2-5 音無き笛による導き
結界完成を目前に控えた魔術塔は、奇妙な落ち着かなさに満ちていた。
本来ならば、一区切りつくはずの節目だ。
だが塔内を流れる魔力は、鎮まるどころか、脈を打つように揺らいでいる。
研究区画の一室。
アステルは机に向かい、分厚い報告書に目を落としていた。
何度も読み返された紙は、角が擦れ、頁の端には指の跡が残っている。
内容は整理され、論理も破綻していない。
それでも――結論だけが、どこにも辿り着かない。
(本来なら、今日で終わるはずだった)
宮廷魔術師の上位存在である管理者たちの声が脳裏をよぎる。
「結界が完成する前に結論を出せ」
「原因不明のままでは困る」
現場の研究者たちは限界に近かった。
徹夜続きの調査。
魔力測定のやり直し。
互いの報告に、苛立ちを隠しきれない空気。
アステルは一度、報告書から視線を外し、息を吐いた。
そして再び、事実の列を追う。
結界、扉など、侵入に関わる破壊痕跡なし。
強引に突破された兆候もない。
侵入時点での魔力の乱れも観測されていない。
窓と格子だけが破壊されている。
だがそれは、逃走時のものだという証言が全員一致していた。
当日駆けつけた研究者たちは、
「部屋に入った時点では、窓を含めどこも壊れていなかった」と言う。
意識を失っていた者たちも、回復後に同じ証言をした。
――侵入経路が、説明できない。
その時点で、アステルは薄く眉を寄せた。
「侵入」という言葉自体が、報告書の中で浮いている。
侵入というより――
最初から、内側に存在していた。
そんな感覚が、言葉にならないまま残る。
だが、それは研究報告には書けない。
アステルは思考を切り替え、次の項目へ進んだ。
毒に関する調査結果。
空気――残留反応なし。
壁材、破壊された装置――腐食の痕跡はあるが、残留なし。
人体――毒物反応なし。
それにもかかわらず、
意識喪失。
身体の麻痺。
そして、全員が口を揃えて言う。
「毒を受けた」と。
(作用だけがあった。
だが、物質としての“毒”は、どこにも存在しない)
その思考を遮るように、扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、ベリオンだった。
穏やかな足取り。
視線は自然と机上の報告書に向く。
「まだ、結論は出ていないようですね」
責めるでもなく、慰めるでもない。
事実を述べるだけの声音。
アステルは顔を上げる。
「……わざわざ、それを言いに来たのか。
どの仮説も、どこかが噛み合わない」
ベリオンは報告書を手に取らない。
だが、すでに内容を把握しているかのように、静かに言った。
「先日、私が申し上げた通りです。
“侵入”という言葉そのものを、疑うべきではありませんか」
アステルの視線が鋭くなる。
「侵入とは、外から中へ入る行為です。
ですが――この報告には、“入った瞬間”が存在しない」
アステルは反論できなかった。
事実だからだ。
ベリオンは、あくまで仮説として続ける。
「生物的存在、あるいは人為的侵入者である可能性は、低いでしょう。
既存の分類に当てはめようとするから、歪むのです」
「ベリオン。だからその可能性は――」
遮るように、だが丁寧に。
「あなたも、気づいておられるはずです。
原因が否定されるたびに、私と同じ答えに辿り着いていることに」
アステルは口を閉ざした。
否定しきれない。
「前例がない、というのは否定する理由にはなりません。
どんな事象にも、前例のない“最初”があります」
ベリオンは続ける。
「毒についても同じです。
皆、“毒だと思った”。
しかし、“毒を検出した”わけではない。
これは、魔力を介した毒のような何かだと考えられます。
ですが、そのような魔術を展開した痕跡は残っていない。
私の知識にも、そしておそらくあなたの知識にも、該当する事例は見当たりません」
穏やかな声。
だが、その言葉は容赦なく可能性を削ぎ落とす。
「答えが未知の存在であるならば――
いくら、この部屋で考えても辿り着けません」
アステルはペンを取り、報告書に書き込み始めた。
本当は、彼自身も同じ結論に近づいていた。
だが、それを上層部に提出すれば何が起きるか、分からない。
ミオリへの干渉が、さらに深まる可能性がある。
それでも。
これ以上、部下たちを不毛な調査で疲弊させるわけにはいかなかった。
――再調査結果。
以上のことから、研究室としては
塔に外部の者が侵入し脱走したのではなく、
【想造士】の力で作られた未知の存在が脱走した可能性を提示する。
ベリオンはその一文を見て、満足そうに小さく頷いた。
「これを見て、管理者たちは何と言うでしょうね」
「まずは【想造士】の監視と観測の強化だろうな」
「その点は、すでに新しい結界の設計に組み込んであります。
……適当に、報告しておいてください」
軽い口調。
何を考えているのかは分からない。
だが、その才能が確かなことだけは、アステルにも分かった。
アステルは、ベリオンが設計した新たな結界の仕様書を手に取る。
侵入と脱出は、許可制。
魔力変動の観測。
存在反応の検知。
――そこにいる“何か”を測るための装置。
監視体制は、塔内外で常時稼働へ移行する。
そして、その監視の中心にいるのは。
ミオリだった。




