1-9 抗うための一手
魔術塔の混乱とは対象的に、アルヴィンの私室である離れは静かだった。
部屋の端のベッドに座るヤドクの濡れた黒髪は、乾ききらぬまま首筋へさらりと落ちていた。
そのすぐ下にかかる青赤の毒紋が、呼吸に合わせて微かに揺れる。
彼は不思議なほど整った輪郭と、均整の取れた体つきをしているが、どこか“生まれたばかりの獣”のような幼さが同居していた。
その黒い瞳がふいに揺れ、アルヴィンを見つめる。
「……アル……。
ミオリに会うには……どうすれば、いい……?」
まっすぐだった。迷いが一切ない。
その単純な願いが、この青年のすべてを象っているようだった。
アルヴィンはゆっくりと息を吐き、
椅子から一歩踏み出して答える。
「今は不可能だ。ミオリのいる塔は混乱している。
その理由には――おそらく君が関わっている。
君が“存在している”と知られれば、塔の魔術師たちが黙ってはいない」
ヤドクの肩がほんのわずかに強張る。
腕をつたう毒紋が、淡く脈動する。
アルヴィンは言葉を続けた。
「そうなれば、ミオリに会うどころではない。
君自身が、囚われ、自由を奪われる」
ヤドクは長い睫毛を伏せ、
胸の奥でゆっくりと言葉を転がすように呟いた。
「……いまは……だめ。……わかった。
じゃあ……次はどうすれば……ミオリに……?」
(……すべてをミオリ中心に捉えている。
言動は幼いが、けして知能が低いという訳ではなさそうだ)
アルヴィンがヤドクに言葉を返そうとしたとき、離れのある庭の入り口から彼を呼ぶ声が聞こえた。
アルヴィンの離れは、王城の中でも最も人の出入りが限られた区画だ。
離れのある庭にすら、アルヴィンに招かれたものしか入ることができない。
そのため、緊急の用がある場合はそこから声をかけるようにアルヴィンが指示を出していた。
「アルヴィン殿下。お取次ぎの文が届いております」
ヤドクへ向けていた視線をゆっくりと戻し、アルヴィンは小さく息を吐く。
アルヴィン以外の声に、ヤドクはわずかに肩をすくめ、不安げに瞬きをした。
毒を宿した異形の肌と、どこか憂いを帯びた美しい顔立ち――
そのうえ幼い仕草を見せるアンバランスさに、アルヴィンは一瞬目を奪われ、口元を緩めた。
「少しここを離れる。すぐに戻るからここから出てはいけない」
ヤドクは素直に頷いた。
アルヴィンは廊下に出て、側仕えの者から文書を受け取る。
封蝋に刻まれたのは、研究塔の紋章。
複雑な魔術回路を組み合わせた、硬質な意匠。
(……届いたか)
塔が騒ぎを起こせば城へも通達が来るだろうと予測はしていた。
だが、この急ぎ方は――焦りに近い。
封を切ると、整った文字が短く連なっていた。
――研究棟に侵入者が現れ、逃走中。
――研究棟は現在封鎖。
――怪しい存在を認めた場合、速やかに報告せよ。
――国の安寧のため協力を求む。匿うものには相応の対応を行う。
アルヴィンは、静かに目を細めた。
(……“注意喚起”ではない。“警告”だ)
そして、文には決定的なことが欠落していた。
――侵入者が何者なのか。
――なぜ塔に侵入したのか。
(内部の失態を隠しつつ、回収だけは急ぐ――そういうことか)
アルヴィンは文を折り畳み、側仕えへ返した。
「……物騒だな。確かに受け取った。ご苦労だった」
「かしこまりました」
足音が遠ざかり、廊下に静寂が戻る。
アルヴィンは室内へ戻る途中、
胸の奥に沈殿していた思考をゆっくりと形にしていった。
(……王族は象徴にすぎない)
この国の実権は、すでに宮廷魔術師――
その中でも“管理者”と呼ばれる塔の上層部に握られている。
父王は争いを避け、塔の権力を黙認してきた。
その結果、王家は表向きの権威だけを残し、
実質的には、政治的な影響力を失っていった。
(塔の意向が絶対。
王族は何も言えない――それがこの国の現実だ)
私室の扉の前で立ち止まり、
アルヴィンはほんの一瞬、息を止めた。
(その塔が……おそらく生命体を“生み出し”、そして取り逃がした)
長年研究や実験を重ね、【想造士】の力を使って作り出そうとしていたが、成功したことはなかった。
おそらくヤドクはその唯一の成功例。
成果としても研究対象としても貴重な存在だ。
(あの塔に彼が戻されれば終わりだ。二度と自由はない)
扉に触れようとした瞬間、別の思考が脳裏をかすめた。
(……しかし)
ヤドクは塔にとって重要な存在。
それは――
(私にとっても、切り札になりうる)
王族は長らく塔に押さえつけられてきた。
その均衡を揺り動かす材料が手元にある。
(ヤドクをうまく扱えば……政治的な発言力を取り戻せるかもしれない)
ただし、それが露見すれば――王家は塔の敵として扱われる。
(危険な賭けだ。だが……父上は塔と争う覚悟を持てない。
私が動かなければ、この家はただ沈むだけだ)
アルヴィンは静かにヤドクの待つ部屋の扉を押し開いた。




