは知らない。
だが世界は静かに、確実に次の段階へと踏み出していた。




