1-17 それはやがて走り出す
ヤドクとアルヴィンが離れに戻ると、部屋の中には静けさが戻っていた。
アルヴィンは窓を細く開け、外の気配を確かめるように目を細める。
ヤドクは、上着を脱ぐことも忘れたまま、部屋の中央に立っていた。
「今日はよくやった」
アルヴィンが言う。
「立ち振る舞いも、受け答えも問題なかった」
「アルが、教えてくれたおかげ」
ヤドクは微笑みながらも、どこか言葉は遠い。
「……最後に、あの人を見たとき……時計を拾ったときに」
言い淀み、ヤドクは指先を見つめた。
「何か、心が落ち着かなくて。ざわざわして……練習してたのに、崩れそうになった」
「それも含めて“よくやった”」
アルヴィンは、笑わずに言った。
「“崩れそうになった”自分を、自分で止められた」
ヤドクは黙って頷く。
少し間を置き、言葉を選ぶように口を開いた。
「……アル、教えて。城で、みんなが君を“殿下”って呼んでいた」
アルヴィンは視線を外さないまま、首だけを傾ける。
「気になったか?」
「……うん」
「別に、隠していたわけじゃない。ただ、伝える時を考えていただけだ」
アルヴィンは、窓の外へと視線を流す。
「……アルは、王子なの?」
「形式的には、な」
あっさりとした答えだった。
「じゃあ、俺は……そんな偉い人に助けられたってこと?」
「偉いわけじゃない。ただ、その立場に生まれただけだ」
アルヴィンは自嘲気味に微笑む。
それは、ヤドクに「アステルと似ている」と言われたときの声色と、どこか重なっていた。
「……アル」
少しの沈黙のあと、ヤドクは言った。
「俺も、アルに言わないといけないことがある」
「なんだ。聞かせてくれ」
ヤドクは、自分がミオリに呼ばれて、この世界に現れたのだと説明する。
「だから、俺は普通の人間じゃないんだ」
「それは、わかっていた」
即答だった。
ヤドクは驚いて目を瞬かせる。
「今は、だいぶまともに見えるようになったが……出会ったときのお前は酷かったぞ。
見るからに訳ありの怪しい男が、池に落ちていたんだからな」
言葉は刺さるが、声と表情は柔らかい。
「それでも、そんなお前に興味が湧いた。だから助けた」
「……見つけてくれたのが、アルでよかった」
「今日の振る舞いを続ければ大丈夫だろうが、あまり目立つ行動は取るな。
塔の連中は、今も“塔に現れた者”を探している」
「わかった。気をつける」
そう答えながら、ヤドクは胸元にしまっていた白い花を取り出した。
街で受け取ったその花は、幾分か張りを失っているようにも見える。
ヤドクはそれを大事そうに、小さなコップに生けた。
「珍しい花だな」
「うん。別の国の花だって聞いた」
ヤドクは花をじっと見つめ、小さく呟く。
「……なんだか、ミオリに似ている気がする」
一晩が明けた翌日の昼、ヤドクはアルヴィンの案内で、城内を歩いていた。
「俺が常にヤドクと一緒にいられるわけではない。
城の中で歩いていい場所と、そうでない場所を教えておく」
アルヴィンの言葉に頷くヤドク。
そのとき、数人の侍女を伴った女性が、二人の方向へ歩いてくる。
艶やかな金髪を結い上げ、深紅のドレスを纏ったその姿は、城の中でも自然と目を引いた。
近づくにつれ、ヤドクは彼女の瞳を見た。
よく磨かれた宝石のような光。
感情を映すというより、価値を量るための色だった。
アルヴィンが足を止める。
「リゼリア」
呼ばれた女性は微笑み、軽く会釈を返した。
「ごきげんよう、アルヴィン殿下」
その視線がアルヴィンを捉えたのは、ほんの一瞬だけだった。
すぐに、隣に立つヤドクへ移る。
その視線は美しく、
同時に、獲物の価値を測る蛇の目を思わせた。
間が生まれる。
短い沈黙のあいだ、
彼女の視線はヤドクの顔立ちから、黒い服、手袋へとゆっくり流れた。
「昨日、殿下が御学友を招いたと聞きましたわ」
柔らかな声。
「その姿が目を引いた、とも」
評価の言葉だった。
名を問うことも、立場を確かめることもない。
「確かに……綺麗な方ですわね」
それだけ言って、リゼリアは再び微笑んだ。
ヤドクは、その視線に居心地の悪さを感じたが、
表情も姿勢も崩すことなく、小さく頭を下げて応える。
それ以上踏み込むことなく、リゼリアは話題を移した。
「城下が、少し賑わっているみたいで」
「ああ、そういえば昨日も人が多いようだった」
「異国の商人のキャラバンが来ているとか。
ぜひ、見に行ってみたいわ」
「そうだな。時間が取れれば」
アルヴィンは曖昧に返し、話を切り上げる。
「では、また」
短い挨拶を交わし、リゼリアと別れる。
そして数歩進んだところでリゼリアは振り返る。
「そういえば……」
リゼリアが、ふと思い出したように口を開く。
「先ほど、回廊でお見かけしましたの」
アルヴィンが目を細める。
「……誰を?」
「アステル様を」
その名は、あくまで自然に落とされた。
「ずいぶんお忙しそうでしたから、少し気になって。
近くにいた研究者の方に尋ねたのです」
リゼリアは、あくまで世間話の調子を崩さない。
「塔の結界を侵入対策に強化するそうですわ。
その準備で、研究塔はどこも慌ただしいとか」
アルヴィンは、それ以上反応を示さない。
「……それに」
リゼリアは、声を少しだけ落とした。
「先日の侵入者、まだ捕まっていないらしいですの」
柔らかな微笑みのまま、続ける。
「物騒ですわね。
城の中は安全だと言われていますけれど……」
彼女の瞳はヤドクを疑うものではなかったが、彼の胸の奥で何かが小さく鳴った。
「恐ろしいことですわ」
そう締めくくり、リゼリアは軽く一礼する。
「では、また」
彼女は今度こそ、去っていった。
その後も城内を歩き、アルヴィンといくつかの言葉を交わしたはずなのに、ヤドクの意識は、どこか上の空だった。
日が落ち、部屋へ戻ったときも、その感覚は消えなかった。
アルヴィンは城の中へ呼び出され、今この部屋にはヤドク一人。
言葉を交わす相手がいないことで、意識は思考に沈んでいく。
明かりはつけず、窓から差し込む月の光だけが、部屋の輪郭を照らしていた。
机の上に置いていた、小さな白い花。
昨日、あの異国の青年から受け取ったもの。
花はまだ形を保っていたが――香りは、すでにほとんど残っていなかった。
ヤドクはそっと指先で触れる。
その瞬間。
花弁の縁が、ふわりと崩れた。
「あ……」
声にならない声が漏れる。
さっきまで、あれは確かに“花の形”をしていたはずだった。
ほんの少し前まで、彼女を思い出させてくれるものだった。
けれど、もう違う。
何も言わず、何も拒まず、ただ朽ちていった。
その光景を見つめながら、ヤドクの胸の奥にあったものが、音もなく崩れはじめる。
言葉はいらなかった。
理由もなかった。
たった一つの想いだけが、すべてを動かす。
ヤドクは、窓の外を見上げる。
王城の中の高い塔。
あの場所に、彼女がいる。
まだ、あの場所に――
彼の心に浮かんだのは、ただひとつ。
「 ……会いたい」
その衝動は、計画を要しない。
理屈を必要としない。
ヤドクはゆっくりと、立ち上がった。
まだ夜は深くない。
城内の灯が、ひとつまたひとつ、静かに揺れている。
彼の胸の中では、
もう歯車が回り始めていた。




