1-21 毒か、救いか
ガラス越しに、二人は向かい合っていた。
ミオリが、そっと手を伸ばす。
ヤドクも同じように、外から手を上げる。
透明な壁の向こうで、指先が重なる位置は合っているのに、
温度だけが、決定的に届かなかった。
触れられない。
けれど、確かにそこにいる。
その事実だけで、胸が苦しくなる。
ミオリは、伏せていた視線を上げる。
ガラス越しに映るヤドクの顔を、まっすぐ見つめて――
ほんの小さく、息を吸った。
「……ごめんなさい」
理由は続かない。
何に対してなのかも、言葉にはしなかった。
それでも、その一言だけで十分だった。
ヤドクは、はっとしたようにミオリの瞳を見る。
そこには、今まで見たことのない揺らぎがあった。
痛みでも、恐れでも、安堵でもない。
名を持たない、ただの揺れ。
それが、ミオリの中から生まれたものだと、直感でわかる。
「……謝らないで」
ヤドクの声は、低く、静かだった。
ガラスに触れたまま、視線を外さずに続ける。
「名前を……呼んで」
願いだった。
要求ではなく、確かめるための言葉。
ヤドクは、先に名を口にする。
「ミオリ」
呼ばれた名が、胸に落ちる。
ミオリは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、
そして、小さく息を吐いた。
「……ヤドク」
その名を呼んだ瞬間、
ヤドクの中で、何かが静かに形を持つ。
ここにいる。
確かに、存在している。
それだけで、十分だった。
廊下の奥で、足音がした。
硬い靴音が、近づいてくる。
ミオリが、先に気づく。
わずかに肩が強張った。
ヤドクも察する。
それ以上、言葉は要らなかった。
ヤドクは、名残を断ち切るように、窓から一歩退く。
闇に紛れる前に、ヤドクはもう一度、ミオリを見る。
「……必ず」
低く、けれど確かな声。
「ミオリを、連れ出す」
約束ではない。
計画でもない。
願いだった。
ミオリは、答えられなかった。
声も、首を振ることもできない。
けれど――
否定もしなかった。
ヤドクの姿が、闇に溶けて消える。
窓の外に残ったのは、冷たい夜気だけだった。
けれど、それさえも、今は名残のように感じられる。
ミオリは、その場を離れなかった。
窓辺に立ったまま、ただ外を見つめ続ける。
口の中で、名前を転がす。
「……ヤドク」
赤と青の模様が走る肌。
闇に溶ける黒い服。
触れられなかった手の位置。
思い出すたびに、胸の奥が、静かに軋む。
自分がしてしまったことは、
罪なのか。
それとも、救いなのか。
まだ、わからない。
ふと、脳裏に浮かぶ。
かつて――
この塔に閉じ込められるきっかけとなった、
あの自由帳の表紙。
鮮やかに刷られた、カエル。
自分を縛ったはずのものが、
今は、自分を連れ出すと言っている。
その皮肉にも似た矛盾に、
ミオリは、ほんのわずかに微笑んだ。
――そのとき。
廊下の足音が、はっきりと近づく。
ヤドクが去るきっかけとなった音。
扉が開く。
「ミオリ」
少しだけ息を切らした、アステルの姿があった。
階下は、新たな結界の準備で慌ただしいはずだ。
「声が聞こえた気がしたが……何かあったか?」
ミオリは、窓から視線を外さないまま答える。
「……窓に」
一拍。
「カエルがいたの」
アステルは、わずかに眉を上げた。
「この高さまで登るなんて、よほど高いところが好きなカエルだな」
「そうね」
もう窓の外には、夜の闇と星の光があるだけだった。
さきほどまで、そこに“誰か”がいた痕跡は、何も残っていない。
それでも――
ミオリの心の奥には、ほんの少しだけ、何かが残っていた。
名前を呼ぶ声。
触れられなかった距離。
そして、確かにここに来たという事実。
それはまだ、形にならない。
けれど、消えることもなかった。
第1章終わりです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
第2章は、次の金曜日から火曜・金曜更新で再開予定です。




