1-11 それは、とある羊飼いのように
アルヴィンの離れには夕刻の柔らかな光が差し込んでいた。
ヤドクは、アルヴィンから教えられた動作を繰り返しながら、黙々と身体に馴染ませていた。
アルヴィンが近づくとゆっくりと振り返った。
黒い髪が肩で揺れ、
その白い肌の上で毒紋が淡く呼吸するように脈打つ。
アルヴィンは、静かに問いかけた。
「ヤドク。……君のその毒について聞きたい」
ヤドクは少し考えるように目を伏せた。
服から覗く毒の模様の色が、ほんのわずかに濃淡を変える。
「……俺のこと……ミオリの記憶に……なかった。
だから……よく、わからない……」
どこか悲しげに語るヤドク。
「……この毒の色は……ミオリ、知ってる色……
ミオリの“前の世界”の……毒のかえる……」
その声音は、他人の心を“思い出す”ように曖昧で、
しかし真っ直ぐだった。
アルヴィンは息を飲む。
ミオリの名前を口にすると僅かに毒の模様が柔らかく薄らいで見える。
(……精神に反応して毒が変動する。
強弱も、模様の流れも、感情の投影……)
アルヴィンは落ち着いた声で続けた。
「……毒の種類などを特定する必要があるな、
お前もそれを制御できるようにならなければ、ミオリに会えたとしても危険にさらすことになる」
ヤドクは素直に頷く。
黒い瞳には幼い理解と、ミオリだけを求める一途さが混ざっていた。
「……ミオリのためなら……できる。……やる。」
ヤドクが揺らげば、この状況そのものが崩れる。
だからこそ――安定させねばならなかった。
アルヴィンは衣服を示しながら言った。
「まずは他のものから見られないように対策が必要だな。
袖の長い服で模様を隠す。手袋も用意しよう。
毒が染み出さない素材が見つかれば良いのだが、とりあえずこれを使うといい」
ヤドクはアルヴィンに手渡された手袋を持ち上げ、
掌を見比べるように指を動かした。
「……てぶくろ……
これがあれば……ミオリと手、つないで……外へ……連れていける……?」
その言い方があまりに真っ直ぐで、
アルヴィンは一瞬だけ言葉を失った。
(……すべてがミオリのため、か)
情の深さか、刷り込まれた本能か。
どちらにせよ、この青年は危険なほど純粋だった。
アルヴィンはわずかに声を低くする。
「ああ、早くそうなるよう協力する」
ヤドクはまばたきをし、ゆっくりと笑った。
「……アルは、やさしいね」
アルヴィンの胸が一瞬だけざわついた。
しかし言葉にはせず、軽く立ち上がる。
「少し、外の空気を吸おう。庭へ出る」
二人は離れの庭へ向かった。
夕闇が落ち始める空の下、
池はまだ赤紫に濁ったままだった。
ヤドクが落下したときに広がった毒。
水面には小さな魚たちが浮かび、まるで眠るように沈黙している。
アルヴィンは池の前に立ち、静かにその光景を見つめた。
(……毒に支配され、浮かぶしかなくなった魚たち。
今の王家と、何が違う?)
塔の魔力、王族の衰退。
沈むだけで抵抗できない存在。
その象徴が、目の前の池にあった。
アルヴィンは手をかざす。
魔法陣が淡く広がり、浄化の風が水面を撫でる。
赤紫の毒が薄れ、透明な水が少しずつ本来の色を取り戻していく。
しかし――沈んだ魚は動かない。
(失われたものは戻らない。だが、この国は……まだ救える)
アルヴィンはゆっくりと息を吐いた。
ヤドクは魚ではなく、沈黙したアルヴィンの横顔を見つめて言う。
「この池……俺のせいで、ごめんなさい、アル」
池を真剣な顔で眺めるアルヴィンが魚の死を悼んでいると思ったのか、ヤドクが頭を下げる。
遠く、塔の警報音がようやく止む。
その瞬間――
アルヴィンの中で、迷いがひとつ消えた。
(この青年の純粋さを利用することは罪だ。
だが――その罪は、すべて私が引き受ける)
夜風が二人の間を静かに撫でていった。




