1-20 その名を呼んだのは
窓の外から、声が聞こえた。
ミオリは、ほんの一瞬、動きを止める。
この高さで。
この塔で。
外から声が届くことなど、これまで一度もなかった。
まして――
自分の名を、呼ぶ声などあり得なかった。
この塔で、ミオリは【想造士】であり、
研究対象であり、実験体だった。
名を呼ばれるとしても、それは命令か、確認か、記録のためだけだ。
けれど今、聞こえた声は違う。
説明も、評価も、命令もない。
ただ、名を呼ぶ声だった。
ミオリの胸が、理由もなく強く鳴る。
考えるより先に、唇が動いていた。
「……アステル?」
誰よりも長く、誰よりも頻繁に、
自分の名を呼んできた声の主。
安全だと、無意識に判断してしまう名前。
疑うという選択肢すら浮かばないほどに。
その名が、零れ落ちる。
窓の外で、ヤドクは一瞬、言葉を失った。
胸の奥が、きしむように痛む。
――違う。
まだ、見えていない。
だからこそ、呼ばれた名だった。
それでも、その名で呼ばれたことが、
小さく、ヤドクの胸を刺した。
しかし、それ以上に――
会えた。
その事実が、すべてを上回っていた。
ヤドクは、かすかに息を整える。
ミオリは、声の主に気づいたように、はっと顔を上げる。
窓の外。
闇に溶けるように映る、青年の姿が視界に映る。
見覚えはない。
けれど、
知らないはずなのに――
心が、強く反応する。
ミオリは、無意識のまま、窓へと近づく。
ガラス越しに、
闇に溶けるような影が見えた。
顔を見るより先に、
夜の中で浮かぶ、
赤と青の紋が、視界に焼きつく。
——知っている。
理由は分からない。
けれど、その感覚だけが先にあった。
そして、ようやく、
青年の顔を見る。
伏せられた目。
息を詰めるような表情。
「……あなた、は?」
戸惑いを含んだ声。
その問いに、ヤドクは迷わず答える。
「俺は、ヤドク」
名を告げる。
それだけの言葉なのに、
夜の空気が、わずかに震えた。
ミオリは、その名を小さく繰り返す。
「……ヤドク」
口にした瞬間、
胸の奥で、何かが軋む。
忘れていたはずの感覚。
切り離したはずの祈り。
ヤドクが、静かに続ける。
「君が、呼んだから」
その言葉が、鍵だった。
その言葉を聞いた瞬間。
ミオリの中で、何かが「繋がった」というより、
最初から繋がっていたものに、
今さら触れてしまったような感覚が走った。
思い出したわけではない。
忘れていた記憶が、戻ったわけでもない。
ただ——
彼が、この塔まで来た理由。
彼が、自分の名を呼ぶ理由。
それらが、
ひとつ残らず、自分の中にあったことを、
理解してしまった。
胸の奥が、ひどく静かになる。
ああ、と。
心のどこかで、小さく思う。
この人は、誰かに与えられた存在じゃない。
命じられて来たわけでも、
偶然現れたわけでもない。
——私が。
言葉にする前に、
その結論だけが、先に落ちてきた。
この青年は、
自分の願いから、現れた。




