2-3 彼女が願った名もなき毒
朝食を終え、アルヴィンは外套を手に取った。
城内を歩くには、そろそろ支度を整える時間だ。
扉に手をかけたところで、ふと動きが止まる。
「……そうだ」
昨夜の出来事に気を取られ、後回しにしていたものがある。
忘れていたというより、意識的に棚上げしていた、と言うべきかもしれない。
アルヴィンは踵を返し、部屋の奥へと戻った。
鍵のかかった小箱を開け、その中から一冊の古いノートを取り出す。
表紙は色褪せ、角は擦り切れている。
だが、それを手にした瞬間、ヤドクの視線が吸い寄せられるのを、アルヴィンは見逃さなかった。
「このカエル――」
ノートを差し出しながら、アルヴィンは軽く笑う。
「まるで、お前のようだろう」
冗談めかした口調だった。
だがヤドクは返事をしなかった。
笑うことも、否定することもなく、ただ、そのノートから目を離せずにいる。
見た目は古い。
だが、その表紙には、赤と青の体を持つ美しいカエルの姿が描かれていた。
「昨夜、戻りが遅くなった理由だ」
アルヴィンは淡々と告げる。
「研究室の保管庫から持ち出してきた。本来なら、許可は下りない」
言葉を選び、一拍置く。
「だが……後援者の一声があってな。研究室も、強くは出られなかった」
善意だけで動いたわけではない。
そう、暗に示す言い方だった。
ヤドクは、ようやくノートを受け取った。
その瞬間、胸の奥が、わずかに軋む。
――懐かしい。
だが、それは記憶ではない。
情景も、声も、思い出せるものは何一つない。
ただ、触れた感触だけが、静かに残る。
「それは」
アルヴィンは視線を外し、続けた。
「ミオリが、最初に【想造】したノートだ」
ヤドクの指が、わずかに止まる。
「当時は話題になった。異質な出来だったからな」
紙の質感も、印刷の精度も、この国の技術では説明がつかない。
だが、評価はあくまで冷静だった。
「実用性がない」
「危険性がなく、検証は不要」
結果、そのノートは忘れ去られた。
使われることも、研究が進むこともなく。
ミオリの“最初”は、誰にも必要とされなかった。
「お前に見せたのは……」
アルヴィンは、ヤドクを見た。
「お前の毒について、何か手がかりがあるかもしれないと思った」
研究者としてではない。
保護者としての、焦りに近い判断だった。
ヤドクは答えず、ページをめくる。
中はほとんどが白紙で、
時折、幼い落書きのような絵や文字が描かれているだけだ。
そして、裏面で、手が止まった。
子供向けの文字。
素朴な挿絵。
誰かに説明するために書かれた文章。
「……イチゴ……ヤドクガエル」
ぽつりと、ヤドクが読む。
「読めるのか」
「うん。ミオリの前の命の世界の言葉……少しなら」
そこに書かれていたのは、表紙のカエルについての説明だった。
「読み上げてみろ。
その名からしても、お前に無関係とは思えない」
生息地や生態の項。
体の派手な色は警戒色。
敵から身を守るための毒をもつ。
触れると、腫れや痛みが出ることがある。
ヤドクは淡々と読み上げながら、違和感を覚える。
――違う。
「俺の毒とは、違う」
鉄を溶かす。
石壁を侵す。
意識を奪う。
防衛としては、過剰すぎる。
生き物の性質として説明するには、あまりにも歪だ。
アルヴィンは、しばらく黙ってから口を開いた。
「このカエルは、私の知る限り、この世界にはいない。仮説だが……」
慎重な声音。
「お前の毒は、生物的な現象ではない。
精神状態に左右されている。その性質も、多岐にわたりすぎる。
無自覚に発動する――魔法に近いものだろう」
「魔法?」
「ああ。それならば、その毒の紋を制御する方法があるかもしれない」
アルヴィンの言葉に、ヤドクは顔を上げる。
「この毒を……消せるの?」
「“かもしれない”だ。調べさせてみるが、気長に待て」
それより、とアルヴィンは言葉を切り替える。
「そろそろ外出するぞ。支度を整えろ」
その言葉に、慌ただしく動き始めるヤドクを眺めながら、アルヴィンは考える。
(ヤドクは、あのカエルをモデルに生まれたのは間違いない。
だが――毒の要素が、あまりにも異なる)
それほどの力を、
ミオリは、望んでいたのか。
塔の少女の願い。
それが、どれほどの闇から生まれたものだったのかを思う。




