1-12 思い出せない“なにか”
最初に捉えたのは“光”だった。
治療結界が生む白い膜が淡く揺らぎ、脈動する光が、呼吸のように彼女の肌を照らしている。
ミオリは暗い眠りの底から、ゆっくりと意識が浮かび上がっていく感覚を覚えた。
音は遠い。
耳の奥で水が詰まったように鈍く、世界がどこか離れた場所にあるように感じる。
普段からガラス越しに自分を眺めているような距離を抱えていたミオリだったが、いまの身体はそのさらに向こう側へ置き去りにされたように重かった。
まぶたを持ち上げると、視界の端に影があった。
アステルが祈るように手を組み、額に当てたままミオリの傍らに座っていた。
薄氷のような睫毛が微かに震え、閉じた瞳は静けさの奥に熱を湛えている。
彫刻のように整った横顔は、どこか憂いを帯びていた。
その顔を見た瞬間、胸の奥で微かな既視感が揺れた。
(……こんな表情、前にも……)
その曖昧な感覚が、ゆっくりと過去の記憶を引き出す。
アステルが研究室の室長となり、ミオリの直接の担当になったのは二年前。
けれど彼を知ったのはもっと前――ミオリが八歳で塔へ連れてこられた日、十八歳の青年としてすでにそこにいた。
実験の補助、魔力の計測、報告書の整理……何度も視界の端で淡々と、正確に仕事をこなしていた姿はよく覚えている。
気づけば彼は塔を動かす中心となり、ミオリの生活のほとんどを管理する存在になっていた。
結界の光が静かに揺れ、その反射がアステルの頬を淡く照らす。
ミオリは浅い呼吸のまま、かすかに唇を動かした。
「……ア、ステ……?」
自分でも驚くほど掠れた声だった。
アステルははっと顔を上げる。
「ミオリ……!目が覚めたか。体に痛みなどはないか?」
普段の冷静さを保ちながらも、声音がわずかに震えている。
心配と安堵と――それを自覚したくない彼自身の戸惑いが入り混じっていた。
ミオリは答えようとして、ゆっくり首を動かそうとした。
だが首は言うことをきかず、枕に沈んだまま微動だにしない。
身体の奥で、魔力がざらりと軋むように乱れているのを感じた。
何かがひび割れているような、不安定な震え。
どこかが薄く痛んだ。
しかしミオリには、その“どこ”が痛むのかさえ捉えられなかった。
声を出そうとして、ミオリは小さく喉を震わせる。
「……」
しかし、今度は声にすらならなかった。
空気が擦れるだけで、言葉の形を結ばない。
舌も喉も、自分の意志と噛み合っていないように思えた。
何度も経験した魔力枯渇。
けれどこれは、それよりもっと深い“底”に触れている――そんな予感があった。
(……どうして……?
……何を……したんだろう……)
問いの裏側に、ふと別の感覚が浮かぶ。
何か、とても綺麗なものを見た気がする。
光のようでもあり、影のようでもあり――
胸の奥にじんわり残る、鮮明な“なにか”。
けれど思い出そうとすると、すぐに霧へ沈んでしまう。
そのもどかしさに応えるように、結界の光がまたひとつ脈動し、視界が白く揺れた。
同時に、ミオリの意識もわずかに揺らぐ。
アステルが椅子を引き寄せ、ミオリの枕元へ静かに視線を落とした。
虚ろになりかけたミオリの目を見て、彼は低く穏やかな声で言う。
「無理に考えなくていい……今は休めばいい」
静かで、揺れを押し殺した声だった。
その声音は遠く澄んだ水底から響くように胸へ落ちていく。
ふと、ミオリは自分の手元に気づいた。
弱々しく添えられたアステルの指先から、温かな魔力が細く流れ込んでくる。
結界の補助ではない。
装置から注がれる無機質で冷たい魔力と違う。
(……あたたかい……)
身体の奥へ染みこむそれは、冷たく尖ったものではなく、
微かな熱と輪郭を宿した“誰か”の気配だった。
アステルは表情を変えず、ただ必要な量だけを慎重に流し続ける。
ミオリが壊れないように――
そう思わせるほど、丁寧で静かな魔力だった。
「……」
喉から漏れた音は、声ともつかない。
それでもアステルは、何かを受け取ったように、ほんのわずか視線を伏せた。
結界の光が白く揺れ、
アステルの魔力が呼吸のように緩やかに脈打つ。
二つの揺らぎに包まれると、ミオリの意識は逆らえず、ゆっくりと沈み始めた。
白い膜が視界でほどけ、
どこか懐かしい風景の縁が、遠くから静かに滲んでいく。
ミオリはそのまま流れに身を預けた。
意識がふっと離れ、
過去へ――静かに滑り落ちていった。




