1話 目が覚めると……
□□□□
鏡を見て、私は愕然といたしました。
なにしろ。
そこに映っているのは、私ではなく、お兄様の姿なのですから。
ごくり、と息を呑みました。
鏡の中のお兄様ののどぼとけがかすかに上下します。
……まだ、信じられません。
鏡に映るのは、私の姿のはず。それなのに……そこにいるのは、お兄様なのです。
これは一体どういうことなのか……。
夢……なのでしょうか。
確かにありうることです。
この数年、悪夢を見続けていました。
悪魔としか表現のしようがない化け物に追われる夢。
捕まえられ、地獄へと連れ去られようとする恐ろしい夢。
これもその一部なのでしょうか……。
試しに、右手を持ち上げてみました。
残念なことに、というべきでしょうか。鏡の中のお兄様の右手が上がりました。
目に留まったのは、小指にはめられた指輪。小さな紅玉がはめられたそれは、私の18歳の誕生日に、お兄様が私の病気平癒のため、特別に神殿にお願いして作ってくださったペアリングだと聞いています。
私は右の薬指に。そしてお兄様は右の小指に。
『君が元気になったら、ふたりで神殿にお礼参りに行こうね』
そう言って微笑んでくださったのをいまでも覚えています。
『参拝の帰りに、なにか美味しいものを食べましょうよ』
『まったく。君はこんなときにも食い気かい?』
そういってふたりで笑いました。
残念なことではありますが、その指輪はいまでも私の右手薬指に、そしてお兄様の小指にはまったままなのですが。
小刻みに震える指で、頬骨に触れます。
ぬくもりも質感もしっかりと感じ、これが夢でないことがわかりました。
ドキドキと胸の鼓動が止まりません。これは私の心臓なのでしょうか、それともお兄様の心臓?
鏡の中のお兄様。
私と同じ銀色の髪。私は直毛なのに、お兄様はくせがかっています。「これはお母様ゆずりだね」と少し不満げにおっしゃる姿が思い起こされます。
瞳は氷のような薄い青。これも私と同じ色。「君の目は薄氷のようで、とてもきれいだね」。まったく同じ色に見えますのに、お兄様はいつも私の目をほめてくださいました。
幼いころは……そう。まだ私が元気に庭を走り回ったり、無邪気に宮廷の皆様方にご挨拶に伺っていたころは、「双子なのかい?」と誰からも言われるほど、私とお兄様の容姿は似通っておりました。
男にしては華奢なお兄様。
女にしては頑強で溌溂としていた私。
足りぬものを補い合うように。
犬や猫の仔のようにじゃれあい、ふざけあって育った私たち。
それは、私が謎の病に倒れるまで続き、そして現在の私とお兄様は誰がどうみても「双子」には見えぬこととなっていたはず。
「ど……どうなっているの」
鏡の中では、青ざめた表情のお兄様が唇を震わせてつぶやきます。
相変わらず頭の中は混乱しておりましたが、声を発したことで、少しだけ理性が戻ってまいりました。
私は鏡だけではなく、周囲を見回してみました。
まったく知らない部屋です。
寝室であろうことは察せられました。
というのも、お兄様は寝間着だとおぼしき簡易なシャツとズボン姿ですし、スリッパをはいておられます。そしてそう広くはない部屋にあるのはベッドと質素な文机だけ。
お兄様は、士官学校をご卒業なさってからというもの、屋敷を離れて官舎住まいです。
たぶん、ですが。
ここはお兄様がお住いの官舎ではないでしょうか。もちろん、来たことなどないので確実ではありませんが……。
果たして、使用人のような者がいるのかどうかはわかりません。そもそも、陸軍に所属するお兄様に使用人という者がいるのかどうか……。寝付いてからはほとんど外気とさえ接していない私には知るすべすらありません。
ちちっ、と。
窓の外から鳥のさえずる声が聞こえてきました。
なにげなく目を窓に向けます。透明度の高い朝日が室内に差し込んでいました。
そうです。
私はこのまぶしさで目を覚ましたのでした。
本当に久しぶりのことです。
ここ数日は特にまどろみと混濁した意識の中で過ごしており、しかもずっと悪夢にうなされていました。起きていたいのに、眠りたくないのに。あの夢が恐いのに。それなのに、強制的に眠りに引きずり込まれる。そんな生活でした。
なので。
こんなにはっきりと朝日を感じたことはございませんでした。
それだけではありません。
そもそも、「立った」のも、いつぶりでしょうか。
お恥ずかしい話ですが、ここ数か月は下の世話も誰かに頼まねばできぬほどになっておりました。
ふと。
髪をひかれるように、私は文机を見ました。
封筒が置かれています。
私は足を踏み出します。
歩きました。
わずかしか動いていませんが、それでも胸が痛くなったり呼吸が上がったりしないことに高揚感を覚えます。
嬉しさに頬が熱くなり、そんな感覚さえいったいいつぶりだろうと泣き出したくなる思いをぐっとこらえます。
そして。
机の上におかれた封筒を見て心臓が止まるかと思いました。
『ローゼリアンへ。目覚めたら読むように。レインバードより』
明らかにお兄様の筆跡です。
急いで私は封筒を開け、便箋を取り出しました。
器用そうな長いお兄様の指が私の意思で動き、私の思うままに動くのがやはり不思議でなりませんが、かようなことを気にしている場合ではありません。
丁寧に折りたたまれた便箋を開き、目を走らせました。
『ローゼリアン。
おはよう。気分はどうだい? お兄ちゃんが当ててあげよう。今日は悪夢を見なかった。そうだろう?
だけど君はいま、とてつもなく混乱している。そうだよね? なにしろぼくの姿になっているんだから。ある意味これも悪夢かな?
申し訳ないが、今日から五日間、君はぼくの身体で過ごすことになると思う。
うまくいけばもっと短縮できるかもしれない。ぜひそうなるように願っていてほしいものだが、こればっかりはやってみないとわからないんだ。
さて、君がこの手紙を読んでいるとき、いったい何時ごろなんだろうね。
起床ラッパで目が覚めたのなら、ひょっとしてもう、君のところにルシウスがいるだろうか。
なぜこんなことになっているのか。詳細は彼から聞いてくれ。
もし起床ラッパ前に起きてしまい、戸惑いながらこの手紙を読んでいるのなら、もうしばらく官舎で待っていてほしい。ルシウスが来るはずだ。
ルシウスのことは覚えているね?
ルシウス・マリオン。マリオン伯爵家の次男だ。
君がまだ元気なころ、そしてぼくが幼年兵学校に入りてたのころ、よく屋敷にも来ていただろう? あの悪童だよ。いまでは立派な青年将校になった……と言いたいところだが、それは君が判断してくれ。
彼はぼくと同じ官舎住まいで、第二騎兵連隊に所属している少尉だ。
君はこれから五日間、ぼくとして過ごすわけだけど、有給休暇を取っている。業務にかかわることはなにもしなくていいからね。ただ、なにがしかの連絡が来てしまい、困ることがあるのならルシウスに相談すればいい。くれぐれも、なにもしないように。危ないからね。
(ちなみにぼくの階級と所属を君は知っているだろうか? 念のために書いておくと、第二中隊武器科所属の少尉殿だよ)
さて。
それではぼくの作戦が成功し、ルシウスが大活躍してくれることを願いつつ、筆をおくことにする。
君の幸せを願っている。
兄、レインバードより、愛を込めて』
便箋にはそれだけが書かれていました。
ええ。
どれだけ読んでもそれだけしか書いてありません。
なぜこのようなことになっているのか。
その重要なところがまるで書いてないのです!
すべてはルシウス卿に聞いてくれ。それが繰り返されているばかり!
「お兄様!」
ついなじり口調になってしまいます。
というのも、私が困っているのを見てお兄様が茶目っ気たっぷりに笑っている気がしたからです。
そうです。
お兄様は昔からこのようなところがありました。
サプライズが大好きといえば聞こえがいいですが、秘密主義で、私をいつも驚かせてばかり。
手製のびっくり箱でなんど悲鳴をあげさせられたか。クローゼットからいきなり現れたときは心臓が止まるかと思いました! 花火を作ろうと思って失敗し、屋敷の庭に大きな穴をあけたときは、さすがにお父様から雷をおとされ、自業自得ではないかと思ったほどです。
『なにより君がびっくりする顔が好きなんだよ』
私がいくら怒ってみせても、しれっとした顔でお兄様はおっしゃるのです。
兄のそんな所業に振り回されて来ましたが……。
思い返してみても、こんなに困惑させられたことはありません。
なにしろ、目が覚めてみたら「兄になっている」のですから。
……とにかく、ルシウス・マリオン卿を待つしかないようです。
私は便箋を封筒に戻し、ほぅと息を吐きました。
起床ラッパというものがいかなるものかはわかりませんが、まだ吹き鳴らされていないようです。
そして気づきます。
ルシウス卿がいらっしゃるまでに、まずは身支度を整えねばならないのではないでしょうか。
私は慌てて鏡の前に戻りました。
髪……。髪、は……このままでよいのでしょうか。
本来であれば侍女に手伝ってもらって髪を結うのですが、殿方は……。このままでよいのでしょう、たぶん。お父様がおぐしを結い上げているところなど見たことはありませんし。
これ……くせ、なのですわねぇ?
ねぐせ? いえ、お兄様はくせ毛でしたし……。え、ねぐせ? これ、どっち?
ま……まあ、よい……としましょう。
あとは、顔を洗わねば……
「ん? ……ひゃあ!」
顔を洗わねば、と思って顔を鏡に近づけ、思わず悲鳴が出てしまいました。
と……と、いうの……も。
「おひげ……らしきものが!!!」
なんということでしょう!!!!
お兄様の顎のあたりに、ふつふつとしたものが!!!
さ、さすがにこう、もじゃあ!とはなっておりませんし、もともと毛深いほうではないお兄様なので、おひげといっても、ほんとうにこう……ふつふつっと……え。なんで? こんなんならはえなくても……。
というか!
これ、どうしますの⁉ そ……剃るって……どうしますの⁉
大混乱のまま意味もなく足踏みをしたら……。
さぁっと血の気が引く音が自分でもしました……。
な、……なにかが、あたるのです……。
いままで感じたことのないものが、足の間に……。
「い、いやあああああああ」
思わず頭を抱えてしゃがみこんだとき。
さらに最悪な事態がおこりました……。
たぶん。
しゃがみこむことによって腹部を圧迫したためでしょう。
……トイレに……行きたくなったのです……。