2-13 灰の中の名もなき者
夜の城は、静かだった。
石と石の隙間に溜まった冷気が、昼の熱を忘れたふりをして漂っている。
その男は顔と髪を覆う布をきつく巻き、影の中に身を溶かした。
こういう仕事には慣れている。
――正確には、こういう仕事しかしてこなかった。
命じられた理由は単純だった。
鼻が利く。それだけだ。
この国にいる【想造士】という存在。
この世界に稀に生まれ落ちる異界からの転生者で、稀有な力を持つもの。
この数年、ラドミア王国は【想造士】の力で豊かになったという。
前世の記憶から【想造】した道具を再現し、ラドミア王国はそれを国外に売り出す。
男は自国の王に命じられていた。
顔も名も分からない。
連れ帰れ。
無理なら、壊してしまえ。
旅立つ前に教えられた手がかりは、ただ一つ。
自国に唯一存在する【想造士】の【想造物】。
王が好みそうな、過剰なほどに豪奢な指輪だった。
指輪に残る魔力の残滓。
それが、彼の世界では「匂い」だった。
嗅覚に近いが、もっと厄介なもの。
記憶と存在が混ざり合い、消えきらずに残った痕跡。
(探し物は、いつも匂いから始まる)
噂を拾い、痕跡を辿り、居場所を割り出す。
そこまでは、容易かった。
だが、近づくことはできなかった。
もともと、会うことができるものは限られていたが、
数日前、【想造士】の部屋に侵入者が出たという。
それ以降、警戒は跳ね上がり、結界は強化された。
探るには時期が悪い。
下手に触れれば、すべてが消える。
だから、待つつもりだった。
――そのはずだった。
ある日の城近くの街角。
人目のない場所で、彼は立っていた。
誰かを待つように、ただ、そこに。
それなりの身なりは、城に近い場所に立つ理由がある者を思わせる。
(……【想造士】の関係者か)
そう思うくらいの魔力の残滓。
彼は近づき、花を差し出し、言葉を交わす。
それだけの、軽い接触。
その瞬間だった。
匂いが、はっきりとした。
(……違う)
想造士ではない。中心が空白だ。
核が、ない。
だが――
(これは……)
匂いは、あの指輪と同じだった。
いや、指輪そのものだ。
外殻だけを引き剥がし、形を与えたような存在。
(本人じゃない。だが、極めて近い)
動かせば、中心が反応する。
そういう類のものに思えた。
深追いはせず、その日の接触は終わった。
二度目に見たのは、キャラバンで演舞を舞った日だった。
自国のキャラバンに紛れ込み、この国に入り込んだ。
この日は演舞を舞うものが一人怪我のために、助っ人として参加していた。
そこで、例の“アレ”を見つけた。
第一王子と並んでいる。
無防備に。
守られる位置で。
(城の関係者だな)
調べるのは簡単だった。
その日のうちに集まってしまうほどに。
客人。王子の離れに滞在。
監視はあるが、厚くはない。
夜、庭に出ることがある。
それも、分かった。
この日は月が暗く都合のいい夜だった。
(今夜、見に行ってみるか)
そして今男がいるのは、第一王子の離れに付随する庭。
許可された者しか入れない場所。
つまり、余計な目はない。
城の外の者にとって、内部の決まりなど意味を持たない。
境界とは、守る側が信じている約束にすぎない。
越える者は、その約束に同意していない。
警戒が強まったとは聞いている。
――あくまで、塔に限った話だ。
知識と資源が集積する一点にのみ、結界は重ねられている。
城そのものは――
権威と慣習に守られているだけで、構造としては脆い。
それはまるでこの国の力関係を暗示しているかのように。
(俺にとっては都合がいいだけだ)
音もなく侵入した庭の中、薄く照らす明かりの下を一人の青年が歩いている。
黒い髪が月光を受けて淡く光り、
その下の白い肌が、影の輪郭だけを静かに浮かび上がらせていた。
過剰ではない。
だが、不自然でもない。
整いすぎている、とも言える。
周囲の闇と、光の量と、歩幅と。
すべてが、過不足なく釣り合っている。
その均衡が、逆に目を引いた。
幻想的だ、と思う。
無意味な感想だと理解している。
だが、否定はしなかった。
感情ではなく、観測結果として。
(見ているだけでは、何も分からない)
距離を詰める必要がある。
匂いは、近くでなければ正確に測れない。
壁を蹴り、音を殺して背後に降り立つ。
石の感触、空気の流れ、衣擦れの消失。
着地は完璧だった。
だが――
反応は、それよりも早かった。
振り向こうとする、ほんの僅かな気配。
思考より先に身体が動いている。
反射だ。
その青年の印象よりもどこか野生生物に近い反応に思えた。
「振り向くな」
言葉を投げると、動きが止まる。
ほとんど反射のように。
命令としてではなく、刺激として受け取った反応だ。
一拍の間を置き、青年は口を開く。
「……誰?」
声は揺れていない。
だが、意味が追いついていないのが分かる。
状況を理解しようとしている途中の声。
「お前は、なんだ」
問いは、曖昧だった。
名でも、立場でもない。
だが、それでいい。
こちらが欲しいのは、答えそのものではない。
「俺……?」
戸惑い。
当然の反応だ。
短剣を抜き、首筋に当てる。
刃の冷たさが、衣服越しに皮膚へと伝わる。
――切るつもりは、なかった。
だが、この距離で、この反応速度。
そして、この“匂い”。
甘くも、鉄臭くもない。
どこにも属さない、異質な残滓。
(やはり、ただの人間ではない)
そう確信するには、十分だった。




