2-4 それは馬車か、枷か
離れを出る支度が整い、アルヴィンは外套を羽織った。
ヤドクもまた、教えられた通りの順序で身なりを整えている。
アルヴィンは一瞬、足を止めてヤドクを見た。
数日前まで、姿勢も定まらず、目線の置きどころすら分からなかった青年は、今や城内を歩くに足る佇まいを身につけつつある。
動きはまだ硬い。
だが、無駄な力は抜け、呼吸は落ち着いている。
彼が人として整っていくことへの安堵。
同時に、説明のつかない違和感が、胸の奥に残る。
(守っているはずなのに、こちらの想定を先に越えていく)
アルヴィンはその感覚を胸の奥へ押し込み、口を開いた。
「外に出たら、どうするんだった?」
ヤドクは即座に答える。
「アルのことは、アルヴィン殿下と呼ぶ。敬語を使う。
心を落ち着けて、毒を出さない」
「よし」
短く肯定する。
ヤドクは、ほんのわずか眉を寄せた。
「ねえ、これ……毎日やるの?」
「当分はな」
「……そっか」
不満とも冗談ともつかない声音。
アルヴィンは口元をわずかに緩めた。
ヤドクの腕には、木箱が抱えられている。
ミオリのノートを収めたものだ。
「今日はその箱を返しながら、少し歩こう」
二人は並んで離れを出た。
城内へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
人の視線、衣擦れの音、足音の重なり。
ヤドクはそれらを、以前のように圧迫としてではなく、
情報として受け取っていた。
その中で、自然と視線を集める一団がある。
数名の侍女と使いを従え、ゆったりと歩く一人の女性。
流れるような金の髪。
完璧に整えられた衣装と所作。
ただそこに存在するだけで、周囲の空気の流れを制御している。
その顔には見覚えがある。
リゼリアだった。
「アルヴィン殿下」
鈴を転がすような声で微笑む。
「ご機嫌よう」
次いで、視線がヤドクへ向く。
その動きは自然だ。
だが、一拍だけ、長い。
人そのものではなく、「置ける位置」を測るような視線だった。
「ラーナ殿。おはようございます」
その呼称を聞いた瞬間、
ヤドクの思考は一度、静止した。
――ラーナ。
向けられた視線と知らない名。
だが、ここで訂正する選択肢はない。
「おはようございます」
教えられた通りに応じる。
声量、間、目線。
どれも適切だった。
アルヴィンが、思い出したように言う。
「そうだ、リゼリア。君を友人に紹介しなくては。
昨夜の食事の席で、君に言われるまで気が付かなかったよ」
「そうですわね。昨日初対面の方がいらしたのに、ご紹介がなかったので。少しだけ、気になりまして」
責める調子ではない。
だが、その視線は――逃がさない。
「皆が知っていることだと思い込んでいた。指摘してくれて助かったよ」
「殿下のそういうところを支えるのが、私の役目ですから」
そう言ってから、リゼリアは改めてヤドクを見る。
アルヴィンが告げた。
「彼女は、リゼリア・フォン・アルマード。私の婚約者だ」
その瞬間、ヤドクは初めて、
アルヴィンという存在を“外側から”見る。
淡い色の髪はきちんと撫で付けられ、
視線は常に周囲より一段高い位置にある。
背筋は自然に伸び、動きに無駄がない。
威圧ではない。
だが、誰もが無意識に一歩距離を取る、高貴さ。
リゼリアと並んだとき、それは完成する。
――肖像画だ。
城の奥に飾られていそうな、
時間の中で固定された一枚。
完成された“内側”の人間。
(本当なら、俺が並べる存在じゃない)
その認識に、感情は伴わなかった。
ただ、事実として理解した。
リゼリアは、ヤドクの腕の木箱に目を留める。
「それは……もうお返しになるの?」
声は柔らかい。
だが、目は箱とヤドクを行き来している。
(中身ではなく、持たせた理由を見ている)
「ああ。君のおかげで、友人に珍しい物を見せられた」
軽い調子のアルヴィン。
「お役に立てて光栄ですわ」
その一言で十分だった。
この本の持ち出しに関して、彼女の口添えがあったことは明白だ。
「ありがとうございました」
ヤドクは深く頭を下げる。
リゼリアは微笑みを崩さぬまま、さらに一歩踏み込む。
「よければ、近いうちに皆でお食事でも」
ヤドクは言葉を探す。
その一瞬を逃さず、アルヴィンが口を挟んだ。
「ラーナは持病があってね。調子の良い時にでも」
それはアルヴィンの作った設定。
保護のための嘘。
リゼリアは一拍だけ考える素振りを見せ、頷いた。
「では、その折に」
去っていく背を、ヤドクは静かに見送った。
人影が途切れ、二人きりになる。
「……ラーナ、って呼ばれた。それに、婚約者?」
問いは淡々としていた。
アルヴィンは一瞬だけ視線を逸らす。
「昨夜、話すつもりだった」
ヤドクは、それ以上聞けなかった。
昨夜の出来事を思い出し、問いを飲み込む。
アルヴィンが歩き出す。
「ラーナ家は実在する友人の家だ。末息子ということになっている」
淡々と、事務的な説明。
「客人として招くのに、家名がないのは不自然だからな。
公の場では、家名で呼ばれることが多い。慣れておけ」
保護のための措置。
正しい判断。
それでも。
自分が「誰か」に作り替えられていく感覚があった。
その奥で、ただ一つ、確かなことが浮かぶ。
ミオリは。
ただ一人、自分を呼んだ。
名前ではなく、存在そのものをこの世界に。
その事実だけが、
静かに胸に残った。
「ノートを返しに行こう」
「その場所は?」
アルヴィンは、王城の敷地内で最も高いその塔へ視線を向ける。
ヤドクが頷くのを見ると二人は研究塔へ向かって歩き出す。
管理と判断と観測の場へ。




