1-13 薄れていく世界
白い光の揺らぎに引かれるように、ミオリの胸の奥で、別の景色がふっと滲んだ。
これは前の命を生きた記憶だった。
平凡で、けれど確かに温かかった。
“普通の家庭”で育った日々。
今になっても心をそっと温める、大切な記憶。
やがて大人になり、働き始め、忙しさに追われるようになった。
最初は誇らしく思えた責任も、積み重なるほどに重荷へ変わり、
少しずつ、少しずつ心が削られていく感覚だけが残った。
願うことをやめ、ただ流されるように生きていた最後の数年。
仕事と睡眠だけで埋まった日々の先に、何があったのか――
その最期だけは、感情ごと切り取られたように、霞がかって思い出せない。
けれどミオリは知っている。
今の自分が、どれほど過酷な状況に置かれていても、
どこかひとつ冷静に受け止められるのは――
前の人生で心が一度、壊れる寸前まで削られた経験をしているからだと。
この記憶の情景は長く続かず、白い光がまたひとつ脈打ち、記憶の水面に別の景色が浮かんだ。
今度は――この世界に生まれた後のミオリとしての記憶。
どれも、どこか遠くから眺めているように静かだった。
前世を思い出すまで、村で過ごした七年間は、平穏そのものだった。
両親は優しく、季節の香りと笑い声の中で育てられた記憶は、今思い返しても柔らかい。
あれは確かに幸せだった、とミオリは淡く思う。
ただ、その幸福ですら、今はもうどこか別の誰かの記憶のように感じられる。
転機は八歳のとき。
絵を描きたくて、空白の紙を求めただけだった。
手にしたいと願ったその瞬間――前の世界で小さい頃に使っていた、表紙に鮮やかなカエルの写真が印刷された自由帳が、そのまま現れた。
その瞬間、前世の記憶が静かに滲み出す。
この世界には存在しない鮮明な印刷の“自由帳”と、蘇った記憶に混乱するミオリの姿に、村の人々は驚き、噂はひと晩で広がった。
転生者は高い魔力や稀有な能力を持つことが多い。
だからミオリは“国の宝”として城へ連れて行かれた。
初めは丁寧に扱われ、褒められもした。
けれどその眼差しは、温かさとは違っていた。
その日を境に、家へ帰ることは許されなくなった。
それからの年月を、ミオリは塔の研究区画で過ごす。
外出はなく、家族へ手紙を書くこともほとんど許されない。
「国のためになるのだから」
そう言われ続け、ミオリ自身もそう思い込むことで心のつり合いを保った。
外に出たい、帰りたい――
そんな小さな願いは確かにあった。
けれど研究は年々過酷になり、望むより先に日々をこなすだけの存在になっていく。
(あの“自由帳”が、この世界の私の自由を奪った……なんて、皮肉)
心の色が少しずつ薄れていき、世界との距離が自然と開いていった。
十六歳になった年、研究室の長となったアステルがミオリの担当についた。
知識転送と魔力転送の装置が本格的に使われ始め、彼女の身体は効率と成果を優先して扱われるようになった。
アステルは合理的で、研究者として正確だった。
だが――ミオリが自身の理論で構築した装置に繋がれている姿を初めて見た彼の目の奥に、研究者として抑え込まれた微かな痛みが走ったことを、
ミオリはぼんやりと覚えている。
(……そういえば……あの時も、こんな顔を……)
先ほど見た彼の表情に既視感を覚えた理由が、静かに結びつく。
それでもミオリは、抵抗することなく淡々と受け入れるだけだった。
拒む気力も、選ぶ自由も、その頃にはもうほとんど残っていなかったのだ。
十七歳になる頃には、心はさらに閉じていった。
孤独と搾取が積み重なり、喜びも悲しみも遠い膜の向こうへ沈んでいく。
外の世界への興味も薄れ、
自身の存在が研究の一部として静かに消費されていく感覚だけが残った。
負荷が増すたびに、アステルの眉間にわずかな影が落ちていたように思う。
その頃のミオリは、壊れかけている心さえもどこか遠くから眺めているだけになっていた。
ただ、淡く、静かに。
流れるように時間が過ぎていく。
十八歳の誕生日を迎えた、その日まで。




